あの窓を開けたら


  ―18―



「志井さん…?」
「ツキト」
  ドアを開けた途端目の前に飛び込んできたその人物に、ツキトは目を見張った。扉を開く前から声だけで志井だという事は分かっていたが、実際こうして姿を認めるまでは本当に本人なのかと半信半疑だったのだ。
  いや、今こうして面と向かっていても未だ信じられない。
「ど、どうして…」
  ここにいるのか。
  けれどツキトはその言葉を最後まで口にする事はできなかった。
「いっ…!」
「ツキト」
  何故なら志井がいきなりツキトの胸倉を乱暴に掴んできたからだ。
  志井もはじめはツキト同様一瞬息を呑んだようにどこか凍りついたような表情を見せ、動きを止めていた。しかしはっと我に返った後の動きは異様に早く、志井はほぼ反射的に差し出したその手でツキトを強引に自分の方へと引き寄せたのだ。
  それから何かを探るようにじっとした厳しい視線を向ける。
「し、志井さ…痛…っ」
  志井のその突然の所作にツキトは勿論動揺した。志井に寝巻きごと引っ張り上げられ、そのせいで足が宙に浮きかけた程だ。息が詰まった。その上、否応なく縮められた距離から志井の鬼気迫ったような眼差しが映り、その射るような刺すような視線に酷い苦痛を感じた。
「…ぅ……」
  息を止めたせいでツキトの顔はみるみる白くなっていった。
  志井からこんな荒い扱いを受けるのは「あの時以来だ」と思う。殴られこそしなかったが、別れる直前まで一緒に住んでいた家では、ツキトは毎日のように志井から乱暴な行為を強要されていた。…もっとも、あの頃はツキト自身が志井に嫌われまいと必死で、何を言われてもどういう要求をされようとも自らがむしゃらに尽くし、「ご奉仕」していた。それによって何故か志井の冷淡さは加速度を増したが、それでもツキトは己の身体がボロボロになるまで志井の行為を止められなかったし、また止めたくもなかった。
  こんな風に酷くされると、あの時のことが不意に脳裏を過ぎる。
「……!」
  ただ、この時はそれもほんの数秒の出来事だった。
  無抵抗のまま顔色を失くしていくツキトに志井が我に返ったのだ。己の取った行動が信じられないとばかりに慌ててその手を放し、ドアに片手を掛けた状態で一歩後退する。ツキトはそんな志井の狼狽ぶりを何となく感じ取りながら、ようやっと吸い込めた酸素に却って咳き込み身体を丸めた。
「げほっ…げほっ」
  その間も志井に動きはない。ただ茫然として立ち竦んでいるような足だけが身体を屈めたツキトの視線に映る。
「………」
  志井が自分の何を見て驚愕したかはツキトにもすぐ分かった。数日前兄によって付けられた情交の跡は自身でも何度となく目にしている。それは時を経る毎に薄くなっているはずだったが、それでも露になっている部分―たとえば首筋―には、まだそれが色濃く残っており、あの時の様子を如実に物語っていた。
  志井はそれに気づいたのだ。
「………ツキト」
  ツキトが何も発せられずにいると志井がようやっと再び声を出した。それはあまりにも静かで掠れていて小さくて。別人のようなその声色に、ツキトは思わず顔を上げた。
  志井の表情からは能面のように何の感情も映し出してはいない。怒りも悲しみも、少なくともその時はツキトには何も感じ取る事はできなかった。
「行くぞ」
  その志井が言った。
「え……」
  何とか喉の奥で微かな反応を返したが志井にはツキトのその声は届かなかったらしい。再び無言のうちに腕を伸ばすと、志井はツキトの手首を掴んで無理矢理ドアの外へと引っ張り出した。ツキトは靴も履いていない。寝巻きで裸足で、そして「病人」であるのに。
「あ……」
  ドアから向こうは、ツキトが久しぶりに体感する外の世界だった。
  実際まだそこはマンション内の通路であり、そこからは空の色すら確認できない。それでもツキトにとってこの部屋から一歩でも離れるのは本当に何年ぶりかのような気持ちがあったし、またその「結界」から出る事は自分の中の何かが変わってしまうような…決してやってはいけない事のような気がして、その瞬間、ツキトは猛烈な恐怖に囚われた。
  ここで大人しく安静にして、具合が良くなれば絵を描く事が許されるのに。
「あ……あ……」
  肌に直接伝わるコンクリートの冷たさが針に刺されたかのような痛みを伴い、ツキトの膝を折らせた。志井に腕を掴まれたままがくんとその場に倒れ込むようになると、ネジが切れたように足が動かせなくなった。志井はそんなツキトを責めるように一度だけ呼んだけれど、それ以上何らかの労わりの言葉が落ちてくる事はなかった。
  否、それどころか志井はツキトの腕を更に強く引いた。
「何してる、早く立て。外に車をつけてある…見張りがいない今のうちに出る」
「外へ…」
  機械的にその単語を繰り返したもののツキトは未だ状況を理解できず、志井に腕を取られたまま中途半端な体勢で力なく視線を彷徨わせた。志井が自分を「迎えに来た」という事に気づいたのはそれからもっと後の事で、この時はとにかく突然の事態に思考が追いついていかなかった。ただ不思議だったのだ。志井がこの場にいるという事がとんでもなく非現実的な出来事のように思われた。
「外へ…」
「ち…っ! …いいから来い!」
  けれど混乱しているそんなツキトに志井は考えを間を与えなかった。
  腑抜けたようになってちっとも動こうとしないツキトに焦れたのだろう、志井は再び片手を引いて無理にツキトを立ち上がらせると、そのまま引きずるようにして先を歩き始めた。促されるようにやっとツキトも足を動かす事に成功したが、ぐいぐいと引っ張られる腕がただ痛いと感じた。
  後ろから不安そうな眼差しを向けても志井は一瞥もくれない。
「乗れ」
  言われるのと背中を押されたのとは、ほぼ同時だった。
「…っ」
  どんと強く押されてそのまま横付けされていた車の助手席に放り込まれる。思わず前のめりに倒れこみそうになるのをツキトは自らの両手で支え何とか踏ん張ったが、直後すぐに閉じられたドアには心底慌てた。身体が挟まれるという恐怖で一瞬全身が竦みあがった。車に急に乗せられた事、先刻まで強く手首を掴まれていた事、志井が優しい視線を向けてくれない事全てが恐ろしかった。
「つ……」
  体勢を整えて椅子に腰を落ち着けた途端、手首に鈍い痛みが走った。咄嗟に片方の手でそこを押さえたが、逡巡した後そっと手を外すと、志井に掴まれたそこには赤黒い痣ような跡がついていた。力を込められていたのはほんの数分であるのに…まるで罪人の烙印のようだ。
  その時、車の後部から回りこんできた志井が自らも運転席に乗り込んできた。
  バタンと乱暴に運転席のドアを閉め、そのまま無言で車を急発進させる。その際も志井はツキトの方をやはりちらりとも見なかった。
  車は公道へ出ると更に加速し、マンションはあっという間にその姿を消した。
  元々志井は飛ばす方だが、この時はもっとだった。何処へ行くのかとも訊けないままに景色だけが流れていく。交通量の少ない国道をぐんぐんスピードを上げて進むその車はツキトも普段から乗り慣れている志井の愛車だったが、この時はちっともそうだとは思えなかった。車も、そしてそれを運転する志井も。まるで違う物、違う人のような錯覚をツキトに与えていた。

  あれほど会いたかったはずなのに……おかしい。今、隣にいるこの人は誰?

「志井さん……」
  そんな「恐怖」の時をツキトはどれ程送ったのか。
  街中を抜け高速を示す標識を目にした直後、ようやく赤に点滅する信号に当たって2人が乗る車は徐々に速度を緩めその前で停止した。風を切る音とアクセルを踏む激しいエンジン音が鳴りを潜めたからか、ツキトはようやく志井の名前を呼ぶ事ができた。そして頭の中で何度も唱える。
  錯覚はあくまでも錯覚だ。
  傍にいるのは、自分の横にいるのは間違いなく志井だ、と。
「志井さん……」
  けれどその後の言葉が出てこない。訊きたい事や言いたい事は幾らでもあるはずだった。あれほど恋焦がれていた人だ。今ようやっとすぐ傍にいて、自分の声が直に届く位置にいて。何故こうも舌が回らないのかと心底不思議になる。
「……乱暴にして悪かったな」
  すると志井の方が先に口を開いた。
  同時に信号が青に変わった。
「え」
  けれど志井はハンドルに片手を掛けたまますぐには車を発進させなかった。幸い後続車はいない。
「焦ってたからな。またあの見張りがいつ戻ってくるとも限らないだろ」
「志井さ…」
「幾ら俺でも女を殴るのは気が進まない」
  志井はツキトが小さな反応を返すのを見届けてからそう付け加え、再び車を動かした。そのまま高速へ入るらしい。県を抜けるとツキトにも分かった。
「なに言っ……」
  けれど今はそんな事よりも何よりも、志井の発した台詞にツキトは愕然とした。暫く走り続けて落ち着いたのか、志井も今では随分と平静な顔をしていたが、口に乗せた言葉はひどく物騒だ。志井はツキトを連れ出す為なら、たとえ不本意でも田中に手を出す可能性もあったと言っているのだ。
「あ……」
  そして温和で優しい田中の顔が脳裏を過ぎる事で、ツキトもようやく自分の立場を自覚し、途端慌てた。
  これは、この状況は、結果的に兄から「逃げ出した」事になるのではないか?
  そうなれば折角取り結べた兄との約束―具合が良くなったら家に帰り絵を描く―が反故になってしまうし、こんな風に黙って姿を消せば当然また田中はその責を問われるだろうし……。
  そして何より、また兄の逆鱗に触れてしまうではないか。
「志井さん…っ。だ、駄目だよ!」
  そこまで考えが至ってツキトはここで初めて声を上げた。
「こんな風に勝手に出てきちゃったらまた大変な事になる…! そ、それに俺、兄さんと約束したんだ! 戻って!」
「何を言ってる?」
  志井はツキトの言葉にびくともせずに更に強くアクセルを踏み込んだ。
「い…っ!」
  その反動で、シートベルトをしているにも関わらずツキトはぐんと身体を前へ押され、一瞬息を詰まらせた。それでも志井はそんなツキトに構わない。ただ真っ直ぐに前を見据え、ハンドルを握る手に力を込めるだけだ。…だからと言って志井が本当に前方を意識して運転しているかは甚だ謎だったが。
「ツキト。笑えること言うなよ」
  そして笑顔などちっとも見せないままに志井は言った。
「大変な事って何だ? 何が起きようが、今より最悪にはなりようがない」
「……!」
「だろ?」
「志井さ……」
  何故志井があの部屋までやって来られたのか、それはツキトには分からない。
  けれど全て分かってしまっているのだなとは思った。胸倉を捕まれた時に首筋の痕とて見られているのだ。勿論わざわざ確認したわけではないが、志井はあの時、確かにそこを凝視していた。
  志井にはもう分かっているのだ。ツキトが実の兄に抱かれた事も、何もかも。
「志井さん…お、俺……」
「ツキト」
  けれどツキトが声を震わせながら何とかこれまでの事を話そうと決意した時、志井は無情にもそれをきっぱりと遮った。
「頼むから黙ってろ。……目が霞んできた。このままだと事故りそうだ」
「え……」
「お前の声を聞いているだけで気が狂いそうになる。……ここを出て落ち着くまで口を開くな」
「………」
「悪いな」
  まるで気持ちの篭もっていない謝罪を吐き、志井はその後自らも一言も発しようとしなかった。
「……っ」
  ツキトはそんな志井から瞬時目を逸らすと、ぐっと唇を噛んだ。膝に乗せていた両手は無意識のうちに握り拳を作り、その直後わなわなと痺れるような震えを起こしていたが、それが悔しいからなのか悲しいからなのかはよく分からなかった。
  息をする事すら罪のような気がした。
  今この場で身体がバラバラになるのならばそれもいい。志井と一緒に消えてなくなれるのならばそれでいいじゃないかと……心の片隅でそんな事を思いながら、それでも命令は忠実に守り、ツキトはじっと口は閉ざし続けた。





  支倉は多忙だった。
  肩書きは社長である太樹の第一秘書だが、実際その仕事内容は多岐に渡る。もともと経営体質の古い企業であった小林グループは内外共にいらぬ「敵」が多く、それはここ最近目立っていた太樹の強引な経営方針のせいでより厄介なものになっていた。太樹を理解する優秀な人材を取り入れどんなに周囲を固めようとも、普段の通常業務に併せそれら古参勢力との兼ね合いを探るのは支倉の仕事だ。
  太樹の直近になってまだ日も浅い。それらを処理する支倉の苦労は計り知れないものがあった。
「範之(のりゆき)君。昨日回ってきたB社との契約書、目を通してくれた?」
「……悪い。まだだ」
  それでも支倉も生身の人間である。
  ちょうど昼を過ぎたあたり、太樹が別の秘書を連れ提携先の会社へ赴いた隙に、支倉は秘書室と隣接している専用の給湯室で一服している最中だった。社会人になるまでどちらかといえば煙草は苦手だったが、陽子が殊の外その煙を忌避すると聞いてからは無理にそれを嗜むようになり、いつの間にかそれが習慣になってしまったのだ。
「身体に悪いわよ」
  そんな支倉に声を掛けてきたのは同じ秘書課に所属する牧瀬玲奈(まきせれいな)だった。元は太樹の第一秘書だったこの女性は、しかしその立場を支倉に奪われた時も別段僻むでも恨むでもなく実に淡々として厭味がなかった。それどころか「このポジションは何かと当たりの強い損な役回りだから」と、支倉の体調を心配したりさり気ないフォローをしてくれる、実に気の利いた「出来る」女性だったのである。はっきり言ってしまえば一時期ついていた陽子とはえらい違いで、支倉が女性全般に対する不信感を抱かずに済んだのは、全てこの牧瀬女史のお陰と言って良かった。
  それに何より彼女は美人である。黒く艶やかな長い髪や流麗な口元を眺めるのは悪くなかった。
「煙草。止めないの」
  その牧瀬は支倉が何も話そうとしない事にも構わず、にこりとして自分も一本と傍にあった煙草を取り出した。支倉がすかさずスーツのポケットからライターを取り出し火をつけてやると、「ありがとう」とまた嬉しそうに笑う。
「人に言いつつ、私も止める気ないんだけどね」
  紫煙をふっと吐き出しつつ牧瀬は言った。
「ストレスのない職場なんてないものね」
「いつも匂いどうやって消してる?」
「あ、知らなかった? 凄くイイから他の子にも宣伝してるんだけどね、フランスメーカーが出してるすっごく強力な専用消臭剤を通販で買ってるの。無香タイプで香水の邪魔にもならないし。今度範之君にも貸してあげようか」
「俺は国内産ので十分」
  牧瀬と同じ細い煙をふうっと吐き出してから支倉は小さく笑った。彼女は支倉よりも遥かに上をいくヘビースモーカーだが、いつもどんなに近くにいても煙草の匂いを感じさせないのがずっと不思議だった。
  それに、牧瀬には陽子が発しているようなどぎつい香水の匂いもない。その清涼とした雰囲気が支倉は好きだった。
「……疲れてるのね」
「いや……」
  それに、こうやって相手の表情に敏感なところも。
「まあ、いいけど。あまり根を詰め過ぎると本当にその若さで過労死、なんて事にもなりかねないわよ。他の皆みたいに適度に力抜かなきゃ。幾ら社長の信用が厚いと言っても、あの超人の仕事ペースにあわせてたら絶対保たないんだから。分かるでしょ?」
「分かる」
「社長のプライベードにも関わっちゃ駄目よ?」
「………」
  支倉は表情を変えなかったが、肩先が微かに揺れてしまったのは相手にバレたらしい。牧瀬は僅かため息を漏らし、「まあ、もう無理か」と呟いた。
「何せうちの<女王様>に取り入る事に成功した唯一の男だもんね、範之君て。社長が頼るのもある意味しょうがない、か…。でも、ご家庭の問題を範之君まで巻き添えにしちゃったのは、何だかなあ。私、ホントはそこのところはまだ納得いかないの。幾ら尊敬する社長のする事でも」
「いいんだよ。半分は俺が好き好んで入っていったんだから」
  支倉が本来の仕事以外に抱えている別口の仕事―主に陽子のお守だが―について知っている者は社内でも数少ない。また、高校卒業後すぐに行方をくらました太樹達の弟・月人の捜索を一任していたのも支倉だが、これに至っては詳しい事情を知っている者などほぼ皆無に等しい。勿論、実際の捜索は小林家と既知の間柄であるという興信所が担っていたわけだが、太樹とのパイプ役を果たし調査の進行状況を報告していたのは支倉なのだ。
  つまり牧瀬の危惧通り、支倉は思い切り、それこそどっぷりと小林家のお家騒動に巻き込まれている立場にあった。
「ねえ、知ってる?」
  牧瀬が煙草の煙を吐き出しながら悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「女王様の嫁ぎ先って色んな噂あるでしょ。提携先の会社社長とかその息子とか、時には某代議士サマとか。でも、一番の候補は範之君じゃないかって」
「笑えない」
「これ大マジよ。社長が乗り気みたい。あの妹を任せられるのは最早支倉しかいないーってところなのかしらね」
「牧瀬さん」
「ごめんごめん」
  いよいよ眉をひそめて嫌そうな顔をする支倉に牧瀬は両手を挙げて「降参」のポーズを取った。茶目っ気たっぷりに上がる唇が妙に色っぽい。支倉は意識せずそれをじっと眺めやった。
「でもねえ」
  そんな同僚に気づいているのかいないのか、牧瀬は煙草の灰を灰皿にトンと落としながら続けた。
「このところの妙な動きは本当に何なの? 社長の機嫌は良いようだけど、それに反して女王様は最悪だって。これはまたあの弟君が関係しているのではないかと私は読んでいるのだけど。そして範之君なら何か事情を知っているのだろうけど―」
  まあ敢えて訊かないでおくわと、牧瀬は「弟」の単語が出た事によって急に顔を強張らせ口を閉ざした支倉に肩を竦めて見せた。
  支倉はそんな牧瀬の態度に心底ほっとしつつ如何な彼女でも、否、彼女だからこそか…これだけは絶対に言えないと思った。

  一体、俺は何という事をしてしまったんだ!

「? ねえ。本当に顔色悪いけど…」
「な…何でもない!」
  一瞬、「あの時の事」を思い出していた支倉は自分の顔を覗きこもうとしている牧瀬から慌てて視線を逸らせた。
  誰にも言えないし、自分でももう思い出したくはない。咄嗟にしてしまったあのこと。
  社長の弟である月人を抱きしめキスしてしまったなどと、一体誰に言えるというのか。
「契約書は今日中に……」
「いいの、いいの」
  頭痛を覚えながら誤魔化すように支倉が言いかけるのを牧瀬が止めた。
「さっきのはごめんね。見てないの知っててわざと言っただけよ。私がチェックしておいたから、後でざっと目を通しておいてくれればOK。特に問題なし」
「わ…悪い…」
「お礼は今度の休日にフレンチでいいわ。この間凄くお洒落なお店を見つけたの。予約しておくから一緒に行こう?」
  お互いに誰もいない所では特に敬語なども使わないが、実年齢もこの会社のキャリアも牧瀬の方が若干上で、こんな時の彼女のリードは実に素早い。支倉が何も応えないうちにその話はぽんぽんと進み、日取りや待ち合わせ時間、場所まであっという間に決まってしまった。
  つまりは牧瀬も支倉が一息をつくその瞬間を見計らって単にデートの約束を取り付けたかっただけらしい。仕事が残っているのか、まだ十分に長い煙草を灰皿に押し付けると、彼女はもう用は済んだとばかりにそのまま給湯室を出て行こうとした。
「ああ、でも」
  けれどふと思い出したようになってその足はぴたりと止まった。ヒールの長い靴だなと支倉は全く関係ない事をぼんやりと思った。
「契約書のことだけど、社長の判だけは今日中に貰っておいてね。さっきも言ったけど、ここ数日やっと機嫌上昇でまともに動いてくれるようになったでしょ。ここぞとばかりに働いてもらわなきゃ」
「………」
「何?」
「いや……」
  確かに陽子よりは遥かに素晴らしくまっとうな人間なのだが、気が強いのは同じだ。支倉は多少苦笑いを浮かべながら首を横に振った。女は強しというけれど、頭の回転が早い女性ほどこういった性格の者が多いのだろうか。あの社長相手にこんな物言いが出来る人間は社内でもごく僅かだ。少なくとも秘書課には彼女だけだろう。
  けれど感心するんだか呆れるんだか分からない感情の隅でちらと思う。さすがに陽子はごめんだけれど、自分にはこんな女があっているのかもしれない、と。自分は野心だけは一人前だが、実際は貧乏性で優柔不断で思い切りにも欠ける堅実派である。そんな自分には牧瀬みたいな年上女房がお似合いだ。どうやら彼女もこちらに好意を持ってくれているようだし、このあたりで恋人でも作っておく方が得策なのではないだろうか。
「……守り神に手を出す馬鹿がどこにいる」
  思わず独りごちたその言葉を聞いている者はいない。そして声に出してそれを知覚する事で支倉は先日の自分の愚行を振り払い、全て忘れ去る事に決めた。幸い告発して構わないと腹を括った自分に対し、月人は「誰にも言わない」と言ってくれた。あれは真実だろう、あの子はそんな事を社長に告げたりはしない。自分の首も安泰だ。

  まともな道に戻った方が良い。それも早急に。

  月人と深く関わっていくことは自分の中の何かが狂っていくような恐慌を支倉に感じさせた。現にそれによって既に壊れている人間が周囲に何人もいる。最初こそ月人だけが被害者で憐れだと感じていた支倉は、しかしあの己の中で生じた衝動―月人を抱きしめ慰めたいという―を感じたその時に、自分の考えが少しだけ変化している事に気がついた。
  彼らは元からおかしかったわけではない。月人と接することでおかしくなってしまったのではないか、と。





  志井がツキトを連れてきた先は中心地から離れていたあのマンションよりも更に県境を越えた、奥まった林道に建てられている山荘だった。木造のいささか古いその建物、しかし中へ足を踏み入れるとすっきり綺麗に磨かれたフローリングに真新しいクッションがたくさん置かれ、周囲にはテレビや本棚やガラステーブルが取り立てた主張もなく整然と並べられていた。また、同じ木造りの螺旋階段の横には太い紐で編まれたハンモックがつる下がっている。
  ツキトは部屋の中央に立ち、それらを何となく見つめた。
「ツキト君! 良かった、克己と会えたんだな!」
  その時、背後からバタバタと騒々しい足音が聞こえ、隣の部屋から相馬が現れた。今の今まで何か作業でもしていたのだろうか、額にねじり鉢巻をして首にはタオルを巻き、大工道具のような工具箱を抱えている。
「相馬さん…?」
「良かった! 本当に良かった! 見事無事再会ってわけだ!」
「え……」
  相馬のわざとらしい泣き真似にツキトが途惑ったような顔をしていると、当の本人は依然ツキトの異常な状況―乱れた寝巻き姿、しかも裸足―などには気づいていないのか、いつもの早口で続けた。
「いやあ、びっくりしたよ。折角克巳の奴口説いて会いに行かせたってのに、何か姉さんと一悶着あって家にいないって言うだろう? しかも君の兄貴は君の移転先を家のもんにも誰にも教えてないときたもんだ! 克己の奴もモタモタしてやがったし、まぁそもそも実際ツキト君の家まで行かせるのだって相当苦労したんだよ? あ、これさっき言ったっけ? けどなあ、俺はあのまま君と克己が会わないでいるなんてのはどう考えてもおかしいと思ったわけだ! 君の姉さんが何だかごちゃごちゃ言ってた事は全く問題外としてな! な、ツキト君だってそうだろう!? 克己と会いたかっただろう!?」
「あ。あの……」
「善太郎」
「あん?」
  名前を呼ばれてくるりと振り返った相馬は、車を脇のガレージへ入れてから数分遅れでやってきた志井を見て初めて忙しなかった口を閉ざした。志井の表情が普通ではない事は誰の目にも明らかだったし、さすがの相馬もそれで何かがおかしいと気づいたようだ。
「……どうした?」
「悪いが、出てってくれ」
「は?」
「暫くここを借りる。お前は何処か別宅へ移ってくれ。……ツキトと二人になりたい」
  志井の言い様に相馬は憮然としつつも、僅か狼狽したように眉をひそめた。
「そりゃまあ…いいが。ツキト君の家にはいつ連絡する? 言っておくが、俺がツキト君を連れ去ってここへ連れて来る事に賛成したのは、お前らがちゃんと話をする必要があると思ったからだ。ツキト君がまた行方不明扱いとかになるのはまずいぞ。ツキト君の居場所を割り出してくれた探偵君にも話を通さにゃならんし…」
「全部俺がやる。とにかくお前はもう引いてくれ」
  苛立たし気に志井も相馬のような早口でそう言った。その表情はたとえ相手が相馬であろうとも、これ以上話をするのは嫌だと言外に訴えていた。
  ツキトはそんな志井の姿にまた車の中で感じていた恐怖を覚えた。
  あれからツキトは志井には一言も話しかけることが出来ていない。「話をする為」と相馬は言っているが、志井に自分と会話をしようという意思は、少なくともあの車内では感じられなかった。ただ志井の静かな怒りに近い感情だけがひしひしと肩越しに伝わってきて、それがどうしようもなく怖かった。
  兄に抱いていたそれとはまたどこか違う恐ろしさだ。
「おいおい一体どうしたんだよ。まさかあの姉さんが言ってた事が本当だったなんてオチはないだろ?」
  相馬がわざと半笑いの表情でそう志井に訊ねているのをツキトは僅か目を見開いて聞いた。姉が言っていた事とは何だろう? 姉は志井に何がしか連絡を取っていたというのだろうか。確かに、あの時の電話でああもはっきり「今は会えない」と行った志井がこうして突然やって来て強引に自分を連れ出したのは明らかにおかしい。あの電話の後、志井に何かがあったのだ。それだけは間違いない。
  姉が何か言ったのか……。兄との行為自体は姉でも知らないはずだが、似たような事を言って志井を煽った可能性は十二分にある。
「う…」
  頭が痛くなってきてツキトは項垂れた。何か心に不安が生じるとこうやってどこかに痛みが現れる、そんな自分の身体が大嫌いだと思った。
「おいツキト君? 大丈夫か?」
  しかし、そんなツキトの様子に気づいた相馬が慌てて傍に駆け寄ろうとしたその時、志井の大声が室内に響き渡った。
「ツキトに近づくな!!」
「いっ!?」
  突然の叱責に相馬は子どものようにびくんと身体を揺らし、抱えていた工具箱をガシャンと取り落とした。それは見事足の指に直撃して彼を悶絶させたが、それでも殆ど反射的にだろう、「一体どうしちまったんだ!」と、相馬は親友の突然の恫喝に悲鳴混じりのものながら不平の声をあげた。
「いってえ…イテテ。お、お前。おかしいぞ。早速喧嘩でもしたか? それで不機嫌ってわけか? どうせまたお前が下手な事言ったんだろう、まったく…」
「善太郎。俺がどうにかなっちまう前に行け」
  志井が低い声で言った。
「……っ」
  ツキトがそれに更に怯え萎縮する。すると相馬は片足を上げ痛みの部分を擦りながらも、途端真面目な顔になって毅然として言い返した。
「お前が凶暴になるっつーんなら尚更出ていけねえな。おい克己。ツキト君の顔を見てみろよ、怖がってるじゃないか。そんなんでちゃんと話し合いができるのか?」
「……いいから出て行け」
  ぐっと拳を作った志井は爆発一歩手前と言うところだろうか。
  それでも相馬は退かなかった。
「嫌だね。今の状況じゃあ、ツキト君がどんな酷い目に遭うとも限らない」
「俺が……ツキトに何かするとでも言うのか……」
「何もしない事を祈るぜ」
  どこか冷たい物言いの相馬にここで初めて志井の目に明らかな怒りの色が宿った。
「何かだと!? 何かしたのはこいつの兄貴だっ!!」
「……何だとぉ?」
  志井の怒鳴り声にツキトは絶句しその場で固まったが、相馬の方はそれでもまだ現状を認識しきれていないようだった。呆然としながらしんと沈黙している。相馬が混乱しているのは明らかだった。
  本当なら志井の叫びを聞くまでもなく、憔悴したツキトの乱れきった様子―志井が勢いに任せそのまま攫ってきた事は明白だ―を認めた時点で、何らか勘付いても良いはずだった。志井がマンションですぐに事態を把握したように。
  けれど相馬はツキトたちとは別次元に生きる人間である。「絶対にありえない」と思い込んでいる事が実際に目の前に突きつけられたとしても、それを理解するまでには時間が掛かるのだ。志井との関係が長く、また多少世間ズレしている点から人並以上に同性愛には寛容だったが、それでも相馬にとってツキトとその兄が関係を結ぶなどという事はさすがに想像を超える出来事だった。
  そもそも当初は志井でさえ信じられない事だったのだから。
「あ……」
  ただし相馬がそのありえない事実に気づいたスピードは一般人のそれより遥かに早かった。
「ツキト君…。君、まさか……」
「出ていけ」
  けれど陽子の発言が真実だと知り、相馬がさっと青くなった時。
  口を開きかけたその親友を志井は再度遮った。
「善太郎……たとえお前でも、もしこれ以上ここにいると言い張るなら殺す。俺は本気だ。……ツキトを見るな」
  その声はどこまでも澄んでいて、そして悲しかった。


  ツキトはその声をどこか遠くの方で聞きながら、遂にどくどくと痛みを帯びたそれに耐え切れなくなり、その場にドサリと倒れ伏した。相馬の驚いたような大声が自分を呼ぶのは何となく分かったが返事はできなかった。
  おかしい、具合はとっくに良くなっていたはずなのに。食事だって摂っていたのに。
  どうして意識が遠のくのだろう。
「志井さん……」
  その名だけは何とか唇を動かし言えたような気がしたが、既にツキトの目の前はひたすらに暗かった。


  まるでここにいる事が辛くて嫌だから逃げているようだと思った。
  昔、志井と暮らしていた、あの頃と同じように。



To be continued…




17へ戻る19へ
(※「戻る」リンクはツキトシリーズのページへ飛びます。)