あの窓を開けたら


  ―19―



  志井と同棲していた前の家でも、ツキトは突然意識を失い倒れた事があった。志井の心が自分から離れたと知りながらもずるずると不毛な同居生活を続けた結果、精神だけでなく肉体にまで影響が出てしまったのだ。
  もっとも、そういった症状は何も志井と暮らしてから起きるようになったわけではない。実際に倒れるところまではいかなくとも、似たような事なら以前にも何度となくあった。
「月人は甘ちゃんだものね」
  姉の陽子はその度ツキトをからかった。
  クラスメートの前で歌を歌わなければならない、自由研究を発表しなければならない、或いは親族同士の付き合いで大きなパーティに出席しなければならない…。そんな、大勢を前にして己を晒し、能力を試されなければならない時などにツキトは決まって発熱した。根が生真面目に過ぎるので仮にそんな体調不良に陥ったとて、ツキトがそういった場から逃げ出す事はなかったが、それでも毎度そんな「いらぬ苦労」を背負う愚かな弟を、陽子は折に触れ「甘ちゃん」だの「温室育ち」だのと馬鹿にしたのだ。
「月人は兄さまに甘やかされ過ぎ。だからこんな弱い子に育っちゃったのよ。毎回毎回、何かあるっていうと弱っちゃうんだから、本当よく飽きないわよねぇ。…でもね、よく考えてごらんなさい? 誰もアンタに過大な期待なんかしてないんだから、そんな余計なプレッシャー感じる必要なんか全くないじゃない。繊細なのも結構だけど、あんまり続くと鬱陶しいわよ。アンタ男の子なんだから」
  陽子のその発言には真実も含まれていたが、ツキトを「温室育ちだから打たれ弱い」と言って断罪するのは少々酷と言えた。確かに生活面においてツキトは飢えるような思いをした事はなかったが、特別贅沢な暮らしをしてきたかと言えばそうでもない。周囲の人間から常に「ずるい金持ち」として蔑まれて迫害されてきた分、ツキトに姉のような贅沢をしたいという欲求は生まれなかった。また、兄の太樹はツキトに対し決して無条件で甘いわけではなかったし、両親に至ってはその興味の大部分が姉の陽子に向けられていた為、ツキトの存在などないに等しかった。
  だからツキトは姉にそうやって嘲られる度、それを事実だと受け止めて落ち込む一方で、心の内にいつも割り切れない鬱屈を抱えこんでいた。

  自分は甘えてなどいない、自由なんかでもない……。

「甘えるのもいい加減にしろ」
  けれどそんなツキトの叫びをある日粉々に打ち消したのは兄の太樹だった。
  ツキトにとって最後の砦、味方であるはずの兄も、ことツキトが絵を描くという事に関しては決して良い顔をしなかった。最初の方こそコンクールで賞を取ったり教師に誉められたと報告すればそれなりに評価もしてくれたが、ツキトが勉強を二の次にしてこれに打ち込むと決まって厳しいお小言が飛んできた。好きな事をするのも結構だが、それは果たしてお前の本分なのか。お前には他にやらなければならない事がある、分かっているだろう?と。その度ツキトは心の中でどんどんと大きくなっていくわだかまりを意識しながらも最終的には「兄の言う通りだ」と思い直し、無理に自分を納得させてきた。これまで兄が自分の為を想って言ってきてくれた事に間違いはなかった、だから考え違いをしているのは自分の方なのだろう、と。
「何が絵描きだ。お前がそこまで馬鹿だとは思わなかった。」
  しかしツキトが高校3年に上がり、遂に将来の夢を明確に打ち出した時、兄は姉の陽子と全く同じ冷たい反応を示した。勘違いも甚だしい、何の才能もないくせにあんな道楽で食っていきたいなどよく言えるな。お前は苦労した事がないからそんな甘えた事が言えるんだ、もっと厳しくするべきだった――…。
  兄の太樹にとってツキトの絵は感じ入るところのない、どうしたって無意味なものだった。それを続けていきたいなどと「図々しい」事が言えるのは、結局ツキトが裕福なこの家でぬくぬくと育ってきたが故、甘えているせいなのだ、と。
  兄はツキトにそう言ったのである。

  姉だけでなく、兄にとっても自分の描いているものには何の価値もなかった。

  家を出よう、その時初めてツキトははっきりとそう思った。
  どんなに苦労をしてもどんなに辛い事が起きても構わない。それを乗り越えてでも自分のしたいものはこれなのだと、兄や姉に、何より自分自身を生かす為に、自分はこの家からは出て行かなければ。兄から離れなければ。確かに自分はいつもどこかで兄を拠り所にしているところがあったから、こうして反抗を示し兄に完全に見放されればより思い切りもつき、躊躇して立ち止まる必要もなくなる。
  そこまで思い至ると、その考えを実行する事にツキトにはもう一片の迷いもなかった。
  誰をも味方に出来なくとも、絵を描く事が自分を生かす事だと信じていた。そして自分が決して兄に甘えているだけの弱い奴ではないと証明したかった。

  それなのに、どうして。

「痛…」
  目を瞑り意識は眠りの奥にしまっているはずなのに、今も頭のどこからかズキズキとした痛みがやってくるのをツキトは感じていた。それのせいで今いる場所がどこなのかも分からなかった。
  情けない、嫌な事があるとすぐにこうして倒れてしまう。
  これでは兄や姉の言う通り、自分はやっぱり駄目な奴だと認める事になってしまう。
  そして志井にも……。





  ゆっくり目覚めると、夕焼けの赤い光が額にぽうと当たっているのが分かった。ツキトはすぐに目を細め、片手を浮かしてその光を遮断した。
「……………」
  見知らぬ部屋の見知らぬベッドの上。
  木の匂いに満ちたそこは天井や床、柱だけでなく周囲にある家具も何もかも全てが木材仕様だった。大きく開かれた窓から差し込む夕陽がそれらに当たっているのをぼんやり見ていると、外から鳥のさえずりや虫の鳴き声も聞こえてきて、ツキトは一瞬自分が森の真ん中に寝そべっているような心持ちがした。
「あ…」
  と、同時にひやりとする感覚にツキトは完全に目を見開いた。額にアイシングが施されている。はっとしてそれを取り去り、勢いよく上体を起こすと弾みで身体に掛けられていたタオルケットがはらりと床に落ちた。それを何となく目にしながら、ツキトは何かに誘われるようにして未だ重苦しい身体を無理に立たせ、部屋の外へと向かった。
  そこは二階だったらしい。一段一段確かめるように下りて行き、それから志井の姿を探した。相馬もいるはずだったが、二人が話しているような気配は感じられない。室内は至って静かだった。先ほどまで自分が立っていたはずの入口と広間を抜け、ツキトはそこと隣接している台所をちらと覗いた。
  そこにも志井はいない。
「志井さん…」
  恐らくは相手がいてもその声は届かないだろうくらいの小声で呟き、ツキトは尚も歩を進めた。一度迷うと止まってしまう。進むなら今しかないと思った。見渡した範囲に志井がいない事を確認すると、ツキトは更にリビングから向こう、ちょうど自分が二階で見ていた景色が見える大窓の方へと歩み寄った。テラスに続くそこが少し開いていたせいもある。風に揺られてレモン色のカーテンがゆらゆらと揺れていた。
「………」
  果たして志井はそこにいた。
  大きなロッキングチェアーに横たわった腹の上には小さな文庫本が乗っている。両手をその上に組むようにして座っていた志井は、しかし本を読んでいるでも眠っている風でもなく、ただぼんやりとして目の前に広がる緑の風景をその瞳に映していた。
  もっともツキトがいる位置からはその横顔が少し見える程度だったから、本当に志井がそれらを眺めているかは定かでなかったが。
「起きたのか」
  その志井は窓辺に立ち尽くすツキトの存在にすぐ気づいたらしい。視線は寄越さなかったが、前方の木々を見やったまますっと口を開いてきた。
「うん」
  ツキトはツキトで何故かその窓を開けて外へ出て行こうという気がせず、室内から志井の声掛けに頷いた。
「気分は」
「もう大丈夫」
「………」
「………」
  短い問いかけに短い返事。
  その後、またしんとした沈黙が続き、二人はその後も暫くの間黙りこくった。
  志井は外の椅子に座り、ツキトは中から窓に手をつき立ち尽くしている。こんなに近い距離にいるのに、たったガラス板一枚を隔てて二人の距離はとんでもなく遠いもののように思われた。
「もう、……」
  その後、先に言葉を切ったのはツキトだ。
  窓枠に手を掛け、傍には寄らないまま声を上げた。
「もう会えないかと思ってた」
「………」
「志井さんとはもう会わない……会えないって思ってたから」
「兄貴と寝たからか」
  志井の声は限りなく静かだった。表情は、やはりツキトのいる位置からは見る事が出来ない。けれどその声色は少なくとも怒っているようには感じられなかった。
「……ツキト。そこから教えろ。俺にはそれ以上近づくな」
  けれども志井はツキトを拒絶するようにそう言い放った後、押し殺したような声で訊いた。
「お前らは……どういう関係なんだ」
「………」
「信じられるわけないだろう。俺はお前の姉貴からそれを聞かされた時も…単にお前の姉貴がイカレてるんだと思ってた。普通じゃない…おかしいのはあの女の方だってな…。お前だって言ってただろう。兄貴からは嫌われていて、家出したって自分を探すわけはないと」
「言ったよ…」
  ツキトが短く答えると、志井はそれに勢いづいたように早口になった。
「けどお前の兄貴はお前を探してた。それで…まんまと見つけられたらお前を抱くのか? 何だそれは? お前ら、以前からそういう関係だったのか?」
「以前から…?」
「俺と会う前から…。血の繋がった兄弟のくせに、セックスする仲だったのか」
「ち…違う、そんなのは…」
「けど、今はそうだろう? ――ツキト」
  くるりと振り返った志井の目にはやはり怒りが湛えられていた。けれどその目がようやく「こっちへ来い」と言っているのが分かったので、ツキトはほぼ無意識のうちに窓を開けて外のテラスへ出た。
  よろよろと志井の傍へ近づくと、そのままがつりと手首を捕まれる。
「痛…っ」
「ツキト」
  痛みに呻くツキトには構わず、志井は強引に自分の横へ引っ張り膝を折らせると、尚も静かな調子で問い質した。
「今ここではっきり言え。……兄貴と寝たのか」
「……っ。志井さん…」
「言え」
「……うん」
「………」
  眉をひそめるツキトに志井は一瞬目を閉じたものの、後は特に目立った反応は見せなかった。
  ツキトを掴んだ手もそのままだ。
「無理矢理か? それとも合意か」
  そして間もなくして志井はそう訊ねた。
「どっちなんだ?」
「わ…分からない…」
  ツキトは正直に頭に浮かんだ単語を口にした。
  無理矢理か合意かの二者択一ならば答えは前者と言えるだろう。けれどツキトはそうやって自分を庇い、兄だけを非難する事はどうしても出来なかった。兄を心から拒絶していればあれほど感じるはずはない…その自責の念がツキトをひたすら苦しめていた。兄を慕う心が兄を受け入れる事を許してしまった。兄とそういう関係になりたいと思った事はない、けれど…それを分かっていて尚、兄を拒めなかったのは自分の罪だと…ツキトはそう理解していた。
「……それこそ意味が分からない。分からないってのは何だ」
  しかしそんなツキトの想いが志井に理解できるはずもない。ため息交じりに呟かれたその言葉は、同時に言葉足らずなツキトを嫌悪しているようにも見て取れた。
「ツキト。お前は絵を描くんだろう…。だから…それがお前の願いだと思っていたから、だから家に残れと俺は言ったんだ。……なあ? そう言った俺が悪いのか? 俺のせいなのか? こうなったのは」
「……違う」
「ならお前の兄貴のせいか? 弟に欲情する変態兄貴のせいなのか?」
「ち、違う…っ! 兄さんは―」
「否定するのか。ならお前のせいか? ツキト。お前がお前の兄貴とヤッたのはお前の責任なのか。お前が兄貴を誘惑でもしたか」
「し、志井さ…」
「抱いてくれと頼んだのか? 俺とじゃ無理だが、あの兄貴となら平気なのか? そんな風に…あからさまな跡までつけられて、あいつは誇示しているんだな。お前が自分のものだと言ってるんだろう……俺に…! ツキト、お前も見せ付けたかったのか? 会いたいと言ったお前を拒んだ俺に…。なあ、見せ付けたかったのか?」
「志井さん…!」
「だがな、俺が簡単にお前を手放したと思ったか? 俺がああ言うのに、どれだけ…!」
「志井さん…っ。ごめっ、ごめん、俺…!」
「謝るな!!」
「……っ」
  遂に怒鳴られてツキトはぐっと息を呑んだ。それでも手首を捕まれたままその場を離れる事もできず、ただじんじんとする痛みをより強く感じながら、ツキトはそれ以上に痛い志井の視線を力なく見つめ返した。
  それしか出来る事がなかった。
「……ツキト」
  志井もまたそんなツキトを見下ろしながら言った。
「お前が分からない…。考えれば考えるほど頭がおかしくなりそうだ…。俺は……お前をめちゃくちゃにしてやりたい…」
「………」
「俺以外何も考えられないようにしてやりたい…」
「お…俺は――」
「黙れ…! 絵も…お前の右手も。二度と描けないようにしてやりたい…!」
  掴まれていた手首が反射的にびくりと震えた。はっとしてツキトがそれを見やると、同時に志井もそれに気づいたのだろう、ふっと力が緩まった。
  そうして直後ひどく弱々しい声がやってきた。
「けどな…、それはしない…。……俺にはできない」
「あ……」
  途端、ツキトを掴んでいた志井の手が離れた。
  志井は前傾姿勢になると両手で頭を抱え、それきり顔を上げなかった。泣いているのか、一瞬そんな風にも見て取れてツキトも瞬時くしゃりと顔が歪んだ。志井の苦しみが痛くて辛くて、それが全部自分のせいだと思うと居た堪れなかった。
「志井さ…っ」
  志井に払いのけられるかもしれない、その恐怖に苛まれながら、けれどツキトはふらりと立ち上がるとそのまま志井の背中を抱きしめた。両手で志井の頭ごと包みこむように、志井にしがみつくような格好でツキトは顔を寄せた。そうして志井が怒ると分かっているのに、また自分でも駄目だと分かっているのに、「ごめん」ともう一度謝った。
「志井さんが好きなんだ…」
  それは何の気もなしにぽろりと口から零れ出た。
「これだけは本当だ…。嘘じゃない…本当なんだ…。だから…だからあの…電話した時も、会い…本当に会いたくて、堪らなかった。兄さんにされた事が信じられなくて、でも感じた自分が許せなくて…ど、俺、どうして良いか分からなかったんだ。だから……だから、志井さんに会いたかった…!」
  まくしたてて一瞬喉がひくついたが、それでもツキトは必死に続けた。
「でも俺…俺ね、志井さん。兄さんを心底から恨めない…嫌いにはなれないんだ。何をされても、絶対に嫌えない…。昔から、ずっとあの家族の中で、兄さんだけが俺を見てくれてて…。俺の存在を認めてくれてた人なんだ…」
  志井は応えなかった。
  けれど自分に触れるツキトを拒みもしなかった。
「兄さんはどうしても、俺の絵だけは認めてくれなかった。俺…兄さんを見返したかったんだ。一人でも出来る事がある、俺はやりたい事を貫けるんだって…証明したかったんだ。だから…だから、離れた…」
「……後悔」
  顔を上げずに志井が声を出した。掠れたようなそれだった。
「後悔しているのか。……兄貴から離れた事を」
「してない」
  ツキトはすぐに答えられた。志井を抱く腕に力が篭もった。
「志井さんに会えたんだから。後悔なんか、してるわけない」
「………」
「俺の絵を好きだって言ってくれた…志井さんの事が好きなんだ」
  志井が顔を上げた。それによってツキトも志井を抱く腕を解いたが、その拍子ぶつかった視線には狂喜の色はなかった。
  その場で二人は暫しじっと見詰め合い、触れ合う事なくただ傍にいた。
「…ツキト」
  やがて志井が乱れた前髪を掻き揚げ息を吐き出した。
「……考えてた。さっきまで」
  ツキトが反応を示す前に志井は言った。
「俺は何だって…何だってお前なんかにハマっちまったんだろうってな。…前の時にもさんざん抱いた疑問だ…。けど、そういうもんに答えなんか見つかるわけないだろうって、途中で諦めてた。好きになっちまったもんはしょうがない。理由なんて考えたって無駄だ」
  志井がおもむろに差し出し腕に触れてきた手をツキトは振り払わなかった。
  志井はツキトに触れる自分の手元を見つめながら尚続けた。
「……きっかけはお前が描いた絵だ。あれに惚れた。お前じゃない、小林ツキトって奴が描いた《絵》に惚れたんだ。俺はあの時お前の顔なんざ見ちゃいなかったし、勿論お前がどんな奴かって事も何も知らなかった。あの絵に惹かれたって以外、あの時の俺がお前に声を掛ける理由はなかった。……あれが最初なんだ」
「志井さん…」
「それから段々…お前のことが分かってきて…お前は俺が持ってないもんを何でも持ってるって気づいた。お前は本当にバカで要領の悪いガキだったけど…それすら可愛いと思ってた。もう病気だったんだな」
「………」
「いつの間にかお前の絵じゃない…俺はお前自身の事が好きになってた。そのせいで、今度は逆にお前が描く絵の事は……猛烈に憎らしくなったりもした。お前の才能が俺たちの間には酷く邪魔なものに思えた」
  どうしようもないな……そう自嘲気味に笑う志井にツキトは声を返せなかった。胸が痛くて眉がそっと寄ったが、また倒れるのだけはごめんだと、踏ん張る両足にぐっと力を込めた。
「……そこまで自分の事が分かって……上で寝ているお前の事を考えていて……考えていたら、今度は別の事が気になり出した。――それは、何でお前がこんな俺を好きだと言うのかって事だ」
「え…?」
  志井の揺ぎ無い眼にツキトは思わずドキリとした。志井が何を言おうとしているのかが分からず、ただ嫌な予感が胸を過ぎった。心臓の鼓動が早まり出す。以前にもどこかで感じた事のある、それは起きて欲しくない不幸の前触れを感じさせた。
「情けない事に俺にはお前が俺を好いてくれる理由が全く思い当たらないんだ。せいぜいがお前の絵を誉めてやったって事くらいだが…そんなもん、他の奴らだってそのうちこぞって言うことさ。あの時、偶々孤独だったお前に声を掛けたのが俺だったってだけだ」
「そんな事…何言ってんの…? 違う、志井さんがあの時言ってくれた事は―」
  あれ以上の言葉を自分は知らない。ツキトは必死の想いでそれを告げようとした。
  あの公園で初めて志井が声を掛けてきてくれた時、ツキトは本当に天にも昇る気持ちだったのだ。今まであんな風に自分の絵を、気持ちを感じ取ってくれた人はいなかった。これから先、たとえ貴方の絵が好きですよと言ってくれる人が現れたとしても、あんな感動をくれる人とは出会えないだろう。そう思う。
  何故志井がそうまでして自分を貶めるのかが分からない。
「ツキト」
  けれど志井は小さくかぶりを振ると、ツキトの言いかけた言葉も無理に遮断した。
「偶々だ。俺は偶々あの時お前が欲しかった言葉を投げただけだ。……お前の兄貴の代わりに」
「え…」
「俺は兄貴の代わりなんだろ」
「何を……」
  きっぱりとそう言い切る志井の台詞にツキトはただただ茫然とした。志井はそんなツキトからさっと視線を逸らし、すっと目を窄めるとふと思い出すように呟いた。
「お前を訪ねて行った先でお前の姉貴からも言われたぜ。見れば見るほど、俺はあの男のコピーだとな」
「ばっ…!」
  思わずカッとして罵倒の言葉が出そうになったが、瞬時胡乱な顔つきの志井と目があってツキトは口を閉ざした。身体中が芯から凍っていくような感覚に囚われ手足が痺れた。志井に触れられているはずの腕にも最早熱を感じなかった。
「お前は俺を好きだと思い込もうとしているだけだ」
  志井が言った。
「本当に俺の事が好きなわけじゃない。俺はそれだけの事をお前にしていない」
「違う…。どうしてそんな事……」
  志井の自暴自棄な台詞に心からの怒りが湧き起こり、ツキトは声を震わせた。姉が何を言ったのか知らない、それによって志井がどれほど悩み苦しんだのかもきっと自分には推し量れない。それに自分は確かに兄に影響を受けている事を認めたし、兄を慕っている事も認めた。自分の弱さ故に兄を受け入れてしまった事も志井に告げた。
  けれどそれでも、志井の言っている事は違う。
  志井は相手を好きな事に理由など考えても無駄だと言ったではないか。それなのに、「ツキトが俺を好きになる理由がないから」と、その想いは本物ではないと言う。太樹の代わりなどと言う。
「俺は…志井さんが好きなんだ」
  兄への想いと志井への想いは違うのだ。志井にうまく伝えられなかったかもしれないが、本当にそれは決定的に違う。
「本当に好きなんだよ…」
  それを告げたくてツキトはもう一度、搾り出すようにその台詞を発した。
「錯覚だ」
  けれどツキトのその告白を志井はきっぱりと否定した。
「お前は兄貴との事を俺に否定しなかった。それが全てだ。『分からない』、それこそがお前の答えだ。……正直、さっきまで俺はお前もお前の兄貴も殺してやりたいと思ってた。ハッ…関係ない善太郎の奴までな…。けど…けどな、ツキト。俺にはできない。お前を殴る事だけはな……お前が好きなんだ」
「…お…俺だって…っ。好きって…言ってる…」
  泣くまいと思っていたのに志井の微かに浮かべる笑みが酷く切なくて、ツキトは思わずしゃくりあげた。
  それに、それならどうしてそんな目で自分を見る? …突き放すような、全てを諦めてしまったかのような志井の眼にツキトは逸っていた鼓動が逆に今度はどんどん鈍くなっていくのを感じた。
  まるでこのままその生命活動を全停止させてしまうかのように。
  もしかすると自分たちはとても似ているのかもしれない…そんな事をちらと考えながら、それでもツキトは志井の言葉を許せないと感じ、またそんな風に志井を追いやった自分自身を一番許せないと思った。これならば殴られ詰られた方がまだマシだ。兄貴と寝るお前など最低だと言って罵ってもらえれば良かった。

  そうしたら自分は思う存分志井にしがみつき、「それでも好きだ」と泣き喚けたかもしれない。

「志井さん…」
  けれどこんな志井に縋りつくなど、もう出来はしない。
「俺は…志井さんを…苦しめるだけなんだね」
「………」
「一緒にいても、志井さんを怒らせて、悲しませて…意味ないよね。俺なんか」
「意味ないのは俺だ。俺が消えれば済む事だろう」
「……っ」
「泣くなよツキト」
  触れていた腕を何度か撫で擦って志井は慰めるような声を出した。ツキトを泣かせているのは志井当人のくせに、まるで他人事のような台詞だった。狂った思考が麻痺してしまい、志井の本当の意識はどこか遠くの方へ行ってなくなっていたのかもしれない。
「話は終わった。善太郎に送らせる。……家に帰れ、ツキト」
「い……」
  思わず「嫌だ」と唇だけが動いてツキトは首をふるふると左右に振ったが、志井はそれを許さなかった。またツキト自身もこれが自分の我がままだと悟った。志井は許してくれない、その事実が頭の片隅にこびりついた。

  何故、貴方を好きかだって? 人はどうして誰かを好きになった時、その理由を求めるのだろう。それがないと納得いかない? それがないと本物の想いではないのだろうか。…もっとも、理由ならたくさんある。絵を認めてくれた事以外にも、それこそたくさん。

(志井さん…)
  それでも今それを言うことは、ツキトには全部が薄っぺらで嘘臭く思えた。志井は理解できないだろう。
(思い出してよ…。俺は…俺が…)
  絵を描けなくなったのもセックスが殊更恐ろしい畏怖の対象となった事も、そして今また何もかも打ち捨ててでも「描こう」と思えるようになったのも。
(全部志井さんだよ…。志井さんが好きだから…)
  確かに以前のツキトに多大な影響を及ぼしていたのは兄の太樹だった。けれども今のツキトを形成し、その行動に影響を与えていたのは明らかにこの志井克己なのだ。志井は決して太樹のコピーなどではない。
  けれど志井自身がその事をすっかり忘れてしまっている。
(でもそれも……当然なんだ)
  ツキトははっと息を吐いてからやっと言えた。
「俺は志井さんを裏切ったんだから。当然だよね。志井さんが耐えられないのは当たり前だ。全部俺のせいだ」
「………お前のせいじゃない」
「俺のせいだよ」

  でも、だからこそ描かなければ。

「俺、家に帰るよ。志井さん。絵を描くんだ」
  志井の瞳が微かに揺れたのを見つめながらツキトは少しだけ笑って見せた。こんな時だというのに、自分が描くと言った事に対し志井が反応を示してくれた事が嬉しかった。
「兄さんを見返す為でも何でもない。志井さんが好きだって最初に言ってくれた…あの時みたいに戻れるように、頑張って描くから。そしたら…」
「………」
「そしたら、もう会いたくないかもしれないけど…いつか、会って」
「………ツキト」
「嫌いのままでいいんだ。いつか絵を見てくれるだけでいいから」
「………」
  志井は何も答えなかった。
  それから間もなくして志井はツキトを顧みる事なく、家を出て行った。間もなくして相馬が戻ってきてツキトに事情を聞く事なく、車でツキトの自宅まで送り届けてくれた。お喋りなはずの相馬はその間一言も口を開かず、またツキトも何も言わなかった。
  自宅に帰り着くと、そこには真っ青になっている田中や典子、そして支倉がいて……兄の太樹もいた。夜も大分更けていたが、事前に相馬が連絡していたからだろうか、特別騒ぎになる事もなく、また太樹にも別段叱られる事なくツキトは自室へ戻る事を許された。
  もっともこの時太樹に何をどう言われたとて、ツキトの心には何も響かなかっただろう。
  胸に穴が空いていた。
  ベッドにごろんと横になると右手がしくしくと痛んだ。志井に掴まれていた手首を自分で撫で擦り、ツキトはじっと目を開けたままその夜の刻を過ごした。眠れなかったし、また眠りたくもなかった。





  朝、明るくなってから部屋を出ると、ちょうど別の部屋のドアが開いて中から母親が姿を現した。
「あら。久しぶりね、帰ってたの」
  驚くツキトに対し母は何の感慨も見せずにそう言い、耳元のイヤリングを気にした風に手でいじりながらそのまま階段を下りて行った。
  それでツキトも何となくその後に続いた。
「あ、奥様、ツキト様、おはようございます!」
  階下にはちょうど箒を持った典子が立っていた。二階から下りてくる二人に気づくと慌てたように深々と頭を下げたが、どうしても気に掛かるようで、がばりと顔を上げた後はツキトばかりを見つめていた。この家を出た経緯が経緯だったので、彼女も恐らくはここ数日まんじりとも出来なかったのだろう。
  そんな典子の様子に気づいているだろうに、しかしツキトの母は構わず言った。
「あの子たちはもう出掛けたみたいね。私ももう出るけど。その前にコーヒーを淹れてきて貰える?」
「は、はいっ。ただいま!」
  別段厳しい口調で言われたわけでもないのだが、典子は主のその言葉に途端顔を青くさせるとバタバタとそれは騒がしく去って行った。そんな使用人にツキトの母は一瞥をくれる事もなく、再びさっとした足取りでリビングへと向かって行った。
  ツキトはそんな母を尚追うように見つめながら、ここでようやっと声を掛けた。
「母さん」
「何」
  返事は思いのほか早かった。それでも彼女の歩く速度は一向に緩まらない為、ツキトは仕方なく自分もそのまま後を追い、リビングのソファに腰掛けた母にやっとの想いで声を上げた。
「美術大学に行きたいんだ。絵の勉強がしたい」
「そう。太樹兄さんに相談なさい」
「兄さんは駄目だって」
「それなら駄目ね」
  にべもない。視線も向けない。母は相変わらずの人であった。
「それでも僕は行くよ」
「お金はどうするの」
  母はまだイヤリングをいじっていた。エメラルドグリーンの粒が大きく光り輝くド派手なものだ。本来ならば彼女の年代にはどぎつ過ぎて宝石ばかりが際立ってしまう代物だろう。
  しかしこの母にはよく似合っていた。 
「アルバイトする。……でも、お金を貯めたいからこの家には置いて欲しい。駄目かな」
「駄目って事はないわね」
  すると母はまたもあっさりとそう言い、それから初めてツキトの方を見た。綺麗にカールされた髪、隙のない自然な化粧。とても三児の母親には見えない女性だった。
「ここは貴方の家でしょ。いちゃいけないって事はないわ。いたいならいればいいと私は思うけど。でも、太樹兄さんが何て言うかしらね」
「何て言われても……僕はやるよ」
「……そう。何故?」
「何故…?」
「貴方、今までお兄さんが言う事は何でも聞いてきたでしょう。太樹兄さんが言う事は何でも正しいって、時には自分の考えもあっさり折って。そんな貴方が何故今、反対されてもしようと言うの? そんなに素敵な事なの? 貴方がやりたい事は」
「うん」
  母がこんなに自分に問いかけるのは初めてだ…そう思いながら、ツキトは動じずきっぱりと頷いた。
「好きな人がいて…その人が僕の絵を好きだって言ってくれたんだ。今までは自分の為とか…自分を認めてもらいたいって、意地みたいなもので描いてたところもあったと思う。でも分かったんだ。僕には僕が好きだって思う人に喜んでもらえる絵が描けるんだ。だからそれを……伸ばしたい」
「そうなの」
  別段感じ入った風もなく母は答え、それから典子が運んできたコーヒーを手に取るとまたツキトから視線を外した。
  けれどもカップに口をつけ、十二分にその香りも楽しんだ後、母は言った。
「なら私が貴方に投資してあげるわ」
「え?」
「貴方にお金を貸してあげる。アルバイトと言っても、貴方、美術の大学なんて普通の大学よりよっぽどお金が掛かるのよ。入学できるまでに一体何年掛かるというの。家出して一年でお金貯められたの? それで現実が分かるってものでしょう」
「母さん…」
「何」
「僕が家出したって知ってたの」
「ふっ。面白い事言うのね」
  知ってるに決まってるでしょうと母はバカにしたように笑った後、カップを受け皿に戻した。
「貴方が帰ってきたって言うから、わざわざ予定を繰り上げて戻ってきたのよ。貴方が何を言うか知りたくて帰ってきたの。もしまた太樹や陽子に流されてうじうじと自分の意思も貫けないようなら…その時は、それこそ家を追い出そうと思いましたけどね」
  その言葉にツキトが驚いて絶句していると、母は至って真面目な顔で続けた。
「好きにしてごらんなさい。……まあ、太樹もきっとそう言うわよ。愛情が過ぎると時に間違った事をしてしまうけれど、あの子だって貴方を愛しているからこそ辛く当たるのよ。分かるでしょう」
「……うん」
「貴方に自分の仕事を手伝ってもらうのがあの子の夢だったしね」
「え」
「人の夢を壊すくらいなんだから、せめて自分の夢くらい貫いてごらんなさい」
  母はそれだけを言うと、後はもう忙しなく出かけて行ってしまった。また台湾へ行くと言う。帰ってくるのは三ヶ月後か半年後か…それは分からないけれど、貴方にはまあ関係ないわね、と。素っ気無くそう言い、母はそのまま再びツキトの元を去った。
  ツキトが母親とまともに向き合い話をしたのはその時の僅か数分が初めてで、そしてその後そういった機会が訪れる事はなかった。





To be continued…




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