あの窓を開けたら


  ―20―



「もう、今日はそこまでっ!」
「わっ…」
  その叱咤と同時、突然目の前から消えてしまった「作品」を惜しんで、ツキトは思わず声をあげた。折角良い感じの色合いが出てきて、さあこれからだという時に。
「小林」
  けれど奪われた「それ」の代わりとでも言うようにぬうと視界全面に現れた人物には、ツキトのそんな不満全てを封じ込めてしまえる迫力があった。周囲の人間たちから「サトミ姐さん」と親しみと尊敬を込め呼ばれている彼女は、このところ何かというとツキトの体調を心配している。「放っておくと何も食べないし飲まないから」という事だったが、ツキトにしてみればたった今彼女に取り上げられた画用紙の「安否」の方が余程気がかりだった。
「そんな恨めしい顔しても駄目なんだからね」
  しかしサトミは動じない。
  細く長い髪を後ろで無造作に一つ結った彼女はきりりとした表情そのままに快活で、背丈もツキトより頭ひとつ分高かった。年こそ同じだが、「姐さん」と呼ばれるだけの事はある。ツキトの不満も何のそので、取り上げたブツをわざと後ろに隠し、もう諦めろと言わんばかりに舌を出す。
「小林。何っ回言ったら分かるのかな、キミは?」
  いつものジーンズ姿とは一転、珍しくも明るく華やかな柄物のスカートを履いているサトミは、姉貴然とした調子を崩さずツキトに言った。
「こんなね、あいつらのポスター作りなんて一銭の得にもならないでしょ? そんなにほいほい引き受けて、絶対ナメられてんだから。腱鞘炎だってまだ完治してないんでしょ? 病院行ってんの? 注射は? マッサージは? 少しはセーブしなさいって! まったく、前期試験も間近だってのに…」
「病院なんて大袈裟だよ。薬局で軟膏買って塗ったら治ったし」
「あんたね…!」
「試験の方はもっと大丈夫。休んだ分のノートも昨日のうちにコピーしたから。ありがとう、本当助かったよ。あ、そうだ今日返しても…?」
「そんな事はいいっ。というか、そんな事問題じゃあないっ!」
  ツキトの台詞をぴしゃりと斬り捨て、サトミはぎっとした目を向けた。どこか抜けたような、そして己の身体に対して危機感の希薄なツキトは彼女のような人間には耐え難い程のじれったさがあるらしい。
「ふう…」
  それでもツキトという人間をそろそろ分かりかけてきているのか、世話焼きなサトミは怒りの気持ちを落ち着けようと大きく息を吐き出した後、先刻自分が奪った物を両手で持ち直して、そこに描かれているものをまじまじと観察した。
「ふうん。まあまあってとこね」
「ありがとう」
「別に誉めてない」
  でもまあ、いつもよりは派手な色を使っているじゃない…と、サトミは実に偉そうに付け加えた後、さんざいからせていた肩をようやっと窄めた。
  そうしてツキトの集中が完全に途切れ、最早描く事を再開しないだろう事を確認すると、サトミはその作品をぞんざいに返した。
「もうすぐここも閉まるし。帰んなよ。それとも、これからまたバイト?」
「今日はない」
「じゃあ、お家でお勉強ってとこね。どっちみち暗いわ」
  再度あからさまなため息をついたサトミは、その後どこか所在ない様子で辺りをざっと見回した。構内で幾つかあるうちの、ここは学生が自由な創作をする為のフリースペースだ。ざっと50人くらいが収容できるその空間には、しかし今現在ツキトとサトミ以外に人影はない。窓の向こうではわいわいと賑やかな学生の声が聞こえてきているが、ここはいつもひどく静かだ。窓際に設置されているサイドボードにはモチーフに使用できるような石膏、あとは画板や絵の具なども乱雑に並べられているが、それらも今は誰が使用する事もなく、どこか退屈そうな様子であった。
  もっとも、ツキトにとってここは安息の地であり、活動場の一つである。絵の具の殆どはここの卒業生が好意で置いていったという使い古しだが、常に節約節約な生活を心掛けているツキトにはとてもありがたい物だ。今日のように誰かからサークル勧誘のポスターを描いてくれと頼まれても、ここに来れば画材に困る事もない。
「ねえ小林」
  未完成のポスターにじっと目をやっているツキトにサトミが言った。
「夢中になるのもいいけど。たまには学科のみんなと飲みに行ったりしない?」
「……いや。俺はいいよ」
「いつもそれ」
  サトミは眉をひそめるとまた一つ嘆息した。
「入学してからもう前期も終わろうっていうのに、小林って本当他人とつるまないよね。何? 人間嫌い?」
「まさか」
「小林、話してみると結構イイ奴だから? 人気者のサトミさんがフォローしてあげてるけどさぁ。でもみんな言ってるよ。『小林クンていつもカンバスか本しか見てないし、何考えてるか分からない』って。…まあ、ここ美術大学ですし? 己の芸術を極める事が本分ですし? その事自体は別にイイと私は思うけど。芸術活動大いに結構、お勉強もどうぞお好きにってね。……そんでもって、陰口叩くくせにこういう雑用を好き勝手頼んでくる一部の連中には、まあ激しくむかついてるわけですが」
「は…俺はありがたいよ。時々は誰かに強制されて描くものもないと、自分の好きなものばかりじゃ偏るから」
「……小林の場合、好きなもの描かな過ぎなんじゃない? ていうか、あんたの描きたいものって何?」
  心底胡散臭そうな顔をするサトミにツキトはただ苦く笑うしかなかった。確かに大学では生真面目に与えられた課題をこなし、彼女曰くこういった「雑用」を嬉々としてこなすばかりだから、主体性がないように見えるのも無理はない。
「学外では好き勝手やってるよ。最近ハマってるのは空想画。中世の城とか森とか湖とか。イメージ的にはそういうの。…少し前まではここらの街並とか家を描いてたんだけど、どうも違う気がしてさ」
「ああ、小林ん家って建築屋さんだって言ってたもんね。なるほど家か。で、今はお城? ファンタジー?」
「みたいなもの」
「ふうん…初耳。ファンタジー好きなんて何か似合わないけど。笑える」
「煩いな」
  サトミのズバリとした言い様にツキトは一応反論したが、こうして思った事をはっきりと口にする彼女のような人間は好きだった。自分のように感情を表に出す事が下手で、周りから「何考えてるか分からない」と言われるような者より余程信用できるし、安心だから。
「まあ、いいけど。小林がどういう生活送ろうと、所詮私には関係ないしね」
  サトミが言った。
「でもさ、一応お節介が服を着て歩いている鼎聡美(カナエサトミ)さんですから。同じ二浪で苦労して入った者同士だしね。何かと心配なわけよ」
「ありがとう」
「心がこもってないよ」
  しょうがないなあとサトミは口を尖らせて笑ったが、急に気持ちを切り変えたようになると自分のスカートを両手でふわりと持ち上げて見せた。
「ねねね、ところでこれどう? 昨日買ったばっかり」
「可愛いよ」
「普通はね、訊かれる前に言うの、そういう事は。修行が足らんよキミ」
  ふんと鼻を鳴らし、けれどサトミは上機嫌で笑った。
  それでツキトもつられたように小さな笑みを零した。
「新しい彼氏とデート?」
「ふふふ。当たり。やっぱ彼氏作るなら建築科の男でしょ。油彩画コースは駄目。お金ないし根暗だし、気は利かないし。小林ィ、あんたも早いとこ青春謳歌しないと、イイ時代なんてあっという間に終わっちゃうよ? 2年も浪人生活でさあ、毎日毎日それこそ手がもぎれるって程デッサンしてやっとこ学生になったんじゃない。恋に生きろ恋に。創作活動にもより身が入るってものよ。あ! そうそう!」
  一人ぺらぺらと口を動かしていたサトミは、それからふと思い出したようになると「じゃーん!」と、それは物凄い宝物を見せるような仕草で一枚のチケットを取り出した。
「何?」
「Celeste(セレスト)のライブチケット!」
「……ふうん」
「ちょっ…! ……まあ、予想通りのリアクションだけどっ。そりゃ、まだデビュー前のバンドだし、知らなくても当然なんだけど! でも、あのねえ、たとえ興味なくても、もうちょっとは感動したり驚いたってフリくらいしてよ。大体、これホント近いうち絶対ブレイクするんだから!」
「人気なんだ?」
  ツキトの質問にサトミは途端目をキラキラさせ、むしろ恋人の話をする時よりも嬉しそうに頬を上気させた。
「人気も人気、私の中では大人気よ! 知名度はまだまだだけど、でも近々デビュー予定らしいし、今もラジオとかじゃ結構バンバン流れてるよ。絶対人気出るね! 私が言うんだから間違いない!」
  サトミはともすれば絵画の事を語る時よりも熱心な口調で、その最近夢中になり始めたという新しいバンドの事をツキトに話して聞かせた。以前は別の名前で活動していたらしいが、それまでは今イチパッとしなかった事、それがセレストとなってからは自分も含めて急に周囲の注目を浴びるようになった事、歌もどんどん売れ始めている事。
  ギターのアキラが凄くカッコイイのだという事など。
「悲しいかな、やっぱ今のバンドってそれなりにビジュアル重視じゃない? だからここも最初はそれでファン集めてたと思うんだ。セレストくらい美形が揃っちゃうと余計に『顔だけ』とかって叩かれる事もあるし。でもねえ、セレストは顔だけじゃあないよー。音もいいし詩もいい! 本当ねえ、久しぶりなのよ、こんなにハマれたの!」
「そうなんだ」
「この間、ボーカルのタカヒロが昔悪い奴らとつるんでてクスリやってた疑惑、なんてのも聞いたんだけどね。ま、信じないね私は。そんなの。売れ始めるとそういう中傷は付き物だし。そんなのに負けないで応援する、私は! 大好きだから!」
「彼氏より?」
「あー、そういうくだらない比較はしないように」
  サトミは両手を腰に当てて見せると大袈裟にかぶりを振った。
「セレストって、確かどっかの国で《至高の空の色》って意味だかを取ったって聞いたんだけどね。本当、歌詞もバンドにあるまじき綺麗さがあるのよ。最初はバンドでそれどうよとも思ってたんだけど…バンドイメージっていうか、キーワードが本当、空って感じで。うん、空と月…かな」
「月?」
「そう。キミの名前」
  サトミは笑ってから何もない教室の白天井を見上げた。
「私はアキラ贔屓だしアキラの曲が好きなんだけど。タカヒロのさあ、何というか危げな綺麗な詩も外せないのよねぇ。あれ、相当な女殺しだよ。たぶん好きな女いるんだろうけど、如何にも片想いって感じで、それがまた切ないの。ね、これもバンドにあるまじき匂いでしょ?」
「俺…そういうのよく分からないし」
「いっぺん聴いてみれば分かるって! あ、そうだ今度一緒にライブ行こ! 連れてってあげるから! ね?」
「……うん」
  元気よくそう押し迫るサトミにツキトは途惑いながらも何とか頷いた。正直音楽には疎い。芸術家がそれではいけないとサトミは言うのだけれど、ツキトは無音の中で絵を描くのが常だったから、空と月をイメージした詩というのが一体どんなものなのか、少しの想像もできなかった。
  そんな事をつらつらと考えているうちに、待ち合わせ時間を思い出したサトミは慌てたようになるとあっという間に教室を出て行ってしまった。去り際、「今日は手を使うな!」という忠告も忘れなかったが、ツキトはそんな彼女を急かし追い出した後、急に広くなった教室でそっと息を吐いた。そうして先刻気の良い友人がやっていたように、自分も何気なく顔を天の方へ向けた。
  やはりそこには白い天井以外何も見えはしなかったのだけれど。





  ツキトが自宅から二時間ほどの美術大学に通い始めて、かれこれもう四ヶ月になる。
  志井と別れたあの日から数えると既に一年以上の歳月が経った。
  家出期間の一年弱と受験の時期とをあわせると、ツキトは友人のサトミが言うように「二浪」扱いとなるわけで、年も既に二十歳を越えた。……が、実際は挑戦してから一度目で見事難関突破の偉業を成し遂げた事になる。それぞれの学校によりその難易度には違いがあるが、兎角美術大学の倍率はどこも軒並み高く、10倍以上になる事もザラだ。定員が少ない事とあわせて芸術大学そのものの絶対数が少ない為、地方出身者は尚のことその門戸が限られるのである。そういう意味で美大にはサトミのように何年も美術系の専門予備校に通ってデッサンを積み、何度も挑戦してようやっと入学できたという学生も少なくない。
  けれどツキトは合格した。
  ほんの数分の会話であったが、あの時交わした口約束をツキトの母は忠実に守り、大学の学費だけでなく予備校へ通う為の費用まで出してきた。そういった諸手続きは彼女の下についているという秘書がある日突然やって来て当然のように済ませていったのだが、その手際の速さたるは誠に見事という他なかった。その間、太樹や陽子が立ち入る隙は全くなかったのである。
  太樹は暫くの間ツキトとは一切口をきかなかった。
  ツキトが予備校へ通い出し、毎日毎日、それは熱心に基礎デッサンに打ち込み始めると、それを忌むように太樹は家を空ける事が多くなった。冷たい一瞥も容赦のない叱責もない。自分に断りなく母に取り入り、断固として己の好きな道を歩もうとするツキトをどうしても許せなかったのか。或いは別の理由か。それはツキトには推し量る事が出来なかったが、本番を迎えるまでの数ヶ月間、同じ屋根の下に暮らしていながら、二人は必要以上の接触を持つ事もなく、殆ど他人のようだった。
  また、そうやってツキトが「受験勉強」に追われ始めた直後、陽子は家を出た。
  支倉に見繕わせたという新築のマンションは彼女のような若い女性が一人で住むには広過ぎるし、また実家からさほど離れてもいない場所にあった為、結婚するでもない彼女がそうしてわざわざ居を移す事は、「小林家の事情」を知らない周囲の人間たちには全く不可解で意味のないものに思えた。実際には、そうやって太樹に「追い出され」ても、部屋が汚いだの食事がないだのという理由で陽子はしょっちゅう家へ帰ってきていたから、本当に大した意味を成してはいなかったのだが。
  ただ太樹の圧力によって追い出された陽子と、その頃には既にそうする事の必要性を認識していたツキトが互いに一定の距離を保とうと意識した事だけは間違いがなかった。
  両親は相変わらず殆ど不在だった。
  ツキトはそんな環境でとにかく毎日手を動かし続けた。毎日絵を描いていた。時には温室で、時には自室で。予備校の教師たちが苦笑交じりにもう遅いからとやんわり帰宅を促すまで教室で描く事もあった。勿論大学に入る為には学科の勉強も欠かせなかったが、それでも一日の大半は筆を走らせる事に終始していた。
  右手が痛いとか痺れるとかいった事は一切なかった。考えなかった。

「当たり前だ」

  そうして3月。
  無事に目的の、高校3年の頃から希望していた大学への合格を果たした時、それを報告したツキトに兄の太樹はそう言った。
「そこへ入る為に今までやってきたんだろう。受かって当たり前だ」
「……うん」
  太樹の不遜な物言いにツキトは静かに頷いた。
  合格発表のその日、何故か太樹は平日にも関わらず昼間から自宅にいて、部屋で仕事をしていた。速達で合格通知と入学する為の必要書類が一緒に送られてきた時、それを受け取ったツキトは真っ直ぐ兄のいるその部屋へと向かった。そして一言「受かったよ」と告げた。
  その時に掛けられた言葉がそれだった。当たり前だ、と。
「それで」
  太樹が言った。
「これで終わりなのか。お前の夢は叶ったのか」
「……違うよ。これからだよ」
  兄がこうして面と向かって話してくれるのはいつ以来だろうと思いながら、ツキトはしかしひるまずしっかりとした口調で答えた。本当は受験をする前にこうして対峙し許可を得たかったのだが、太樹がそれを許さなかった。
  本当は話したくて、聞いてもらいたくて仕方がなかったのに。
「これから本当の勉強が始まるんだ。大学で実技だけじゃなくて理論とか歴史とか…色々勉強するんだ。あと…いつかイタリアに行きたいから英語とイタリア語の勉強もする。母さんに借りたお金もなるべく早く返したいから、出来る限りでアルバイトも始めるよ。これまではそれをする余裕はなかったけど」
「ふん…これからだってそんな余裕作れるのか。お前にそれだけの事が出来るのか」
「出来る」
  太樹の質問にツキトは即答した。不思議と緊張はなかった。兄を前にすると、いつもその威厳に気圧されて弱々しく頭を垂れてしまうのに。
  手にしたばかりの合格証書を胸に抱きしめながらツキトは続けた。
「やるよ。兄さんが心配するような行動はもう取らない。もう逃げないし…迷わないから。怖い気持ちもあるけど…でも、嬉しいんだ。合格が。今、凄く嬉しいんだよ」
「うちには何の益にもならん三流大だ」
「うん。でも嬉しい」
  太樹の吐き捨てるような言い方にもツキトは動じなかった。
  そして言えた。
「兄さん、ありがとう」
  それは本当に自然に零れ出た言葉で、嘘偽りのない感謝の気持ちがツキトの胸に広がっていた。驚いたように目を見開く太樹に構わず、ツキトはその温かな感情をどうにかしてこの人に伝えたいと、ただそれだけを思った。
「許してくれて…。受験、許してくれてありがとう」
「……許したのはお袋だ。俺は許していない」
「違う……兄さんだ。兄さんだよ。ぼ……俺。俺、頑張るから」
「………」
「絶対に頑張るから」
「……バカが」
  ツキトの台詞に太樹は初めて先に目を逸らした。不快そうな表情を隠す事はなかったが、吐き捨てるように言ったその声色に怒りは全くない。
「頑張るだと? 俺が心配するような事はしない? だからお前はバカだと言うんだ。心配はするに決まっている。お前が何をしようが、お前のする事は何だっていつだって心配だ。お前は本当にバカでどうしようもない……俺の可愛い弟だ」
「に…兄さん…」
「何故、責めない…!」
  ツキトへというよりは、明らかに自分自身に対してだろう。
  初めて負の感情を爆発させた太樹は押し殺した声でそう言うと、不意に居た堪れなくなったように身体ごと机に向き直った。そうしてそれきり微動だにせず、広い背中は暫ししんと沈黙していた。
「………」
  ツキトはそんな兄の背を見つめながら、半年以上眠らせ無理に思い起こそうとしなかったあの時のことを―兄と身体を重ね合わせた夜の事を思い返した。途端、胸に何かがせりあがる感覚を覚えたが、それは必死に喉元で食い止め、ツキトはそれら全てを振り払うように首を激しく横に振った。
「責めることなんか……」
  声はうまく出ているだろうかと、ツキトは一歩歩み寄って兄の背中に訴えた。
「何も、ない…。俺こそ……本当にごめんなさい」
「何を謝る…」
「自分の事しか考えてなかった。今までも…これからだって、俺は自分のやりたい事をしようとしてる。兄さんの気持ちを無視して、自分の事だけ…」
「俺の気持ちがお前に分かるのか」
「お城を……」
  どんどんと近づきそれに伴い大きくなる兄の背中に触れかけて、ツキトはしかしその手を止めた。兄はまだ振り返らない。その後ろ姿を見つめながらツキトは言った。
「世界一高いお城に住まわせてくれるって言った。その為に、俺に…兄さんの仕事を手伝えって」
「………」
「これ…バカみたいにたくさん描いていたら急に思い出したんだ。昔の事。凄く楽しかった頃の事ばかりだよ。不思議でしょう? その時に…兄さんが言ってくれた事、思い出した」
「………」
「きっかけは母さんが言った言葉だったんだけど」
「お袋が?」
  聞き返した太樹はまだ振り返らなかったが、声に硬さはなかった。
  それが嬉しくてツキトは大きく頷いた。放った言葉自体は悲しいものだったが。
「うん。俺は兄さんの夢を壊したって」
「………」
「だから、せめて自分の夢くらい叶えろって。ねえ兄さん…。母さんって、本当に俺の母さんだったんだね。こんな事言ったらきっと怒られるだろうけど…はは…あの時初めて、この人俺のお母さんだったんだって思ったんだ」
「……何を言ってるんだ」
「うん」
「………」
「うん。そうだね」
  太樹のどこか呆れたような返答にツキトも苦笑して頷いた。するとそれとほぼ同時、突然太樹がくるりと振り返ってそんなツキトを見上げてきた。意表をつかれてそれに驚いたツキトは一瞬身体を仰け反らせかけたが、兄はそれより先にツキトのその腕をがつりと力強く掴まえた。
「あっ…」
「月人。お前のような出来損ないに俺の仕事は手伝えない」
「……兄さん」
  強過ぎる拘束にツキトは顔を強張らせたが、太樹の発してきた台詞にはそれよりももっとズキンとした痛みが胸を襲った。
「聞け、月人」
  けれどそう感じたのも一瞬だ。
  太樹は言った。
「お袋が何を言ったのか知らないが、俺の夢を壊したなんていい気になるな。俺の夢くらい、俺は自分の力で叶える」
「え……」
「だからお前はお前で……頑張れ」
「兄さ……」
  呼びかけた声はすっと引き寄せられ抱きしめられた事で消えた。久しぶりに触れた兄の体温には途惑いもあったが、その温もりはツキトを一瞬にして安堵させた。自分で決め、自分だけでやり遂げようと思っている事だ、誰に応援などされなくても大丈夫。そう思っていたはずだった。けれどもたった一言、兄からその言葉が降り注いできた事で、ツキトの中にあった兄へのわだかまりはあっという間に霧散し、鼻先を掠めた兄の匂いに涙が滲んだ。
  たったそれだけで。
「うん…うん…!」
  それでも、ツキトにとってはその日こそが本当の始まりであり、それを強く感じる事が出来た瞬間だった。





  自宅へ帰り着いたツキトを迎えたのはちょうど外へ行こうとしていた典子だった。
「あっ、よかった月人様!」
「あれ、まだいたの? 早く行かないと遅刻しちゃうんじゃない?」
「まだ大丈夫ですよ。今日は月人様がアルバイトのない日ですし、お夕飯もいつもよりゆっくりたくさん召し上がって頂こうと思って腕によりを掛けました! あの、冷蔵庫に入れたものとか説明を―」
「ああ…いいよいいよ。早く行かないと田中さん怒るよ? 時間に煩い人だから」
  ツキトは自分が帰ってくるといつもぞろ騒々しくなる典子に小さく笑いながら、わざと急かすように腕時計を見せた。
「まだ17時前です、あの人だって仕事ですよ。先日も私の方が10分待たされましたし!」
  典子はそう言い、それから自分の着ているものをちらちらと気にした風になりながら、ツキトの事もさり気なく見やった。いつも掃除用のラフな格好をしている彼女が、今日はここから直接約束の場所―田中曰く「戦場」へ赴くという事で、いつになく着飾っている。
  先刻のサトミでの失敗を払拭するべく、ツキトはにこりとして言った。
「今日の典子さん、いつもより綺麗だね」
「えっ!」
「その服も凄く似合ってるし」
「そ、そうですか? あ、あはは…あの、昨日買ったばっかりなんですよ、これ!」
「典子さんも?」
「え?」
  不思議そうな顔をする典子にツキトは「何でもない」と片手を振った後、玄関に立ち尽くして前を塞いでいる身体を大袈裟に横に退けた。早く行った方が良いという合図のつもりだった。
「今日の合コンは良い人いるといいね」
「そ、そんな月人様っ。え、えーと、そんなものじゃなくてですねっ。そう! 単なる田中さんの昔馴染みの方たちが主催する、見知らぬ人同士の飲み会ですよ!」
「そういうの合コンって言うんじゃないの?」
  あたふたとする典子を可笑しそうに眺めた後、ツキトは再び時計を見て「あ」と声を出した。
「そういえば陽子姉さん、今日アメリカから帰ってくるって言ってたよね。もうすぐ飛行機が成田に着く時間だよ、本当に早く逃げた方がいいよ。またお土産整理とか何とか言って典子さんの事呼び出すんだから…」
  陽子は相変わらず遊び呆けているが、仕事は仕事できちんとそつなくこなしているようだ。今回も仕事関係での渡米だったようで、出発前さんざツキトに「気楽なあんたと違って私は忙しい」と厭味を言っていた。
  そんな相変わらずの姉の帰還は少々憂鬱な事件とも言える。
「大丈夫ですよ」
  しかし、いわばツキトにとっての「姉から厭味を言われる仲間」である典子は、その陽子の帰還にもまるで平然としていた。以前は陽子の言動いちいちに怯えていたというのに。
「陽子様には合コ…いえ、飲み会の日はいつも前もってメールでご報告していますから」
「え?」
「お嬢様、実はそういう俗世間の飲み会とは無縁だからお話が楽しいンですって。特に田中さんのあの普段とは想像もつかない猛烈アタックぶりとかのお話には大層笑われてまして。私も、お嬢様に楽しんで頂けるネタ探しに行くようなものなんです」
「は、はあ…」
「あ、それじゃ、そろそろ。行って参りますね、月人様! お夕飯、お一人だからって抜く事のないようにして下さい。太樹様も今日はいつもよりはお早いと仰ってましたから」
「あ、うん、知ってる。さっき携帯のメールにもそう入ってたし。大丈夫だよ、ちゃんと食べるからさ」
「はい! それでは行ってきます!」
「田中さんによろしくね」
「はい!」
  何だかんだで急いでいたのだろう、バタバタと慌しく去って行く典子の後ろ姿を嵐が通り過ぎるような気持ちで見送った後、ツキトは急にしんとした家の中を見渡してふっと息を吐いた。誰かといる時はあわせて口を動かせばいい。それに絵を描いている時はそれこそ自分の世界に没頭できる。
  けれど会話の途切れた直後の沈黙には妙にやるせない気持ちにさせられる。これは何だろうと考えてしまうと余計に悪い方向へ落ちてしまいそうなので、なるべく考えないようにしているのだが。
  大学入学を果たした今、ツキトは望み通りの生活を送っていた。学費を出して貰っているという引け目からどうしてもアルバイトは欠かせなかったが、家出をした時に無理をし過ぎて逆に何も出来なくなってしまった教訓から、無理なスケジュールにはしていない。せいぜい週に3〜4日だ。あとは大学の課題に自分スケッチ、それに学校ではどうしても足りない語学の勉強に時間を注いでいた。イタリアへの憧れは大好きな画家がよく描いていたあの場所へ行きたいというそれだけの気持ちからだったが、今ではもう少し欲張りな願望がある。その為には更なる努力が必要で、怠けている暇などなかった。
  ツキトは忙しかった。心や身体の心配も不要だと思った。
  過去を振り返る時間も。
「あ…」
  その時、不意に尻ポケットの携帯が震えた。
  未だ玄関口に立ったままだったツキトは靴を脱ぎながらそれを取り出し、着信先を見て顔を綻ばせた。すぐに通話ボタンを押す。
「もしもし?」
『月人君? 今大丈夫だった?』
「はい。今ちょうど家に帰ったところです」
『おー、それはグッドタイミングだったね』
「上月さんは?」
  今やすっかり「美術仲間」な上月はツキトが呆れるほどの電話魔だ。それを何度か見かけている太樹などは実に迷惑そうに「Jに文句を言う」などと半分本気の入り混じった声で不平を述べていたが、実際はまだそれを実行に移してはいないようだ。相変わらず会社に迷惑を掛けっ放しさと言う自称名探偵は、不思議な事にツキトがふっと落ち込んだり物思いに耽ろうとすると電話を掛けてきて、「今何してる?」とか「元気?」とか様子伺いをしてくるのだった。
  太樹が厳しい兄ならば、上月は優しい第二の兄といったところだ。
『こっちはさ、また厄介な奴の尾行頼まれて。今それの最中』
「えっ…。じゃあ電話切りますよ?」
『あー、待って待って。大丈夫、連れがいるから。そいつに任せてるし、今』
「でも」
『それより少しはセーブしてる? この間の腱鞘炎まだ治ってないでしょ? 月人君はのめりこむと極端に自分の事が分からなくなるところが心配だね。この間だってお兄さんにめちゃくちゃ叱られたって言ってただろ』
  上月の厭味のないお小言を心地良く耳に入れながらツキトは笑った。
「叱られたけど、無視されるよりはいいです。この間なんか1週間くらいずっと口きいてくれませんでしたから。たった3日食事抜いただけなのに」
『あのねえ…』
  困った子だなあとふざけたように上月は笑ったが、傍にいる同僚が仕事中だと怒ったのだろうか、突然「うるせえよ!」と、ツキトには決して言わない乱暴な物言いで相手に怒鳴る声が聞こえてきた。
  それでツキトも途端慌てた。
「あの…本当に切りますよ。仕事して下さい」
『いや、ごめん。ちょっと待って。今日はただの雑談じゃなくてさ』
「え?」
  電話の向こう側では何度か上月と同僚の押し問答が聞こえていたが、結局同僚の方が押し負かされたのだろう。「雑談じゃない」と言った時の上月の声は周囲に騒音もなく、実によく聞こえた。
『あのね、俺―』
  上月の声がツキトの耳に響き渡った。
『俺、この間志井さんを見かけたんだ』
「………え」
『偶然。本当偶然なんだ。たまたまね、都内でやってる焼物展に行ったんだ。昔の仲間に陶芸科に所属してた奴がいて、そいつの付き合いだったんだけど』
「………」
『声掛けようかどうしようか悩んでるうちに見失っちゃったんだけどね。前の家から引っ越してそれきりだっただろ。でもさ…東京にいたんだなあと思って。そりゃそうなんだろうけどね。あの人もともと東京の人だし』
  ツキトが何の返事も寄越さないのを承知で上月は続けた。
『何なら探すけど。探し物は得意だし、これでも本職だからね。月人君が望むなら彼の居場所探すけど』
「……そんなの」
『あの日…僕はね、もし自分がツキト君の居場所を彼に教えずに、彼が君を連れ去ったりしなければ…。もしかしたら違う未来もあったかもって、いつも引きずってたんだ』
「上月さんのせいじゃないですよ」
『でも僕は気になる』
「………いいんです」
『月人君…』
  畳み掛けるように早口になる上月に自然自分も強い口調になり、ツキトは相手の見えない場所でかぶりを振った。突然の事に途惑いはあったが、答えはもう決まっていたから。
「俺、まだ志井さんに胸張って見せられるようなもの全然描けてないし。中途半端だし。会っても見せられるものがない」
『月人君、でもね…』
「ありがとう、上月さん。切るね」
『月人君―』
  言いかけた上月を拒絶するようにツキトはしかし通話ボタンを切った。

  志井さん。

  別れたあの日からその名を唱えなかった日はないだろう。それでもツキトはもう無理に会いに行こうとはしなかった。志井もツキトに会いに来る事はなかった。それはそうだ、二人はあの日あの山荘で別れたのだから。
  ツキトは絵を描く事を決め、志井はそれを勧めた。
  いつだったか姉の陽子が勝手に調べたらしく、志井が前のマンションを引き払って何処かへ行ったという話を聞かされた。その時もひどい虚無感に襲われはしたが、ツキトはその想いを表に出す事はなかった。というよりも、志井と離れたその時から、ツキトはなるべく周囲との深い接触を避け曖昧に笑うだけの、ただ己の希望を満たすためだけに描き続けるだけの人間になっていたのだ。
  だから姉がそうして志井の事に触れてツキトの反応を得ようとしても、ツキトは彼女の望む態度を取る事はできなかった。
「結局」
  自分の理想の玩具が違うモノになったと分かった時、陽子はどことなく苛立たしげに、一方でまた哀れみをこめた目で言った。
「結局、あの男は兄さんが出来なかった事をあんたにやったってわけね。好きな相手が自分より大きくなって飛び立つのが分かれば普通は阻止したくなる。太樹兄さんみたいにね。……でもあの男はそれをしなかった。そういう事なんでしょ」
  ツキトはそう言った時の姉の顔をよく思い出せない。
  自分がどんな反応を取ったのかも覚えてはいなかった。



To be continued…




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