あの窓を開けたら


  ―3―




「兄さんのこと…知ってるんですか…?」
  驚き掠れた声ながらツキトは相馬に訊いた。同時に過去兄から発せられた様々な冷たい言葉や、いつでも不機嫌だった表情を思い出し胸が苦しくなる。
「そりゃ知ってるさ、有名人じゃないか。あっちでは特に」
  相馬はツキトの反応こそ意外だという風な目をして笑うと、「ああ、でも」と思い直したように訂正した。
「有名と言っても、地元じゃない限りそこらの学生さんや主婦層じゃ知らないか。けど、俺たちの間では有名も有名、超有名人さ。特に最近の暴君ぶりと言ったら―」
「おい」
  人差し指を掲げてとうとうと語り出そうとした相馬を志井が止めた。何かを回想するように相馬は目を閉じていたが、友人のあからさま不機嫌なその声には途端目を開き、ばつの悪い顔で頭を掻いた。
「やっぱり話しちゃまずいよな」
「お前、何考えてる」
  怒りの篭った低い声を向けられて相馬は「参った」という風に肩を竦めた。
「別に何も考えちゃいないさ。話の流れでちょっと思い出したから話題にしてみただけだ。まあ口にしてみた瞬間、咄嗟にまずいかなとは思ったんだが―…、だからって突然黙りこむのも不自然だろ。なあ?」
「あの…」
  途惑いながら口を挟んだツキトに相馬はさっと視線を移して申し訳ないような顔をした。
「いや、悪かったよ。ツキト君は確か家出て家族とはもう断絶状態なんだもんな。連絡とかそんなもん、するわけないな。関係ないな。いやホント…以前克己からツキト君があの小林グループの『小林月人』で、しかもあの太樹の弟だって聞いてたもんだから…。でも、今日その話をするつもりはなかったんだ。これは本当だぞ?」
「本当かよ」
「本当だって! 久々に酒飲んだらつるっといっちまったんだ! 悪いホント!」
  憮然としている志井へ必死な弁明を繰り返し、相馬は「俺の唯一の欠点は口が軽いことだな」と嘯いた。
「………」
  ツキトはそんな相馬を未だ落ち着かない目で見つめつつ、隣で志井が「もういい」という様子を示しているのを知りながら口を開いた。
「相馬さんは兄さんと知り合いなんですか?」
「いいや赤の他人。……って、この話まだ引っ張る? 隣で鬼みたいな顔してる奴いるから、やめないか」
  思い切り苦笑する相馬にツキトも志井の顔をちら見したが、やはりそのまま止める事はできなかった。むしろ半ば腰を浮かした格好で、ツキトは相馬に迫るような目を向けた。
「暴君ってどういう事ですか?」
「ああ、いや、そのう…。まあ、ほら。あそこはバリバリの保守派で、一族だけで重要ポストを固めてるような古い体質の会社だろう? 無能なのが多くて君のお兄さんも大変なんじゃないか? 上のも下のも取りまとめて、グループ経営成り立たせないといけないわけだから、なあ? だからテンパッちゃってんだな、きっと。うん、そうだ」
「お前があのグループの人間を庇うところ初めて見た」
「お…俺も初めて庇った」
  先刻まで不機嫌だった志井が突然驚いたようにそう言ったのを、相馬は相馬でがっくりと脱力しながら頷いて項垂れた。ツキトはそんな2人の様子を交互に見やりながらとにかく酷く嫌な予感に苛まれ、ぐっとテーブルの下で拳を握り締めた。
  自分の家の事だが、ツキトには家族の仕事の内容など良く分からない。兄の太樹は事あるごとに大学を出たらお前も家の事業に参加するんだと口煩く言っていたが、ツキトは自分が会社経営に関わるなど微塵も想像できなかった。だから幾ら怖い兄の言いつけとはいえ、そればかりは表向き幾ら頷いていても全くの馬耳東風だったのだ。
  それでもきっと兄たちの仕事は「とても大きくてとても素晴らしいもの」だと、ただ漠然と尊敬はしていた。
  していたのだけれど。
「しかしねえ、あそこの爺さんの子供はてっきり息子の太樹と娘の陽子2人だけかと思っていたよ。昔、マスコミで取り上げられた時も確か美男美女の天才兄妹だとかで特集されてたしな。まさか更に下に君みたいな子がいるとは……」
「相馬さん」
  ぶつぶつと未だ独り言のように呟く相馬にツキトは再度意を決したようになって問いかけた。もうあまり話してくれるような雰囲気ではなかったが、だからといって今更この話題をなかったものにはできなかった。
「兄さん、参っているって言ってましたよね。何かそれで…それで仕事で無茶したりとか?」
「……やっぱり訊く?」
「お願いします。知りたいんです」
「ツキト…」
「志井さんは知ってたの?」
「………」
  何も答えない志井のその態度が答えだった。
  途端ツキトの中で、ちりっとした小さな怒りの炎が揺らめいた。
「確かに俺…。自分から家族の下を逃げ出した奴だし、兄さんたちは俺の事もう家族だなんて思ってないと思うけど…。もし、もし何か困った事が起きてるなら…」
  思いつめたようなツキトに相馬は即座に首を振った。
「いやいや、別に彼らは困った事なんて何もないと思うよ。至って順風満帆。グループ全体の経営も黒字続きだし、特に君のお兄さんが台頭してきてからは向かうところ敵なしって感じだしな」
「じゃあ…」
「いや、お兄さんも何の心境の変化かねえ?」
  相馬は大きな目をすっと窄めると、目の前のグラスに注がれた液体を見つめながら苦い笑いを浮かべた。
「昔はねえ、アジアの貧しい国に学校建てたり病院造ったりなんて、マザーテレサみたいな真似してた頃もあったじゃないの。ん? あの人は孤児院だっけか設立したの? まあいい。とにかくなあ…そんなんだったのが今じゃなあ…。やっぱり金が増えると人間は変わるんだな。金は魔物だな。自分の生まれ育った故郷ぶち壊してリゾートホテルだの高層マンションだのって…。そりゃあ、それが全くいらないものだとは俺も言わないがね。そのやり方がもう完全なるヤクザさ。だからな、自然保護団体とか俺ら郷土研究家みたいな人間には悪魔みたいな男なんだよ、君の兄さんは。だから、有名人。これって厭味」
「………」
「ほらあ。だから、喋らせるとぺらぺら悪口言っちゃったあ!」
「お前が勝手に喋ったんだろうが…」
  最早怒る気もしないのか、黙り込むツキトに代わって志井が呆れきった声で返した。
  相馬はひたすら「ごめんごめん」と連呼していたが、ツキトにはその声がただただ遠いものにしか思えなかった。

  『月人、お前を泣かせたってバカ野郎は誰だ? 俺がぶっ飛ばしてきてやる。』

  小学生の頃、ツキトは家の仕事の事でよく同年代の子どもたちから苛められた。今のツキトでさえ会社の事は分からないのだ、当時はもっと訳が分からなかった。苛めている子どもの方とて理解などしていなかったに違いない。それでも彼らは、恐らくは自分たちの親が毒づいていたものをそのまま使ったのだろう、「お前の家ってヤクザなんだろ。悪い事いっぱいしてるからお金持ちなんだ。卑怯者!」…と、幼少のツキトにはあまりに理不尽な暴言を吐き、囃し立てた。また気弱なツキトの性格も災いしてか、そういった悪口から時に無意味な暴力に発展する事もままあった。自分と同じくらいの小さな手に叩かれたり蹴られたりする度、ツキトは何故こんな目に遭わなければならないのかとただ泣いた。ただ居た堪れず、しくしくと泣いて泣いて、泣き止んだ後、家に帰った。

  『また苛められたのか。』

  けれど幼いツキトの隠し事は兄の太樹には見え透いていた。ツキトとは年の離れた、当時既に中学生だった兄は「金持ちであること」を逆にうまく利用しシンパを増やす妹の陽子にはとても冷たかったが、不器用な弟のツキトには甘かった。それに言い方はぶっきらぼうだったが、殆ど育児放棄の両親に成り代わり実によくツキトの面倒を見ていた。

  『いいか月人。お前が苛められるのはうちがヤクザだからじゃないぞ。確かにうちはそれに近い事もやってるが、それは俺が上に行った時にちゃんと変えてやる。だからお前は家に誇りを持って、俺たちが恵まれてるって事に感謝しろ。』

  太樹はぐしぐしと泣きじゃくるツキトの顔を乱暴に拭ってやりながら、しょっちゅうそんな事を言った。建設業がイコールやくざのように思われている今の風潮や、それをそのままにしている一族の体質は本当に愚かだ、これからはそれではいけないのだ…と。子どものツキトに、同じくまだ子どもの太樹はそう言っては最後に決まって「俺が変えてやる」と繰り返した。兄は両親や重役の親戚たちの後を積極的について回っては企業経営のノウハウを直に学び、思考を磨いた。姉の陽子も一際優秀で周囲の期待を集めていたが、それでもツキトは行動的な長兄の太樹を1番尊敬していたし、太樹もそんな風に自分を慕うツキトを妹の陽子よりも誰よりも格段に可愛がっていた。その関係は表面的には見えにくい部分もあったが、少なくとも2人には分かっていた。

  『お前の無能さには呆れる』

  それがいつからだっただろう。ツキトが高校へ上がる頃には、太樹はすっかり変わっていた。世話焼きなところは以前のままだったが、それはある意味信用がない事から生じる酷い束縛にも受け取れた。お前は何をやらせても駄目だ、絵なんてくだらない物にばかり気を向けやがって、少しは将来の事を考えろ……。その言い様はあまりに冷たく厳しいもので、ツキトも次第に兄と顔をあわせるのが辛く、また彼の声を聞くだけでびくりと怯えるようになっていった。
  家を出たあの夜。
  18年間住み慣れたその大きな屋敷を振り返りながら、ツキトはただ「兄さんはこれで安心して僕のことを見捨てるだろう」と、それだけを思った。安心して、これで仕事の事だけを考えてもっともっと今の会社を大きくしていくのだろうと。
  自分の事など忘れて。

  兄さんはこれで安心して僕を忘れる、と。





「ツキト君。今夜は本当に悪かったな」
  当然のように志井に会計を任せ、相馬は「先に出ている」とツキトの背を促して外へ出た。閉店まではまだ少し時間があったが、さすがに日にちが変わる平日だと人の入りも寂しい。駐車場から見える国道の外灯を何となく眺めながら、相馬は自分の後についてくるツキトに再度振り返る事なく謝った。
「俺の悪いところは口が軽い事なんだ」
「相馬さん。今日はもう10回くらいそれ言ってますよ」
「いや。100回くらい言わないと駄目かもしれんな。うん、それでも駄目かもしれん。後で克己に殺される可能性70%くらいだ」
「そ、それって…凄く高いですね?」
「低めに言ったつもりだがね」
  くるりと振り返り、相馬はくしゃりと憎めない笑顔を見せた。眼鏡の奥の目を見る限りすっかり酔いも醒めているように見えたが、頬は心持ち赤かった。
「なあツキト君。人間って独りで生きていける生き物だと思うかい?」
「え?」
  そして唐突にそう訊く相馬にツキトは目を見開いた。彼の声はとてもよく通っていて、やはり彼は酒乱などではなかった。
  相馬は俯き笑みを浮かべた格好で続けた。
「これは世界中の人間が抱く共通のテーマだ。答え自体は何て事ないものだが…、ん? 念のため訊くけど、これの答え分かるよな? ちなみにこの質問の冒頭には『精神的に』という文字がくっつく。『人間は精神的に独りで生きていける生き物か否か』だ」
「……?」
「だからな。この便利な世の中で何も完全なる自給自足をしろとは言ってない。山でイノシシ捕まえて海で魚釣って…お蚕さんの繭や綿花で服作れとかさ。そうやって生きていけるかどうかなんてのは訊いてないんだ。いいんだよ、別に。他の奴らが作ったもん利用して生きる分には。そういう事じゃなくて、内面的にさ。寄っかかれる相手がいなくても人間は生きていけるのかって、そういう意味」
「それは…俺は、駄目かも…」
「そうそう、それ! 『俺は』ってやつ! それが聞きたかった」
  相馬はびしりとツキトを指差した後、実に嬉しそうな顔をして頷いた。
「当たり前だけど、こんなもん人それぞれ回答は違うもんさ。人によっては、『俺は独りでも生きていける』、『私は独りでも大丈夫』って答える奴もいるだろうよ。…実際、俺も後者の人間だしな」
「え」
「案外、やってけるもんさ。むしろその方が幸せだ」
「相馬さん…?」
「けどな、克己は駄目だから」
  名前のところを強調して相馬はきっぱりとそう言った。それは世話のかかる子どもを評価する時の母親や、手の焼ける生徒を見守る教師のようなものに近かった。
「あいつ、何でも出来ちまうだろ。ガキの頃からそりゃあ可愛げなかったもんで、昔は俺の方がモテたもんだ。ホントだぞ? あんな小難しい仏頂面、お嬢さん方だってイイと感じるのは最初だけだから。何でも出来るって事と完璧って事とは別なんだ。あれは決して完璧な人間じゃあない」
「………」
「俺はその完璧に達しているので独りでも平気なんだが」
  不幸な事に周りが放っておいてくれないんだ……そう冗談めいて言った相馬に、しかしツキトはうまく笑えなかった。どうしてだろう、そう考えようとした時、2人の姿を認めた志井が「善太郎」と歩み寄りながら相馬を呼んだ。
  そして開口一番ひどく冷たい声で。
「ツキトに何言ってた」
「誘惑してた」
「お前な…」
  思わず口篭る志井に相馬はそれ見た事かとケラケラ笑った。
「なあツキト君。見ろよこの顔。分かるだろう? こいつは君がいないと駄目らしい。死ぬほど駄目らしい。まったく奇跡みたいな話だ、この欠陥だらけのいけ好かない男が可愛い少年に恋をしている!」
「お、おいっ。テメ、何でかい声で…!」
「だから控え目に70%にしてみたわけさ。昔だったら、余計な事喋ろうもんなら確率は100%だよ。分かる、ツキト君?」
  焦って止めようとする志井に相馬は全く動じない。きっと慣れているのだろう、ひょいひょいとその痩せた身体を翻しながら、相馬は2人から距離を取るとまるで永劫の別れのように大仰な礼をした。背の高い彼が律儀にそう直角な礼をする姿は思いのほか綺麗で様になっていた。
「それじゃあ今日はこれにてさらばだ! 飯をありがとう、やはりタダ飯はいい」
「さっさと帰れ!」
「ツキト君! そういうわけだから!」
「え?」
  何がそういうわけなのだろうと咄嗟に目だけで尋ねると、相馬はそんなツキトにもう一度薄っすらとした微笑を向けてはっきりと言った。
「今日の話でもし家が心配で帰りたくなっても、そこのバカにはちゃんと断ってから里帰りしてくれ。黙って消えたらこいつは狂うぞ?」
「おい善太郎!」
「それは考えたくもない恐怖だ。頼むな! 小林月人君!」
「……相馬、さん…」
「まったく、何なんだあいつは…っ」
  志井にしてみれば相馬のその発言は本当に急なものに思えたのだろう。ゆらゆらと踊るように去っていく親友の後ろ姿に志井はいつまでもしつこく毒づいていた。
「………」
  だからツキトも相馬の姿が見えなくなるまで、その場で彼の細い背中を見送った。





  車の中ではどうしても訊けず、ツキトはマンションに帰り着いて寝る寸前にようやく志井に声を掛けた。志井自身も意識しているのか口数が少なかったから、答えてくれるか不安ではあったが。
「志井さん」
「ん?」
  意外にも軽い声がすぐに返ってきて、ツキトはほっとした。
「俺の兄さんが今悪い仕事してるって…志井さんも知ってたんだ」
「悪い仕事ってのは何だよ。お前の家はヤクザじゃないだろ。別に法に触れてるわけでもなし…お前の兄貴にだって兄貴なりの言い分があるだろうよ」
「でも志井さんは相馬さんと同じ意見でしょ…。そんな…そこに住んでる人や他にも色々な人の反対意見だってあるのに…無茶な事してるみたいだし」
「お前には関係ない話さ」
「………」
  きっぱりと返す志井にツキトはすぐにそうだねと返せなかった。
  実際は「そう」なのだ。関係がないとまでは言わないが、こんな問題は幾ら考えてもツキトにはどうしようもない。確かに家族の事だから気には掛かるが、会社の事に口を挟む権利は、家を捨てたツキトには一切ない。良い悪いの感想を言うくらいは自由だろうが、だからと言って兄にどうしろこうしろとなどは言えるわけがないのだ。
  ましてやその事を志井が知っていたからと言って、何故自分にも教えてくれなかったのかと詰め寄るのは間違っている。
「………」
  けれど実際ツキトは志井にそう言いたかったわけだ。知ろうともしなかった自分の事を棚に上げ、志井に「何故教えてくれなかったのか」と。
「帰りたいのか」
  志井が訊いた。恐らくこれから仕事をしようとしていたのだろう、手にしていた数十枚の書類をその場に置いて、志井ははっとため息をついた。
「気になるのか」
「そりゃ…」
「帰りたいか」
「………ううん」
  少し迷ったがツキトは首を横に振った。帰ったところでどうしようもないし、彼らに言うべき言葉も見つからない。
  それにあの兄にどんな顔をされるのかと思うと……。
「実はな…以前調べたんだ。お前ン家が警察にお前の捜索願いを出してるかどうか」
「え?」
  突然そう言った志井にツキトはぎくりとして身体を強張らせた。
「出てなかった」
  しかし志井はすぐに首を横に振ると、再度深く嘆息した。
「だからもういいと思った。家族が探していないなら…お前も帰りたくないなら、もういいだろうと」
「探してない……」
「言ったらショックを受けるかと思った」
「べ、別にっ」
  すぐに窺うようにそう言われ、ツキトは自分も慌ててかぶりを振った。ズキズキとする胸の痛みはあったがそれくらいで動じてはいけないし、大体そんな風に感じる権利も自分にはないと思った。
  誤魔化すようにツキトは早口で言った。
「探すわけないよ、言ったじゃない。俺が出てってみんな怒ってはいても心配なんかしてないって。志井さん、そんな事気にしてたの? むしろ家の恥だから隠してるんだよ。相馬さんだって、うちは太樹兄さんと陽子姉さんの2人だけかと思ったって言ってたよね。それくらい…俺は最初からいないのと同じなんだから」
「……そうじゃない。きっとお前の事が凄く大事なんだ。捜索願いだって、もしかすると事を大きくしない為に違う方法で探しているのかも」
「もういいって」
  無理に笑って、ツキトは自分からこの話をしたくせに志井の方は見ずに掃き捨てるように言った。
「ごめん、もういいよ。向こうも気にしてないなら俺ももう気にしないし…。元から…俺、自分の為に家、出て……」

  『兄さん。僕、絵描きになりたいんだ』

「………」
「ツキト?」
「な、何でもない……」
  不意に黙り込んだツキトに志井が不審の声をあげた…が、ツキトはまともに答えられなかった。
  急に思ってしまったから。

  自分はどうしてここにいる?
  何をしている?
  夢は?
  絵は?
  どうして、描かない……?


  描けない?


「ツキト。……おい、ツキト!」
「えっ…」
  再び強く呼ばれ、ツキトはまた我に返って顔を上げた。志井がいよいよ眉をひそめてこちらを見ている。ツキトは反射的にさっと青褪め、これもほぼ無意識のうちに志井から距離を取ろうと身体を退いた。
  何故志井から逃げようと思ったのかは分からない。ただ身体が逃げを打った。
「どうしたツキト…」
「う、ううん…。何でも…」
「ツキト」
「ひっ…」
  不意にぐいと腕を捕まれてツキトは小さく悲鳴をあげた。それがあまりにあからさまな拒絶だった為、志井も一瞬呆気に取られて思わずその手を放した。別に他意があったわけではない、ツキトの顔色が悪かったから具合でも悪くなったのかと心配して差し伸べただけの、それは無害な行為だった。
  それを、その手を怖がられた。
「……疲れているならもう寝た方がいい」
  腹の底から吹き上がるどす黒い気持ちを無理に抑え、志井は自らも視線を逸らして何とかそう言った。ツキトに酷い事はしたくない、ツキトを追い詰めたくない。共に暮らすようになって志井が第一に思う事はそれで、その気持ちを自身で壊す気はなかった。ツキトが辛い目に遭って「こうなった」のは全部自分のせいだし、自分にはツキトを元通り立ち直らせる責任がある。志井は頑なにそんな事を思っていた。勿論愛情もあるが、志井の中で絶えず膨らみ続けているツキトへの欲望を止めているのは、紛れもなくそういった罪悪感や義務感からだった。
  それがなければ幾ら嫌がられても志井はツキトを無理に抱いていただろうと思う。1度失った者がこうして傍にいて、自分の事を慕ってくれているのだ。だからこそ守りたいが、だからこそ今の状況は苦しくもある。
「あ、あの…っ。ごめん、志井さん」
  しかしそんな志井の想いなど分かろうはずもない。
  志井が黙り込んだ事で焦ったのか、ツキトは急いでそう言った。
  ツキトは謝った。
「い、今の…。本当にごめん…っ。あの、ちょっとびっくりして…。その、考え事してたから…!」
「……別に気にしてない。いいからもう寝ろよ」
  優しく言おうと思ったのに何故か不機嫌な声が出てしまった。志井はそれに心内で驚きながらもそれをどうにもできなくて、今はただツキトから離れようと自分が先に席を立った。この書類を運んで部屋に閉じこもってしまえばもうこう言える。自分には仕事があるのだから、ツキトは早く休めと。そうしてこの夜が明けたらツキトに微笑みかけるのだ。天気の良い朝、窓を開けながら「昨日はちょっと冷たくしてごめんな。忙しくてつい棘のある言い方をしてしまったんだ。でも愛しているから、ツキト」と。
  そう、ツキトを愛しているのだと。
「志井さん…怒ってる…?」
  けれどツキトはツキトで、そのまま引き下がる事が出来なかった。ただただ気まずくなってしまったこの空気をどうにかしたくて、ツキトはわざわざ志井の部屋までついていき、恐る恐るながら尚も声を掛けたのだ。
「あの…本当にごめん…。志井さん、俺の事気にしてくれたのに…」
「何だよ。もういいから行けって」
「でも……」
「ツキト。いいから。俺はこれから仕事があるんだから―」
「志井さん、あの…っ」

  モウキラワレタクナイ。

  志井のイラついたような声を聞いてしまったらもう駄目だった。ツキトは咄嗟に声をあげ、自分から目を逸らす志井の腕を必死の想いで掴んだ。
  先刻胸を過ぎった様々な不安や虚無感を無理に振り払いながら。
「あの…駄目、かな。今日…」
「……何が」
  まだ志井はこちらを見ない。それに酷く傷ついて、ツキトは眉尻を下げた。気になる、心配。どうして、何故。色々な考えがごちゃまぜになる。自分はここへ何しに来たのか、どうしてここにいるのか。
  どうして家を出たのか。
「志井さんと……」
  けれどツキトは今この時、志井との間をとにかくどうにかしたかった。怖くて咄嗟に離れたのも志井が怖いからではないと思う。否、「思う」ではなく「絶対」に違う。志井が怖いからではない。そうではなくて、これは「病気」で、その病もこうして志井に触れてもらえれば治るはずなのだ、きっと。
  だから。
「志井さんと、したい……」
  掴んでいる腕によりぐっと力をこめてツキトは一生懸命に言った。
「あの…今…抱いて欲しいんだ…」
  恥ずかしさに顔が熱くなった。それに反して背中には寒いものが走った。志井は何も発しない、それがたまらなく怖くてツキトはまともに顔を上げられなかった。
  それでも志井の腕は離さなかった。
「抱いて…下さい」
  志井はまだ返答をくれない。
  それが1時間にも1日にも感じられて、この時ツキトは息をする事を忘れた。



To be continued…




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