あの窓を開けたら


  ―21―



  典子が出かけてから数時間後、一人自室に篭もっていたツキトの元へやって来たのは太樹の秘書支倉だった。多忙なのか、ツキトが受験に打ち込み始めた頃からは滅多に顔を見せなくなっていたが、所詮「陽子のお目付け役」という任から解放される事はないのか、彼はその日「社長命令で」と仕事明け小林家の門をくぐってきた。
「別の者を空港へ迎えにやっていたのですが、お一人で出てしまわれたようで。申し訳ありませんが、部長をこちらで待たせて頂いても宜しいでしょうか」
「それはいいんですけど」
  久しぶりに対面する支倉は相変わらずよそよそしい口調だったが、それ以上にどこか硬質な印象を受けた。ツキトはそんな相手に途惑いながらも抱えていたスケッチブックを自分が座っているベッド脇へ置き、改めて視線を向けた。
「姉がうちに来る度いちいち支倉さんに時間を取らせてしまうのは申し訳ないです。今日は兄も早く帰ってきますし…いい加減、もう大丈夫ですから」
  ツキトと陽子が必要以上の接触を取らないようにと太樹や支倉が気を配るようになったのは、勿論「あの事」があったからだ。陽子はいったん暴走すると歯止めが利かないところがあるし、ツキト自身、そういった事に対する防御力が皆無だった。ただ、恐らくは陰で太樹には相当のプレッシャーを掛けられたのだろう、陽子がマンションで一人暮らしをするようになり、ツキトもまた美大で絵の事に没頭するようになってからは、今のところ姉弟の間に不穏な空気は流れていない。時折ツキトがぎこちない頑なな様子を示す事はあるが、陽子はそれに対して癇癪を起こすという事はないし、そんな相手をわざと更に煽ってみせるという態度も取らない。せいぜいが毒の含んだ言葉をさらりと投げつける程度だ。以前よく見せた極度の「スキンシップ」は全くと言って良い程なかった。
  だから最近では2人きりで話しても大丈夫なのではないか…と、ツキトの方では思っている。
「いいえ」
  しかしそんなツキトに支倉は無表情のまま大きくかぶりを振った。
「部長が来られましたらすぐにマンションの方へお連れします」
「兄が支倉さんにそうしろって…?」
「……はい」
「………」
「それより、月人様はまだお食事を取られていないのではないですか」
「え?」
  考え込もうとしたツキトに支倉が口調を変えてそう訊いてきた。意表をつかれてツキトが何となくその問いに頷くと、支倉はまるで変えなかった顔つきをいきなりすっと歪めた。
「そろそろ休憩されてはどうでしょう」
「ああ…はい」
  先ほど横へ置いたばかりのスケッチブックにちらと視線を向けながら、ツキトは困ったように俯いた。没頭して描いている時はなにしろ食という存在そのものを忘れるし、そもそもが食べることに執着のないツキトである。自分をないがしろにしているわけではないのだけれど、こうして色々な人に心配される自分はまだ何も変われていないのかと陰鬱な気持ちになってしまう。
「あ…そうだ。それなら支倉さんもご一緒にどうですか」
  しかしそれはそれとして、いつまでも落ち込んでいるわけにもいかない。
  ツキトははたと良い事を思いついたというようになって顔を上げた。こんなに広い家に住んでいても、食事は大抵一人である。普段は傍に典子がいるが、彼女は一緒に食事を取るという事はしてくれないし、逆に見られているばかりで落ち着かない。日中も、サトミが誘ってくれる日は一緒に学食へ行く事もあるが、大抵はどこか空いているキャンパス内で一人パンをかじる事が多い。誰かと食事を共にするという事がツキトの日常には大部分欠落していた。
  サトミはそんなツキトを「人嫌い」なのかと訊いた。が、決してそうではない。ツキトはむしろ人が好きだし、だから支倉と食事を取る事とて、喜んでしたいと思う。
  ただ。
  好きだからこそ、もう誰かと深く交わるのが怖いのだ。
「典子さん、とても一人分とは思えない程作り置きしていってくれたので」
  そういった意味ではあくまでも適度な距離で接してこようとする支倉は、ツキト自身にとってとても安心でありがたい存在だったのかもしれない。
  何故か少し途惑った風の相手にツキトは柔和に微笑んだ。
「ね…良かったら」
「ですが…それは社長の分なのでは?」
「兄は今日は外で取ると言ってました」
「………」
  部屋の入口付近に立ち尽くしたまま、しかし支倉は困惑した風に答えない。
  ツキトもそれでようやっと相手の変化に気づき、首をかしげた。
「あの…。あ、もう済ませてきてました?」
「いえ…」
「それじゃ……。ああ、もしかしてこの後デートとか?」
「は…?」
  ふと閃いたという顔をしたツキトに、言われた支倉の方は途端怪訝な顔をした。ツキトはそんな相手の様子には気づかず、少しだけからかうような目をして頬を緩めた。
「支倉さん、同じ秘書課の人と付き合ってるんですよね。凄く美人で、社内でも噂になっているって聞きました」
「だ、誰がそんな事を……あ、田中ですか!」
  ツキトの台詞に支倉はいよいよ狼狽し、らしくもなく慌てたように身体を揺らした。ツキトはそれを照れと捉えて余計に破顔したが、実際その事を田中から聞かされた時は笑うといより安堵したものだ。そんな風に思う事は支倉には失礼かもしれないが、いつも彼は会社の事だけでなく小林家のプライベートな問題にまで首を突っ込まされて迷惑を被っていたから、ツキトもこのまま彼の貴重な時間が無駄に消費されては本当に申し訳ないと思っていたのだ。 
  確かに支倉にまつわるもう一つの噂―陽子の結婚相手―というのが本当だったら良かったのにと思った事もまた事実だが。
「俺はもう大丈夫ですから」
  ツキトは支倉に言った。
「こんな風に大袈裟に陽子姉さんからガードしてくれなくても…はは。あ、でももし姉が何か困ったことをしでかしたら言って下さい。俺からも姉に言うし、兄からもよく言ってもらいますから。支倉さんだって仕事ばかりじゃ身体壊してしまいますよ。彼女とデートとかして、息抜きしなくちゃ」
「………」
「あっ…。とか偉そうに言って、今まだこうやって迷惑掛けてるんだから……俺が言えた事じゃないですけど」
「迷惑などではありません」
  支倉はツキトの言葉にどこか怒った風に応えると、ようやくすうっと部屋の中へと入ってきた。そうしてすぐさまツキトに近づき、ツキトが再び何気なく手に取りかけていたスケッチブックを割に強い力でさっと奪い取った。
「あっ」
「とにかく、今はお食事にして下さい」
「あ…は、はい」
「社長命令でなくとも」
「え?」
  支倉の強い口調にツキトが驚いていると、焦点の合わないその視線の主は力強く告げた。
「誰に命令されずとも、月人様の事はお守りしたいですし心配です。月人様にとってそれがお嫌でも、そうしたいと思う事は私の勝手です。……ご迷惑でしょうか」
「え、い、いや…それは…」
「余計な気遣いはされないで下さい」
「………」
「息抜きの必要があるのは月人様の方です」
「は、支倉さん…」
「それに…彼女とは付き合っているわけではありません」
「え?」
「……良い仕事仲間です。ただの」
「………」
  支倉がどこか興奮しているのはさすがのツキトにももう分かった。
  半ば唖然としながらも、ツキトは早口でそうまくしたてる兄の秘書を真正面からじっと眺めやった。この人とこうして面と向かい言葉を交わすのは本当に久しぶりだけれど、いつも陽子や田中から話を聞いていたせいかひどく身近に感じた。そうして、そうだ、この人は昨年一番壊れてどうしようもなかった時の自分に「何も出来ないなんて事はない」と強く励ましてくれたのだったと思い出した。
「……支倉さん」
  人と関わるのが怖くて逃げているくせにこうして誰かに温かくされれば、また過去そうしてもらえた事を思い返せば、もうそれだけでこんなにも人が恋しくなる。
  嬉しくなる。
  そんな感情を自分などが抱いても良いのだろうかと思いながら。
「ありがと…」
  相手に聞こえるだろうかという程の小声でツキトはそう発したが、支倉にはきちんと届いたようだ。自分の方こそ過ぎた事を言いましたとひとしきり反省したような言葉を口にした彼は、結局その後ツキトと共に食事を取る事なく、予想通り陽子が来たところを捕まえると、有無を言わせずそのまま彼女を連れて去って行ってしまった。ツキトは姉の陽子とはほぼ一言も言葉を交わす事がなかった。陽子自身、支倉が待ち伏せをしている事を読んではいても、彼がここまで強気な態度で自分を連れ去ろうとしようとは思い至らなかったらしく、意表をつかれる格好のままに珍しく従順に引き下がって行った。
  ツキトはそんな二人を乗せた車が去るのを見送った後、再び一人になった家の中を見回し、ため息をついた。
  今日だけはサトミや支倉の言う事を聞いて描くのはやめようという気になった。





  予告していた時間よりも大分遅くに太樹は家に帰ってきた。
「お帰りなさい」
「ああ…」
  自室に篭もっているとまた何となく根を詰めそうで、その時ツキトはリビングのソファで大して見たくもないテレビのトーク番組に目をやっていた。今はもう0時近い。そんな時間帯に、ブラウン管の向こうではまるで真昼間のような明るく騒がしい声が響き渡り、普段テレビを見ないツキトに酷い違和感を与えた。タレントやお笑い芸人が何人もで一斉に交わしている会話も、正直どういった点が可笑しくて彼らが笑っているのか、その理由が分からなかった。
「妙なものを真剣に見てるんだな」
  しかしそれは太樹にしてもそうだったらしい。
  いつも通りスーツの上着を脱ぎ捨ててからネクタイを鬱陶しそうに緩め、兄は「一体何が面白いんだ」と不可解極まりない顔をして、煌々と眩しいその画面を見つめやった。
「ごめん。消すよ」
  けれどツキトがそれで慌ててリモコンを手に取ると、太樹は素早く首を振った。
「別にいい。お前が見ていたものだろう」
「いや…でも…」
  自分も熱心に見ていたわけではないからと言おうとしたが、一旦動きを止められたせいで消すタイミングを逸し、結局ツキトは手にしたリモコンをそのままテーブルの上へ戻した。もっとも、その番組を見ようという気持ちはもう全くない。ざわざわとした雑音をそのままに、ツキトは一人ダイニングへ向かった太樹の背に自分も立ち上がってから「何か飲む?」と訊いた。
  こうして太樹を出迎えてコーヒーや紅茶を淹れる事は最近では珍しくなかった。それは二人が唯一ゆっくり言葉を交わせる時間だった。
「今日はいい」
  けれど太樹はすぐにそう言うと、「寝る」と短く答えた。おやと思ってツキトがその背に再び問いかけようとすると、シンクの前で水を飲んでいた太樹が傍にあった鍋やら何やらを見ながら先に質問を開始した。
「お前、この中の物かなり残ってるじゃないか。ちゃんと食べたんだろうな。食った形跡がない」
「片付けたからだよ」
  典子は汚した皿は自分が後で片付けるから、「絶対に絶対にそのままにしておいて下さいね!」と言っていた……が、それで「はいそうですか」と出来るツキトではない。陽子が支倉に連れられていなくなった後、彼女が用意しておいてくれた食事を軽く済ませたツキトは、使用した皿は全て洗い食器棚に仕舞っていた。鍋の中のスープだけは食べきれずそのままになってしまっていたが。
「それは元々量が多かったんだ。だから支倉さんに一緒にどうかって言ったんだけど」
「支倉が?」
「うん」
「ここへ来たのか?」
「……? うん」
  それを命じたのは兄ではなかっただろうかと思いながらツキトが不思議そうな顔で頷くと、太樹は暫し何事か考え込んだ後、「それで」と口を開いた。
「陽子は来たのか」
「あ…うん。でも支倉さんがすぐに連れて行っちゃって、全然喋れなかったよ」
「別に話す事なんかないだろう、あんな奴」
  いつも以上に忌々しい様子で言った後、太樹はツキトに言うでもなく呟いた。
「あいつの勝手さにはほとほと呆れ返る。いつの間にか独断で勝手に動きやがるから、後で尻拭いする方は堪ったもんじゃない。一度何処か僻地にでも飛ばしてやりたいくらいだ」
「え…?」
「大体、あそこへは俺自身が制裁を加えるつもりだった…」
「兄さん…?」
「お前も」
  一人むかむかと話し続ける太樹は、しかし途惑い自分に声を掛けるツキトにようやく視線を向けると言い含めるように口を開いた。
「最近は、お前に対しては大人しくしてるようだが、だからといって油断するな。あいつは不意打ちが好きなんだからな」
「何の話?」
「あの馬鹿は一旦こうと決めたら蛇みたいにしつこいって事だ。だからお前にちょっかいをかけたいと思えば、俺が何を言おうが支倉が止めようが無駄だ。結局はお前自身があいつを跳ね除けるしかない」
「姉さん…凄い悪者みたいだね」
「お前こそ、随分と呑気だな」
  ハッと軽く笑ってから太樹は水を飲むのに使っていたコップをその場にとんと置いた。それから身体ごとくるりと振り返ると、背後に立つツキトをじっと見据えやる。
「まあお前ももう二十歳だ。自分の身ぐらい自分で守れるだろう」
「……当たり前だよ」
  言われて思わず自嘲の笑みが零れたが、太樹の顔がいたく真面目なものだったので、ツキトもすぐにその表情を消した。そうしてどこか気まずいその空気を壊すようにわざと明るい声を出し、「珍しいね、もう休むなんて」と切り出した。
「兄さん、最近また特に働き過ぎなんじゃないの。たまには休んだ方がいいよ」
「余計な世話だ。それよりお前こそどうだ。今見た限りじゃ、今日は大人しく休んでいたようだが、痛みは引いたのか」
  太樹の見つめる視線の先にはツキトの右手があった。周りがどんなにもう止めろと言っても酷使を重ねたツキトの右手は、もう一体何度目かという腱鞘炎を発症させていた。上月や友人のサトミは以前から医者へ行けと言っていたし、「インターネットでそれについて調べた」という典子などは、患部を注射したらどうかとまで言っていた。
「もう治ったよ」
  太樹はツキトのそれについては特に何も言わなかったが、周囲が騒いでいた事は知っていたらしい。つかつかと歩み寄るとツキトの右手をさっと取って、確かめるように強く握りしめた。
「……っ」
  仄かに痛みが走ってツキトは思わず顔を歪めた。
「痛いんじゃないか」
「もう…兄さんの力が強過ぎるんだよ」
  無理に引っ込めようとしたツキトは、しかし兄がなかなかそれを放してくれようとしないので、途惑って更に声をあげた。
「薬局の人がいいって言ってくれた軟膏も塗ってる。ほら、これ」
「………」
  ツキトが空いている方の手でズボンのポケットから取り出した薬を太樹は実に胡散臭そうに見つめやった。けれども「来い」と短く言うと、ツキトをそのまま引っ張って行って再びリビングのソファに座らせた。
  そうして太樹はツキトからその軟膏を奪うと黙々とツキトの右手にそれを塗り始めた。
「い、いいよ。自分でやるから」
  ツキトはそれに驚いて再度手を引こうとしたが、兄はそれを許さなかった。
「黙ってろ」
「………」
「この間」
  そして太樹は淡々とした口調で告げた。
「お前がこうまでして描き上げた作品(モノ)を見た」
「えっ」
「温室にそのままにしてあっただろう。他にも似たような絵がゴロゴロ置いてあったが…作品管理も満足に出来ないのかお前は」
「……勝手に見ないでよ」
「あそこはお前の部屋じゃない。俺が入ろうがどうしようが勝手だ」
  温室がツキトのアトリエである事は最早数年前から小林家の暗黙の決まりだったはずだが、太樹は平然としてそう言うと更に続けた。
「お前は本当に面白くないものばかり描くな」
「………」
「色は暗いし構図は平凡。大体考えてもみろ。お前、実際自分があんな城に住みたいと思うか? あんなもの、何処にでもある古城をちょっとデフォルメしただけだろう。お前にはオリジナリティってものが全くない。それともあれは何処かの模写か? あんな城は見た事がないが」
「違うよ…。あれ…俺が勝手に空想したやつだもん…」
「ならやっぱり発想が貧困なんだな」
  ズバズバと言う兄にぐうと詰まってツキトは沈黙した。兄が自分の絵を見ていた事自体衝撃なのに、練習台の作品とはいえ一欠けらも誉められる事なくこう貶されては立つ瀬がない。右手の患部に薬を塗ってくれるその手はとても優しいのに、掛けてくる言葉は相変わらず容赦がないのだ。確か兄は疲れていてもう休むと言っていたはずだが、絵の事をこうして酷評している顔はむしろ生き生きしているようにツキトには見えた。
  比例してツキトの自信喪失ぶりも加速度を増して大きくなっていくわけだが。
「お前、学校では何番くらいなんだ」
  軟膏を塗り終わってそれの蓋を閉める兄がそう訊いてきた。
  ツキトは苦笑した。
「そんなものないよ。つけられるわけないよ、絵に順位なんて」
「感覚で分かるだろうが。同じ学科の連中がお前にどういう態度で接してくるかで、お前の立ち位置も大体分かるってもんだ」
「そういうものなの…?」
  太樹の言い様に今イチ納得できないものを感じながら、ツキトは咄嗟に「便利屋のようにポスター描きを頼まれる自分」については、この兄には内緒にしようと思った。
「よく分からないよ。大学の人たちとはあまり話さないしね」
  太樹がすっと眉をひそめた事にツキトは気づかなかった。
「他の人の絵は時々ちらちら見させてもらうし、やっぱり巧いなって思う人は多いけど。自分の絵が他人にどう思われてるかって事はよく分からない」
「………」
「そ、そういうの、やっぱり駄目だと思う?」
「……俺が知るか」
  自分で考えろと太樹は言い捨てると、すっくと立ち上がった。自分を前に結局はオドオドしてしまうツキトに呆れたのか、やはり本当に今日は疲れていたのか。
「兄さん…っ」
  それでも「今日は休む」と言った兄が何だかんだで自分と少しでも話をしてくれようとした事がツキトには分かった。リビングから出て行こうとする兄のその背中にツキトは慌てて「ありがとう」と礼を言うと自分も立ち上がった。
「本当ゆっくり休んで。たまには」
「お前が気にする事じゃない。うちの事を何ひとつ知らないお前が」
  実際ツキトは太樹の、ひいては自分の親族が営む会社が今現在どういった仕事をしているのか、兄がどのくらい忙しいスケジュールの中立ち回っているのかという事を全く把握していなかった。傍から見れば兄が多忙で疲弊しているのは見て取れる。けれどもどれほど休んでいられるのか、果たして休みを取って許される立場にあるのかどうかという事は分からない。ツキトの言葉は気休めに過ぎない。だから兄がツキトのその労わりの言葉を何ほどのものとも思えない事もある意味仕方がないと言える。
「………」
  それでも自分が兄に出来る事はそれしかない。
  兄のいなくなった広いリビングの中央で、ツキトは立ち尽くしたまま暫し微動だにしなかった。
  太樹はああやってツキトの身体を心配し対話を持とうとする割に、どこか必要以上に距離を置き、敢えて素っ気無くしている節が見られた。だからそんな兄の疲れが本当に仕事だけのものなのか、その事を深く考えのがツキトには怖かった。
  そうして上月にはきっぱりとその場で断ったくせに、今日聞かせてもらった「あの人」の姿を想像するだけで心は揺れた。東京にいた、それを知っただけで胸が高鳴った。上月が語ってくれた事だけを頼りに志井のその姿を想像してこめかみのあたりがつきんと痛んだ。何故、陶器など眺めに行っていたのだろう。彼がそういった物に興味があったという話は一度も聞いた事がないが…。
  それでも彼はそこにいて、詳細こそ分からないが日常を生きているのだ。
  その事がたまらなく愛しかった。
  その事がツキトには本当に嬉しかったのだ。





  それから数日して、上月が「休みが取れた」とツキトを遊びに誘って来た。友人が少ないツキトを心配しての事なのか、或いは以前よりあるツキトへの自己投影に拍車が掛かっているだけなのか。いずれにしろ上月は丸一日を遊びに費やすという事に逡巡するツキトを半ば強引に外へと連れ出したのだ。
「外に出てね。色々なものを見る事だって大切だよ」
  会社の同僚から借りたというグレーのシルビアを走らせながら上月は言った。
「月人君って、今大学とバイトと家の周りをただ回ってるだけだろう。やっている事も学校の課題、金稼ぎ、家ではデッサンと英語の勉強。あ、イタリア語だっけ」
「そっちはラジオ講座を聴いてるだけ。まずは英語と思って」
  軽快に流れる景色をじっと眺めながらツキトは苦笑して答えた。痛い指摘だが、如何せん事実なのだから仕方がない。今の自分は与えられた毎日を、その恵まれた日常をただがむしゃらにこなすだけ、それだけなのだ。
  それに、今はそれよりも何よりも、開けた窓から勢いよく入ってくる風が心地良いと感じた。前髪を飛ばし顔が少し痛かったが、気持ち良さばかりが先立った。
「美術館なんて久しぶり」
  ツキトが最終的に上月の誘いを受ける気になったのはそのせいだ。
  最近オープンしたばかりだというその郊外の緑園美術館は、山を一つ登った先にある、森に覆われた憩いの場所だという。この間の仕事で会社から特別褒賞が出たばかりだからお金の事も気にしないでと、上月はツキトが返事をする前にそう言って笑った。多忙である事もそうだが、ツキトが外へ出たがらない最大の理由を彼は察していたようだった。
  軽快なハンドル捌きと共に、その後も上月は一人で口を動かし続けた。
「最近は趣向を凝らした美術館とか本当に増えたよね。まあ…ははっ、反面潰れる館も多いけど」
「そうですね」
「でもまあ、この辺りって案外他にデートスポットとか多いし、人の入りも多いみたいだから。ここはそれなりに保つんじゃないかな。山奥に潜む美術館なんて落ち着けそうだしね、月人君もきっと気に入るよ。それでリフレッシュしたらいい」
「俺、別に疲れてませんよ」
「違うね。自分で気づいてないだけだよ」
  ツキトの反論に上月はさっと反論の反論で返し、それを誤魔化すようにしておもむろにラジオをつけた。名の知れぬ異国の音楽が流れ出して、そのせいでツキトはその後の言葉を繋ぐタイミングを失った。瞬間、膝の上の右手が少しだけ痛んだような気がした。

  それから数時間後、山道に差し掛かったところで途端天気が崩れ出した。

  やがてぽつぽつとした小雨が二人の乗る車体にも降り注ぎ、目的地へ到着した昼過ぎにはいよいよ本格的な細い雨が辺りをじわじわと濡らし始めた。休日というだけあって、また新しく出来たばかりという事もあって専用の駐車場にはそれなりの数が停まっていたが、人の姿はまばらだ。皆突然の雨に慌てて館内へ逃げ込んだのだろう、建物を取り巻く白い散歩道も閑散としていた。
「はい。折りたたみ」
「凄い…用意いいですね」
  のんびりと黒いコウモリ傘を差し出した上月にツキトは感嘆の声をあげた。車を降りたら自分たちも他の客同様すぐさま館内まで走るのだと思っていただけに、用意周到な上月には自然尊敬の眼差しを向けてしまう。
「出かける時あんなに晴れてたのに」
  しかし上月は何でもない事のようにあっさりと答えた。
「僕、雨男なんだ。何かやらかそうって時には大抵こうなる。だから、天気予報がどうだろうが、今日も絶対降るだろうと思ってね」
「はあ…?」
「でさ、これからなんだけど。すぐ中入って展示物見てもいいけど、ここって外の彫刻群がなかなからしいんだよね。ぐるっとゆっくり回って30分って所らしいんだけど、どう? それとも先に中行きたい?」
「あ、俺はどっちでも…」
「どっちか言ってよ。僕は月人君の付き人なんだからさ」
「何ですかそれ」
  ふざけたような上月の物言いに苦笑しながら、ツキトは間もなくして「じゃあ外」と答えた。これくらいの雨ならば何という事もないし、逆にこの天候のせいで混雑しているだろう館内で人に揉まれるのは少し憂鬱だった。
  ツキトの返答に上月はにこりと笑った。
「うん、そう言うと思った。じゃ、先行ってて。僕はひとっ走り中へ行ってチケット買ってくるから。今ちょっと並んでるだろうから、先に回ってみてていいよ」
「え、でも…」
「外はお金取らないってさ」
  上月はそう言うともうツキトの後の句を聞かずに突然だっと走り出した。そんな彼の背をツキトは「あ」と声を上げ慌てたように見やったが、その後ろ姿はあっという間に遠いものになってしまった。ツキトは半ばぽかんとしてその光景を見つめやった。折角一緒に来たのだから最初から一緒に回れば良いではないか。チケット売り場が並んでいるのならば、尚のこと上月だけを並ばせるのは忍びないのに…。
「でもそれを言ったらまた怒るんだろうな」
  上月はどこか子どものようなところがあって、ツキトが自分に気を遣っていると分かると途端不機嫌になってむくれてしまう。上月の方こそ、会社の同僚などには乱暴な言葉遣いだし、普段は「俺」と言っているようなのに、ツキトに対しては「僕」で、あくまでも紳士だ。それこそツキトは自分ばかり気を遣われているのではないかと思うのだが、未だそれを上月に訴えた事はない。
「まあいいか…」
  ツキトは呟き、仕方なく上月の言われた通り一人で館の周りを見ている事にした。持参してきたスケッチブックはどうしようかと一瞬迷ったが、既に車のドアはロックされている。仕方がないと傘だけを持ち、ツキトは案内板が掲げられている場所を目指して、真新しく綺麗な細い道を歩き出した。
  散歩道と示されたその場所からは更に白い砂利道が続く。
  そこを矢印に沿って進んでいくと、やがて辺りにはブロンズ、鉄、或いはプラスティックや白大理石といったもので造られた彫像がそこかしこに現れた。しかも入口に掲げられていたボードによれば、一見無秩序に並んでいるそれらには全て一環したテーマがあり、イメージは「森と水と光」だと言う。作者は国内外で様々だったが、つまりそれらはこの美術館そのものを象徴する作品という事になるのだろう。
「うーん…」
  一度も立ち止まる事なく流れるようにそれらを眺めていき、やがてツキトは首をかしげた。
  戯れで、または絵のイメージを掴む為にツキトも粘土をこねる事はあったが、正直彫刻の類には疎い。大学の同学科にも彫刻をやる者はいるし、その他ステンドグラスやゴム版、陶芸などに手を出す者もいる。それらの作業は作品に自分だけの色をつけようと試行錯誤する者にはある種有効な手立てだとツキトにも分かってはいるし興味もあるが、実際のところそれらは手の届かない「余暇」に過ぎない。何に挑戦するにも先立つものは何とやらで、今のツキトに絵画以外のあれこれに挑戦するような経済的余裕はないのである。
  だからだろうか、これらの作品にも今ひとつ共感が湧いてこなかった。
  ツキトがこれらの研究もしたいと言えば、今の太樹ならば何だかんだと出資してくれる可能性は高い。
  しかし、それだけは絶対にしたくなかった。
「あ…これは…。これは、好きかも」
  いつの間にかツキトは建物から随分と離れた、木々に囲まれた林のような所へ入りこんでいた。
  ちっともやってこない上月が気にはなったが、反して足は止まらなかった。足元の看板に書かれた矢印に促されるままにやってきたそこには、黒御影石で象られた「塊」があった。一見して何かは分からない。元はただの四角い固まりに過ぎなかったものが鈍いラインで削られ丸みを帯び、何かの生き物なのだと主張している。けれど何の生き物なのかは分からない。そもそもタイトルがない。しかも道自体ここで一旦行き止まりで辺りに他の作品も見られない為、あの矢印や砂利道はこの塊を見せる為だけに設置されたと分かる。……その事実に呆れる客は少なくないだろう。
  けれどツキトは一目見てこれを気に入ったと思った。
  奥まった位置にどすんと腰をおろしているようなそれは、彫刻群のテーマである森にも水にも光にも見えない。けれどこの山に住まう主のようではある。どこか大らかな静かさを感じさせるそれはこの細く長い雨にもまるで動じず、しっかりとその存在を主張していた。
「何だろ…。目みたいなものはあるけど。座っている熊に見えなくもない…かな?」
  高さ1メートル半ほどのそれをぐるりと回って観察した後、やはりどこからどう見てもただの石の塊にしか見えぬそれに、ツキトはしかしいやに感心した気持ちで目を細めた。特に感慨が得られたというわけではないのだが、妙に楽しい気持ちになってしまう。描く事も好きだけれど、やはりこうして見る事も好きだなと改めて実感するのだ。
「上月さん遅いな…」
  上月ならこれを見て何と言うだろうか。
  ひとしきり観察し終えた後、ツキトはどうにも他の人間の感想が聞きたくて堪らなくなった。この異様な、それでいて気高い風のこの「生き物」を自分以外の誰かはどう評価するのだろうか。
  先刻までは人ごみに揉まれるのが嫌で自ら外からの見学を希望したくせに、今では誰かがここへやって来てこれを見てくれないだろうかという気持ちでいっぱいだった。
  誰でも良かった。ただ、誰かが来ないかなと。
  だから更に何周かしてその像の真横で立ち止まった時、ツキトは顔を上げてそこから見える林の出口へと視線を向けた。あれだけの車が停まっていたのだ。幾ら雨でも、いい加減誰か現れても良さそうなものだ。
「え……?」
  果たして人はやって来た。
  それは上月ではない。
  雨の中、ツキトが持っているような黒い傘をさしてこちらへやってくる人物は。
「何…で…?」
「………」
  向こうはもうとうにツキトの存在に気づいているようだった。まだ遠目でその表情は読めないが、落ち着いた様子でゆっくりとこちらへやってくる。明らかにツキトを目指し、ツキトに近づく為にこちらへ向かってきているのだ。
「志井――……」
  その名前を呼びかけてツキトは無意識のうちに一歩後退した。何故尻ごみしたのかは分からない。それでもツキトはすらりとした長身の志井がこちらへ近づいてくるのを認めて明らかに強張った。身体が硬くなり、次いで胸の動悸が激しくなった。

  どうして、どうして、どうして?

「……ツキト」
  その思いでいっぱいになった時、すぐ目の前にまで来たその男が口を開いた。あの時と何ら変わらない、感情の読めない声で。この雨の中でもその音に掻き消されない、ぴんと澄んだ綺麗な声で。
「久しぶりだな」
  そうして志井はそう発してからようやく、ツキトに静かな笑みを向けた。



To be continued…




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