あの窓を開けたら


  志井はツキトの絵だけが好きなのだと言って、これまで美術館巡りやその他一切の芸術鑑賞には大した興味を示さなかった。付き合っていた頃二人でよくやった「美術館デート」も志井にしてみればツキトの為にやっていたようなもので、いってみれば彼はただの付き添いだった。だから退館後にツキトがあれやこれやと見てきたものの感想を述べても、志井は気のない返事をするか、或いはきっぱりと「どこがいいのか分からなかった」と言うだけだったのである。
  そんな志井がツキトの絵「だけ」を好きだと感じ、わざわざ声を掛けるにまで至ったのはとても不思議な事だった。ツキトの絵は魔法ではない。今まで何に対しても無感動だった志井のような人間全てを特別に感動させる事など出来はしない。元々絵の才能に関しては自他共に「技量こそ《そこそこ》だが、言い返せばそれだけ」な酷評をされがちである。以前の志井はツキトがそうやって自分を卑下する度に「違う、お前は凄い才能の持ち主なんだ、いつか周りもそれに気づく」と励ましていたが、ツキトにしてみれば志井が自分の絵を認めてくれたのは作品の良し悪しという事よりはむしろ、志井と自分の物への感じ方が似ていたからではないのかと考えていた。
  勿論、あの頃はそんなところにまで思いを巡らせる事はなかったが。
  ただ、今なら思うのだ。志井は自分と付き合うようになってからますます他の芸術作品に対する興味を失い「ツキトの絵だけがいい」と言ったが、もし彼が多少なりとも他のものにも目を向けていたらどうなっていただろう……と。


  ―22―



「久しぶりだな」
  志井の声にツキトは夢から覚め切らない、どこか遠い場所に一人立っているような感覚で茫然としていた。
  考える事ならたくさんあるはずだった。何故志井がここにいるのか。ここで何をしているのか。自分はそんな志井を前に何を話したら良いのか。
  話しても良いのか。
「ツキト」
「あ…っ」
  混乱気味のツキトに志井が名前を呼んできた。それにハッとしてツキトは反射的に顔を上げたが、やはりまともな返答はできなかった。すぐ目の前にいるこの人は本物なのか、そんなバカげた事すら考え始めていた。
  傘の柄を握る手が微かに震えた。
「変な像だな」
  そんなツキトから一旦視線を外し、志井はふいと傍にある銅像を眺めやった。そうしてツキトがやったようにぐるりと一周してその像全体を観察し、また元の位置にまで戻ると不思議そうに首をかしげた。
「座っている熊…かな」
「え」
  その呟きにツキトが驚いたような声を漏らすと、発した志井は思い切り苦笑した。
「違うか?」
「あ…し、知らないんだ俺も、これが何なのか。タイトルも見当たらないし。でも…」
  自分も「そう」思った。
  この黒い塊が何なのか皆目見当がつかない。それでも何となく生き物だろうと思い、それならばこのずんぐりとした形から言っても「座っている熊」かな、と。
  もっとも、もしそれが本当だとすれば、この作品が「正しい芸術作品」としてそれなりの評価を得られるかどうか、甚だ心配ではある。
「何を造ろうがそいつの勝手なんだろうけど。けどもしこれが本当に熊なんだったら、もうちょっと締まりのある格好にすりゃ良かったのにな」
  すると遠からずツキトが考えていた事を志井はまた口にした。
「まあ、俺はこういうのの事はよく分からないしな。ここへ来るまでにも幾つか見てきたが、正直何がいいのかさっぱり分からなかった。その中でこいつはまあ…ちょっと『おっ』と思ったけど」
「何で…」
「ん…」
「これ、気に入った?」
  ツキトが訊くと志井はすぐに笑った。
「そうだな。他のやつよりは目を引いたな。何でかは分からないが…やっぱりこの格好が良かったのかな」
「………」
  どくどくと高鳴る心臓は依然としてツキトの中で早鐘を打ち続けていた。志井の姿を認めた時よりは幾らか落ち着きを取り戻している気もするが、それでも彼の一言一言が、たった今自分が考えていた事を繰り返す志井の唇が、ツキトの中の何もかもを昂ぶらせていた。
「……お、俺も」
  本当はそんな事を話している場合ではない。それは分かっているのにツキトはゆっくりと声を出した。
「あの…俺もさ、さっきそう思ってたんだ」
「え?」
「これ…熊みたいだなって」
「本当か? はは…じゃあ、本当にそうなのかもな?」
  志井の嬉しそうな顔にツキトも途端ぱっと自然顔が明るくなり、気づくと必死に頷いていた。
「それに俺も、ここへ来るまでに見たやつは、悪いけどあんまりいいなって思ってなくて。あ、彫刻とか普段あんまり見てないから良い悪いなんて分からないけどさ。でも、第一印象で好きだなって思ったのはこれだけで」
「そうなのか」
「うん。それで、でも、これ何なのかよく分からなかったからさ。他に誰か来ないかなって思ってたんだ。これ見てどう思うか訊きたくて」
「そうか」
「うん」
  気づくとツキトは志井の顔ばかり見つめていた。志井もそんなツキトに目線をやってはいたが、ツキトの言葉からちらちらと隣の像へも注意を向けている。それがツキトには却って楽だった。志井に見つめられてばかりでは自分が志井を見つめられない。時折自分から意識を逸らすようにして違うものを見てくれる彼の姿が今のツキトには楽だったのだ。
  だからうようやく訊けた。
「志井さん、どうしてここにいるの」
  傘を差しているはずなのに、いつの間にか柄を握る手がじわりと濡れていた。きっとこの傘は雨漏りしているのだろう、そう思う事にした。
「偶然って言ったら――」
  志井の唇の動きがその時のツキトにはスローモーションに見えた。
「凄いよな?」
「え」
「そうしたら俺も運命ってやつを信じられるかもしれない」
  楽しげにそう言う志井にツキトは途惑いながら訊いた。
「偶然じゃないの…?」
「偶然じゃない」
  今は志井も真っ直ぐにツキトを見ていた。ただ、派手に心臓を鳴らし続けているツキトとは違い、志井はやはりとても落ち着いていた。そう見えるだけなのかもしれないが、少なくともツキトにはそう映った。
  それはどこか寂しくもあり、安心でもある。
「上月がな」
  はっとして顔を上げたツキトに志井は軽く肩を竦めた。
「あのお節介がここへ来いと言ったんだ。あいつちょっと頭おかしいだろ、ツキトも気をつけた方がいいぞ。俺にもそうだが、何かって言うと電話掛けてきたり、こうして無理にあちこち引っ張り回しちゃ煩く付きまとったりするだろ」
「え…」
  志井の言い様に何となく引っかかるものを感じ、ツキトは思わず黙り込んだ。
  ほんの数日前、上月は電話でツキトに「偶然志井を見かけた」と言い、「君が望むなら」今彼が何処にいるのか、その居場所を探してみるがと持ちかけてきた。
  しかしツキトはそれを断った。理由は上月に告げた通りだ。自分はまだ志井に見せられるような絵を描けていない、胸を張って会えるような段階にない。会う時はそれなりに満足のいく作品を描けてから…そう決めていたから。
  しかし今ここに志井がいるという事は、上月はツキトの言葉を無視して彼を探し出し、今日ここで二人が会うよう仕組んだという事になる。それ自体驚きではあるが、それにしてもあの電話から僅か数日だ。状況にもよるのだろうが、探偵というのは行方の分からなかった人間をこうもあっさりと見つけ出す事が出来るものなのだろうか。
「あの…上月さん、この間偶然志井さんを東京の焼き物展で見かけたって…」
「偶然?」
  恐る恐る言葉を切ったツキトに、志井は「それこそそんな偶然はないだろ」と、多少驚いたような顔をして首を振った。
「あいつに居場所を突き止められたのはもう半年以上も前の事だ。その展覧会にしたって、あいつが『知り合いがやっているから見に来い』って無理矢理チケット売りつけてきたのさ。…まあ、あれに関してだけは俺も行きたいと思ってたから別にいいんだけどな」
「え?」
  何気なく問い返したツキトに志井は途端破顔した。もう上月への不平を忘れてしまったかのような変わり身の早さだった。
「今な、趣味で色々作ってるんだ。コーヒーカップとか湯のみとか。まだこんな歪(いびつ)で簡単な形のものしか出来ないけど」
  傘を肩先と顎で挟んで両手を自由にすると、志井は小さな器を表すようにしてそう言った。何の事やら分からないという風にぽかんとするツキトに、志井は笑いながら「陶芸だよ」と付け足し、あのマンションを引いて改めて一人の生活に戻った時、そのあまりの膨大な時間に辟易して気紛れで始めたのだと告げた。
「志井さんが…?」
「暇潰しが陶芸ってのは、それこそ偶然決まったようなもんだけどな。偶々引っ越した先に陶器を作ってン十年ってオッサンがいて、まあ成り行きで。焼く時は埼玉の方にある別の窯まで行く事もあるんだが、それがまた息抜きになる」
「志井さんが…?」
「二回も言うなよ」
  そりゃ意外に思われるって分かっていたけどな……志井はそう言ってどこか照れたように笑い、それからまた改めて二人を見守るようにしてどっかと「座っている」黒い塊に目をやった。
「ガキの頃から《工作》だけは本当に駄目だと思っ……あぁいや、今でも思ってる。けど、やってみるとこれが案外楽しいんだ。それにそのせいか、こういう作品(モノ)も今までと違った風に見えるっていうかな。昔の俺だったらこいつを座った熊だなんて絶対思わなかったろうし、そもそもここまで歩いて来ないだろ」
「………」
「あっちにあったやつよりコイツがイイとも感じなかったんじゃないか」
「……そうなの?」
「たぶん」
  そう言いながら志井は「ところで、これ触っていいのか?」と呟きながらいきなりぺしりとその「熊」に自らの手のひらを当てた。ツキトはその所作に途端ぎょっとしたが、幸い作品の傍に「お触り禁止」の注意書きは見当たらなかった。
「………」
  そこでツキトは自分もそっとその熊の腕(らしい)部分に指先を当ててみた。
「触り心地良いね」
「そうだな」
  ツキトの何気ない感想に志井もすぐに同意した。
  そうやって二人は暫くの間、それは意味もなくぺたぺたと謎の熊に自分たちの指紋をつけまくった。その石の感触が良かったからというよりは、二人にとってはただそうして互いに同じ事をするという行為自体に意味があったのかもしれない。雨は相変わらずサーサーと降り続いていて、一向に止む気配がない。そのせいで「森の主」も今やその雨滴を身体いっぱい浴びているし、その主に触れている二人もまた同じように、傘からはみ出た腕の第一関節くらいまでがぐっしょりと濡れていた。
「このままここにいたら風邪引くな」
  やがて志井がそう言った。
「……そうだね」
  ツキトとしては雨に濡れる事など何という事もなかった。それどころかもう少しここにいたいと思っていた。あれほど自分の中で取り決めていた制約なのに、最初にその姿を見た時にはあれほど緊張して一歩も動けなかったのに。
  今はただ願っている。
  もう少しだけで良いから、志井と一緒にこうしていたい。
「あ、あのさ」
「ん…」
  先に像から離れた志井にツキトは気づくと口を開いていた。その声色にはあからさまに焦りが出ていたが、相手にどう思われるといった事は考えている余裕がなかった。
「志井さん…その、あの、あ、中の展示物は見た?」
「いや。今来たばかりだから」
「………」
「上月の奴が、ツキトが先にこっちを見て回ってると言うからすぐに追ってきたんだ。俺はお前の顔を見に来ただけだし」
「え」
「あいつに言われたくらいで…全く、意思が弱くて嫌になるけどな」
  少し困ったように志井はそう言って、けれどすぐに踵を返した。ツキトはぎょっとして反射的に自分もその背中を追って足を動かした。まさかもう行ってしまうのだろうか? そんな、そんなのは絶対に嫌だと、咄嗟に思った。上月が何をもって急にこんな事をしてきたのかは分からないし、それは本人に直接確かめてみなければならないが、それは今でなくとも良い。
  今はただ折角こうして志井と会えたのだから、あとほんの少しだけでもいい、あと10分でも5分でもいいから話をしていたいと思った。
  行って欲しくはなかった。
「志井さ――」
「ツキト」
  けれどツキトが背中へ呼びかけたのと同時、志井もぴたりと足を止めて声をあげた。
「ここを見た後…もし良かったら俺の作ったもの見に来るか」
「え?」
  振り返った志井はらしくもなく遠慮がちで、そしてツキトの返答に対して怯えているようでもあった。
  ツキトはそんな志井をまじまじと見つめながら、今言われた台詞の意味を必死に考えていた。
「志井さんの……って、その、陶器?」
「ああ」
「……いいの?」
  確認しながらも信じられない気持ちで、ツキトはごくりと喉を鳴らした。志井がそんな事を言うとは思いもしなかったし、そもそも彼は自分を置いてもう行ってしまうのだと思っていたからその嬉し過ぎる誘いにはすぐに思考がついていかなかった。
  けれど志井はそんなツキトに対し、もっと予想だにしなかった事を口にした。
「送っていくついでにしちゃ、ここからだとちょっと遠いけどな。でも飛ばせば往復でも少し遅い夕飯までには帰してやれるし」
「え?」
  状況を理解できずにぱちぱちと瞬きするツキトに志井は一人得心したようになって笑った。
「ああ、上月ならもういない。お前置いて帰った」
「え……ええ!?」
「無茶苦茶だろ? 今日の事だって、もし気まずくなるようだったら、お前にはタクシー代渡してすぐ逃げ帰ればいいだろなんて言って俺を焚き付けたんだ。……あいつ、お前には見せてないだろうけど、かなり強引な性格してる。善太郎といい勝負だ」
「……上月さんが」
「けど、それに乗ったのは俺自身だから」
  志井はきっぱりとそう言い切ってから改めてツキトを見やった。
  そして言った。
「行こう、ツキト」
「……!」
  それは極自然な口調で、ツキトを促すようにして再度前へ向き直った仕草も先刻感じた「一人で行ってしまう」というようなものではなかった。歩調もゆっくりで、後から来るツキトと距離が出来ないようにさり気なく気遣っているのが分かった。
「志井さ……」

  うん、行くよ。一緒にいたい。

  すぐにそう思ったが、一方で勿論迷いもあった。
  志井を裏切るような真似をして、あんな別れ方をして、それでも志井が夢を追えと後押ししてくれたから自分は今絵を描けている。右手も動くようになった。だから上月にも言ったように、志井に胸を張って「これだ」と誇れるような作品を上げるまでは会わないと、そうする事は許されないと自分自身で決めていた。その誓いがあったからこそ、ツキトはより一層がむしゃらに描く事ができたのだ。
  今その取り決めを破ってもいいのだろうか。
「ツキト?」
「あ…っ」
  けれど、ツキトはいよいよ足を止めてこちらを向いてくれた志井を見ると、もう「何でもない」と応えて傍へ駆け寄っていた。思うよりも前に足が勝手に動いたと言っても良い。
  今の志井をもっとたくさん知りたい。志井が作った器を見てみたい。志井自身、ここへ来るまでには随分躊躇いがあったようだが、それでも自分が作った作品を見に来るかと言ってくれた、その事がツキトには堪らないほど嬉しかった。
  だから。
  行こうと、そう言ってくれた志井の声がツキトの耳の中でまだ強く響き渡っていた。





  結局二人は美術館の中には入らなかった。
  志井がチケットを買おうとしたところを一瞬迷った末に止めたのはツキトだ。正直、他の事はもうどうでも良かった。館内を回っている時間が勿体無い、それよりも早く志井の作った物が見たかったし、今の志井の生活が見たかった。
  ただ、その本音を漏らすのはどことなく恥ずかしくて、ツキトはしどろもどろになりながら「行って帰ってくるのが時間的に厳しいなら急いだ方が良いし、ここは諦める」というような言い方をしてしまった。志井はそれにすぐ納得して頷き「ごめんな」と謝ったが、ツキトの方は車に乗り込むまで志井のその謝罪の意味も自分の失言についても全く気が回らなかった。
  気づいたのはシートベルトを締めたところで志井が「濡れたとこ拭けよ」とタオルを差し出してきてから後だ。
「志井さんもちゃんと拭かないと風邪…」
「俺はいい」
  タオルを返そうとしたツキトに志井はやんわりと断りを入れると、すぐにエンジンをかけ車を発進させた。どちらかといえば志井の方が濡れているのに、それにはまるで構った風もなく、どことなく急いでいる。
「あ…っ」
  そうして細い道沿いにどんどん速度を上げていく志井に、ツキトはようやっと先刻発した己のバカな発言に思い至った。志井はツキトが「帰りの時間」を気にしていると思ったのだ。確かにあまり遅くなるようだと典子も心配するし、太樹とて良い顔はしないだろう。けれどもこの時のツキトにとっては、帰宅時間も新しい美術館を堪能する事も全てがどうでも良かった。ただ志井の作ったという器が見たかっただけだ。
  けれど実際には、志井にその本音は告げていないわけで。

  あんな言い方じゃ……、まるで早く帰りたいみたいじゃないか……。

「ツキト。どうかしたか?」
「えっ?」
  あからさま肩を落として俯いたツキトに志井が声を掛けてきたのは山を下りきって国道に出てからだ。丁度通りの信号が赤になり、飛ばす事だけ考えていた志井もツキトへ意識を向ける余裕が出来たのだろう。沈んだようなツキトの顔にさっと表情を曇らせると「どうかしたか」ともう一度訊き、手元のタオルを目で追った。
「ちゃんと拭けって言っただろ?」
「ふ、拭いたよ!」
  ツキトは気遣わしげなそんな志井の視線から逃れたくて、慌てたように膝上に放置されていたタオルを持ち上げ、無理に腕を擦って見せた。
「も、もう乾いた!」
「ふっ…何だそりゃ。幾ら何でも適当過ぎるだろ」
「だってもう平気なんだ」
「そうか?」
「うん。志井さんも拭いてよ」
「俺はいいって」
  志井はあたふたとするツキトにようやく可笑しそうに目を細め、信号が青になるのを確認すると再びアクセルを強く踏みしめ車を走らせ始めた。ツキトが無理をしているというのは恐らく感じ取っていただろうが、志井はそれきり何も発しようとはしなかった。
「………」
  だからツキトももう何も言えなかった。訂正したり言い訳したり、とにかく本心では色々言いたかったのだが、バカな口はそれきりどうしても動かなかった。
  結局一年の距離というのはそう簡単に埋められるものではないらしい。
  目的地に着くまで車内の殆どは気休めに流れるラジオの音だけに支配された。





「あれ、鍵開いてる。今日は休みのはずなのにな」
  高速に乗ってきたお陰だろうか、2時間もしないうちに二人は都内の割に緑深いその町に辿り着く事が出来た。まだ昼食は取っていなかったが、それよりもやはりツキトは早く志井の作ったカップだの椀だのが見たくて、途中何処かへ寄るかと訊いた志井に首を振った。これも直後に「自分は良くても志井はどうなのだ」と気づいて青くなったのだが、これには志井が素早く気づいて「俺もそんな腹減ってないし」とフォローしてくれた。
  そんな自己嫌悪に塗れているツキトをよそに、先に車を降りた志井は慣れたようにその目的の敷地へと足を踏み入れていった。
「こんちは」
  古びたガラス戸をガラガラと荒っぽい音と共に開き、気さくに挨拶する志井。それでツキトも慌てて車を降りたが、足は思わずその場で止まった。目の前に現れた木造家屋は東京では今時珍しい古風な平屋で、トタン板で継ぎ足しされたボロボロの屋根には緑だの赤だのの派手なペンキが乱雑に塗られていた。
  そうして灰色のブロック塀で囲まれたその平屋の周りには、これでもかという程の雑草が青々と茂っていた。一体いつから手入れする事を放棄したのだろうか。花の植わっていないプランターや植木鉢もそこら中に転がっていて、一見して人のいない空き家にも思えた。
「ツキト?」
「あっ…」
  中から志井が呼ぶ声が聞こえて、ツキトはすぐに「今行く」と返した。開かれたままの引き戸を更にこじ開け中へ飛び込むと、途端すうっと外とは違う空気になったのが分かった。
「――…」
  広い作業場だ。土をこねる為に設置されているのだろう、長方形の机が幾十にも並んでいる。その四方には土練機や木造の棚があって、その棚の方には、恐らくここへ通っている人たちが作った物だろう、様々な陶器が所狭しと並べられていた。それはほぼ完成しているものもあれば作りかけて形になっていないものもある。また、先刻見た屋根を塗ったペンキや、その他絵付けの小道具、粘土、粘土用小道具、彫塑べらなどもほぼ無秩序に置かれていた。
  それらをぐるりと見回して、ツキトは暫しその場で放心した。
  異界に来たという気持ちがあったからというのあるが、ここが明らかに清浄な場所だと感じたから、そこに身を委ねている事がひどく心地良かった。
「ツキト」
「…!」
  気づくと志井がすぐ目の前にいて、どこか困ったような顔をして笑っていた。ツキトはそんな志井を見て今度はすぐに「ごめんっ」と謝ったのだが、それに対して志井はますます困惑したように「何で謝るんだよ」とおもむろにツキトの髪の毛をぐしゃりと掻き混ぜた。
「……っ」
  それにツキトは瞬時赤面してしまったが、それは自分では分からなかった。
「ツキト。このオッサン、俺の師匠」
「え…あ…」
  そうして不意に促された先、ツキトがはっとして前を向くと、そこにはまたいつの間に現れたのか―否、単にツキトが気づいていなかっただけなのだが―傍には背中を丸めた中年男性がいかめしい顔をして立っていた。灰色のワイシャツを肘までまくり、黒い長靴を履いている。全体的に筋肉質で、その身長の割には力持ちなのだろう印象を受けた。ぼさぼさの髪の毛は多少白髪が混じっていたが、赤みがかかった顔はそれほどの年を感じさせない。40代からその後半だろうと思った。
  そして、そんな迫力ある相手から発せられた第一声にツキトは唖然とした。
「金づるか?」
「………え?」
「バカ、違ェよ」
  口を半開きにさせたままフリーズするツキトに変わって志井が唇の端を上げてすぐさま否定した。志井の師匠なる男はそれを聞くと微かに「ちっ」と舌打ちした後、もう興味を失くしたようになって背を向けてしまった。
「あ、あの…?」
「ああいい、気にしなくて。ツキトのこと、陶芸習いに来た生徒かと思ったんだ」
「え?」
「見たら分かるだろ? ここ、あのオッサンの作業場だけど、結構習いに来る奴多いから。本人はやるつもりなかったらしいけど、知らない間に教室になった」
「そ、そうなんだ」
  それでも「師匠」を何か怒らせたのではとツキトがその去っていく背中を追っていくとそれはそのまま更に奥の作業場へと消えて行った。ガラス戸越しにまだ影だけは見る事ができたが、近くにある椅子にでも腰をおろしたのか、やがてその気配も消えた。
「ツキト、こっち」
「あ」
  そうこうしているうちに志井はもう部屋の角にある棚の方へ移動していて、ツキトも慌てて後を追った。志井はそこに並んでいる陶器の中から小振りの、まだ焼かれていない灰色の器を両手で取り出し、それをそのままツキトの前に差し出した。
「あ、これ?」
「凄い不恰好だろ?」
「そ、そんな事ない!」
  ツキトはすぐに否定して、志井に目で確認を取った後、自分がその器を手に取った。
  手の中にすっぽりと馴染んだそれは品の良い形をしており、更に一本の細い線がアクセントとしてぐるりと円を描くように彫られていた。
「湯のみ茶碗! カッコイイね!」
「カッコイイ?」
「うんっ。何だよ志井さん、凄い謙遜…! 凄いよこんなの作れるなんてさ…! これ、いつ焼くの? もう乾いてるみたいだし、もうすぐ焼くんだよね? どんな色つくんだろう、色でまた印象も変わると思うけど、きっといい感じになるね、それも見てみたいな…っ」
「確かに焼くとまた思っていた色になったりならなかったりで、それも面白いんだよな。まあこんなシンプルなデザインじゃ、どんなになってもそんな支障はないと思ってるけど」
「きっと凄く良い物が出来るよ!」
  しきりに絶賛するツキトに志井は思いきり苦笑して、他所を向いた。
「さっきのオヤジは、俺のこういうの見て『守りにばっか入りやがって』って文句言うけど」
「え?」
「全然誉めてくれねえの」
  それでも志井はどこか楽しそうな顔をして、ツキトから器を受け取るとそれをまた元の場所へそっと戻した。それから「これは15歳の中学生が作った皿」だとか、「これはギャンブルにハマって女房に愛想つかされたオッサンが泣きながら作ったツボ」だとか、他の講習生の物までいちいち説明し始めた。
  ツキトはそれをどこか不思議な気持ちで眺めやった。以前の志井とは明らかに違う。こんな風に穏やかに他人の話をする人ではなかった。こんな風に物に対して愛着を感じさせる目を向ける人ではなかった。自分を愛してくれた志井だけれど、その目はいつも切羽詰まっていたし、それにどこか怖かった。けれど今の志井はその荒んだ部分がすっかり削げ落ちたような雰囲気で、ただ静かに優しくそこにいる。
「色んな奴が色んな想いで作るんだよな、物って」
  やがて志井はずらりと並ぶ器を見ながらそう言った。
「無理矢理でも何でもいい。……俺はお前みたいに熱中できる何かを見つけたかったんだ」
  ツキトが驚いて目を見張るのに構わず志井は続けた。
「その中でも何か……とにかく物、だな。俺は何か形に残るもんを作りたかったんだ。これを始めた事自体は本当に偶然で、この辺りに越してきてすぐ、さっきのオヤジがタダでロクロ使わせてやるなんて言ってな。はっ…あのオヤジ、俺が死にそうな顔してるからだって言いやがった。けどまあ…それで俺も勢いで始めた。それだけなんだけどな」
「それだけって…でも」
  必死に口を継ごうとしたツキトを、しかし志井は片手を出して止めた。顔は笑っていたが、その目の奥は真剣な光を帯びていた。
「無理矢理なんだから最初はやっぱり何て事なかったし、楽しいと感じるようになったのだって実は最近だ。……けど俺は――…お前を理解したかったんだ」
「え……」
  志井の言葉にツキトが微かに声を漏らすと、志井はまた小さく笑った。それは処世術のような反射的に出す笑みに近かった。
  それでもその笑みと共に志井はツキトに言った。
「そうする事で、俺は自分も好きになりたかった。自信がなくてお前の言う事いちいち卑屈に取って、ごちゃごちゃ言ってる過去の自分に猛烈にむかついてたから」
「志井さん…?」
「まあ、それは今も続行中で…別段一年やそこらで何がどう変わったってわけでもないけどな」
「………」
「ここには作りかけのさっきのしかないんだ。オヤジも何か作ってるみたいだし、もう行くか」
  物言いたげな顔をするツキトを無視し、志井は誤魔化すような笑いと共にそう言うと先を歩き始めた。誰もいない広い作業場でどんどん遠ざかっていく志井は先刻あの像から離れて背中を向けた時の志井と重なり、ツキトを急激に不安にさせた。何という事もない、師匠の邪魔になるからもう出ようと言われただけなのに。
  「過去の志井」とやらがいつの時のものを指すのかは、ツキトにもよく分かった。あの山荘で最後に話をした時、好きだと訴えたツキトを志井は自ら「錯覚だ」と突っぱね否定した。志井は自分が何故ツキトに好かれるのかその理由が分からないと言い、自分はツキトの兄である太樹のコピーなのだと決め付けた。ツキトはツキトで、志井にそう言われた事に悲しみや怒りを覚えても、そう思わせた原因が自分自身にあると思っていた為どうする事も出来なかった。
  どちらも「自分のせいだ」と思っていたから別れた。こんな風になってしまったのは、「どうしようもない自分のせい」なのだと。

  志井はそんな己を変えようとしていたのだ。
  この会えないでいた僅かの間に。

「……っ。志井さん…!」
  ツキトはようやっと声を上げてそんな志井を呼び止めた。先に行かないで欲しい。自分と同じ目線で物を作りたいと欲した志井が、やはりどこかで自分を避けて遠慮しているのではないか、そう思うと堪らなかったから。
「待って…」
  だから精一杯の気持ちを込めてそう言った。これも気づくとそう発していたと言った方が正しいが。
「どうした?」
  すると志井は驚いたように振り返り、そんな悲愴な顔をしているツキトにすぐまた「行くぞ」と笑いかけた。
「え?」
  眉をひそめるツキトに志井は「飯」と短く答えた。
「腹減っただろ。どこか途中で飯食って…そしたら送ってく。早く帰らないとな、渋滞の時間に巻き込まれると厄介だから」
「え……」

  今来たばかりなのに?

「し、志井さん…俺…」
「車、あそこに路駐してるのも実はヤバイんだよな。道狭いからさ」
「あ…っ」
  けれど志井はそれだけを言い残すと遂に外へ出て行ってしまった。ツキトはその場に取り残されたまま半ば唖然として暫し立ち尽くした。志井の作品をまだまだ見たい、それこそ完成したものがあるならそれが見たい。
  それが志井の今の新居にあるのならそこへ行きたい。
(でもやっぱり…志井さん、俺の言った事を気にして早く帰そうとしているんだ…)
  ツキトはほんの少し前の自身を思い切り罵倒したい気持ちに囚われながら、同時にひどく居た堪れない思いを抱いて唇を噛んだ。
  どうしようもない焦燥が胸の中をぐるぐると激しく駆け回っていた。
  右手の甲にもずくんとした痛みが走った。



To be continued…




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