あの窓を開けたら
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―23― 志井はツキトを自分がよく行くという小さな洋食屋へ連れて行った。国道の外れにひっそりと建っているそこは二階建ての一般木造家屋を改装しただけのこじんまりとしたもので、玉砂利の敷かれた駐車スペースも普通車2台程度しか停められない。 「わ…」 けれどその敷地内をぐるりと取り囲むオリーブの木や、その傍に所狭しと並べられたプランターから咲き誇る花々は車から降りたツキトの目をいっぺんに楽しませた。扉の前に置かれている黒板にも本日のお勧めメニューがカラフルなイラストつきで描かれており、家庭的な雰囲気を感じさせる。 「何か…ここだけメルヘンの世界って感じ」 「そうだろ。可愛いだろ」 「…え?」 しみじみと同意して見せる志井にツキトは驚いたように目を見開いた。自分から振っておいて何だが、志井が「メルヘン」と言う感想に対して頷き、「可愛いだろう」などという返答を寄越すとは思ってもみなかったのだ。 (思えば…何か、志井さんが行くようなイメージのお店じゃないし) 「ツキト?」 「あっ…」 足を止め、改めて店の外観を見上げるツキトに、先に扉を開けて中へ入っていた志井が不思議そうに振り返った。 「何でもないっ」 それでツキトも慌てて緩いスロープの入口を駆け上がり、後へ続いた。 昼も大分過ぎた時間だからだろうか、店内には誰一人いなかった。 それどころか店員の姿もない。 「お店、やってるの?」 「やってるやってる、いつもこうだ。そこ、座ってろ」 「う、うん」 志井は慣れたように答えるとツキトに窓際のテーブル席を指し示し、自分はカウンター横の扉を開けて店の奥へ入って行ってしまった。 「………」 一人ぽつねんとその場に取り残されたツキトは、仕方なく志井に言われた席へ向かい、すとんとそこの椅子に腰を下ろした。店の外観がメルヘンなら内部も大分凝っている。スペース自体はやはり然程広くもないが、色調のやさしい洒落た木造りのテーブルとチェア、壁には犬や猫が遊ぶ温かみのある水彩画が小さな額縁に入れられ等間隔に飾られている。カウンター奥の戸棚には赤、青、黄といった原色の皿が綺麗にずらりと並べられていて、その上下にも様々な形のコーヒーカップが置かれている。それらを眺めているだけでも十分に楽しい。 「……ん」 思ったより高い天井には大きなシーリングファンがくるくると涼しげに回っていた。それと同時に、どこからかチリンチリンと鈴のような軽い音が微かに聞こえてくる。窓から差し込む陽だまりも心地良く、何だかこのままうっかり眠ってしまいそうだと思った。 「すみませーん、お待たせしました!」 「あ…」 けれどその時、とびきり明るい声が自分に向かって掛けられたのが分かって、ツキトはハッとし店内へと意識を戻した。見ると志井の隣にブルーのエプロンをつけた女性がニコニコしながら立っていて、ツキトと目があうと手にしたメニューを片手にさっと傍に近づいてきた。 「いらっしゃいませ! しーちゃんのお友達ですって? よろしくね!」 「は、はい…?」 返事なんだか聞き返しているんだか分からない曖昧な反応で、ツキトは途惑いつつこの店の主らしき女性を見やった。 白いTシャツに黒っぽいジーンズをすらりと履きこなした店主はとても細身だが、一見して男性に見えなくもなかった。その野太い声とボーイッシュな外見だけでなく、ツキトにメニューをにゅっと差し出したその腕が筋肉の塊という感じで、田中のように何か特別なスポーツをやっているのではと思わせた。髪の毛を短く刈ったような頭には紺色のバンダナが巻かれている。洋食屋の女店主というよりは勇ましい戦士のようだった。 「客が来た事に気づかないなんてやる気ない店だろ?」 志井がツキトの前の席に腰を下ろして楽しそうに言った。 「貯金はたいて店始めたはいいものの、全然流行らないし決まった客しか来ないから、いつも奥でいじけてんだ。だから呼ばないと出てこない」 「煩いなあ。だからどんどん宣伝してって言ってるんでしょ! どうもうちの常連は友達少ない奴が多いから広報部隊として今イチ役に立たんのよね」 「あの…しーちゃんって…」 ツキトが引きつりながら訊くと元気な女性店主は「ん?」と首をかしげてから志井を指差した。 「あ、普段はしーちゃんって呼ばれてないのかな? ああ、そうだよねえ、ハハハハ! こんな可愛げのない人にちゃん付けはないよねえ。お客さんはこの人のこといつも何て呼んでるの? っていうか、しーちゃんとはどういうお友達なのかな? いいの? この人のお友達なんてやっちゃって?」 「ったく、黙れよ」 俺たちは飯を食いに来たんだよ……と、志井は別段気分を害した風でもない様子でそう文句を言った。女性店主とは随分親しい間柄のようだ。以前の志井ならよく行く馴染みの店はあっても、こんな風に店員と特別仲良くなって話したり、ましてや「ちゃん付け」など許すはずもない。 ツキトは渡されたメニューを何となく手に取りながら、それでも落ち着かない気分で志井と横に立つ女店主とをちろちろと交互に見つめやった。 「ツキト、何にする?」 「ツキト君って言うの? 何か、ツイてそうな名前だねえ!」 「だから煩いって」 いちいち茶々を入れようとする店主を諌めて、志井はもう一度ツキトに優しげな視線を向けた。ツキトはそんな志井にまた途惑った風になりながら、メニューも開かずオドオドと答えた。 「あの、俺は何でも…。志井さんと同じもので」 「ん…そうか? じゃ、同じもの」 志井がそう言いながら閉じたままのメニューを店主に返すと、それを受け取った彼女は今まででとびきり嬉しそうな顔になって威勢良く言った。 「はいっ。それじゃあ、特性オムライスのセットをお2つって事で!」 「ええっ!?」 「わっ!」 突然発せられたツキトの大声に、カウンターへ戻りかけた女性店主もひどく驚き、自分も大きな声を上げた。 「あ…っ」 ツキトはそれでハッとしたようになって口を押さえたのだが、女性店主の方は「ど、どうしたの?」と多少どもって振り返った。ツキトは必死に「何でもありませんっ」と言って首を横に振ったが、店主が尚も苦笑したようになりながら自分を見つめるのにはただ恥ずかしい思いがしてずっと俯いてしまった。 だって驚いたのだ。オムライスだなんて。 「ツキトのそういうところ」 すると店主が調理を開始したあたりになって志井が声を出した。 「久しぶりに見た」 「……え」 思わず弾かれたように顔を上げると、ツキトのその前には微笑ましいものを見るような顔で目を細めている志井の姿があった。途端、今の恥ずかしさが舞い戻ってきたようになってツキトは再度下を向いたが、ドキドキした鼓動そのままに頭に浮かんだ思いは口にした。 「だ、だってさ…。志井さんがオムライスなんてさ…」 「俺だってオムライスぐらい食べるぞ。前だって食べてたじゃないか」 「そうだっけ…? でも志井さんが…」 「お前、それ今日何度目だ?」 志井が笑いながら非難めいた口調を発すると、ツキトも咄嗟に不満気な顔で唇を尖らせた。 「そんなに言ってないよ」 「言われた」 「言ってないっ」 意地になって言い返した後、ツキトはややあってから焦った風にまた下を向いた。何をムキになってこんな事を言っているのか。以前の志井と比べて変わったとか意外に思うとか、そんな事くらいは口にしたって別に構わないだろうし、志井とて本気で怒っているわけではない。それに、志井が好きな物を見つけようと陶芸を始めたり、屈託なく喋れる店主のいる洋食屋でオムライスを食べる事それ自体とて、何も悪い事ではないではないか。むしろそんな風に変わっていく志井を自分とてさっきまでは凄い事だと、半ば尊敬するような思いで見ていたはずだ。 それなのに何だろう。何だか胸の奥がじりじりした。 「ツキト?」 様子のおかしいツキトに志井が声を掛けてきた。それでツキトも慌てて首を振り、俯いたままだったが何とか声を出した。 「あ、あのさ…。ここ、よく来るんだ?」 視界の隅に、あの女性店主が忙しなく動いているのが映った。それを気にしながらツキトは志井の返答を待った。 すると志井はあっさりと頷いてから答えた。 「あの人、さっきの陶芸オヤジの奥さん」 「………え?」 「笑えるだろ? けど一見凄い年齢差に見えて、実はあの二人同い年なんだぜ? それ初めて知った時かなり笑った」 「………奥さん?」 「でもあれはちょっと若作り過ぎだよな? オヤジはオヤジで実年齢より老け過ぎだけど」 「………」 呆気に取られてツキトは改めて志井を見やり、それからカウンター内で楽しそうに手を動かしている女店主へ視線をやった。どう見ても志井と同じくらいか、そうでなくとも三十代前半に見える。先刻ちらっと顔をあわせた陶芸教室の「師匠」はそれよりうんと年上に見えたから、確かにそんな二人が同じ年だなんて、ちょっと聞いただけではすぐに信じる事は難しかった。 しかし今はそんな事、大した問題ではない。 「……奥さん」 もう一度呟いて、途端ツキトは顔から火が出る想いがした。 一体今自分は何を考えていたのだろう。何を考えて、そしてあんなにも胸を痛めていたのだろう。 志井とここの女店主が恋人同士かもしれないと思った。思って、何だかどうしようもなく苦しいと感じたのだ。 そして嫌だ、と思った。 「あそこって本当変な所でさ」 そんなツキトの様子に気づく事なく志井は一人で話し続けた。 「オヤジの工房に通う奴らって俺みたいな捻くれ者が多いんだよ。ほら、ギャンブルで女房に愛想尽かされた男の壷とかあっただろ? あんなのばっかりだぜ。中学生だって、学校行かないであそこ来てたりな。で、あの奥さんも実はその口だったらしい」 「え?」 言われてツキトはもう視線を上げてカウンターの方へ目をやった。鼻歌交じりでフライパンを動かしている快活な女性店主が視界に入る。 「今はもうあんな元気だけどな。それでオヤジと同じ事しようとしてるし」 「同じこと?」 「他人の居場所作り」 何でもない事のように志井はそう言って、少しだけ困ったような顔を見せた。ツキトの反応が鈍かったからというのもあるだろうが、こんな話をするのはやはり自分らしくないと思ったのか。 「それで」 ふっと口調を変えると志井は改めてツキトをじっと見やった。 「ツキトは?」 「え…?」 問われた事の意味が分からずぱちぱちと瞬きするツキトに、志井はその場合わせのような無理な笑みを向けた。 「今、どうしてる」 「………」 「何か…俺ばっかり話しちまったから」 「あ…」 すぐに首を左右に振ったツキトは、動きを止めた後、もう一度激しくかぶりを振った。志井の話が聞きたいと思っていたのは自分で、本当ならもっと話していて欲しいくらいだった。自分は何も代わり映えせず、ただ絵を描いてバイトをして…そんな事の繰り返しだ。絵にしても思うようなものが描けず、兄の太樹にはバカにされ通しだし、大学でも学友から適当に頼まれ事をする以外では目立った交流もない。サトミは気にしてよく声を掛けてくれるが、そんな彼女でさえツキトに対する絵の評価は厳しい。 語れるような事が何もない。 「上月から聞いた。右手、今痛めてるんだろ?」 そんなツキトに志井は心配そうにそう声を掛け、テーブル下に隠れているツキトの右手を透かし見るように視線を落とした。 「無理してるって聞いた。……大丈夫か?」 「お、俺は、全然」 うまく言葉が出てこない。ツキトはまた力なく首を振った。膝の上に置かれた右手首を反対の手でぎゅっと掴む。痛くなどない。今のこの恵まれた環境を考えれば、立ち止まっている暇など自分にはないのだから。 「前は模写とかよくやってたけど、今は学校の課題以外は自分の好きな物描いてる。家で…」 「そうか。どんなの?」 「え……と。家とか、お城とか。森とか、湖とか」 「へえ…」 真面目に耳を傾けてくれている志井にツキトは何故か逸った思いがして、焦ったように口を継いだ。語れるような事などないと思いつつ、気づけば声を出していた。 「でも全然駄目だよ。大学でも誉められた試しないし、俺より巧い人なんて同じ学部だけでも凄くいっぱいいるしね。お前にはオリジナリティってものがないって。つまんないものばっかり描くって」 「大学の教師ってそんな酷い事言うのか?」 「あ…」 志井の驚いたような顔にツキトも慌てて首を振ると「違う」と言葉足りない自分に舌をもつれさせた。 「それ言ったのは兄さん…」 「………」 志井は無難な笑顔を湛えたままだったが、明らかにツキトのその発言で口篭った。ツキトもそれでハッとして、思わず口にしてしまった「兄」という単語に途端狼狽した。 「あの…俺…」 「兄貴」 けれど志井はそんなツキトに言わせまいとして自分が先に口を開いた。 「ちゃんとお前の絵、見てくれてるんだな」 「え…」 「良かったじゃないか。憎まれ口でも何でも。お前が描く事、許してくれてるんだろ」 「う、うん……」 「なら良かった」 「………」 淡々としている志井にツキトは上目遣いでその様子を眺めながら、一体どこまで訊いて良いのだろうと暫し逡巡した。 上月は半年以上も前から既に志井とコンタクトを取って、それなりに親しく付き合っていたようだ。ならば自分のこれまでの様子も志井は上月を通し多少なりとも知っていたという事になる。たとえ志井がそれを望まなくとも、上月の事だから率先して話していた可能性は高い。否、志井が全く望まなかったという事もないだろう。腱鞘炎の事も知って心配してくれた。今日とて、会いに来てくれた。 志井は自分の事を気にしてくれていたのだ。 「……あの」 しかし、兄との事はどうだろう。どういう風に思っているのだろう。 「志井さん…」 ツキトにはそれがとても気になった。姉の陽子が家を出てから、もともと両親が不在がちのあの家では、ツキトは兄の太樹と二人暮らしをしているようなものだった。典子がいると言っても所詮夜は二人きりだし、実際大学に進学してからは仕事から帰宅した太樹と向かい合って対話する機会も増えた。太樹は相変わらず自分の意に反して絵に没頭するツキトには厳しいしどこか余所余所しい面もあるけれど、それでも以前のようにツキトの体調やその他生活全般に関して心配してくれるところは変わりない。 そんな太樹をツキトもやはり好きだと思っている。 「どうした?」 「あ……」 不思議そうに首をかしげる志井にツキトは困惑したように言い淀んだ。何をどう話せば良いか分からなかった。 太樹が好きだ。けれどそれは志井を想う気持ちとは違う。それは既に一年前のあの時から…兄に組み伏せられる直前に気づいたあの時からツキトの中で明確に打ち出されている答えだった。けれど実際にあんな―兄を己の身体で受け入れた―事実があり、志井を傷つけた自分が今さら何をどう言うつもりなのか。兄とは一緒に暮らしているけれど、あれきり何もないんだ、今は前のように普通の兄弟みたいに過ごしてるよ…そんな事を今さら話したところで何がどうなるわけでもない。 大体、「今は普通」なんて。起こった出来事は掻き消せない。 「な…何でもないよ」 ツキトはぼそぼそと答えてぎゅっと拳を握った。 志井にしてみればツキトが自分と別れ兄の太樹と共にいる。それが全てで、実際二人は別れたのだから、何をどう言っても何も変わりはしない。 「お待たせしましたー!」 けれど一瞬気まずい空気が流れたと思ったその時、タイミング良くそれはやってきた。 器用な手つきで片手にそれぞれ大きなトレイを持った店主は、それをとんとんと志井とツキトの前へ置くと、ひどく満足気な顔で鼻を鳴らした。 「今日は特にうまくいったあ。見て、このふわふわ! 私が食べたいよ!」 「食べるなよ」 志井がすかさず突っ込みを入れたが、ツキトはそんな二人よりも真っ先に目に飛び込んできた料理に思わず目が釘付けになった。 「綺麗!」 店主の言う通り、柔らかそうな色良い卵がライスをすっぽり包み込むようにしてドーム状に膨らんでいる。その中央には名前の知れぬオレンジの花びらが飾られ、周りはグリーンピースとコーンで交互に縁取られていた。透明のガラス皿に盛られた色とりどりの生野菜も見た目に美しく食欲をそそる。 「ケチャップとドレッシングはお好みで好きなだけ掛けていいよ。野菜の半分は裏の菜園で採ったばかりのやつだから、毛虫とかついてたらごめんねえ」 「え?」 「冗談よ」 うちで採った野菜というのは本当だけどと付け足して、快活過ぎる女店主はからからと実に気持ち良さそうに笑った。そうして未だ嬉しそうに自分の作ったものを眺めるだけのツキトに「早く食べてみて」と催促した後、ふとついでのように口を継いだ。 「ああ、そういえば。そっちのポタージュの器はねえ。しーちゃんが作ったやつだから」 「えっ…」 「言うの遅い」 意地が悪いぞと不平を言う志井に女店主は「素で忘れてたんだよ」と苦笑してから腰に手を当てた。そうしてツキトが驚いてその器へ目をやるのを見届けながら、彼女はわざとらしいため息をついた。 「初めてのお客さんだから、うちとしては絶対逃したくないわけで。本当はこのお皿とセットに出してるいつものちゃんとしたやつを使いたかったのにねえ。しーちゃんがどうしても見せたいから使えって言うの。ねえ? こんなへったくそなスープボウルだか何だか分からんものをさあ、よくもまあ恥ずかしげもなく…」 「下手じゃないです!」 「うおっと」 思わず怒鳴ったツキトに女店主は驚いたようにびくっとして仰け反った。 「あっ…す、すみません!」 それでツキトも慌てて頭を下げたのだが、それでもちらちらと向ける視線の先はやはり志井が作ったという器だった。あの工房では完成したものがなかったからそれを見たいと思っていたけれど、まさかこんな形でいきなり披露してもらうとは思いもよらなかった。両側に取っ手のついた灰褐色の和風陶器。その陶土の地肌にはやはり工房で見た湯のみのように白い線が縁取られていたが、それが焼き色と合わさって良いアクセントになっている。 「……志井さん、凄いよ。俺、これ好き」 魅入ってしまう。穴が開くほど眺めるとはこういう事か。 「イイコだねえ」 「そうだろ」 するとしみじみと呟いたような店主に志井が誇らしげに応えるのが聞こえた。 「え?」 ツキトが驚いて顔を上げると、女店主は腕を組んだ格好で何やら納得したようにうんうんと頷いていた。ツキトはそれに不審の声をあげようとしたが、志井に追い払われるように片手を振られた事もあって、彼女は「ごゆっくり」という言葉と共に席を離れて行ってしまった。 「ツキト。腹減っただろ? 食べよう」 「あ…うん」 それに何か引っかかるものを残しながらも、志井に急かされてツキトは慌ててスプーンを取り上げた。未だ志井の器を眺めていたかったがさすがに少し空腹を覚えていたし、目の前のオムライスは本当に美味しそうだった。それに、志井が作った器でスープを飲むのも素敵だと思った。 暫くの間ツキトは約一年ぶりの志井と二人だけの食事を楽しんだ。時折志井が陶芸の師匠と、今はカウンターで雑誌を読み始めている女店主との馴れ初めを面白おかしく話してくれて、それがまた可笑しかった。必要以上に頷いたり時には声を立てて笑ったり。ぽかぽかと差し込む暖かい日差しの中で、それはまるで夢のような時間だった。振り返ると、志井とあのマンションで生活していた頃とて、こんなにも笑い合った事はないのではないか、そう思った。志井は食の細いツキトを何とか食べさせようと必死だったし、同じくツキトもそれに応えなければと必死だった。それに志井はツキトが外へ出る事を嫌がっていたから外食も極力しなかったし、ツキト自身、あまり志井以外の人間がいる所へ行く事を好まなかった。閉塞されたその空間ではお互いの存在しかなく、それはそれで静かで幸せだとツキトは思っていたけれど、その生活で右手が機能するようにならなかったのも事実だ。 「ツキト」 やがて食事が終わりに差しかかろうという時、ふっと志井が今までと口調を変えてツキトを呼んだ。 「え?」 その変化に逸早く気づいたツキトがスプーンを持つ手を下げて視線をやると、志井はまた、あの工房で見せたような少しだけ困ったような笑顔を閃かせた。 そして言った。 「今日は突然会いに来てごめんな」 「そ…そんなこと」 「どうしてもお前にこれを見せたくて、な」 「あ……」 志井が指し示した先にはツキトが片手を添えていたスープの器があった。気づくとつい手で触れていた。工房で見た湯のみも良かったけれど、完成されたこれを手にしていると、より一層志井の今の生活に近づけたような気持ちになれたから。 「俺……嬉しかった」 だからツキトはその思いを素直に口にした。ぐっと握ったスプーンの柄から不意にまた右手にぴしりとした痛みが走った気もしたが、ツキトはそれをいつものようにさっと無視した。 そうして誤魔化すように「美味しいね」と言って再び食事の動きを再開させた。 車の中でさんざん口を開いたり閉じたりしながらツキトがようやく志井に言葉を出せたのは、日も暮れた薄闇の中でいよいよ見慣れた風景が目に飛び込んできてからだった。 「俺…志井さんと比べて全然駄目で」 すうと息を吐いた後、ツキトは隣でハンドルを握る志井の横顔をじっと見つめた。 「俺、まだ志井さんに見せられるような物全然描けてないんだ…。量だけはバカみたいに描いてるって言われるけど…何か、あんまり納得いってなくて」 「俺と比べても意味ないだろ」 志井は軽く笑った後、ちらとだけツキトを見やった。 「俺とツキトじゃ目指してるところが全然違う。レベルが違うだろ。俺みたいに何か一個完成させられたら大満足ってわけにはいかないんだからな」 「そんなの…。志井さんのは凄かったよ」 「まあ? そうやって誉めてもらう為に見せたんだけどな?」 しゅんとするツキトに反して、志井はふざけたようにそう返し笑った。それでツキトも反射的に少しだけ微笑み返したのだが、それでも気分はまた暗くなった。 車ももうすぐ家に辿り着く。 「本当だよ。志井さんはやっぱり何でも出来る凄い人だよ。本当、そう思った」 「もうそのへんでいいぞ?」 「俺、自分が絵を描く上で表現したい、相手に伝えたいと思ってるものって、いつも同じもののような気がしてるんだ。何を描いていてもこれだけは出したいってものはさ、いつも同じ。でも…こんな言い方、可笑しいと思うかもしれないけど…その出したい何かってやつが実は描いてる途中でよく分からなくなる。何か…分かってたはずなのに、段々見えなくなってきて…。描きあがったもの見ても、やっぱりそれは出てないし」 「……それって自分の中にあるテーマみたいなものか?」 「うん…。うまく言えないけど…あったかみっていうか」 「温かみ?」 「うん…。俺の絵を見た人がほっとしたり優しい気持ちになったりして欲しい」 「何だ。ちゃんと分かってるじゃないか」 「うん…でも…」 それでも描きあがるとそれはやはり出ていないと思うし、実際に上がった作品を見ていると、本当に自分はそういう願いを込めて描いていたのか疑わしくなるのだ。 つまりは、ツキトは自分の描いたものに全く満足していないという事なのだが。 「……志井さんに、俺、あの時言ったよね」 ツキトは志井から視線を逸らし、言った。 「いつか描いた絵を見て欲しいって。見せに行くからって。でも…駄目なんだ。まだ全然…そういうの、出来ないし。一生出来ないかもしれない」 「………」 「それが出来るまで志井さんとは会わないし会えないって思ってたから、今日もこうやって話していていいのかなって思ってた。あ、はじめの方だけだけど。……俺、勝手だから。今日志井さんとこうして会えたらそんな誓いすぐ破っちゃって。……嬉しかったんだ。話せたこと」 そうしてツキトが話し終わるのと同時、通りの角を曲がったところで徐々にスピードの落ちていた車は遂にゆっくりとその場に停車した。ツキトの自宅の前だ。広い邸宅の敷地をぐるりと囲む高い石塀は夜の闇をより一層濃いものにしていたが、表門の前に停まった車は傍の外灯に照らされているせいか視界が危いという事はなかった。 「………ツキト。俺もだ」 やがてキーを回しエンジンをも止めた志井がそう言った。ツキトの方は見ず、ただじっと前方だけを眺めている状態で。 「俺も今日はお前と話せて楽しかった」 「………」 「上月からお前の大学生活のこと、少しだけ聞いてた。聞く度、お前が一生懸命頑張ってるって分かって、余計会いに行くのはやめようと思ってた。……本当はちょっと心配だったけどな。お前、無茶してるんじゃないかって」 「志井さん…」 呼ぶと志井はやっと視線をツキトに向けた。やはりあの笑顔は変わらない。無理に作ったような、けれどそれはどこまでも優しさを感じさせるもので。 「それにお前があの時言った言葉だって、俺は忘れてない。お前はお前が納得するまで描けばいいし…やっぱりお前は才能のある凄い奴だから、そうする事が今のお前の一番だろうと思う。……俺がいたら、お前、またおかしくなっちまう」 「そん…そんな、事は…」 「だけどな」 それでも、と一旦口を切って志井は暫し迷ったように言葉を継いだ。 「俺が…。俺が今日、お前に会いに行こうと思ったのは――」 「……?」 「………」 「……志井さん?」 言いかけて言葉を途切れさせた志井にツキトは眉を寄せた。何だろう、何が言いたいのだろう。志井が今日来てくれたのはあの陶器を見せてくれる為。頑張っている志井を見て、変わろうとしている志井を見て、ツキトは自分も頑張らなければと思う事が出来た。自分も志井のように変わらなければ、いつまで経っても志井に胸を張って自分はこうなったと言う事が出来ない。いつまで経っても志井とは離れ離れのままだ。 「……あ…」 でもそれなら、それを見せた後は? ツキトはふと今さらながらそんな事を頭に浮かべてぎくりとした。仮にいつか志井に変わる事の出来た自分、満足のいく作品を見せられたとして、その後は一体どうなるのだろう。以前はそれだけが目的だった。志井に嫌われても、今さら何をしに来たのだと詰られたとしても、ただ自慢できるような作品を携えて一瞬でもそれを見てもらえればそれでいいと。 けれどツキトは今日、明らかに感じていた。あの洋食屋で初めて師匠の奥さんを見た時、志井の隣に立ってにこにこと明るく笑う彼女を志井とはとても親しい間柄なのだろうと思った。志井も随分心を許しているようで、そんな志井の姿は見た事がなかったから動揺もした。もし二人が恋人同士なら……付き合っていると言われたらどうしようと、それは嫌だと、ツキトは明らかにそんな事を考えて胸を痛めたのだ。 離れている間に志井が彼女を作ろうが結婚しようが、それは仕方がないと思っていたのではないのか? 「あ……」 違う。そんな事は思っていない。 「ツキト…悪い、引きとめた」 「え?」 二人がそれぞれ何某か思い詰め押し黙っていた沈黙は一体どれほどのものだったのだろう。 先に志井がはっとしたようになって顔を上げた。 「何でもない。……今日はありがとうな」 「あ……俺も……」 言われてツキトも何となく頷いたが、これでさよならという実感がなかった。それどころかたった今想像した「考えたくもない事」が起きたらどうしようと、このまま志井と離れて志井が誰かと結ばれて…そうなるのは嫌だ、離れたくないと、ツキトははっきりそう思ってしまっていた。 けれど志井は暗に示している。もう車を降りろと。 「……お、俺こそ、今日はありがとう」 嫌だ、降りたくない。 「ああ。頑張れよ、ツキト」 「………うん」 それでも交わす言葉だけはどんどん進んで行って、いよいよ本当に別れの時間だ。今度いつ会える?とか、会ってもいい?と言った言葉を出したいのに、けれどやはりそれは許されないような気がして、ツキトはぐっと唇を噛んだ。 「それじゃ…」 けれど観念したツキトが志井に背を向け、ドアを開けようとした時だった。 「ツキト」 「……っ!」 突然志井がツキトの腕を掴んだ。完全に意表をつかれてツキトはびくりと身体を揺らしたが、志井はそんな相手の反応に怯みながらも手を離さなかった。 「志井さ…?」 「悪い…」 そして志井は未だその腕を取ったまま、こちらに再び身体を向けてきたツキトに気まずそうに言った。 「悪いツキト…。このまま帰したくないんだ。……キスしていいか?」 「え……」 「………」 問い返したツキトに志井は今度は顔を上げてきた。その目はそう言ってしまった事を後悔しているようにも、開き直っているようにもどちらにも見て取れた。 「あ……」 対するツキトの方は志井に掴まれた腕から、与えられる視線から、全身を焼かれてしまうような熱さに囚われて口を開いたまま暫し放心した。言われた事の意味を理解するのにも時間が掛かったように思う。それでもどくどくと再び高鳴り出す心臓の音に早く応えねばともう一方の冷静な思考が命令を下していて、ツキトは何とか唇を戦慄かせながらもゆっくりと頷いた。 「うん…」 「ツキト…」 けれどツキトのその反応に志井がほっと安堵したような声を漏らした時だ。 「何してる」 突然背を向けていた助手席のドアが勢い良く開いた。 「はっ…!」 「さっさと降りろ」 「兄さ…っ」 志井に掴まれていない方の腕を取られてツキトは半ば引きずり出されるようにして車から降ろされた。咄嗟に志井が手を放してツキトを自由にした為、身体が引っ張られるような事にはならなかったが、兄の太樹によって強引に車から出されたせいで、ツキトは思い切りよろけてそのまま道路に膝を打ち付けそうになった。 「しっかり立て」 「……っ」 もっともツキトの腕をがっちりと掴んで放さなかった太樹の支えでそのまま倒れ伏す事はなかった。そのままその兄に引き寄せられるようにして立たされたツキトは、瞬時自分の視界に映った太樹の背にはっとして目を見開いた。志井の姿を遮断するように、太樹はツキトの身体を素早く自分の背後に隠してしまったのだ。 「兄さん…っ」 「今何時だと思っている」 けれど太樹は必死の声をあげるツキトには構わず、車中の志井に向かって厳とした声を投げ掛けた。すると言われた志井の方もゆっくりと車から降り、運転席の前に立ったままそんな太樹をじっと見据えた。背後にいるだろうツキトの方を見ようとするが、やはり志井の方からも長身の太樹のせいでツキトの姿は見えないらしい。すっと眉をひそめるその表情は太樹にしか見えなかった。 「たかだか三十分オーバーしただけだろ。途中で渋滞にはまったんだ」 そして志井は太樹にそう言った。太樹はその志井の声に何も返さなかったが、ツキトの方はそれを聞いて「えっ」と口元だけで声を出した。 「ふざけるな」 すると太樹はそんなツキトに気づいたのか、後ろ手に掴んだままのツキトの手を更にぎゅっと握り直し、依然として視線は志井に向けたまま言った。 「それならそれで連絡くらい入れろ。……約束を破ったのは貴様だ。もう月人には近づくな」 「………」 「に、兄さん、何……?」 「行くぞ月人」 「ちょっと待って…何…な…っ」 けれど太樹は途惑うツキトには応えない。ただツキトを抱きかかえるように、そのまま引きずるようにして門をくぐり、家へと向かって歩いて行く。ツキトは必死に背後にいるだろう志井へ視線を向けようとしたが、もつれそうな足や兄からのきつい拘束でそれもうまくいかなかった。 「あんたは」 けれどその時、志井が張り上げるような声をあげた。 ツキトにではない、それは太樹に向けて発せられたものだ。それにびくんと反応したのはツキトが先だったが、太樹も志井のその大声には速めていた足をぴたりと止めた。決して振り返ろうとはしなかったが。 「あんたは……約束守ってくれて、ありがとう」 そんな太樹に向かって志井はそう言った。らしくない、どこか殊勝なその物言いは、これもまた志井という人間にしては珍しくどこか切羽詰まったものだった。 「志井さん…?」 ツキトはそんな志井の声を聞きながらようやっと動きの止まった太樹の隙をついて振り返る事ができた。辺りが暗過ぎて、少し離れ過ぎてしまっていて、志井の顔がよく見えない。 それでもじっとこちらに注がれている視線は分かる。見ていてくれているのは分かる。 「志井さ…」 「月人」 けれどもう一度呼ぼうとしたツキトを太樹がぴしゃんと断ち切った。再びぎゅっと腕を捕まれ、無理矢理歩かされる。志井から離されていく。 「兄…っ」 そんな兄の顔をツキトは足を動かしながらも途惑ったように見上げた。こんな風に強く触れられたのは久しぶりだ。それを怖いとは思わなかったが、けれど目に入った先の太樹の厳しい表情にはやはり少しだけ不安を覚えた。 「兄さん…?」 呼んだけれど返事はなかった。 ツキトはじんじんとする腕の痛みに翻弄されながら、ただ兄に付き従い足を動かした。 |
To be continued… |
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