あの窓を開けたら
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―24― 「約束って何?」 乱暴な所作で後ろ手にバタンと玄関のドアを閉めた太樹は、強引に掴んだツキトの手を未だ離そうとしなかった。その力強さにツキトは勿論面食らい途惑っていたが、その時はその動揺よりも訊きたい気持ちの方が勝っていた。 たとえ扉で後ろを遮られても、まだ背中に志井の存在を感じる。志井がこちらを見てくれているような気がして、ツキトは自然身体をぶるりと震わせた。 「志井さんと何か話したの? いつ?」 「………」 「ねえ、いつ!?」 「あっ、月人様、お帰りなさいませ!」 けれど太樹の声を聞くよりも前にバタバタと騒がしい足音が聞こえて、典子がダイニングからやって来た。濡れた手をエプロンで拭きながら、2人のどことなく険悪な空気にも気づかず能天気な笑みを浮かべる。 「今日は遅かったんですね。どちらへお出掛けだったんですか? 確かアルバイトの日ではないと思っていたのでお夕飯もたくさん作ってしまったのですが、お食事の方はもう済ませられました?」 「………」 「…あの? 月人様? 太樹様も…」 「何でもない。さっさとあがれ、月人」 典子に何の反応も見せないツキトに太樹が短く答えた。それから引っ張るようにツキトを前へと押し出し、乱暴にではあるがやっと拘束していた手を離す。 「兄さん、答えてよ」 けれどツキトは押されて2、3歩は足を前へ動かしたものの、すぐまたその場に留まった。いつもなら兄の言う通りすぐ靴を脱いで中へあがり、不満な気持ちを残しながらも典子が出してくれた食事に黙々と手をつけていただろうに。そしてその目の前には仏頂面の兄が同じように席について、ツキトが志井との事を聞きたがっていると知りながら何の説明もしないのだ。ただツキトがきちんと食事をとるかと目を光らせるだけで。 「答えてくれなきゃ動かない」 しかしこの時のツキトは頑として太樹の言う事をきかなかった。ぐっとその場に踏みとどまるようにして足を止め、振り返りざま背後に立つ兄を凝視する。その太樹はツキトが再び外へ行かないようにする為だろうか、ドアの前に立ったまま自分もぴくりとも動かなかった。既に扉には2つの鍵も掛けられている。 それをちらと確認した後、ツキトは尚声を出した。 「兄さんが教えてくれないんなら志井さんに訊く」 「………」 「まだいると思うし…。それが無理なら電話で訊いたっていい」 「………」 太樹はまだ何の反応も示さない。その無表情にはやはり気圧されるものがある。 「太樹兄さん…!」 それでもツキトは再度言葉を切った。 「何を話したの? 約束って何だよ…? 何を約束したのっ」 「あんな男と何かを約束した覚えはない」 やっと口を開いた兄のその言葉にツキトはさっと目を剥いた。 「嘘っ! だって兄さんが言ってたんじゃないか! さっき!」 「知らないな」 「なっ…! ど、どうしてっ。どうしてそんな嘘つくんだよっ。だって! 今、言ってたじゃないか! 志井さんが約束破ったとか何とか…! ねえ、何の事なんだよっ!?」 「月人」 「嫌だ! そんな顔したって動かない、ちゃんと教えてくれなきゃ――」 「いい加減にしろ!」 「……ッ」 解放された手を再び掴まれ恫喝までされて、ツキトはびくと震えて口を閉ざした。太樹の怒鳴り声を間近で聞いたのは久しぶりだ。いつも冷たく厳しい兄だが、滅多な事では声を荒げたりはしないし、ここ1年ほどは本当に静かな兄だった。 そう。まるでそういった激した部分を抑えて抑えて、そのまま己の奥底で昇華させてしまったかのように。 実際そんな事があるわけはないのに。 「……さっさと手を洗って、着替えてこい」 「………」 「分かったのか? 月人、どうなんだ?」 訊いているようで有無を言わせぬ迫力である。強く両腕を掴まれ、「とにかく頷け」と示されて、ツキトはぐっと唇を噛んだ。こういう時の兄がてこでも動かない事は嫌というほどよく知っていた。 そしてこういう場合いつだって自分が折れてきたという事も。 「あ、あの…? 月人様…?」 典子がオロオロとして心配そうに声を掛けてきた。さしもの鈍感な彼女もいい加減何事かあったと悟ったようだ。陽子にからかわれて苛められている時とはまた違った困惑ぶりを露にした彼女は、それでも自分なりにその場を何とかしたいと考えたらしく、せかせかと傍にあったスリッパを引き寄せてツキトのより近い場所へそれを並べた。 「……上がれ」 それを見て太樹がもう一度ツキトに言った。と同時に身体を捻られどんと軽く背中を押されて、結局ツキトは言われるままその指示に従った。 夕飯は典子特性のオムライスだった。 「今日はですね、凄く上手く出来た自信があるんです! それで月人様にはお月様のマーク、太樹様には太陽のマークも描いてみました! どうですか!? 可愛いですか!?」 無理にはしゃいでいるのかそれとも天然なのか、揃ってだんまりな無口兄弟を前にして典子は異様にハイテンションでサラダを皿に盛ったりスープをよそったりと一人忙しそうに立ち回っていた。その間、彼女は昼間ちらりと顔を見せに来たという陽子の話もしていたのだが、その内容はいずれも「お嬢様がお土産に買ってきて下さったケーキが凄く美味しかった」だの、「お嬢様が庭が綺麗になったと誉めて下さった」だのといった「お嬢様万歳」なもので、一体全体あれだけ苛められていてよくもそれだけという程の懐きっぷりであった。 「お前はあれのどこがそんなに気に入ったんだ」 だからだろうか、今まで黙して語らなかった太樹が珍しく食事の手を止めて呆れたように顔を上げた。太樹が典子に話し掛ける事など家の用事以外殆ど皆無だというのに、余程不思議だったのだろう。典子は典子でまさか太樹からリアクションがあるとは考えていなかったのか、「えっ」とひどく驚いたようになって肩をいからせると、途端緊張したようになってオドオドと下を向いた。 「え、えーっとですね…。どこが、と言いますと?」 「あのバカ女のどこがそんなにいいんだと訊いてる」 「バッ…バカ女だなんて! お嬢様はそんな!」 「そうやって庇うだろう。そういえばお前はいつもそうだな」 ますます太樹は不可解な表情を見せて遂に握っていたスプーンから手を離した。典子はちょうど太樹の向かいに座るツキトの背後に控えていたのだが、さっと向けられたその視線にはツキトの方が挙動不審になってしまった。その時のツキトは全く集中できない食事に悶々として典子の話もどこか上の空だったし、ライスの中に入っていた人参を意味もなく避けたりしていたから、突然兄がこちらを向いてきた事で自分が何か言われるのかと勘違いしたのだ。 もっとも太樹の方はそんなツキトに何も言おうとはしなかったが。 「お嬢様は素晴らしいお方です」 そんな中、やがておずおずと典子が答えた。 「お綺麗だし、秀才でいらっしゃるし。いつもご自分に自信がおありで、堂々とされてます。確かに時々は怖……い、いえっ! とにかく、お嬢様は私にないものを全て持ってらっしゃいます。尊敬するところばかりです」 「……フン」 くだらないとでも言うような顔で太樹は典子から目を外した。典子はそれで途端緊張していた身体を緩めてほっと肩で息をし、「お茶を淹れて参ります」と部屋を出て行った。 「………」 ツキトはそんな典子の去って行った扉の方を何となく見やりながらぽつと言った。 「……典子さんて姉さんに脅されてるんだと思ってた」 「俺もだ」 「え」 「だからあいつの言いなりなのかと思っていた。……違うようだな」 「う、うん」 淡々とした態度なのに太樹が実は自分と同じように驚いていたのかと気づき、ツキトはやや新鮮な想いでまじまじとそんな兄の顔を見やった。その太樹の方はまた食事を再開している。志井の時も思ったが、大の男がスプーンでオムライスを食べる姿というのはどうにも滑稽である。それなのに本人は至って普通のいつも通りの顔をして食事をしているのだから余計に笑える。 そういえば志井はあの時グリーンピースがいつもより多過ぎると文句を言って皿の端に除け、逆にあの女店主に叱られていた。それが母親に注意される小さな子どものようでとても可笑しかった。 「何を笑ってる?」 「え」 ハッと我に返ると太樹がツキトの方を見ずに訊ねてきていた。ツキトは途端気まずくなって「何でもない」と答えたのだが、それで見逃してくれる程兄は優しくはなかった。 「あいつと会って楽しかったのか」 「………」 自分が志井との約束の事を訊いても何も教えてくれないくせに、こうして今日の事を訊いてくるなんてずるい。 咄嗟にそう思ってツキトはむっと唇を尖らせたのだが、未だ兄の視線はこちらに来ない。反論しようにも空振りしそうで、ツキトは仕方なく頷いてみせた。 「楽しかったよ…。志井さんが通ってる工房へ行ったんだ」 「工房?」 「うん、陶芸教室。湯のみとかカップとか作ってるんだって。見せてもらったんだ、志井さんが作った陶器。それにそこの陶芸の師匠の奥さんがやってる洋食屋さんへも連れて行ってもらってさ…。志井さんが作った器でスープ飲んだり」 「相変わらず暇な男だな」 「え…」 話しているうちにまた楽しくなってきて思わず笑顔になったツキトだったが、直後、兄から発せられたその台詞で途端気持ちは凍りついた。 太樹はそんなツキトの様子に気づいているだろうに平静として言った。 「ロクに働きもしないで好き勝手やってだらだら生きてる。お気楽な奴だ。親の遺産食い潰して生きてるんだろ。《シイ・ファイナンス》と言えば一時期はかなりでかかった企業だが、今じゃ見る影もない。道楽息子に後を継がせる気はなかったようだが…後を引き継いだ別の奴も能無しだったな」 「な、何それ…」 気持ちだけでなく実際手足までが一気に冷たくなり、ツキトは真っ青になって唇を震わせた。兄の毒舌には慣れているが、それはあくまでも自分に対するものだけだ。突然志井の事を言われれば動揺する。 「志井さ……志井さんは凄い人だよ」 「どこが凄い」 「な、何でも出来るし…っ。そんな、そんな言い方っ」 「能無しじゃなきゃ何だ? たとえ脳みそがあったとしても使わなきゃ意味ないしな」 「何でそんな酷い言い方するんだよっ!?」 ガタンと椅子を蹴って立ち上がると、その勢いが強過ぎたのかテーブルの上のグラスまでがごとりと倒れた。中に入っていた少量の水がとくとくと流れ出てテーブルクロスにじわじわと染みを作っていく。 それでも今はそんな事に構ってはいられない。ツキトは怒りを堪えるように太樹から視線を逸らし、押し殺したような声で訴えた。 「ひどい…ひどいよ。取り消してよ…!」 「何を」 「今言った事をだよ」 「あの男が能無しって事をか? 事実だろ」 「志井さんは違う!」 ――幾ら兄さんでも許せない。 ツキトは瞬時にそう思った。 太樹は折に触れツキトの事をお前は駄目だ、才能がないと繰り返してきた。絵なんて道楽に逃げ込んで、受験勉強が出来ない、その努力をしようともしない自分をごまかしているんだろうとも言った。お前の将来は俺が決める、大人しく俺の言う事を聞いていればいい、そうすれば後は俺が何とかしてやるから、とも。―それらは全て太樹なりの愛情であり、ツキトもそれを全く理解していないわけではなかった。それらの言葉にいちいち傷つきながらもずっと兄の傍にいたのは、兄の自分を想ってくれる気持ちを嬉しいと思っていたからだ。それに「兄は凄いが自分は駄目」という図式はとうの昔にツキト自身の中に出来上がっているものだったから、多少手厳しい事を言われても仕方がないと諦めてもいた。 けれど、志井は違う。 志井の事を何も知りもしないくせに、あんな風に言うのは絶対に許せない。 「志井さんは…!」 カッとなった頭は沸騰したようにぐらぐらと煮え立っていた。頭から下は酷く冷たいのに、顔だけがやたら熱いのだ。 不思議だ。 「志井さんは能無しなんかじゃないし! だらだら生きたりもしてない! だ、誰もが兄さんみたいに生きられるわけじゃないだろ、何でそんな事が分からないんだよ!?」 「………」 「兄さんみたいに! 姉さんみたいに! みんながみんな、自信持って生きられるわけじゃないっ。いつも不安だし、自分なんかって思う事だってあるだろ!? それでも、頑張って前進もうとするんじゃないか! 志井さんなんか何でも出来る凄い人なのに、でもまだ駄目だって自分責めてて! でも、変わろうとしてて! だ、だから、だから俺だって頑張ろうって…!」 「……なるほど」 激昂しているツキトに対して太樹は依然静かだった。もう食事の手は完全に止まっていたが、ツキトとは違い無事だった自分のグラスの水には少しだけ口をつける。 そして一拍後、太樹は言った。 「つまりお前らは同病相憐れむというやつなんだな。互いに自分らの弱いところを慰めあって同情しあっているのか。それで自分を落ち着かせるというわけだ」 「に、兄さん……」 「弱い奴のする事だな」 半ば呆然とするツキトに太樹は尚もぴしゃりとそう言い切り、それから心底蔑むような目を向けた。 「それでもお前があの男を悪く言うなと言うならやめてやってもいい。だが、その代わりお前に言う。お前は何故今日あの男と会った? もう会わないんじゃなかったのか。少なくとも、お前はお前の夢を叶えるまではあの男には会わないんじゃなかったのか」 「……それは」 「緩い決意もあったもんだな」 太樹がそれを言い終わったのとほぼ同時、ガチャリと扉が開いて典子がようやっと戻ってきた。2人分のお茶とデザートのケーキを用意してきた彼女は、その時またしても部屋を満たしている暗い雰囲気に気づかず、嬉々として「お嬢様が持ってきて下さったお菓子です!」などと言って笑った。 「俺はいい」 「え?」 「こいつには最後まで食べさせろ、まだ残してる。全部食べ終わるまで絶対に席を立たせるな」 「え? え?」 「いいな、月人」 「……嫌だっ! 兄さん、取り消してくれよ! それに、さっきの事だって説明―!」 「知るか」 「……ッ!!」 「え? あ、あの?」 途惑いうろたえる典子をよそに、太樹はさっと立ち上がるとその場に立ち尽くしたまま悔しそうな顔をするツキトを尻目に一人その場を去って行ってしまった。 「あの…月人様?」 「くそっ!」 「きゃっ」 そうして典子は太樹が去って行った後、殆ど初めてと言って良いツキトの悪態に仰天し、反射的に背後に仰け反って悲鳴を上げた。 「……ちくしょう!」 けれどもツキトはそんな典子に気を回してやれる余裕を持てなかった。 どうしてこんなにと思うほど胃の中が激しくざわつき、どうしてと思うほど手足はぴりぴりしていて顔は未だ熱かった。身体全部がめちゃくちゃになった気持ちだった。兄に対してあんなに怒鳴ったのは初めてだったのに、何の事もなく打ち返されて、逆に打ちのめされて終わってしまった。約束とやらが何なのかを訊く隙もなかった。 『俺は――…お前を理解したかったんだ。そうする事で、俺は自分も好きになりたかった。』 志井のそう言った言葉が頭の中で何度も何度も響き渡った。あの温かさがもう既にひどく懐かしい。もう会えないのだろうか、咄嗟にそう思ってすぐ首を振った。兄から「もう会わないと言ったくせに何だ」と、そう言われた事には自分自身が考えていた事なだけに胸が痛んだが、けれどだからこそ余計に兄に逆らいたくもなった。 志井にまた絶対に会いたいと思った。 その夜、どうにも寝付けずにツキトはベッドの中でさんざんごろごろと寝返りを打った後、遂に我慢が出来なくて部屋を出た。久方ぶりに志井と会ったという事に加えて、その直後まるで浮き上がった気持ちをそのまま崖下まで一気に蹴落とされたような気持ちを兄から味合わされて、とても眠るどころではなかった。温室へ行って粘土でも練るか、そうでなければ近場の公園へ歩きに行くでもいい…。ツキトがそうやって夜中ふらりと外へ出て行く事は最近では珍しくなかったが、それをやったとバレた日は必ず太樹から叱られた。夢遊病者じゃあるまいし、こんな非常識な時間にフラフラ出歩くなという事だったが、典子や田中に指摘されるまでもなく、そんな時の太樹がツキトを過剰に心配して言っているのだという事はツキトにもよく分かっていた。お前ももう二十歳を過ぎたのだからが最近の太樹の口癖だったが、その割に未だ小さな子どものように気を配って心配してくるのは紛れもなくその兄当人であった。 「あ……」 その兄に気づかれないようにと足を忍ばせて階下へ下りたツキトは、しかし奥のリビングから煌々と明りが灯っている事に気づき、声を漏らした。もう深夜も2時を回っている。けれど兄も起きていたようだ。どうしようと一瞬迷ったものの、そろそろと近づいて行くと、果たして兄はそこにいてソファで一人酒を煽っていた。 「こんな時間に飲んでるの」 扉を開けてすぐに責めるような言葉を吐いた。自分には外へ出歩くなとか食事はきちんと取れとか偉そうに言うくせに、兄とてこんな時間に酔っ払っているではないか。実際に酔っているという事はないだろうが、それでも「喧嘩」した今日の今日だから自然ツキトの口調はキツイものとなった。 「明日も早いんじゃないの」 「お前の知った事じゃない」 太樹は振り返りもせずにそう言い、またぐいとグラスを空けた。傍にはブランデーのボトルが無造作に置いてあって、兄の手には自分で用意したのだろう、普段は見ないチューリップ型のグラスがあった。 「お前こそ、こんな時間に何してる」 透明なその器を何となく眺めていたツキトにやがて太樹が訊ねた。未だ振り返りはしないが、ツキトの様子を気にしている風ではある。 だからツキトも正直に言う事にした。 「眠れないから外行こうと思って」 「駄目だ」 「……何が」 「寝てろ」 「だから、眠れないんだよ…!」 「無理矢理でも目瞑ってろ。こんな時間に外へ行く奴があるか」 当然のように太樹は答え、それからまたグラスを空けた。続けざまとくとくと注がれるボトルからは琥珀色の液体がとめどなく空のグラスを満たしていく。 「……もうやめなよ」 傍に寄って行ってボトルを取り上げても良かった。けれどそうする事に無意識の躊躇いが働き、ツキトは途惑いながらもう一度その場から声を掛けた。 「身体に悪いよ」 「いいからお前はもう寝ろ」 「何で」 「何でじゃない。寝ろ」 問答無用なその言い様にツキトもいよいよむかっとした。 「おかしいよ。俺には寝ろって言って、外には行くなって命令して、何で俺が兄さんに注意すると煩いとか関係ないとか、そんな事ばっかり言うんだよ。それなら、俺だって兄さんが言う事なんて知った事じゃないって言うよ!」 「言うわけない」 「……え?」 珍しく舌をもつれさせたような太樹がそう言った。ツキトがそれに一瞬怪訝な顔をして動きを止めると、ここで兄は初めてくるりと振り返り、ソファの背に片腕を預けた格好で繰り返した。胡乱な目でツキトをじっと見やりながら。 「お前が俺に逆らうわけがない」 「そ……そんなの分からないよ」 「分かるさ。お前は俺の弟だからな」 「………」 「お前は俺の言う事をきくさ」 「……勝手だよ」 けれど実際にそうだろうと思うとツキトは二の句を継げられなくてぐっと俯いた。ツキトが兄の太樹に逆らったのは過去3回。1度は進路を反対されて家出をした時、1度は志井と別れて美術大学へ進学すると決めた時、そしてもう1度は今夜の夕飯でのひと悶着だ。…しかしそのいずれもまともな「対決」とまではいっていない。家出はそれこそ兄と真正面から向き合うのが恐ろしくて逃げ出したも同然だし(太樹にとっては紛れもなくツキトによる「反乱」だっただろうが)、美術大学の件は太樹はツキトが合格を決めたその時まで、最後まで反対していた。あれも母親が援助してくれたから成り立ったようなもので、太樹当人から許しを得て受験にトライしたわけではない。結果的に「合格してしまえばこっちのもの」のような、勝ち逃げ的なもので終わってしまった。 ちなみに今夜の言い合いなど太樹にしてみればくだらなくて言い合いのうちにも入っていないだろう。ツキトにとっては精一杯の反抗だったとしても。 つまり。 つまりツキトは今まで兄の太樹にまともに面と向かって勝負をし、勝った事など1度としてないのだ。 大体、勝ち負け以前の問題だ。ツキトは太樹と同じ土俵の上に立ってもいない。いつでも太樹が上からツキトを見下ろしているのだから。 「俺だって…自分の意思くらいある。兄さんの方が間違ってるって思ったら、ちゃんとそう言う。俺、ちゃんと自分が決めた道を取る」 もごもごと言い返すツキトに太樹は嘲った。 「無理だな」 「何で!」 「月人。こっちへ来い」 「え…」 「そんなところじゃ話ができない。こっちへ来い」 「………」 一瞬迷ったものの、ツキトはそろそろと太樹の元へ歩み寄った。隣に座るよう指し示されて、大人しく腰をおろす。それすら兄の意のままのようで少し悔しかったが、確かにこうして目を見て話さなければその時点で「負けている」と思い直し、ツキトは覚悟を決めた。 「絵の事にしてもそうだ」 最初に口火を切ったのは太樹だった。 「お前は美大に行ってそれで自分の意思を貫き通したつもりなんだろうがな、結局はそこまでだ。そこで好きな物を描いていてもいちいち迷ってる。俺が少し文句をつけただけでもう自分の本当に描きたい物が何か分からなくなってる。違うか?」 「そ、そんなの…っ。あれは、別に兄さんに言われたとか関係なく、自分で…気に入らないと思っていただけだ…!」 「だから言い返せないのか、いつも? お前、素人の俺にあれだけボロクソ言われて何で一言も言い返せない? 情けないとは思わないのか? 描いてるもんに誇りはないのか」 「誇り…」 「俺はある。俺は自分の造ったものには誇りを持ってる。誰にも文句は言わせない。いつも出来上がったものを見る度、こいつは世界一だと思ってるぞ」 「………」 「お前はとことん中途半端だ」 「……っ。だ、だからって…」 酔いが回っている相手は、言ってみれば万全の状態にはないはずだ。それなのにこうもペラペラと言い切られてはツキトとて男としての意地がある。身体ごと隣に座る兄に向き直ると声を荒げて言った。 「兄さんにそこまで言う権利ないだろ…っ。俺は、俺は確かに中途半端だよ、いつもそう思ってるよ! 自分の描きたいものもいつもぼんやりしてて曖昧で…。それと同じくらい、普段の生活だって、兄さんにも姉さんにも、それに学校の人たちにも適当に合わせて、その場をやり過ごして…! そんな自分が嫌になるけど、でもっ! だからって、俺は兄さんにそこまでバカにされる程恥ずかしい真似はしていない!」 「本気でそう思ってるのか?」 「思ってるよ! 俺、絵を描いてる時の自分が好きだ! たとえ思うような物が描けなくても、そのせいで暗くなって誰ともまともに付き合えなくて自己嫌悪になっても…! それでも、とことんまで自分を見捨てたりはしてない! 俺、好きな物があるから! それを頑張ってる自分が好きだ!」 ふと瞬間的に志井の顔が思い浮かんだ。 今まで自分の事などまるで好きになれなかったと言う志井。他人にも何にも興味がなく、ツキトの絵だけが好きだと言ってくれた。その彼が今度は自分を好きになる為に努力し変わろうとして、尚且つ同じ場所からツキトを優しく見つめてくれる。同じ目線に立とうとしてくれている。 「……呆れるな」 けれど太樹はツキトのそんな意も全て読み取ってしまうかのような顔をして鼻先で哂った。 「結局は自己満足という事か。そんな程度じゃ所詮趣味の範囲を出ない。……その上、大した物が描けないからといつまでも昔の男に引きずられて、結局絵が駄目ならそいつの所へ逃げようとしてる」 「な……違う!」 「何が違う。そうだろうが」 「違う! 兄さんに何が分かるんだっ!」 それは殆ど反射的に出た動きだった。 カッとしたツキトは両腕を突き出すとその勢いのままガツリと太樹の胸倉を掴んだ。太樹は未だ寝巻き姿ではなくポロシャツにチノパンという格好だったが、そのシャツがめくれあがる程強く、ツキトは太樹の襟首を締めるくらいの勢いでそこを掴む両手に力を込めた。 そんなツキトに、しかし太樹はびくとも動じた様子を示さなかったが。 「……ッ」 「その程度か。お前の力は」 「い…っ」 逆にがしりと手首を捕まれ、ツキトはそれだけで顔を歪ませた。太樹による拘束と鋭い眼光の方が痛くて、自分の攻撃など蟻ほどのものもないと知る。また悔しくて悲しくてツキトは顔を赤らめたが、ただ言う事を聞いてそのまま手を離すのはどうしても嫌だった。 だから出し抜けどんどんと、連続して兄の胸板を力なく叩いた。 「何で…っ。どうして、そんな…っ」 「………」 すると太樹も咄嗟にツキトへの拘束を解き、自分を叩き始めたツキトを黙って見つめた。 ツキトはそんな兄の様子には気づかなかったが。 「どうして兄さん…っ。そんな意地悪ばっかり言うんだ…!」 「………」 「どうして認めてくれないっ…?」 「何を認めて欲しいんだ。絵か。あの男との事か」 「煩い…っ」 まだ冷静な声を出している。たとえ痛みなんかなくとも、弟の自分にこうやって叩かれる事なんて生まれて初めてじゃないか。もう少し驚いたり慌てたりしてくれても良さそうなものだ。なのに兄はいつでも平静としていて動揺するという事がなくて、やはり上から見下ろしているだけ。 「煩い! 兄さんは煩い!」 「煩い? お前が言ったんだろう。認めて欲しいのか、俺に? 言ってみろ、何を認めて欲しいんだ。言っておくがな、俺は――」 「は…っ!?」 突然再び手首を抑えつけられ、ツキトはハッとして目を見開いた。自分にどんな攻撃をされても悠然とソファに寄りかかっていたはずの太樹がすぐ目の前にまで迫っていて、それを知覚したと同時にツキトはもう逆にソファの上に押し倒されていた。 「なっ…」 「俺は絶対に認めない。お前が何を言おうが、何を望もうが……。月人、お前をあの男の所へは絶対にやらない」 「兄…っ」 「約束か。教えてやろうか…」 近づいてきた吐息はあの夜の時のようにやはりアルコールに塗れていて、ツキトは自分が何故先刻この兄の所へ近づくのを躊躇ったのか、その理由を今さら悟った。あの時も兄は酔いに任せて自分を抱いたのだ。あれが志井への2度目の裏切りだった。 嫌だと思った。 もう二度と、絶対にもうあんな想いはしたくない。 それに、それに―――。 「兄さんっ!」 「あの男……俺に土下座して頼んできたぞ。『ツキトには二度と手を出さないでくれ』ってな」 「え……?」 言われた事の意味が分からずツキトが逆らおうと出しかけた手を止めると、そんなツキトを上から拘束していた太樹は据わった眼のまま笑った。 「1年前だ。お前にはもう会わない、その代わり……お前にちゃんと絵を描かせろと。はっ…その上、俺にも手を出すなと今度は命令だ。さっきまで頼んでたくせに、あっという間にでかい態度になったり。……バカだな」 「志井さんが…?」 「俺は約束した覚えはない。だが……あいつは約束した」 「………」 「なのにお前と会った。契約不履行、だな」 「……兄さん」 掠れた声だったがツキトが呼んだ事には太樹も気づいていたはずだった。けれども虚ろなその瞳に光が宿る事はなく、それは徐々に近づき、同時に迫った唇がツキトの額に触れた。 けれど殺気立った雰囲気を発しているくせに太樹からのキスはどこか甘く、続いてきた髪の毛を梳く指先も信じられないほど優しかった。 「兄さん…」 だからツキトは一瞬は固めた身体をそのまま凍らせず動かす事ができた。先刻言おうと思っていた言葉も口にできた。 「嫌だ……こんなの…」 「………」 顔がふっと上がって太樹の目がツキトのそれを捕らえた。ツキトもそれを逸らす事なく見つめ返し、もう一度噛み砕くようにゆっくりとした調子で告げた。 「兄さんだって…望んでない…」 「……何を」 「こんなの…望んでない…。こんな風に……だって、そうでなかったら何で…この1年俺を抱かなかった…?」 「………」 太樹は聞きながらまだツキトの髪の毛をゆっくりと梳いていた。前髪が後ろへ流されて先ほどキスされた額が露になる。 けれどもう先ほどの唇はそこへやってくる事はなかった。 「志井さんとの約束が関係ないなら尚さらだ。そうだろ…? 志井さんと約束なんかしなくても…兄さんは、しなかったよ」 「………」 「絶対…俺が嫌がる事はしない…」 どううまく言えば良いか分からない。 けれど先刻まで兄に対し膨れ上がっていた怒りも今は驚くほどに残っていない。冷たい兄、厳しい兄、恐ろしい兄……、けれどもこうして静かに撫でて見つめてくれる太樹はそれよりも何よりも自分にとってとてつもなく優しい兄なのだと思った。 そんな兄を兄として、とても愛しいとツキトは思った。 「兄さん……だから…俺だって兄さんを好きなんだから…。そんな顔、しないでよ…」 「……どんな」 やがてハアと息を吐いた太樹がやっと声を出した。それはツキトと同じくらいしゃがれた声だったが、やはりそこにもいつもの威厳は残っていた。 「どんな顔をしてる。俺は」 「……いいの? 言って」 「何だ。言ってみろ」 「悔しそう」 「……嘘つけ」 言われた事にふっと微かに笑った太樹は、直後ツキトの背に両腕を回してその身体を起こすと自分の懐へと抱き込んだ。ツキトはその兄の所作に一瞬は面食らったが、すぐに自分も両腕を回してその背を抱いた。太樹のぎゅっと締め付けてくる腕の力はあまりに強くて、ツキトは暫し息をする事もできなかった。それでも身近に聞こえるとくとくと鳴る太樹の心臓の音にだけ耳を澄まし、ツキトは暫くの間ただじっとしていた。 月人、お前をあの男の所へは絶対にやらないと言いながら、それでもこれまでツキトに一切手を出さずただ見守ってきた太樹は、やはり兄としての感情の方が勝っているのか、或いは他に理由があるのか。 いずれにしろツキトにとって今自分を抱きしめてくれる太樹の熱は紛れもなく兄のそれだった。だから普段は怖いし容赦のない兄だけれど、結局はこの優しさにいつも自分は負けてしまうのだと、今さらながらに気がついた。 そして、この兄に自分の事を頼んだ時の志井はどんな事を考えていたのだろうと…ツキトにはそんな事がひどく気に掛かった。 |
To be continued… |
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