あの窓を開けたら


  ―25―



  上月が悪びれる事なくツキトの前に現れたのは、志井と再会した一週間後の事だった。その日ツキトは例によって大学に居残り、人から頼まれたポスター制作に勤しんでいたのだが、彼はまるで物怖じする事なく突然構内のツキトがいるスペースまでやって来て、「やあ」と呑気に片手を挙げた。
「上月さん、こんなしょっちゅうこっちに来て、一体いつ仕事してるんですか」
  ツキトがややふざけたようにそう言うと、上月は自分も茶目っ気たっぷりな表情で肩を竦めて見せた。
「いつもしてるよ。むしろ仕事人間だよ、僕は」
  まるで僕がいつもサボっているみたいじゃないかと不平を述べてから、上月は傍にあった椅子を引っ張ってくるとツキトのすぐ横に座った。そうしてひょいとクビを伸ばし、ツキトが描いていたものに目をやる。
「何、テニス同好会の勧誘ポスター? ツキト君が入ってるの?」
「いや。頼まれ物です」
「ふうん。いいんじゃない、カッコイイ感じで」
「本当ですか?」
「うん」
  顎先に指を当てて品定めするような格好を取っていた上月はツキトの声にすぐ頷くと、「それで」とたちまち口調を変えた。どうやら今日は絵の話をする気はないらしい。
「この間のあれ。どうだった? びっくりした?」
「びっくりしなかったと思います?」
「ううん」
  はははと軽く笑ってから、上月はこれまたまるで反省した風もなく「ごめんごめん」と謝った。それから胸元のジャケットから煙草を取り出すときょろきょろと辺りを見回し、「ここ禁煙?」と訊く。
「勿論禁煙です」
「そっか。じゃあ我慢する」
  ツキトの返答に上月はあっさりと頷いて煙草を元に戻したが、そうする時は少しだけ辛そうに眉尻を下げた。
「どうにもね。一旦再開しちゃうと止められないんだよね、なかなか」
「煙草ですか」
「そう。仕事でイライラしたりストレスが溜まったりするとついやっちゃうんだよ。1度は成功したんだけどなあ。僕はね、意志が弱いんですよ、何をするにもね。中途半端な人間なんです」
「何ですか、それ」
  冗談なのか本気なのか今イチ判断のつけかねる調子で言われ、ツキトは困ったように微笑した。上月はそんなツキトの途惑いに気づくと途端破顔して首を振り、何気なく視線を窓の向こうへとやった。
「言葉通りの意味だよ。僕は何をやるにもいつも途中で止めちゃうんだ。最初はこれやろうとかこれ頑張ろうとか、色々決めるんだけどね。やっぱ無理だわって挫折しちゃう。《まあいいか》ってさ。自分許して。そんな事の繰り返しだよ。まあ、基本が楽観的だからそんな自分を特別駄目とも嫌いとも思わないし、みんなそんなもんなんじゃないって思ってるけどね。そうやっていっぱいいっぱい生きてるんじゃないかってさ。人なんて」
  ペラペラと口を動かす上月にツキトがいよいよ困ったように黙りこむと、向こうは悪戯っぽい顔で笑い、「でもさ」と一拍置いてから続けた。
「でも、だからかな。君たちみたいに必死にあがいてる人を見ちゃうと、どうにもね。応援したくなっちゃうね」
「上月さん」
「そこには僅かばかりの嫉妬も混じってるけど」
「え」
「ははっ」
  上月の一連の発言はここに来るまでにあらかじめ原稿を用意してきたかのような単調さ、そしてスピードだった。そしてその上月はツキトがまともな反応を返す前にまた訊いた。
「それで、あれからお互いに連絡取りあったりはしてるの? 別に突然顔を合わせたからって、特別気まずい事にはならなかったんだろ」
「志井さんから聞いてるんじゃないんですか?」
  ツキトの言葉に上月は思い切り苦笑した。
「あの人が僕に何か話すわけないじゃないか。月人君にはどれだけ猫被ってるんだか知らないけど、そりゃもう酷いもんだよ。愛を失くした男ってのは愛を知らない男よりもよほど厄介ってね。近寄らないに越した事はない」
「え、でも…。上月さん、しょっちゅう電話とかしてくるって…」
「ああ、そうだね。連絡はしてるよ、嫌だけど。責任感じてるから」
「え」
  ツキトがぴたりと動きを止めると、上月はまた静かな微笑を浮かべた。
「だから。責任感じてるんだよ。君たちが元鞘に納まってくれないと寝覚めが悪くていけない」
「……あの、何回も言うようですけど、上月さんは何も悪くないですよ」
「こういう事って、人からどう言われようと自分がそうだと思っちゃったら、もうどうにも消せないもんだと思わないか? 君たちだってそうじゃないか。お互いに『貴方は悪くない、悪いのは全部自分だ』って言い合って譲らないんだから」
「……俺たちの事とは話が別です」
「同じだよ。何だって同じだよ。物事なんてさ」
  上月はツキトの小さな反論を何ともなしに吹き飛ばすと、また胸ポケットを探る所作を見せた。それでも直接煙草に触るまではしない。上月は敢えてツキトに背を向けると、椅子をずるずると引きずりながら窓際まで移動し、そこから見える外の景色へと目をやった。
「気持ちいいね」
  昨日までぐずついた天気が続いていたせいか、確かに今日の晴天はいつも以上にすっきりとした気分の良い気候に感じられた。湿気も少なくからりとしたその陽気に誘われて、講義も何もかも放り出して外へ繰り出している学生は多い。絵の具の匂いに満ちたこのスペースに篭もっているのは相変わらずツキト唯一人だった。
  ツキトはその空間の中、自分と目の前にいる上月との適度な距離を意識した後、ちらと手に掛けていたポスターに目を落とした。サトミに見つかって「またそんな事してる!」と怒られる前に片さなければと急いでいたせいか、絵の具が乾く前に上塗りしたところが微か思った色とは違うものになっていて、それが酷く気に掛かった。後で絶対直そうと思った。
「俺、志井さんにまた会いたいって思ってて」
  けれど上月に向けて思わず発したその台詞は、頭で思っていたはずの事とはまるで違うものだった。
  上月が振り返る前にツキトは慌てて先を続けた。
「会うのは…ちゃんとした絵が描けるようになったらって決めてたけど。兄さんにもそう約束してたんですけど、この間会ったら何か…何かもう、その日のうちにまた会いたいって思ってたんです。…情けないけど」


  あの日から、あの時の志井の一言一句、一挙手一投足が思い返されてならない。
  意識するまいと思うと余計に駄目で、美術館で一緒に銅像に手を触れた事、陶器を見せてもらった事、あの洋食屋で一緒にオムライスを食べた事など、本当に1シーン1シーンがコマ送りのように頭の中で再現された。
  そして一番性質が悪かったのは、別れる直前……車内で志井に手首を掴まれキスしても良いかと訊かれた事を思い返した時だった。あれを、あの時の手の痛みや思いつめたような志井の眼差し、声を蘇らせる度に、ツキトの胸は潰れそうなほど苦しくなった。苦しくて、でも愛しくて、ああやって自分を過去何度も求めてくれた過去の志井ともリンクして、ツキトはまんじりとも出来ない夜を何日も送った。
  志井とキスをするところも何度も何度も想像した。


「何で情けないの」
「…っ!」
  上月のそう返す声でツキトはハッと我に返った。恥ずかしい、こんな真昼間からまた想像している。ツキトはそんな己に赤面し、上月が問いかけつつも未だ背中を向けていてくれた事を心から感謝した。
  椅子の背に両肘をつけ、窓の外へと目をやっているような上月。あくまでも淡々とした相手のそんな様子を認めた後、ツキトは己の動揺を悟られまいと努めながらゆっくりと応えた。
「だって1度決めた事なのに…たった1年でもう揺らいでるから。兄さんにも緩い決意だなってバカにされたし、お前は結局逃げてるだけだろうって…言われたし」
「………」
「俺…っ。緩い決意っていうのは、自分でもそれは分かってるし、こんなんじゃ駄目だってそれは何回も思ってます。兄さんにも言い負かされて何も言い返せなくて…本当バカだなって。でも、逃げてるとかそういうのとは違うんです。それだけは違う。俺はただ………志井さんに会いたい」
「会えばいいじゃない」
  ここで初めて上月はくるりと振り返ってツキトを見た。その物珍しいものでも見るような奇異なる視線はツキトを思い切り面食らわせたが、上月の方は構わずやや憮然として言った。
「月人君は何かというと兄さん、兄さんだ。どうして自分の気持ちを後回しにするんだ?  いつも兄貴の言う事を気にして引きずられてる」
「……分かってます」
「分かってるの? それなら何でそんな自分を振り切らないの? 兄貴の言ってる事は違う、志井さんに会いたいって思ってる自分がいる。ならそれでいいじゃない。どうして自分を責めるだけなんだ?」
「………」
「お兄さんのこと、好き?」
「……好きですよ」
  そこには一瞬の間があったが、ツキトがそう答えた事によって上月は意表をつかれたように押し黙った。その答えが肯定で返ってくると思わなかったらしい。珍しくツキトに対して渋面を作った上月は、何事か考え込むように腕を組んで唇を閉じた。
「こういうのって」
  だから代わってツキトが口を開いた。今、沈黙になるのは嫌だった。折角上月がここにいる。いてくれている。話を聞いてもらいたかった。
「こういうのって、ブラコンって言うんですよね」
「極度のね」
  上月はすぐにそう応えたが、ツキトのその発言にはやや不機嫌になったようだ。ツキトにもそれは分かった。上月は先刻「志井はツキトに対して猫を被っている」というような事を冗談混じりに言っていたが、彼も大概その人種である。今はその皮がややめくれているといったところだ。
  もっとも、ツキトとしてもその方がありがたいと思った。いつでも親切過ぎる上月に、却って途惑いを感じる事も多かったから。
  こちらを真っ直ぐに見やる上月を自分もしっかりと見つめながらツキトは言った。
「俺、子どもの頃から兄さんの言う事は全部正しいって信じて生きてきました。正直、今でも心のどこかではまだ思ってる。さんざん酷い事言われて、俺の夢も希望も全部何て事ないみたいに斬り捨てようとする兄さんなのに……やっぱり、自分の方が間違ってるんじゃないかって。兄さんが正しくて、俺がとち狂ってるだけなんじゃないかなって」
「月人君」
「分かってます。俺は狂ってなんかないですよ。……俺は病気じゃない」
  抗議するような声を上げた上月をツキトは珍しくきっぱりと先んじてその言葉を遮断し、はっと嘆息してから小さく笑った。無理をして作ろうとした笑顔だったせいで、右頬が少々引きつってしまったが。
  それでも。
「上月さん。俺は志井さんが好きなんです」
「……お兄さんよりも?」
「はい」
  短く、けれどはっきりとそう答えたツキトは、手にしていた絵筆を手のひらの上で何気なく転がしてからぎゅっと強く握り締めた。
「兄さんはたぶん、これからもずっと俺の絵も志井さんとの事も反対すると思います。現に、俺は絶対認めないって、志井さんに会った日に宣言されちゃったし。……はは、でも、うん。ずっと反対されるだろうけど…でも、俺も頑張ってずっと抵抗してみます」
「………」
「今のところ連戦連敗中ですけどね」
「………」
「容赦ないんですよ、本当…」
「……何だ」
  上月がようやっと声を出した。緊張していたものがどっと抜けてすっかり毒気を祓われたような顔をしている。先刻ちらと見せた陰のあるような雰囲気は跡形もなくなり、上月は拍子抜けしたように口を開いた。
「答えは、もう出てたんだ」
「え?」
「あの人の事がまだ好きなんだね?」
  確認するような上月の窺い見る視線にツキトは自身も肩から力を抜いて頷いた。
「その答えだけは、とっくの昔に出てますよ。俺、好きになってから1度だって志井さんを嫌いになった事ありません。1回こっぴどくフラれた話したでしょう? はは…あの時だって、未練たらしくずっとひっついて離れなかった。自分でも何でこんなにって思うほど……いつだって、凄く好きだったんです」
「………」
「…でも決定的にやっぱりそうだ、大好きだって思ったのは…この前。上月さんが志井さんに会わせてくれたお陰です」
「そうか…。いや、うん、そうか。何だ…」
  話しているツキトよりも聞いている上月の方が恥ずかしいらしい。どこか照れたように何度か意味不明にどもった後、上月は納得したんだかしないんだか分からない相槌を何度も繰り返した。これもツキトが見た事のない、上月の別の一面だった。
  そんな第二の優しい兄を見やりながらツキトは続けた。
「でもさっきも言いましたけど、俺は兄さんの事も好きなんですよ。俺にとって兄さんの言う事はいつだって絶対だし……だから兄さんに志井さんとの事でお前の決意はそんなもんかとか非難されると、やっぱりこんな自分は弱いなって思っちゃうし。はは…色々迷って躊躇してしまうんです。だから情けないなって」
「月人君」
  ツキトが話している間に大分立ち直ったらしい。上月は今やすっかり元の真面目な顔に戻るとたしなめるように口を開いた。
「月人君、それはいいんだよ。そうやって迷ったり、立ち止まっちゃう事はさ。言っただろ、人間なんてみんなそんなもんなんだから」
  自分の中に明確化した「答え」があるかどうか、まずはそれが大事なんだよと上月は言った。自分が持つその答えの為に行動できるかという事も勿論大切なのだけれど、実際それは二の次なのだ。まずは己を奮い立たせる土台そのものがなくてはスタートする事すら出来やしない。ツキトは兄の太樹を好きで尊敬しているけれど、その兄にどれほど厳しく言い含められ拘束されようとも、志井を好きだと想う気持ちは止められないし会いたいと願う心も抑える事はできない。兄に責められる度に揺らぐ事はあっても、その感情が消える事がないというのなら、まずはそれで良いのだと上月は繰り返した。
  そしてすっかり安堵したような笑みを浮かべると、上月はすっと立ち上がって再びツキトの傍へ歩み寄った。
「それで、連戦連敗中って事だけど、お兄さんとは今も交戦中なの?」
「俺、兄さんに黙って志井さんに会いに行くとかは嫌なんです。…ふっ、俺、ブラコンだから」
「……いや、まあ。うん、さっきのはゴメン。俺も言い過ぎた」
「え、何でですか。いいですよ、本当の事だから」
  ぽりぽりと困ったように頭を掻く上月に手を振ると、ツキトは可笑しそうに目を細めた。 
  実際、ここ1週間の自分たち兄弟の遣り取りは、赤の他人が見たら本当に呆れるものかもしれないとツキトは自身で思う。
  ツキトが志井にもう一度会いに行きたいと訴え出る度に、太樹は普段の仏頂面をより凶悪なものにして、ふざけるなとか駄目だと一蹴し、それでも非力な弟が噛み付いてくると最後には「煩い」と一言言い捨てて部屋に篭もって出てこなくなる。そんな事を2人はここ数日バカの一つ覚えのように繰り返していた。太樹はツキトの相手がほとほと面倒になるといつもある一定期間ツキトとは口をきかなくなるが、今回はそれに限りなく近いケースになりつつあった。
  ただ、不思議な事にあの夜太樹に兄としての愛情を感じ、兄として優しく抱きしめられたと感じられた夜以来、ツキトはこういった太樹の冷たい態度もそれほどは気にならなくなっていた。あんな絵を描いておいてとか、お前の頭には男の事しかないのかとか、相変わらずそこまで言うかというような言葉はしょっちゅう浴びせられて、その度がっくりと落ち込みはするのだが、少なくとも家から逃げ出したいとか、食事が喉を通らないとか、そういった事はもうなくなっていた。
  食が細くてその兄や典子にまだまだだと言われる事は変わらないまでも。
「勿論、兄さんの許可待ってたら本当にそれこそ一生会えなさそうなんで…はは。いざとなったら強行突破って思ってます、けど」
「けど?」
  最後の語尾に突っ込みを入れた上月に、ツキトは照れたように目を伏せた。
「この間、俺、志井さんが作ったって器見せてもらったんです。だから、今度は俺が志井さんに見せようと思って。……今の俺が描ける精一杯の作品を」
「今はそれを描いてる最中?」
「うーん、完成まであとちょっと掛かりそうなんですけどね。いつもと勝手が違うし。画材とか」
「……そう」
  ツキトの言葉に上月はここで本当に満足したように息を吐いた。ツキトの座る椅子の背に手を掛けながら、何気なく再び目の前のポスターに目をやりつつ言う。
「じゃあ、月人君の方はまあ良いとして。あとはあの男が何してるかって事なんだね」
「え?」
「志井克己。愛を失った男だよ」
「志井さんがどうしたんですか?」
「いや、どうしたってね…。君が彼に今会いに行こうとしない理由はそれで分かったよ。正直、一週間も間空けて何してるんだって思ってたんだけど。普通はね、俺…僕のプランとしては、1年ぶりに再会した恋人同士がお互いの愛を再確認し合ってそのままくっついて、もう二度と離れない! ハッピーエンド! ……ってやつだったの」
「はあ」
「なのにさ、君たちはあんな半日の健全デートだけして、あとそれきり連絡を取り合ってもいないときた。一体何なんだって。で、月人君がそうなのは分かったよ。でも、志井のバカは?」
「……上月さん、地が出てきてません?」
「あ、ごめん」
  ぱしりと手のひらを口元に当て、それでも上月は別段悪いとも思っていない様子で探るような目を向けた。
「気にならないの、ツキト君は。志井さんが君の元に来てくれない事」
「俺は別に」
「何で?」
「だって、この間俺に会いに来てくれたのは志井さんだから。今度は俺が会いに行く番でしょう?」
「……へえ」
「それに、上月さんじゃないんだから、そんなにすぐ東京からこっちに来たりできないですよ。色々忙しいだろうし」
「何それ。僕はね、月人君の事が心配で…」
「分かってます。冗談ですよ」
  ツキトがそう言って可笑しそうに笑うと、上月は暫し目を見張ったようになって動きを止めたが、間もなく自分も穏やかな笑みを向けた。
  それから彼は今日ここへ来て初めて腕時計に目をやると、これから仕事だからとあっという間に去って行った。けれどツキトには上月のそんなそよ風のようなさっと吹き抜けて行く優しさがとてもありがたかった。心に余裕が生まれて初めてよく分かる事もある。自分は本当に恵まれている。上月だけではない、色々な人に支えられて今ここにいられる。また、そう思えるようになった自分の事を好きだとも思えた。
「よし…あと少し」
  ツキトはすっかり手を止めてしまったポスターに向かってぐっと気合を込めた。完成まであと少しだ。これを片してからでもバイトの時間には十分間に合うだろう、そう思った。





  田中がツキトの護衛役を解任され、本来の仕事に戻ってから既に1年だ。その迫力ある外見に似合わず細やかで機転の利いた対応が出来る彼女は、元は総務部の人間であった。一時期心ない人間から、「能力のない体育会系の怪力女」だの「知名度を利用したコネ入社」だのと囁かれた事もあったが、半ば無理矢理押し付けてこられる各部署でのトラブルに黙々と対応する彼女を評価する人間もまた確実に存在していた。時に現場の声を聞きながら設計や企画営業、その他内勤者との兼ね合いをつけていくのも総務部の仕事だ。彼女の場合、現場が楽し過ぎてそのままそこの手伝いで一日帰ってこないなどと言う日もあるが、そんな時は上司からたっぷりと絞られつつも、一方でそういった対応から感謝の言葉を聞ける事もあったりして、結果的に周囲の信頼も得られるようになっていた。彼女は今の仕事が大好きだった。そんな毎日がありがたかった。
  何せ1年前はツキトの護衛を失敗して、この会社もクビになるだろうと半ば覚悟を決めていたのだから。
「田中ちゃん、いつもありがとうよ。ここはもういいから、ジュースでも飲もうや」
「ああ、ありがとうございます」
  そんな田中は今日も今日とて凝りもせず、所用で出向した建設現場で鉄棒を運んだりトラックに木材を積み込んで倉庫まで移動させたりと、しっかといつものお手伝いに精を出していた。馴染みの親方が「いい加減休みなよ」と苦笑交じりに声を掛けてこなければ、もうあと1、2時間は働いていたかもしれない。
「田中ちゃんはやっぱり現場の方が肌に合ってんじゃねえのか」
  首に掛けたタオルで汗を拭う田中に、りんごジュースの缶を投げて寄越した老齢の現場監督―親方―がのしのしと近づきながらそう言った。
「いえ。私は今の部署が一番気に入ってます」
「そう? ま、田中ちゃんみたいな人が上のお偉いさんに俺らの声届けてくれなきゃなあ、それはそれで困るしな」
「はい、頑張ります。だからあんまりこっちに居過ぎて異動とかさせられないようにしないと」
  ジュースを飲む合間にそうおどけて見せた田中に、親方は禿げ上がった頭を撫でながら大声で笑った。
「わははは、言えてるなぁ! しかしそりゃあ、シャレにならんぞ? この間も林さんがマレーシアへ行っちゃっただろう? ショックだったよ、いい人だったからなぁ。まあ、これは本人が望んで行ったらしいから、仕方ねえが」
「そうですね。林さん、もともとうちの開発事業部で学校とか建てるチームに入りたくて入社したって言ってましたし。栄転みたいなもんですよね」
「あの若社長も訳分かんねえよな。おっかねえ顔して、実際小汚い事もしてるって聞くけどよ。一方で、そういう慈善事業にも手を掛けたりしてるんだから」
「そうですね…」
  横倒しになっている鉄板にどっかと腰を下ろした親方を見下ろしながら、田中はジュースを飲む手を止めて曖昧に相槌だけを打った。
  社長である太樹の評判が少しずつ上向きになってきたと感じるようになったのはここ最近の事だ。それまでは外と中との橋渡しをしている田中のような人間には相当辛い状況が続いていた。会社の事は何も分からないと言っていた月人でさえ知っていた事だが、ここ数年の太樹は強引な周囲の環境を考えない経営方針で現場や地元住民の反感を強く買っていて、企業全体のイメージも著しく低下していた。尊敬する「ボス」支倉は、1年前、「だからお前のこれからやる仕事はとても重要なんだ」と田中に言った。当初の田中にはよく理解できない事であったが、支倉は社長の弟である月人を神がかり的に信仰しているところがあって、表立って口にはしなかったが、太樹の経営方針に歪が生じたのは、全て弟である月人が行方不明になったせいだと考えているようだった。だからこそやっと見つけ出して家へ連れ帰ってきた今、もう二度と何処かへ行かれてしまう事がないように、「田中、お前の責任は重大だぞ」と。支倉は田中にそう言ったのだ。
  あの仕事人間が服を着て歩いているような冷徹な社長が弟の不在一つでそれほど変わるものだろうか。田中が抱いたその最初の感想は至極もっともなものだった。
  ただ、今はもう支倉の言っている事の意味がよく分かる。
  確かに会社は変わりつつあった。それを感じる。一時停滞していた発展国への進出や同時にそこで行われている学校や病院建設といった支援活動の数々。グループ全体で考えれば同僚の林が赴いたそこは本当にささやかな部署でしかなかったが、それでもそれが再び正常に稼動するようになったと感じたのは1年前のあの時から、無茶な建設ラッシュを抑えるようになったのも、月人が戻ってきてから間もなくの事だった。
「しっかし、最近は株だの何だの、目に見えない物動かすような商売が凄え流行ってるよなあ。俺にはさっぱり分かんねえけどよ」
「え?」
  はたと弾かれたように顔を上げると、田中が話し相手になってくれない事で新聞を読み始めていた親方がぶつぶつと独り言を言っていた。
「すみません、何ですか?」
「え? いやあ、ほら、会社を乗っ取るとか潰すとか。色々あるじゃねえの、今」
「ああ…そうですね。でも、親方の所は大丈夫ですよ」
「当たり前だよ、俺んとこなんか取ったって大して儲けにもなんねえだろうが」
  がははとしゃがれた声で豪快に笑った親方は、しかし直後バシリと新聞の紙面を叩いて口をへの字に曲げた。
「こういうの、俺はいけ好かねえな。他人が汗水垂らして作り上げたもんをよ、紙切れ一枚、電話一本で取っちまう世界なんだろ? 理解できねえ。まあ、俺は頭の古い昔の人間だから、こんな事、若社長に言ったら笑われるだけだろうけどな」
「そんな事ないですよ。それ…この間の村島メディシンの記事ですね。ずっと国内外で吸収合併繰り返して成長した会社ですけど、まさかあんな大きな所に摘発入るなんて」
  田中が相手に合わせるように先日から大きく取り沙汰されていた事件を口にすると、親方は「ん」と喉の奥で唸ってからやはり大きな口を不機嫌そうに歪めた。
「いやぁ、俺だってこんな事件はよく分かんねえが。ここの社長、大物ぶって偉そうにしてた割にゃ、結局は他の大物に利用されてポイされたんだろうなぁ。俺はそう思うね」
「そうなんですか?」
「そうだよう。こういうのはな、政治家だの旧財閥のお偉方だの、公権力持った奴らが自分らの犯罪バラされそうになった時に下の小物を切ってとんずらすんだ。ここの社長の所に金隠してたんだろうが、こういうのは足の引っ張りあいだからな。最近、ここの株やたらと動いてたし、何かミスして陥れられたに違えねえ!」
「お、親方…何か最近、その手の小説でも読んだんですか?」
「よせやい」
  俺はそんなもん読みやしねえよと親方は軽く笑い飛ばしたが、田中にしてみればいつも現場の人間と下の話しかしていないこの人が何を突然こんな話をしているのだろうと驚かずにはいられなかった。ただ、間もなくして田中は考えを改めた。こんなご時世だ、誰もが自分の城を守る為に必死なのは当たり前。誰もが必死に周りに目を向け、世の中の動きに目を光らせているのかもしれない、と。
「そういえばよ」
  そんな事を考えている田中にその親方はふと思い出したように顔を上げた。
「田中ちゃんとこの、あの綺麗な女部長さんいるじゃねえか。あの人大丈夫か? 何かここの事件と関わってたって噂の議員と一回お付き合いしてるとか何とか騒がれてたじゃねえか。変な火の粉が掛かってこねえといいな」
「……大丈夫ですよ、そんなの。うちは関係ないんですから」
  とはいえ、「あの人はそんなところにまで手を出していたのか」とは、田中の内なる率直な感想である。実際関係ないだろうというのも本心だったが。陽子が知名度のある人間と浮世を重ねるのはこれが初めてではないし、幸い事件のあった製薬会社自体とは全くの無関係だ。……ただ、そういえば先日支倉が酷く疲れたような顔で社内の会議室に消えていったところを偶然目撃してしまったが、まさか今回の事でというわけでもないだろう。
「田中ちゃん? どうした、明後日の方向いちゃってよ」
「え…ああ、何でもありません」
  しかし田中は途中まで思考しかけていた事を丸投げし、親方にもう1度「何でもない」と首を振ると既に空になった空き缶を片手でぐしゃと握り潰した。おおと感嘆の声をあげる親方に得意気に笑って見せ、田中はそろそろ本社に戻りますからとその場を後にした。
  余計な事を考えるのはやめよう。そう思った。
  たとえ陽子が何か面倒を起こしたとしても、あの社長が下手を打つわけはないし、支倉もいる。せいぜい自分に出来る事があるとすれば、陽子を心配するだろう月人を慰める事くらいだ。
  それも本当にトラブルが起きていたら、の話だ。
「お坊ちゃん、どうしていますかねえ」
  それほど会っていないわけでもないのに田中は思わずそう呟き、苦い笑みを漏らした。今の仕事は楽しくて毎日が充実しているけれど、唯一惜しまれるのは忙し過ぎて月人になかなか会えない事なのだった。





  ツキトがバイトを終えて家に帰ったのは夜の21時過ぎ。まだ太樹は帰っておらず、代わりに陽子がリビングのソファでふんぞり返っていた。
「久しぶり」
「そうだね」
  簡単な挨拶を交わしてツキトがダイニングに目をやると、陽子は先んじたように言った。
「典子ならもう帰らせたわよ。あんたが戻るまでいるって言い張ったんだけど、言う事きかないと二度と口きいてやらないって苛めてやったら、泣きそうな顔して帰ってったわ」
  陽子の発言にツキトは眉をひそめて責めるような言葉を吐いた。
「可哀想な事するのやめなよ。典子さん、姉さんの事本当に好きなんだから」
「そんなの当然でしょ。なら尚更私の言う事はきくべきよ。そうじゃない?」
  いつもの横柄な態度で陽子はそう言い放った後、自分の傍に立ち尽くす弟を上から下までじっと観察した。
「何?」
「ちょっと太った?」
「かなり太ったよ」
「イヤミな子ねえ」
  それでもあんたまだガリガリよと、陽子はツキトにバカにするような目を向け、それから片手でさっとそこへ座れと目の前のソファを指し示した。
  ツキトが上着を脱ぎながら言う通りにすると、陽子はつまらなそうに手にしていたワイングラスを一気に空けた。
「ずっとここで飲んでたの?」
「いい女が一人で、なんて。世界中の男にとっての損失だと思わない?」
「じゃ、外で飲んでくればいいじゃないか」
「あんた、言うようになったわね」
  やっぱり面白くないわと独りごち、陽子は再びフンと鼻を鳴らすとグラスをテーブルに戻してからさっと足を組んだ。
「あんなマンションで謹慎なんて冗談じゃないわよ。だから遊びに来てあげたの。でもどうせ、また支倉が迎えに来るわね。もうそろそろバレる頃だと思うし」
「謹慎?」
「偉大なるお兄様が暫く大人しくしてろってさ。私だってね、たまには正義の味方ごっこがしたくなるわけよ。兄さんだって時々くそみそみたいな偽善事業やってるじゃないよ。あれと一緒よ。それをちょっぴりしてあげただけなのにね」
「……何したの?」
  姉が会社やプライベートで問題を起こす事は珍しくないし、それによって「暫く大人しくしていろ」と兄が命令する事も言ってみればいつもの事だ。けれどこの時の陽子の態度はどこか興奮気味だったし、ツキトも不意に不安な気持ちになった。一体何をやらかしたのだろうと思ったのだ。
  ツキトがこうして陽子と2人きりで話す事は今ではもうそれほど珍しくない。別々に住んでいるから会う回数自体は減ったが、それでも久しぶりに会ったからとぎこちなく変に意識する事もなくなっていた。ツキト自身が強くなった事もあるし、陽子のツキトへの興味が粘着質なものでなくなったせいもある。
「ねえ。何かまずい事? 仕事のこと?」
「あんたには関係ないわよ」
「でも…」
「別にね。そこの会社の社員全員路頭に迷わせたってわけでもないのよ、私は? 私は、ただ単に権力笠に着て自分のどうしようもないバカ息子を放置し続けてた奴をその絶対的な場所から引きずり下ろしてやっただけよ。トップが替われば企業ももっと良い方向に変わるでしょうよ、そう思わない? ……あのクズもこれでコネなくして、当分また塀の中からは出てこられないだろうし」
「あのさ、話が全然分からないんだけど。酔ってる?」
「ちょっとね」
  ふっと陽子は笑い、それからおもむろにソファの背に腕をやると、そこに立て掛けて隠していたらしい「それ」をさっと持ち上げてツキトの前に掲げて見せた。
「あ!」
  ツキトはそれに目を剥いて思わず立ち上がった。
「ちょっと! 姉さん!」
「いつもの温室にないから、探すの手間取っちゃったわよ。でもあんたってやっぱり単純。棚に鍵なんか掛けてたら、『ここに大事なものしまってます』って言ってるようなものじゃない?」
「ちょっと! 返してくれよ、それ!」
「まあま、待ちなさい」
  ツキトがテーブルを挟んだ場所から必死に腕を伸ばそうとするのを、陽子はひらりとかわしてから空いている方の片手を差し出した。
「兄さんに見られたくなくて隠してたわけ? やっぱりこれ、とっておきなんだ?」
「姉さん!」
「そりゃそうよねえ。自信作をまためっためたにこき降ろされてもショックだし? でもね、あんた、私には見せなくちゃ。あんたの絵の理解者じゃない、私は」
「どこが…!」
  いよいよ顔を真っ赤にさせてツキトは声を荒げた。姉の陽子が持っているものはツキトがこの1週間かかりきりになっていた新作だった。カンバスではなく、今回はホワイトワトソンにアクリルや水彩絵の具、色鉛筆などを用いて描いた、初めての作品だった。
  出来上がったら志井にプレゼントしたいと思っていた。志井に会ってから真っ先に描きたいと思ったものをそのまま絵筆に興したものだ。だからツキトは、これだけは誰にも貶されたくなかった。そう思ったから、時々温室や部屋に入ってきては勝手に作品を物色する兄や姉に見つからないよう、ツキトは物置にある鍵つきの棚にそれを隠してこっそり密かに描き続けていたのだ。
「ほのぼのした絵ねえ。これだけで絵本みたい」
  けれどそれをまんまと手に取った陽子は、目を細めるといつも以上に赤い唇を上げてニヤリとした。
「え…?」
  けれども意地の悪そうなその顔とは裏腹に、発せられたその言葉に害はない。ツキトが驚いて動きを止めると、陽子はそんな弟には目をくれず、両手でその水彩紙の端を持ったまま尚言った。
「あんた最近、おっもいお城だの森の絵だのを油でごてごてと描いていたじゃない? もういい加減あのパターンやめないかなと思っていたのよね。飽きたし。これはいいんじゃない? あんた、ああいうのよりイラストとか絵本とか、そういうのの方が向いてるんじゃないの?」
「まさか…」
「何がまさかよ」
「い、いや…違う。で、でも、姉さんがそんな事言うなんて…」
  ツキトがしどろもどろになりながらそう言うと、姉は「調子に乗らないの」と一喝してからそっぽを向いた。
「言っておくけど私、兄さんとこれだけは意見があうんだけど、あんたの絵なんて全然上手いとは思わないわよ? 普通よりちょっと凄いって程度ね」
「し、知ってるよ、そんな事…!」
「でもこれは題材がいいわ。こんな家に住みたいわね。窓も大きくて綺麗だし」
「………」
「これ、何処かモデルになってるの?」
「う、うん…」
「何だ、やっぱりオリジナルじゃないんだ?」
  結局あんたってそこまでの子よねと陽子はまたバカにしたように言い放ち、絵をツキトに返した。
「………」
  けれどツキトはそんな姉に対して文句を言う気持ちはせず、恐らくは初めて誉められたのだろう、姉の言葉を頭の中で何度も反芻しながら自分の描いたものを見下ろした。それは志井と共に行ったあの洋食屋をデフォルメしたものだったのだが、あそこで感じたぽかぽかした陽だまりのような温かい雰囲気が出せたら良いなと、窓だけはあの家よりも大きく描いた。
「支倉、来ないわねえ、意外にも」
  陽子が黙りこくったツキトに飽きたような様子でちらと背後のドアを見やった。
  ツキトはそれにも答える気がせず、ただ黙って自分の絵を見続けていた。右手がむずむずしていた。早く続きが描きたい、早く描き上げたい…。膨らみ続けるイメージが脳の中を、そして胸の中を押し潰さんばかりに急かしてツキトを猛烈に掻き立てていた。
  そしてこれが完成したら志井に会いに行く…。「描きたい」という気持ちと同じくらいに湧き上がるその衝動に、ツキトは今にも叫び出したいくらい身体中が熱くなるのを感じていた。



To be continued…




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