あの窓を開けたら


  ―26―


  ツキトはこれまで上月の勤務する探偵社がどのくらいの範囲に渡り仕事をしているのかという事を知らなかったが、彼のプライベート携帯に掛けても連絡が取れず思いきって会社の方に電話を入れた際、「仕事で国外にいる」と聞かされた時はただただ驚いてしまった。
「あの時はうちの上月が大変ご迷惑を御掛け致しました」
  その情報を直々に教えてくれたのがJの社長本人だったという事も、その時のツキトをたじろがせた。最初に出た受付嬢らしき人物が、名乗ったツキトをすぐに「あの小林グループの次男坊」と悟ったからだったが、壮年を感じさせる声の男性が慌てたように受話器越しに謝ってきた事、また全くの他人に自分の過去を知られているという事に、ツキトは今さらながら血の気が引く思いだった。
「上月には連絡が取れ次第、こちらからお電話があった事は必ずお伝え致します」
  任務の最中は社用の携帯を切っている事も当たり前なので、時差の問題もあるし直接連絡を取るのは難しいのではないか―。そう控え目に言われ、ツキトは自分で上月に連絡を取る事は諦めた。ただ、早く「それ」を知りたいが為、上月からの連絡をただ待つだけというのも出来そうになかった。
  「それ」とは――志井の現在居る場所の事である。
  ツキトが志井の新しい住処が分からない事に改めて思い至ったのは、取り掛かっていた絵が完成を見た翌日の夜だ。姉の陽子に作品の存在がバレてからというもの、ツキトは大学もアルバイトも休んでそれだけに集中していたから、他の事を考える余裕がなかった。完成したその日はとにかく脱力してそのまま寝入ってしまったし。
  そして目が覚めたすぐ後も、ツキトは改めてその新作を見やると仄かな自己満足と共にらしくもなく新しい額縁を買い、それに作品を収めた。……が、それを見てもまだ何かが物足りず、今度は包装紙とリボンを買いに近くのファンシーショップへ走った。最近駅前に出来たばかりのそこは近隣の女子高生ばかりがひしめく可愛らしい店だったが、普通の文房具屋よりもここの方が自分の絵に合う品がありそうだと思ったから、やはり妥協したくなかった。そこでじっくりと時間を掛けて目的の物を揃え、帰宅して綺麗に包んでさあ準備が出来たというところで、ツキトはようやく「そういえば志井が今住んでいる所は何処なのか」と思ったわけである。
  志井自ら連れて行ってくれた陶芸教室や洋食屋の場所には行けそうになかった。両者どちらか一方でも名前が分かればインターネットで検索する等して場所を割り出し、あの師匠やその奥さんから志井の居場所を訊く事は出来ただろう。しかし、前者は「教室」と言っても正式にやっているものではないという事だったから看板らしきものも出ていなかったし、そもそも師匠の名前すら聞きそびれていたから調べようがなかった。後者は表に出ていた看板で店名を確認した記憶はあるのだが、生憎とそれが英語以外の異国語だったせいで音として店の名前を覚えておく事が出来ず、やはり手掛かりらしきものは残っていなかった。車で連れて行ってもらった事も場所を特定できない原因で、幾つかの景色だけは微か脳裏に残っていたものの、所詮は何となく助手席に乗っていた身分、せいぜいかろうじて頭に残っている道路標識の地名を頼りに大雑把な所から探りを入れていくより他はなさそうだった。
「陶芸教室は無理そうだから、あの辺りにある洋食屋を検索して片っ端から電話するしかないかな…」
  上月と連絡が取れない今、ツキトに出来るのはそう言った気の遠くなるような作業だけだった。普段は立ち上げない自宅の通称「物置部屋」にあるパソコン(一応は母のものだが誰も使用していない)と睨めっこし、一通り主だった店名が書かれたリストを印刷すると、ツキトはがむしゃらに電話を掛け続けた。掛け始めの2、3件は相手から妙に怪しまれたりしてそれだけで気が滅入ったし、そもそも中りをつけている地区自体が違うのならその労力自体無駄なわけだから、相当な根気も要求された。
  それでもツキトはあまり絶望はしていなかった。むしろ志井を探そうとしている自分や傍に置いてある新作を意識すると、何だか妙に幸せな気持ちになれた。
  早く志井に会いたかった。
「月人様、お食事をお持ちしました」
  昼の時間になって典子が遠慮がちに部屋のドアをノックした。ツキトが振り返ると典子は片手で持ったトレイの上にあるサンドイッチと紅茶を目で指し示しながら、「そろそろ休憩されませんか」と控え目に言った。
「もうこんな時間なんだ」
  ツキトが壁掛け時計をちらと見やりながら椅子の背に寄りかかり息を吐くと、典子はにこりと笑って持ってきたトレイを机の端に置いた。
「お勉強に熱中されているようでしたので、運ばせてもらいました。下でお待ちしてたら月人様はそのまま昼食を抜いてしまわれますからね」
「はは…うん、ありがとう。でも勉強してるわけじゃないよ」
  カップを手に取り、ツキトは紅茶の香りを楽しんだ後それを一口啜った。それから改めて周りの風景を眺めやる。ここは母が自分の趣味と称してこういったパソコンやら本やらレコードやらを適当に置いておく場所なのだが、彼女がそれらをまともに活用しているところは家族の誰も見た事がない。典子が定期的に掃除をしてくれているから体裁だけは整っているが、「物置部屋」と呼ばれているように、実際ここに出入りする人間は普段からあまりいないのだった。
「お勉強じゃないとすると…何をされているのですか」
  至極もっともな事を問いかける典子にツキトは別段抵抗もなく答えた。
「うん、このパソコンから検索した店に片っ端から電話掛けてるんだよ。志井さんがよく行ってる洋食屋さんを探したいんだけど、店の名前も詳しい場所も覚えてなくてさ。でも、全然駄目。先は長いなあ」
  ツキトの話に典子は驚いたようになって暫し絶句した。それが何に対してなのかはツキトにもよく分かったが、敢えて知らないフリをした。
  やがて立ち直った典子が再び口を開く。
「そう…なんですか。でもお客さんの個人情報なんて、やっぱりお店の人はそうそう教えてくれないんじゃないですか」
「うん、それはいいんだよ、教えてくれない所は俺が探してる店じゃないから。俺が探しているお店の店主さんは俺の事を知っているんだ。だから、俺の名前聞いて分かってくれない所は探している所と違うからさ」
「……そうですか。……でも……」
「何?」
  何事か言い淀む典子にツキトが首をかしげると、彼女はひどく言いにくそうな顔をしながらもたどたどしく言葉を継いだ。
「東京に洋食屋さんなんて無限にあるような気がするんですが…。それに、そのお店がそのリストに元から載っていない場合だって…」
「うん、そうだね。小さいお店だし。出来たばっかりみたいだから、その可能性の方が高いかもね」
「………」
「どうしたの?」
  まだ何か言いたそうな典子にツキトはいよいよ苦笑して先を促した。彼女が遠慮してなかなか口を開かない事は昔ならば珍しくもなかったが、最近では食の進まないツキトに結構キツい物言いで当たってきたりもする。だから今の彼女のこの態度はツキトにとって少しだけ不自然なものに感じられた。
「……月人様は、その方の事が本当にお好きなんですね」
  しかし、ツキトが再度典子に声を掛けようとした時、彼女はそう言って顔を上げた。
「え?」
「私…私は、詳しいお話は存じませんし…陽子お嬢様から少しお聞きしただけですけど…。でもここ数日、月人様が一生懸命絵を描いてらしたのは知ってますし、それがその方の為だという事も知っています。……その方にお会いしたくて太樹様に何度もお願いしているのも見てました」
「ああ…何かごめんね、最近煩くてさ」
「そ、そんな事はありませんっ」
  ツキトの困ったような言い様に典子は唾を飛ばさんばかりの勢いで否定すると、ぐっとエプロンの端を握り締めた。
  そして言った。
「そんなにまでして会われたいのですね。だって、それで見つかる可能性の方が低いじゃないですか」
「そうだね」
「何故です? そのような事をすればまた太樹様からお叱りを受けます」
「あ…ごめん。俺がこんな事してたって、典子さんは知らない事にしてくれていいから」
「そうではなくてっ」
  見当違いな方向で自分に謝るツキトに典子はぶんぶんと首を振り、より一層強くエプロンの裾を握った。ツキトはそんな典子をじっと見つめた後、彼女を安心させるようにふっと笑った。
「あのさ、別に典子さんが心配する事は何もないよ。太樹兄さんの事も。だって俺、別に隠してないから。志井さんに会いたいって事も、絵が完成したら会いに行くって事も。はは…許可は得られてないけどさ。でも、断りは入れてる。兄さんに無断で何かしようってわけじゃない」
  実際絵が完成する前日にもツキトは兄の太樹にはもうすぐ志井に見せる絵が完成するから、そうしたら「兄さんが何を言おうが俺は会いに行くから」と宣言していた。勿論、太樹からは当初の決意を曲げたその「愚行」を再度バカにされた上で「俺は絶対に許さん」と言い捨てられてしまったのだが。それでも、ぐっと挫けそうになりながらも、「でも俺は行くから!」とたて続けに言えた事はツキトの中の進歩と言えよう。
「でも…」
  しかしそんなツキトに、典子の顔はまだ曇ったまま晴れる事がない。
「何?」
「………」
  典子はさんざん言いあぐねたようになりながら、数秒の後言った。
「月人様ばかりが太樹様に責められて…。あの志井という方は何をされてるんですか。何だか納得がいきません、おかしいです!」
「え?」
「あの方から月人様に会いに来るべきです! 月人様が探す必要なんかないですよ!」
「どうしたの、典子さん…?」
  あまりにムキになる典子に途惑いツキトが先の言葉を探していると、彼女は珍しくカッと怒りで顔を赤くさせながらますます興奮した風になってまくしたてた。
「どうしたもこうしたもありませんっ。本当にツキト様の事が好きなら…! あの方は太樹様に何を言われようが、陽子お嬢様から笑われようが、月人様を攫って行ってしまえば良いと思います! それなのにそれをしないなんて…っ。月人様はそれで宜しいのですか!?」
「え、えーっと…」
「はっ!」
  ツキトがどう返そうと顎先を掻いて間を取っていると、典子は途端我に返ったようになってわなわなと震え出し、じりりと後退した。割に直情タイプだったようだ。それでいて己の暴走に気づくと彼女は急激に顔を窄めてガバリと頭を下げ、「余計な事を言って失礼な事を言って申し訳ありません、どうぞお許し下さい…!」――と、それは可哀想になるくらい謝り続けた。
  だからツキトも彼女に顔を上げさせるのにただ必死になってしまった。
「……ふう」
  繰り返し謝罪する典子に「とにかく気にしないで」を連発して部屋を出てもらった後、ツキトは一人になった部屋で大きな大きなため息をついた。
  典子の発言は先日上月からも指摘された事だ。志井は今現在一体何をしているのか? 何故ツキトに自ら会いに来ようとはしないのか?…と。ツキトは自分自身の想いにただ必死で、志井の行動については正直あまり思いを巡らせていなかった。たとえば以前のツキトであったなら、自分は会いたいけれど志井はどうなのだろう、これだけ間が空いて1度も連絡をくれないという事は、やはり自分にはもう会いたくないのか、まだ会ってはいけないと想っているのだろうか…などなどと。
「よしっ…。再開しよう」
  けれどツキトは携帯電話を握り締めると再び気合の声を出して作業を再開し始めた。
  確かに昔のツキトだったら気にしたかもしれない。けれど今は志井の気持ちより自分の気持ちを優先したかった。勝手だとは誰に言われずとも分かっているけれど、それでもツキトは自分から志井に会いに行く事を何とも思っていなかったし、志井が会いにくるべきだなどとは考えなかった。ただ「自分が会いたいから会いに行きたい」と思っていた。
  それを悪い事だとはもう思っていない。足元にある作品がそう思わせていたのかもしれない。
  それにあのマンションで再び同棲するようになった頃――。志井は言葉にこそ出さなかったが、折に触れツキトに対する己の言動を悔いているような節が見られた。それは1度目の同棲の頃ツキトに冷たくした事とか酷く抱いた事とか……、東京で知り合いもいないツキトを放っておいた事とか、とにかく色々な事をだ。
  ツキトはそれを感じる度に「自分は何とも思っていない」事を示そうと志井に甘えて見せたものだが、あの穏やかなマンション生活の中でそういったツキトの態度は逆に志井という人間を余計に迷わせ鈍らせる結果を呼んだ。志井はツキトが「したい」と言うまで決してツキトに手を出そうとはしなかったし、結局ギリギリになってツキトがやっぱり出来ないと泣き出せばすぐに離れて「自分が悪い」と謝った。最後の方ではベッドを共にする事すら避けていた。キスとていつも許可を得てから。自分から強引にツキトに迫るという事は決してなかった。
  あの1度のすれ違いから志井は明らかにツキトに対して受身になっていた。上月や典子といったツキト以外の第三者の目に、それは理解し難い態度として映ったのかもしれないが……それも志井がツキトを愛しているからこそだったのだ。
  だから上月に言った事はツキトの本心だった。「今度は自分が志井に会いに行く番だ」と――。

  しかし結局、その日は手掛かりらしい手掛かりを掴む事なく一日が終わってしまった。





「月人様…」
  翌日、ツキトが少し遅い起床で階下へ下りていくと、そこには待ち構えたようにして立ち尽くしている典子の姿があった。
「あ…おはよう、典子さん。兄さんはもう出た?」
「おはようございます、月人様。はい、太樹様なら先ほど」
「そう」
  ツキトが眠い目を擦りながら何となく返事をすると、典子はもじもじとしたようになりながら、やがて昨日同様また深々と頭を下げた。
「月人様、昨日は出すぎた事を申しまして本当にすみませんでした」
「え…? ああ、何言ってるの。もう気にしないでって言っただろ?」
「はい…」
  しゅんとなる彼女にツキトは困ったように笑いながら、階段を下り切らない位置に立ったまま片手を振った。
「本当に気にしないで。俺、何とも思ってないし」
  実際その通りだった。最早今のツキトは誰に何を言われようが自分の行動を止める気は毛頭なかったし、心を残す余地もない。それに昨日は収穫ゼロだったが、今日は直接東京へ行って無謀でも何でも記憶の残っている周辺を実際に捜索しようとすら考えていた。
「あの…月人様…」
「え?」
  けれどそんなツキトの前に、典子は両手でさっと何かを差し出すようにして一枚のメモを突きつけてきた。ツキトが怪訝な顔をしながらそれを受け取ると、典子はそろりと顔を上げ泣きそうな声で言った。
「それ…志井様の現在のお住まいが書かれています」
「えっ…」
  思わず声を上げてツキトがメモを持ったままぴくりと身体を揺らすと、典子はますます青褪めたようになりながら唇を震わせた。
「どうしても…月人様の決心が変わらないのでしたら…。なら私は…何かお手伝いがしたいと思いまして」
「……どうしたの、これ?」
  一つに折ってあるそれを開いて目を落とすと、そこには確かに「志井」という名前と共に東京の住所らしきものが殴り書きされていた。
  兄の字だとはすぐにぴんときた。
「これ…」
「太樹様の書斎にありました。……勝手に持ち出してしまいました」
「典子さん…」
  ツキトが何かを言い掛けると、典子はそれを制するように自分が早口で先を続けた。
「陽子お嬢様からお訊きする事も考えましたが…。それですとまたお嬢様が月人様の邪魔をされる事も考えられ……あわわ! いえ、そうではなくて! は…反対されるのではないかと…! だとしたらもう勝手に…勝手に持ち出すしか…!」
「これ何処にあったの? 嬉しいけど…駄目だよ、典子さんを巻き込めない」
「でも!」
「いいから。俺、元に戻してくるから」
  月人が頑としてそう言うと、典子はがくりと項垂れたようになってから、「デスクの上にありました」と素直に答えた。
  しかしツキトはその典子の回答に思わず足を止めると「え?」と聞き返した。
「机の上…? 引き出しの中とかじゃなくて?」
「いいえ…。デスクの……真ん中の所にぽっと置いてありました。私もこれには拍子抜けしてしまいましたが…もっと苦労すると思ったので……」
「………」
「月人様?」
  突然黙りこんだツキトに典子が顔を上げて不思議そうな顔をする。ツキトは「何でもない」と答えた後、上りかけた階段の手前で止まり、手にしたメモをもう一度見つめた。
  それからややあって言う。
「典子さん、ありがとう。俺、行ってくるから。それで、これは俺が兄さんの部屋で見つけた。そういう事にして」
「え、でも…」
「お願い、そうして!」
  ツキトはまだ何事か言う典子にそう言い置くと、再び階段を上がってそのまま自室に飛び込んだ。それから真っ直ぐに作品を立て掛けてあった場所まで歩み寄るとそれを大きめのショルダー式布袋に入れ、財布と時計を身に着けてツキトは家を出た。
  気が急いていたせいで、気づけば駅まで全力で走っていた。





  自らの夢を貫く為に家出をしたあの朝。始発電車から見た車窓を流れる景色をツキトは昨日の事のようによく覚えている。期待と不安の入り混じった想いでただ真っ直ぐに東京を目指した。昔から好きな画家が個展をやると言えば大抵が都内の主だった有名美術館だったから、ツキトも太樹が絵についてまだ強行に反対してくる前などは休日を利用してちょくちょく上京していた。そんな道のりだから別段珍しい風景ではなかったはずなのだが、あの家出をした時は何もかもが特別なものに見えた。
  今はあの時の気持ちとどこか似ている。ツキトは作品の入った布袋をぎゅっと胸に抱えるようにして前抱きにし、ガラガラに空いている席には座らずただべったりとドアの傍に張り付いてその景色を眺め続けた。突然行ったら志井はどんな顔をするだろう、驚くは驚くだろうけれど、喜んでくれるだろうか。それとも困った顔をしてしまうのだろうか…。嬉しい気持ちと怖い気持ちが半分半分。やはり単身で東京へ乗り込んだあの頃と似ている。
  でもあの頃よりは少しだけ大胆な自分がいる。
「もし志井さんが困っても…。俺は、笑っていよう」
  自身に言い聞かせるように、本当に小さな声でツキトはそう呟いた。気にしないと思っていたくせに、いざとなるとやはり上月や典子の言葉がちらついたりして胸の中がじりじりする。嘲るような蔑むような兄の眼差しが思い返されて胃が痛くなる。
  でも、戻りはしない。これを届けて志井の顔を見るまでは帰らない。
  ガタガタと揺れる電車に身を任せ、ツキトはやがてじっと目を閉じた。





  太樹のメモから志井の住んでいる場所を割り出すのは実に簡単だった。
  曖昧な記憶でも途中まで脳裏に残っていた道路標識から大体の地区を割り出していた事もあり、何人かの駅員にその近辺を走る路線を尋ねただけで最寄の駅はすぐに分かった。また志井が住んでいる新しいマンションも、近くを通り掛かった買い物途中らしい女性が「そこならこの駅のすぐ傍よ」と、そこまでの行き方を親切に詳しく教えてくれた。
  時刻は昼をゆうに過ぎていたが、不思議と空腹は感じない。それよりもやはり高揚する気持ちが強くて、ツキトは徐々に近づくその目的地に頬を紅潮させていた。
「あの…すみません」
  そして建物内に入ってすぐ。
  そこが以前住んでいた所と同じくオートロック式のマンションだと気づいた。ツキトは多少躊躇しながらも扉の横についているインターホンを鳴らし、何の反応もないと知ると、更にその横の管理人室に続く小窓を叩いた。奥からはそこの管理を委託されているらしい老齢の男性がすぐに顔を出してきた。
「はい?」
「あの…ここの、1205室に住んでいる志井克己さんに会いに来たんですけど」
「そこにあるインターホン鳴らして下さい」
「鳴らしたんですけど、留守みたいで」
「じゃあ留守なんでしょ」
  何を言ってるんだというように男性は不審な顔で鼻にかかった丸縁の眼鏡をくいと指で上げた。その見上げるような目線にツキトは更に困惑しながら、「いつも何時くらいに帰るかとか分かりませんか」と訊ねてみた。
「さあねえ…。私もここには入ったばかりだし、住民の方全員把握しているわけじゃないし。何号室だっけ? 何て人だっけ?」
「志井克己さんです」
「知らないねえ…」
  興味なさそうな声にツキトは更に「じゃあ」と焦ったように口を継ぎ、再び奥へ引っ込みそうになる管理人に問いかけた。
「こ、この辺りに陶芸教室ってありませんか? オムライスが美味しい洋食屋さんでもいいんですけど!」
「はあ? オムライス?」
  単語の一部分だけを切り取って男はますます胡散臭そうな顔をしたものの、大して考えた風でもなく、「やっぱり分からないねえ」と言って首を振った。
「……そうですか」
「出直してきたら?」
「はい…」
「知り合いなら電話して何処にいるか訊いてみるとか」
「はい…どうもありがとうございました」
  へこりと頭を下げて、ツキトは仕方なく管理人から背を向けた。すぐに会えると思ったのが甘かったのだろうか。何となく来たらすぐに会えると思っていただけに、落胆は大きい。勿論、ここにずっといればいつかは志井に会えるわけで、その辺にでも座り込んで待っていれば良い話だ(あの管理人は嫌な顔をするだろうが)。ただあまりにここまでがとんとん拍子だったし、胸に抱いていた確信に近い予感が外れたせいで、ツキトはあからさまに肩を落とした。
  思えばあの美術館で突然志井が現れた時は、一瞬本当に偶然会えたのかと目を疑ったが、志井はそんな偶然があるのなら自分は運命を信じると言って笑っていた。確かに、そうそううまくいくわけがないよなと、ツキトははっとため息をつき、何処で時間を潰そうかと駅前にあった色々な店を思い浮かべた。
  けれど、そうして足元ばかりを何となく見つめていた時だ。
  不意にドサリと何かがフロアに落ちる音が聞こえ、ツキトは眉をひそめながらその音をつっと辿った。
「………?」
  それは何処にでもあるスーパーの白い袋だった。勢いよく落下したせいかその中から数個の真っ赤なトマトがころころと辺りに散らばっている。ツキトはそれらをそれぞれ目で追った後、再び落ちたままのビニール袋を見つめた。じゃがいもだのビールだのごつごつしたものが何となく目に入る。それからそれらをちっとも拾い上げようとしない人物の足を目に留め、徐々にその視線を上げていってツキトは「あ」と声を上げた。
「……志井さん」
  驚き過ぎたせいなのか、却って全く驚いていないようなボー然とした声が口から飛び出た。ツキトはそんな自分を「あれ?」と思いながら、それでも視線だけは目前の志井から離せずじっとその場に立ち尽くした。
「……ツキト」
  志井は志井で、やはりまともな反応を返せていない。突如として目の前に、しかも知るはずのない自分の今の住居にツキトが立っていたものだから、ただただ唖然としているようだ。その志井はあの日曜日に会った時のように思い切りラフな格好をしていて、髪も乱れたままだった。おまけにスーパーの袋持参。一見するとどこぞの主夫なのかと思わせるが、纏う空気自体が所帯じみたそれとは明らかに隔絶していて、妙な違和感を醸し出していた。
「あ…トマト」
  最初に動いたのはツキトだった。
  暫し互いに見つめあった後、ツキトは慌てて駆け寄ると四方に散らばった数個のトマトを屈んで拾った。それから床に落とされたままの袋にそれを収め、持ち上げると「はい」と志井に渡す。
  志井はそれを何となく受け取ってから、ようやく途惑ったように「どうした」と訊いた。
「お前…ここ、どうやって知った? 上月か?」
「あ…ううん、違うよ…」
  すぐに経緯を話そうとしたもののあまりに志井が無表情なので、ツキトは想像していたよりも悪い方に物事が動く気がして途端不安になり、口篭った。
「兄貴はこの事知っているのか」
  すると志井が立て続けにそう訊ねてきて、何気なく背後に気を配った。一緒に来ているとでも思ったのだろうか。
  ツキトは多少むっとした思いを抱いて首を横に振った。
「兄さんは関係ないよ。でも…別に、無断で来たわけじゃない、ちゃんと言ってある。志井さんに会いに行くって」
「………」
「行っていいとは言われなかったけど」
「だろうな」
  志井はここでようやく小さく唇だけで笑い、それから何かを振り切るようにして一瞬目を瞑ると表情を柔らかいものに変えた。それはどこか無理をしているようにも見て取れたが、ツキトはそれを追求するのが怖かったので黙っていた。
「いつからいたんだ? 大分待ったか?」
「あ…ううん。たった今だよ。インターホン鳴らしてもいなかったから、管理人さんにいつ帰るのか訊いてたとこ…」
  けれど振り返ると先ほどの男性はもう窓からは消えていて、奥に引っ込んだ後だった。
  志井はそんなツキトに状況を飲み込んだというように頷くと、「管理人在住と言っても住民の生活に干渉してくるわけじゃないからな」と言った。
  それから志井は無言でツキトの横を通り過ぎるとエレベーターのある奥の扉へと向かった。そうしてそこのロックを解除し、そのままどんどん一人で先へ進んで行こうとする。
  ツキトはそんな志井の背中に途惑いながら声をかけた。
「あ、あの…志井さん…。俺も行っていい…?」
「え…っ。当たり前だろ…」
  ツキトの声に志井はここで初めて驚いたようになって振り返った。ツキトの遠慮がちなその問いかけに思い切り面食らったという風だ。
  しかし志井は心細そうにしているツキトの表情を見やると、すぐに「ああ」と得心したようになって目を伏せた。
「悪い…何か頭おかしくなってたみたいだな、俺は…。まともに口動いてなかった。折角ツキトが来てくれたのに」
「………」
  口元に自嘲したような笑みを浮かべてそう言う志井をツキトは黙って見つめた。何と応えて良いか分からなかったし、志井も別段何かを求めているようではなかった。
  その証拠にさっと顔を上げた時には、志井はもういつもの調子に戻っていた。
「ツキトは昼飯もう食ったか」
「え…ううん…」
「丁度良かった。俺もこれからなんだ。食ってけよ、作るから」
「志井さんが…?」
  慌てて傍に駆け寄り声を掛けると、志井はどこか照れたように笑った。
「ああ、暇なもんでな。最近は完全自炊派だ。結構上手いぞ?」
「へえ…」
  ほっとした気持ちがして一緒にエレベーターに乗り込む。背の高い志井を斜め後ろから見やるようにして、ツキトはその横顔をじっと見上げた。
  やっと会えた。
  本当にいるんだ。
  そういう思いがしつつも、どこかぎこちない距離にドキドキする気持ちが止まらない。会ってしまえば何とかなるだろうと思っていたが、さっきまでの志井の態度は本人も認めたようにどこかおかしかったし、大体自分だって緊張している。やはり突然過ぎたのだろうか、でも会えたからやっぱり嬉しいし…。そんな事をぐるぐると考え、何だか変だなと思いながら、ツキトはとりあえずは口を閉ざしたまま志井の部屋へと向かった。

  そこは見事に何もなかった。

「すっきりし過ぎ…」
  入ってすぐのリビングの真ん中でツキトが何となく呟くと、志井は笑いながら頷いた。
「ごちゃごちゃしたの好きじゃないしな」
「前あったソファとかテーブルとかどうしたの…?」
「善太郎に全部やった。ああ、隣の部屋にクッションと折りたたみのローテーブルはあるから。それ出してくれるか」
「うん。分かった」
  台所で買ってきたものを冷蔵庫に入れる志井に頷いて見せてから、ツキトは慌てて隣の部屋の引き戸を引いた。2LDKのそこは以前2人で住んでいた所よりも明らかに狭いが、一つ一つの部屋は広い。寝室兼書斎となっているそこは以前の志井の自室と似ていて、ツキトにふっとした既視感を与えた。志井のベッドが好きだった。落ち着かない夜、不安な時はいつもそこに潜り込めれば安心でよく眠れた。
  そのベッドがすぐ間近にある。
「何考えてんだ…っ」
  けれどツキトは慌てて首を振り、クッションとローテーブルを抱えてリビングに戻ると誰が急かしたわけでもないのに急いでそれを真ん中に設置した。落ち着かない。まだ胸がドキドキしていた。だからそれを誤魔化す為にツキトはクッションの上に座った後もそわそわとあちこちに視線を飛ばし、やがて部屋の隅に鞄の下敷きとなって置いてあったモノに目を留め、「あ」と動きを止めた。
  それはスケッチブックと色鉛筆の入った小さな箱だった。
「志井さん、あれ何?」
「見るなよ」
  志井は台所で食事の支度に取り掛かり始めたようでツキトの傍には寄らなかったが、ちらと振り返ってまずいものを見られたというような顔で苦く笑った。ツキトが傍に寄って更なる答えを促すと、志井は先ほど買っていたらしいパスタを湯の沸騰した大鍋にごっそりとねじって沈めながら何気ない口調で言った。
「簡単に言うとイメージ画だな。たとえばコーヒーカップを作ろうと漠然と思っても、実際にこういう形でこういうデザインでってあらかじめ決めてないと落ち着かないんだ。細かい性格だよな。まあ、そんなだから…必ず作る前にラフ画を描くんだ」
「見たい!」
「駄目だ」
「何で!」
  すぐに叫んだツキトに志井は笑いながら尚も首を振った。
「お前ならそう言うと思ったよ…でも、冗談じゃない。ツキトにだけは絶対見せたくない」
「何で! 俺見たい! 志井さんがスケッチしたやつなんて! 凄いよ!」
  ねだるようにシンクの縁に両手をついて微か身体を飛び跳ねさせたツキトだが、それでも志井はうんとは言わない。その後は話を逸らす為だろうか、美味しいパスタの作り方は一方の本によるとこう書いてあるけれど、もう一方の本にはこう書いてあったというような講釈を垂れ始め、ツキトはそれをうんうんと聞きながら、それはそれで楽しいのだけれど、やはり背後のスケッチブックが気になって仕方がなかった。
  それでもその後、2人は全ての事をとりあえずは棚上げして、向かい合わせで食事を取った。
  志井が作ったのはアサリと豆苗のスパゲティで、サラダとインスタントだがカップスープもついていた。グラスに注いだジュースを並べると、それはもう豪華なランチだ。志井はツキトに何故来たのか訊かないし、ツキトもその理由をなかなか話さなかった。ただ、とりとめもない話をして、笑いあって食事をして…その瞬間を何て楽しく幸せなんだろうと感じていたから、ツキトもその心地良さを手放したくなかった。
「志井さん、凄いね。これ、凄く美味しい」
「そうか、良かった。実はな、今新しいメニューにも挑戦してるんだ。これがどの本にも簡単だの手軽だの書いてあるんだが、俺にはなかなか難しい。今、苦戦中なんだよ」
「へえ。何作ってるの」
「オムライス」
  にっと笑う志井にツキトは目を丸くした後、「ええ?」と可笑しそうに笑った。
「オムライス?」
「そう。あの店のより美味いのを作ってやろうと思ってさ。でも卵があんまりふんわりしないんだよな。けど、ライスは美味いぜ? 隠し味にオリジナルの具材入れてるし」
「何?」
「内緒」
「ええー! 何で!」
「今度食わせてやるよ」
「え…」
「うまくいったらな。ツキトに食わせる」
「……う、うん」
  実に自然に志井がそう言うものだから、ツキトは慌てて頷いたものの、返事をするのは一拍遅らせてしまった。自分が突然現れた時、「兄貴の許可は」なんて言いながら途惑った風だったから迷惑だったのかと思って心配だった。けれど志井は「今度」と言った。今度また来てもいいのだ。また会えるのだ。そう思うとツキトの胸は途端にまた忘れかけていたドキドキを思い出して落ち着かないものになった。
「あ、そうだ。俺…」
  そうしてツキトはここへ来た目的をようやく思い出して部屋の隅に置いていた布袋に目をやった。そうだ、あれを見せなければ。まだ立派なものとは言い難いけれど、あれには今の自分の精一杯が詰まっている。あれを見せて、志井がどう思うのか知りたい。図々しい願いだけれど、志井に喜んでもらいたい。
「あのね志井さん、俺――」
  けれどツキトがそれを取ろうと志井の方へ近づき手を伸ばしかけた、その時。
「ツキト」
「え?」
  志井はツキトの伸ばしたその腕を咄嗟に掴むと、そのまま自分の傍へとを引き寄せ抱きしめた。
「志井さ…」
「ツキト」
  志井はツキトをもう一度呼んだ。その声は先ほどまでの口調と何ら変わらなかったが、見つめる眼差しだけはひどく熱っぽかった。ツキトはそれに当てられると途端どきんとして顔を赤くした。志井との近過ぎる距離が気まずくて、けれど嬉しくて。意識してはいけないと思ってもどうしてもこの間の車中での一時が脳裏に蘇り、熱くなる身体を鎮められなかった。
  だってずっと想像していたのだ。願っていた事だった。
「………」
  だからツキトは志井に身体を預けながら黙って目を瞑った。
「ツキト…」
「ん…っ」
  近づいてきたと感じた瞬間、もう唇は塞がれていた。最初の口づけは軽く一瞬のものだったが、ツキトがそれにはっとして目を開くとそれは再び下りてきて、角度を変えては確かめるようなキスがその後何度も続けられた。
  ツキトはぎゅっと志井の腕を掴んだ。
「んっ…んん」
「……ツキト」
  口づけだけでも既に頭は十分飽和状態だったが、繰り返し名前を呼んでくる志井の声にも、ツキトはこのまま自分の身体が爆発するのではないかと思った。どうしよう、熱過ぎる。止まらない。そんな事を考えながら、それでもその昂ぶりを抑える術を知らず、ツキトは半ば箍が外れたように自分の唇を吸う志井に「もっと」とねだるように身体を寄せ、腕を掴む手にも力を込めた。
「志井さ…っ。んんっ」
「ツキト…っ」
  そうし互いに呼び合いながら、2人は暫くの間長い長い口づけをした。互いの温度を確かめあい、見詰め合っては幾度も舌を絡めあわせた。
「ふぅ……ん、んっ」
  キスの音が部屋の中でいやに大きく響いたような気がした。
  ツキトの描いた絵はそんな2人の姿を眺めるように、しんとその場に留まっていた。



To be continued…




25へ戻る27へ
(※「戻る」リンクはツキトシリーズのページへ飛びます。)