あの窓を開けたら


  ―27―



  志井が唇を離し真摯な眼差しを寄越してくると、ツキトはもうどうして良いかわからずにさっと俯いた。顔が赤くなっているのは分かり過ぎるほどに分かる。それが恥ずかしくて志井をまともに見ていられない。けれどこのまま身体を離してしまうのも惜しくて、ツキトは黙ったまま志井の腕に自らの手を添えていた。
  そんな沈黙がどれほど続いただろうか。
  暫くして志井がツキト同様ひどく熱っぽい息を吐き出して声を出した。
「ツキト」
「え」
  それに促されるようにして顔を上げると、志井は躊躇いのある表情を浮かべながらそっとツキトの前髪を掻き揚げた。
「志井さん…?」
「………俺はお前に―」
「う…うん…?」
「………」
「何…?」
  言いかけて、けれど再び口を閉ざしてしまった志井に、ツキトは一気に不安な気持ちがして眉をひそめた。後の言葉を促すように無意識下で縋る手にぎゅっと力を込めたが、それでも反応はない。
  堪らなかった。
「…ッ」
  だから衝動のまま、ツキトは何も言わない志井の胸にだしぬけガバリと抱きついた。
「ツキト…?」
  やっと声がきた。殆ど体当たりの体でやった事だから当然といえば当然なのだが、ツキトはそれでようやくほっとして、志井に顔を押し付けたまま「ごめん」と謝った。
「きゅ、急に、こんな…。でも…ちょっとだけ…」
  最後までは言えなかったが、暗に「もう少しだけこうしていたいのだ」と訴えると、志井は無言でツキトの背中を優しく撫でた。その大きな手のひらはやはりどこかに途惑いを含んでいたが、それでも落ち着いたようなその仕草にツキトは安堵して目を閉じた。
  別段志井からの言葉などなくても、この優しい温もりさえあればそれで十分なのだ。そしてそれを得たいと思うのなら、今やったようにこうして自分から求めれば良い。志井は応えてくれる。そうして、それが叶ったら今度は自分が志井に与えるのだ。……志井の胸の中でツキトはそんな事をふっと考えていた。
(そうだ……。だから絵……あの絵を見せなくちゃ……)
「あのね、志井さん…」
  けれどツキトが再度思いついてそう口を開いた時だ。不意に身体ががくんと傾いて、ツキトは「え」と思いながらぱっと目を見開いた。視界が天井の方へ向かって、そのまま身体が仰向けに倒れる。痛みはなかった。ただその動きがまるでスローモーションのように見えて、呆然としてそれを他人事のように静観していると、上から志井の視線が降り落ちてきた。
「あ……」
「………」
  志井はツキトの顔を挟むようにして床に両手をつき、上から覆いかぶさる格好でじっと黙って見つめてきた。そうか、志井に押し倒されたのかとツキトが思ったのはその時で、黙ったまま相手を見上げているとすぐさまその影は迫ってきて再び唇が塞がれた。
「ん…」
  深く押し潰されるようなそれに鼻で息を漏らすと、志井はすぐに離したが、立て続けに頬や顎先や耳、更には首筋にまでキスを仕掛けてきてツキトのあちこちに触れ始めた。ツキトの鼓動はそれでどんどんと早まった。逆らうわけがない。自分はこのまま志井を受け入れたって良いのだ、むしろそうしたいのだ、と。そう思っているはずなのに、あまりに久しぶりのその体温に、ツキトは志井に腕を回しながらもぶるりと震え、まるでやめて欲しいと言うように志井の背中を衣服越しきつく引っ張ってしまった。
「……悪い」
  すると志井は熱っぽい目を向けながらもすぐに謝り、ツキトへのキスを止めた。
「あっ、違う!」
  勿論ツキトは慌てて声を上げ、自分から離れようとするその身体を捕まえようとしたのだが、志井の動きの方が早かった。蒼白になって尚も言葉を継ごうとするツキトの唇を指先で軽く押さえ、志井は大丈夫という風に笑って見せてからまるで何事もなかったかのような口調で言った。
「あのな、ツキト。実は…お前にやりたい物があるんだ」
「え? あの、でも、志井さん…っ」
  ツキトとしては志井の台詞に引っかかりを覚えながらも、思考の大半はやはりそれどころではなく、志井が気分を害したのではないか、自分は何という事をしてしまったのかと気が気ではなかった。起き上がり尚も志井の腕を強く掴んだまま、目だけで強く訴えかける。
  してもいいのだ、したいのだと…訴えた。
「ツキト、いいんだ。今のは俺が悪い。それより聞いてくれ」
  けれども志井はいよいよ困ったように笑いながら大きくかぶりを振り、今の一連の行動は忘れて欲しいというような顔で逆にツキトの腕を強く擦った。
「……何?」
  それでツキトも観念して渋々顔を上げると、志井は途端に照れたような言い淀むような様子で視線をちらと他所へ移した。
「大した物じゃないんだ。ただ、この間見せた時にお前が喜んでくれただろ…。だから、お前の為に焼いた物があって」
「え…?」
「本当に何て事ない。何の変哲もない、ただのコーヒーカップなんだけどな」
「……本当?」
  目を見開いてその言葉に思い切り反応すると、志井はようやくほっとしたようになって頷いた。自分の方を見上げるツキトの頭を撫でながらやや軽い口調になって続ける。
「この間な……ツキトと別れた後、何故だか猛烈に作りたくなったんだ。お前にやるならこういう形のこういう柄のカップがいいって自分でもびっくりするくらいぱっと浮かんで…。いつもとは違う窯で焼きに行ったからちょっと時間掛かったけどな。もう出来上がる頃だ」
「………」
「どうした…?」
  志井の言葉にふと黙り込むツキトに志井が首をかしげて訊ねる。ツキトは「ううん…」と緩く首を振った後、笑みを作ろうとして頬を引きつらせた。嬉しい。嬉しいのだけれど、ぱっと浮かんで出て来た言葉はそれとは全く方向違いのものだった。
「あのさ…。それで…今まで会いに来てくれなかったの?」
「え…」
「あっ!」
  そして言った瞬間、ツキトは大後悔した。慌ててぶんぶんと首を横に振る。
「いいんだよ、それは別に! 別にさ、あの時だって次の約束してたわけじゃないし! 俺だって今日まで会いに来られなかったんだから、そんなの別に! 志井さんを責めてるわけじゃない! た、ただ、そうなのかなって思ったから…っ」
「………」
「本当に! べ、別に俺は気にしてなんかなくて…っ」
  こんな風に焦ってまくしたてれば余計に「俺は思いきり気にしてました」と言っているようなものなのではと思いながらも、ツキトは黙り込む志井との間に沈黙を作りたくなくて必死になって「いいんだよ」と繰り返した。それにより1度は落ち着きかけた頬にまた熱が戻ってきて、またしても赤面してしまった自分に気づく。それにまた余計焦ってどもってしまう。悪循環だった。
「あ、あ、あのさ、俺、、俺は本当に…!」
「ツキト」
  しかしツキトがそうしてわたわたとしていると、志井がようやく口を開いた。
「俺は、本当はこの間会いに行った時に言うつもりだったんだ。……けど、情けない事にどうしても言えなかった」
「な……何を?」
  志井の言う意味が分からずツキトが首をかしげると、志井はどこか緊張したように息を吐き出してから「それを」と言った。
「え?」
「その…作ったそれをお前に見せられたら…言う」
「だ、だから、何を?」
「……だから、今日は言わない」
「え、えーっ。もう、何それ?」
「悪い」
  思わず不平を漏らすツキトにふっと笑みを漏らして志井はあっさりと謝った。あまり悪いと思っていないようなその態度にツキトはますます「何なの?」と詰め寄ったのだが、志井がその先を言うつもりがなく、誤魔化すように抱きしめる腕に力を込めてきたそれ自体が嬉しかったので、それ以上の追及は出来なかった。志井の態度から、その「言いたい事」とやらが不吉なものであろうという感じはしなかったから、志井が本当に言う気になるまで待てると思った。
「あ、じゃ、じゃあさ。俺が言う事あるんだけど。いい?」
「何だ?」
「あれ」
  ツキトは志井に抱きとめられたまま、自分たちの背後にある包みを目だけで指し示した。志井が振り返り見て「絵か?」と訊くのを嬉しそうに頷く。
「な、何かさ、何か凄いよね。俺も志井さんと同じなんだ。志井さんと会った次の日から描き始めたんだ、あれ。そ、それで…出来たら絶対志井さんにプレゼントしたいと思って」
「………」
「最近ずっと油彩画ばっかりだったけど、これは違うんだ。今までと感じもちょっと違うと思う。志井さん…気に入ってくれるか分からないけど」
「………」
「…志井さん?」
  背後の絵を見据えたまま何も言わない志井にツキトはぴたりと止まってその顔を見上げた。分からない。志井が考え事をしている時の顔は本当に相手に何も気取られないような無表情で、それで不安に思う事もザラなのだが、この時はそれがより一層酷かった。
「あ、あの…。み、見てくれるだけでいいんだ。あんな大袈裟に包装とかしちゃったけど…」
  慌ててそう言ったものの、自分の発した台詞にツキトは自身で傷ついた。見てくれるだけでいいなどと大嘘だ。ツキトは自分の描いた絵を志井に貰ってもらうつもりだった。ここへ来るまでは、否、この瞬間まではその考えに浮かれてすらいた。けれど志井の無反応にツキトはそれが自分本位の図々しいものであったという考えに初めて思い至った。
  もっとも、そんな心配もほんの数秒のものだったのだが。
「あ……ツキト」
「え……」
  今まで動きのなかった志井がハッとしたようになって瞬きをし、改まった顔でツキトを見やった。それからツキトの右手を手に取ると、焦ったように口を継ぐ。
「お前、あの時手を痛めてたんじゃなかったか? それなのにこんな短期間であんな大きな作品描くなんて…。大丈夫なのか? 痛くないか? 医者には診せてるのか?」
「え…何が…。あ、ああ…」
  殆ど慢性の腱鞘炎の事かと気づくのには暫くの時が要った。
「平気だよ。全然痛くない。大体、描いてる時に他の事なんか考えられないし」
「それが危険なんだ」
  志井はぴしゃりと言ってツキトの右手を擦った。ツキトはそれを途惑ったようにして眺めながら、いつも志井がこうして自分の甲を撫でてくれた事を思い出した。動かない、何も描く事の出来なかったこの手を、志井は何度も何度も祈るような目で見つめ、こうして撫でてくれていたのだ。
「……もう動くよ。いつだって描ける」
  胸を熱くさせながらはっきり言うと、志井はようやく「ああ」と頷いて手を離した。そうしてふっと再び息を吐き、片手を伸ばして袋に入ったそれに触れる。そのどこかぎこちない動作に、ツキトは自分同様志井が緊張している事を知った。
「ツキト…。これ、貰ってもいいか」
  やがて志井がそう言うのをツキトは幻聴かと思う程の驚きを持って目を見開いた。それを、そう言ってくれる事を望んでいたくせに、また予想していたくせに、改めてそう言われた事で、ツキトは確かに歓喜したのだ。
「あ…あ、当たり前だよ…」
  だから妙に慌てて舌をもつれさせてしまったのだが、そんなツキトの動揺に志井は気づかなかったらしい。「ありがとう」と嬉しそうに礼を言い、ただひたすらにその絵の入った袋を見つめていた。
  それでツキトもより一層全身から喜びが湧き上がって、自分もさっと志井が触れているその袋に手を伸ばした。
  信じられない程、幸せだと思った。
「ツキト」
  けれど志井は何故かその袋を引き寄せて愛しげに撫で続けているものの、なかなかその厳重に包まれている包装紙を破こうとはしなかった。
  そして言った。
「これ…お前が帰った後に見る」
「え?」
「今は開けたくない」
「な、何で…?」
  至極もっともな疑問をツキトが途惑いながら口にすると、志井は困ったようにぽつと呟いた。
「自分がどんな顔しちまうか分からないから」
  そしてその発言にツキトが何かを言う前に志井はさっと立ち上がった。その際、ツキトの頭をさらりと撫で、まるで子供に対するようにぽんぽんとあやすように叩いて。
  過保護な親のような態度で志井はツキトに告げた。
「送っていく。遅くなる前に帰らなくちゃな?」
「え…」
「今からならこの間よりは早く帰れるだろ。夕飯には間に合う。…兄貴がうちに襲撃してくる前にお前を送る」
「そ、そんなの…」
  来たばかりなのにと思いながら、それでももう車のキーを持つ志井にツキトは何も言えなくなってしまった。マンションのエントランスで志井が口走った「兄貴の許可は」という言葉がまた蘇り、ツキトは自然口を引き結んだ。
  先に歩く志井の背中を見やりながら、ツキトは志井があの夜兄に向かって礼を言っていた姿と今をふっとだぶらせていた。





  「ただいま」という声と共に玄関の扉を開くと、目の前にいつも迎えてくれるはずの典子はそこにはおらず、代わりに兄の太樹が立っていた。
「…ただいま」
  ここから表門までは大分離れているので、車の音など聞こえなかったはずなのだが。
  どうして自分の帰ってくるのが分かるのだろうと不思議に思いながら、ツキトは自分を冷めた目で見下ろす兄にもう一度「ただいま」と言った。
「何処行ってた」
「知ってるでしょ。志井さんの所」
  あのメモとて分かっていて置いたのではないか…そう思ったがツキトはそれを敢えて口にはしなかった。兄の真意を確かめる勇気がツキトにはなかったし、第一兄が「それ」を認めるはずがない。結果、ツキトは一番短い返答をするだけという最も無難な選択肢を取った。
「月人様、お帰りなさいませ!」
  一拍後、ぱたぱたといつものように典子が慌てて駆けてきた。一瞬、典子は太樹に叱られはしなかっただろうかと不安が過ぎったが、表情を見る限りそれは杞憂だったようだ。典子も目だけで「どうだったのだろう」という気持ちを露にしているものの、基本はいつもの元気な様子で「お夕食は済ませられましたか?」とだけ訊いてきた。
「ううん、食べてないよ。俺の分、ある?」
「勿論です。温め直しますから、暫くお待ち頂けますか? あ、それともお風呂を先になさいますか?」
「うーん、ご飯が先がいいな」
「畏まりました!」
  典子はにこりと笑うと、また騒々しくぱたぱたとダイニングへ向かって足早に去って行った。それを何となく見送った後、ツキトが自分も靴を脱いでまずは着替えと自室へ向かおうとすると、暫し何も発しなかった太樹が背中越しに声を掛けてきた。
「あの男の所で済ませてきたんじゃないのか」
「え…」
  一瞬何を訊かれたのかとツキトは驚いて振り返ったが、太樹は二度繰り返す気はないらしい。黙ったまま、ツキトの答えを待っているようでただ憮然とした表情を続けている。
「食べてないよ…。お昼はご馳走になったけど」
  だからツキトはあったままを答え、それから少しだけふざけたように笑ってみせた。
「志井さん、ちょっと渋滞に捕まった車の中でも『早く帰らなきゃな』ってばっかりでさ。俺が兄さんに怒られたら大変だって、凄く気にしてるんだもん」
「…フン」
  バカにしたように鼻だけで哂うと、太樹は厭味たらしく唇の端を上げたが、すぐに顎だけで「もう行け」と命令した。もうこれ以上何も言うつもりはないようだった。
「兄さん」
  だからというわけでもないけれど、ツキトは押し黙っていようと思っていた口を自分から開いた。
「あのさ…ありがとう。志井さんのいる所、教えてくれて」
「何の話だ」
「……知らないって言うならいいよ。でも、俺は感謝してる。俺…今日、凄く嬉しかった」
「………」
「兄さんの為でも志井さんの為でもない。俺は今日、自分の為にしたいって思う事した。はは…お前はいつもそうだろって言われたらそれまでだけどさ…。でも、兄さんに怒られるかもとか、志井さんに迷惑がられるかもとか……、そういうの全部振り切って動けた自分…嬉しかったんだ」
「自分勝手な事が嬉しいのか」
  あっさりとそう切り返す太樹にツキトは思わず噴き出した。
「兄さんならそう言うと思ったよ。うん…でも、そうだね。俺は本当に自分勝手だ」
「………」
「でも…兄さん、ありがとう」
「……もう行け。お前の話は分かった」
「どう分かったの?」
「お前が俺の言う通りにならない…どうしようもない我がままな弟になっちまったって事がだ。さっさと着替えてこい」
「俺、兄さんの弟だよ? 生意気なのは遺伝なんじゃ?」
「月人」
「着替えてくる!」
  くるりと背中を向けてツキトは一気に階段を駆け上った。本当は家で兄にどんな風に叱られるんだろうと予想していたのに、心は信じられない程に軽かった。
  自然、口元に笑みが浮かんでいた。
  志井が送っていく車中の中でもさんざ太樹の動向を気にしていたのは本当だ。
  ツキトとしては一年前、志井が兄に土下座までして自分の絵の事を兄に頼んでいた事、もう二度とツキトには触れないでくれと頼んでいた事を言おうかどうしようか悩んでいたところがあったから、兄との約束に固執していそうな志井にその時の経緯や、「それならば何故あの時は会いに来てくれたのか」と言うことも訊きたいと思っていた。
  けれど結局、ツキトはそれを口にしなかった。志井がそれを望んでいない事は分かっていたし、今それは問題ではない。今大切なのは、自分が志井に会いたいと思い、それが実現できた事、突然来た自分に志井は途惑いながらも優しく接してくれた事、絵を受け取ってくれた事、それだけなのだと思ったから。
「でも…志井さん、何を言いたかったんだろう」
  自室で上着を脱ぎながらツキトはふと独りごちた。今日もそうだったが、この間から志井はずっとそうだった。ツキトに何かを言おうとしてはやめ、らしくもなくふと思い悩むような素振りを見せていた。以前の志井はツキトが困ってしまうくらいに強引で、どちらかといえば何でも思った事は言う方だった。ツキトが「あんな目」に遭ってしまい、右手が動かなくなってからの同棲生活以降は、志井のそういった態度はなりを潜めていたが、それでもああまで何かを言い淀んだり物憂げにしたりといった表情は見なかったように思う。自分の為にカップを作ったという志井の言葉が嬉しいはずなのに、ツキトはやはりその事が気になって、脱いだ上着をハンガーに掛ける事もせず、何となくそれをベッドに投げ捨ててから、はっと息を吐いた。
  それから、何気なく今まで作品を置いていた場所に目をやる。当然の事ながらそれはもうない。志井は自宅に帰ったらすぐにあれを見てくれるだろうか。目にした後は、一体どう思ってくれるだろう。何を感じてくれるだろう…。それがとてもとても気になった。姉には兄同様、「オリジナリティのないものを」と酷評されたが、あの洋食屋をモデルにした小さな家は、ツキトなりにこれまでの色々な想いを詰めたつもりだ。それが少しでも志井に届けば良いと思う。あの窓を開けたら、そこにはたくさんの幸せと喜びが溢れてきて、そこへやってくる人も、それを出迎える人も、みんなが嬉しい気持ちになる事が出来る。そういうシーンを想像してもらえたらいいなと思った。
「あれ…?」
  そんな事を考えながらツキトがふと自室の窓へと目をやると、何かが外でキラリと光ったような気がした。不審に思い窓際へ近づいたが、ツキトの部屋の窓から下は温室へ続く庭の一角で道路とも隔てられている為、何もない。人や車が通るわけもなく、家人がそこに行かなければ何かが動くわけもないので、気のせいかなとも思い直す。
「………」
  それでも何かが引っかかり、ツキトは更にそこに近寄ると既に真っ暗になっている外を見る為、鍵を開けてガラリとその窓を開いた。
「え…!?」
  すぐ真下を見てツキトは我が目を疑った。
  そこには志井が立っていたのだ。真っ直ぐにこちらを見上げている。
「し、志井さ…ッ!?」
  思わず身を乗り出して声を上げそうになったが、不意に背後が気になってツキトは口を閉ざした。帰ったとばかり思っていた志井が何故、どうしてと。そういう思いがぐるぐるとしているのだが、それ以上にもし勝手に自宅の敷地に入った事が兄にバレたらそれこそ大変な事になってしまう、と。ツキトは慌てて首を横に振ると、努めて声を潜めながら「志井さん」と口だけは大きく開いて相手を呼んだ。
「ツキト」
  すると志井の方はそんなツキトには構わず、まるで周囲を憚る事もなく、むしろ普段の声量よりも大きめの声を出してツキトの名前を呼んだ。
  ツキトはそれで余計に慌てた。
「ちょっ…! し、志井さん、兄さんがもう帰ってきてて…!」
「ツキト!」
「……っ」
  自分の声が聞こえないわけはないだろうに、志井はもう一度ツキトの名前を呼んだ。しかも先ほどよりも大きな声だ。もう駄目だ、絶対に見つかる。この真下はリビングに連なる部屋があって、恐らくは自分と共にこれから夕食を取る太樹もその近くにいるはずだ。あれほど兄の事を気にしていた志井が何を思ってこんな事をしているかは分からないけれど、ツキトはもう自棄だと、窓枠にぐっと両手をついて上半身を乗り出すようにしてからへにゃりと情けない笑みを浮かべた。
「ど、どうしたの、志井さん!」
  ツキトがそう返すと、志井は窓から顔を覗かせているツキトをじっと見上げながら毅然として言った。
「今度言おう、次言おうって…俺はバカだろ。単に勇気がなかっただけだ。二度もお前を失って、もうあんな想いはごめんだって思ってたんだ。自分護る事しか考えてなかった」
「志井さん…?」
「全部言い訳だ。お前を想ってとか、お前が俺を好きな理由が分からないからだとか…。どうでもいいんだ、そんな事は。俺は、どうでもいい。そんな事関係ない!」
  志井が声を張り上げると、ガラリと下の部屋の引き戸が開いて典子の「な、何ですか!」という声が響いた。やはり聞こえていたらしい。当たり前だ、こんなに声を張り上げているのだから。何故か太樹が出てくる気配はないが、それでも典子は途惑ったように何やかやと志井に何事か言っている。
「ツキト」
  けれど志井はツキトだけをただ見上げ、ツキトもまた志井を黙って見つめていた。距離はあったけれど、また周囲も暗くてその姿は認識し難いはずなのだけれど、不思議と互いの表情はよく見えた。
「ツキト!」
  そして志井はまた叫んだ。めいっぱいの声で。こんな志井を見たのは初めてだとツキトは思った。
  思って、けれど声は出なかった。ただ志井を見つめていた。
「ツキト!!」
  志井はもう一度ツキトを呼んだ。そして言った。
「俺は、お前が何になろうが、俺をどう思っていようがそんな事どうでもいい! ……愛してる!」
  ツキトが目を見張ると志井はもう一度その言葉を繰り返した。
「俺はお前を愛してる!」 
「――………」
  唇を開いたものの、ツキトは何故か声を出す事が出来なかった。志井の真っ直ぐ見上げてくる眼差しに吸い込まれるようにただそれだけを見つめて、何の言葉も浮かんでは来なかった。志井に愛していると言われた事が今まで一度もなかったわけではない。同棲していた時、何度か言われた事はある。好きだと言われた事も、可愛いなと言われた事も、きっと全部を思い返せないほど言われた。けれど反面、志井は折に触れて言う事があった。今まで誰も本気で好きになった事がないし、何にも夢中になった事がない。俺は人として当たり前の何かが欠けているんじゃないかと思う事がある、だから時々…本当に時々だけれど、ツキトに対して間違った事をしなけりゃいいなと思うよ…と。それは志井という男の中の常にある葛藤であっただろう。人を愛した事のない男は、だからかいつでも理由を欲しがった。自分がツキトを愛するのは何故か、ツキトが自分を愛するのは何故か。そんなもの考えても意味のない事だと、ツキトはあの1年前最後に別れた山荘で志井に対して思ったものだった。けれど、それをうまく志井に伝える事はできなかった。自分自身に負い目があったし、あの頃はツキトも自分の志井への想いをひたすらに貫く勇気が持ちきれていなかったから。
  けれども今日。
  ほぼ同じタイミングで、自分たちは全く同じ答えに行き着いたのではないだろうか。
  行き着けたのではないか。
「お、俺……俺……志井さんっ! い、今、今、そこへ行くから待って!」
  急いで叫んだ後、ツキトは猛スピードで部屋を出て階段を駆け下りた。けれど、揺れる視界の中で玄関の扉しか見えていなかったツキトの目の前に、ふっと兄の太樹が現れた。ツキトが下りてくるのが分かったのだろう、太樹もまたリビングから玄関の方へ移動してきたところだった。
「……っ」
  勢いこんだ余り、階段を一段ずつ下りる事が出来ず、また唐突に現れた兄の姿に面食らい、ツキトはぐらりと体勢を崩してそのまま階下へ転落しそうになった……が、残り4段ほどだった事と太樹が飛び降りてきたツキトをすぐに抱きとめた事とで大事には至らなかった。
「に、兄さん、俺…!」
「気をつけろ」
  思い切り不機嫌な顔をして、太樹は抱きとめていたツキトの身体を離してぶっきらぼうにそう言った。ツキトの両腕を掴んではいるものの、大した力は込められていない。
  逆に焦ったツキトがそんな兄の片腕に力を込めて、勢いこんで口走った。
「し、志井さんが、い、い、いる…!」
  すると太樹は妙などもり方をするツキトに心底呆れたような顔をして眉をひそめた。
「気づかないとでも思ってるのか? あんなでかい声で喚き散らせば嫌でも聞こえる。何を考えているんだ、あの男は。恥ってものを知らないのか?」
「お、俺、行く!」
「何処へ」
  太樹はまだ腕を離さない。何故こうも平静でいられるのだろうとは思ったが、それによりツキトもようやく落ち着こうと何度か深呼吸し、自身に言い聞かせるように頷いた。
「志井さんに、俺も志井さんが好きだって言う。言いたい!」
「……バカな男にバカな弟か。お前らは、本当に――」
「兄さんっ」
「なっ…」
  またいつもの悪態をつこうとした太樹は、しかしらしくもなく意表をつかれて後の言葉を失った。一旦は気を落ち着かせたかに見えたツキトが再び妙に興奮したようになり、感極まって太樹に抱きついてきたからだ。
  そしてツキトは先刻の志井のようにめいっぱいの声で叫んだ。
「兄さんっ。俺は! 俺は、志井さんが好きだ、好きだ、好きだっ!」
「……3回も言うな」
「そうなんだ、バカなんだ! 志井さんは違うけどね、俺は本当にバカなんだよ兄さん!  でも、バカでいい…! 俺、俺……行くね!」
「月人」
「え!」
  再び走って玄関外へ飛び出ようとするツキトに、しかし太樹がおもむろにその手首を取った。ツキトがあっとなって振り返ると兄の方は依然としてむっとした顔のまま、もう一度ぎゅっと強くそこに力を込めて厳しく言い含めるように言った。
「お前の門限は今日から20時だ」
「え…?」
「20時まではあと5分だ。言いつけを破れば……分かってるな?」
「………」
「分かったか、どうなんだ月人?」
「……うんっ! わ、分かった!」
  沈黙はほんの数秒。
  ツキトは大きく頷くと太樹に満面の笑みを見せた。立て続けに「ありがとう」と大きく礼を言うと、兄はいよいよ嫌そうな顔をして顎だけで「さっさと行け」と指し示した。
  ツキトはもう一度兄に礼を言うと、今度こそ外へ飛び出した。靴を履く事も、傍にあったサンダルをつっかける事すら忘れていた。気づかず靴下のまま駆け出していた。

  志井は先ほどの場所に立ち尽くしたままツキトを待っていた。

「志井さん!」
  急いでそのままの勢いで抱きつき、ツキトはその胸に顔を押し付けながら声を上げた。
「俺も……俺も、俺も俺も…!」
  けれど「好き」「愛してる」という単語がなかなか出てこない。おかしい、どうしよう早く言わなければと思っているのに舌が絡まってどうしようもない。
「あ。あ、あ、あの…」
  病気になったのだろかと思う程訳が分からなくなり、ツキトはどうしたものかと余計に慌てたが、しかしいきなり懐に飛び込んできたそんなツキトを受けとめた方の志井は、叫んだらすっきりしたのかいやに静かになっていて、優しくその背中を撫でると「ツキト」と囁くような熱っぽい声で一つ呼んだ。
「……っ」
  それだけでツキトの胸はどくんと高まった。
「お前の言葉は要らない」
  そして志井は言った。髪に唇を当てて志井は「いいんだ」ともう一度繰り返すと、ハアと大きく息を吐き出して続けた。
「いいんだ。俺は、ただ…自分の気持ちを言いたかっただけだ。はっきり、お前に告げておきたかっただけなんだ。……ずっと言えなかったけどな」
「嫌だ、そんなの! なら、俺も言いたい!」
「お前は、もうくれたじゃないか」
「え?」
「絵をくれた」
「で、でも、あれは…」
  ツキトが慌てて顔を上げて再度言おうとするのを、志井は少しだけ笑って見せてから首を振った。
  そしてツキトの頬をさらりと撫でた。そこにツキトがいる事を確かめるように、その輪郭をしっかりと辿るようにして。
「ツキト、愛してる。どうしてもお前がいい。だからもう1度……もう1度だけ、俺にチャンスをくれないか。……俺と付き合って欲しい」
「志井さん…」
「俺を知ってくれ。お前に好きになってもらえるような男になる」
「お、俺はもう、とっくに…」
  ツキトが必死に言おうとする言葉を、しかし志井はまた止めた。ツキトがどう説明しようとしてもまだ志井は駄目らしい。咄嗟に上月の言葉がツキトの脳裏に浮かぶ。「こういう事って、人からどう言われようと自分がそうだと思っちゃったら、もうどうにも消せないもんだと思わないか?」と。自分自身が納得しなければどうにもできない問題なのだと。
「………」
  ツキトがそれに気づいて口を閉ざすと、志井はほっとしたようになってまた柔らかく笑んだ。
「自分で、お前のその言葉を、気持ちを…素直に受け入れられるように頑張るから。……ツキト。俺と一緒にいてくれ」
「うん」
  ツキトがすぐに頷くと志井はツキトの頭を撫でた後、すぐにふっと顔を上げた。抱きしめてくれるのかと思ったツキトには物足りなかったが、視線が自分にない事に気づき、ツキトはおやと思って首をかしげる。
  すると志井は急に可笑しそうに目を細めて肩を竦めた。
「……その為には、今日はもう帰らなきゃな。こんなことしでかして、後ろの奴の視線が痛い」
「え………あ」
「門限まであと2分」
  容赦のない声が2人に投げ掛けられてきて、ツキトもすぐに振り返った。いつの間にかすぐ後ろに太樹が立っていて、「靴くらい履け」とツキトの物を投げて寄越す。そんな兄にツキトは途端破顔して、それからもう一度志井の顔を見上げた。


  後にその一部始終を見ていた典子は、既に良い友人になっている田中にその夜の志井の言動についてこう話して聞かせたという。
「本当に凄かったんだから! 怖いお父さんが目の前にいるのに、堂々と彼女に『結婚を前提にお付き合いして下さい!』ってお願いしてるみたいで!」



To be continued…




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