あの窓を開けたら


  ―epilogue―



  志井に告げていた時間より2時間も早く着いてしまって、ツキトはどうしようと暫しマンションの入口付近でうろうろと歩き回った。家に着くのは昼過ぎだからそれ以降なら何時に来ても構わない…そう言われてはいたが、ツキトは海外出張中殆ど眠っていないと話していた志井の身体が心配だったし、帰宅後すぐに家に押しかける自分はとても図々しいような気がして、「何なら行くの一日延ばそうか」とバカな事すら口走っていた。勿論、志井は「睡眠は飛行機で取る」、「ツキトに一日でも早く会いたいのに何だそれ」と一もニもなくその提案を却下したのであるが、絶対に来いとか、じゃあ○○時に来いといった事までは指定しない。本当は会いたいのに遠慮して「行くのを延ばそうか」と言ったツキトと同様で、志井も徹底的なところではツキトに気を遣う事をやめなかった。
  そんなお互いが双方妥協したところで手を打ったのが、「おやつの15時に志井宅で」というものだった。
  志井ははじめツキトの家まで車で迎えに行こうかなどとこれまたとんでもない事を言ったが、それはツキトが瞬時に却下。――で、昨日気づいた新装開店のお気に入りの洋菓子店でお土産のチョコレートを買って、ツキトは自ら志井のマンションへと赴いたわけである。
  そういうわけなのだが。
「どうしよう。休んでるか、もしかしてまだ帰ってきてないかも…」
  幾ら何でも張り切りすぎた。いつまでも家でそわそわして典子にからかわれるのも嫌だったし、いつまた太樹の気が変わって外出禁止令を出されるかも恐怖なので、何だかんだでどこかで時間を潰せばいいさと早々電車に乗り込んでしまった。にも関わらず、結局目的の駅に着くと「時間を潰す」事も忘れて真っ直ぐ志井の所へ向かうのだから重症だ。以前渡された部屋の鍵を眺めながら、ツキトはよし入ろう、ああでもやっぱりそこらをもう一周してからにしようか…と、結局また表をうろうろとして困ったように地面を見つめた。
「ツキト」
「えっ」
  その「うろうろ」を何周したあたりだったろうか。
「一体いつ入ってくるのかって、待つのに疲れた」
「あ……えっと」
  呆れたようにエントランスの所に立つ志井の姿が見えて、ツキトは途端カッと顔を赤くした。いつから見ていたのだろうと気まずい思いをしていると、志井はやがてつかつかとツキトの傍にまで歩み寄り、周りも憚らずぎゅっと強く抱きしめてきた。
「わっ…」
「ツキト。会いたかった」
「う、うん…俺も…」
  志井は何だか会う度にこういったスキンシップがあからさまになっている気がする。
  痛いくらいに締め付けられて、ツキトは面食らい心臓を高鳴らせながらも何とか自分も両腕をそんな志井の背中に回した。幸い人の通りはないが、管理人室の小窓からちらりと見えるいつもの視線には気づいてしまった。またこいつらは…という男性管理人の呆れたようなビームが痛くて、ツキトはようやっとバンバンと志井の背中を叩いて「志井さんっ」と離すように訴えた。
「ん…」
「ん、じゃなくてっ。は、早く部屋行こう?」
「ツキトがちっとも上がって来ないから迎えに来たんだろ?」
「わ、分かった。分かったからっ」
  無理矢理引き剥がされて志井は不満そうだ。未練がましくツキトの両手を掴んだまま、志井は「折角久々の再会に感動していたのに」というような顔を見せた。
  もっとも、それもわざとツキトを困らせる為に作っていただけのようだったが。
「ツキトが早く来た時の為に昼飯も用意しておいた。食べるだろ?」
「えっ。作ったの?」
「作ってた。帰ってすぐ」
  大きなスーツケースを引いたまま駅近くのスーパーに寄ったと、志井はエレベーターで上がりながら自慢気に胸を張った。こうして早く来る事が読まれていたようでツキトとしてはますます恥ずかしい気持ちがしたのだが、それでも一緒に、しかも久しぶりに志井の料理を口に出来る事は嬉しいと思ってしまう。
  何せ今日は朝から志井に会える喜びで興奮していたせいか、典子にどんなに煩く言われても朝食が全く喉を通らなかったのだ。まさに胸がいっぱいだった。
「志井さん、ちゃんと寝た?」
  エレベーターを降りて先に部屋へ向かう志井の背中にツキトはそう声を掛けた。
「ああ」
  志井は振り返らぬままそうあっさりと答えた。
  それで余計に嘘だとツキトには分かってしまったのだが…。ツキトは抗議するようにすかさず志井の背中を軽く叩いた。
「嘘でしょ」
「……何でそう思うんだ?」
「この間、相馬さんから志井さんの嘘の見抜き方を教わったんだ。志井さんって嘘つく時すぐにさも本当っぽく返事するって。こっちの顔見ない時は尚更怪しいんだって」
「あの野郎…。今あいつ日本にいないはずだけど、いつ話した?」
「んー。この間」
  ドアを開いて先に入るように示す志井にツキトは笑いながらとぼけて見せ、「お土産に向こうの魔除けグッズを頼んだんだ」と付け足した。
  志井が小林邸に侵入してツキトに熱烈な告白をした事、それによって2人がよりを戻した事を、志井の親友である相馬は何も知らされていなかった。当然といえば当然で、志井がそんな事を誰かに話すはずもないのだが、親友なのだから当然知っているだろうとツキトがぽろりと漏らした際の彼の仰天した姿というのは、なかなかに忘れ難いものであった。そもそもツキトが志井のマンションにいる事自体相馬は驚いて、偶々鉢合わせした時に「何でここに!?」と驚愕した彼である。事情を聞かされた後、相馬は「あれだけ人を騒がせておいて何の報告もなしか!」と勿論志井に対し激怒したのだけれど、傍でハラハラとしているツキトにはくしゃりと顔を崩して「良かったなあ」と何度も何度も言ってくれた。
  それ以来、相馬もツキトにとっては自分たちを理解してくれる掛け替えのない人である。
「俺はあいつとお前を近づけたくない。あいつは駄目だ」
  けれど志井はあまり面白く思っていないようだ。ツキトを部屋へ通して自分は昼食の支度をする為か台所へ向かったものの、むっとした顔をして自分の知らない間に親しく話をしていたらしいツキトたちに憮然としていた。
  ツキトはテーブルに持ってきた土産を置きながら、そんな志井を不思議そうに見つめた。
「どうして? 相馬さん、面白いし良い人なのに」
「………」
「志井さん?」
  ぴたりと動きを止めて何も言わない志井にツキトは不思議そうに首をかしげた。
  互いが共にいる中でしんとする機会などしょっちゅうある。何となく互いがお喋りをやめた合間とか、そうでなくとも未だ双方どこか気を遣いあっている仲だから、相手の動向を気にして口を噤んだりとか。
  けれどこの時の沈黙は、それが久しぶりという事もあってかツキトを普段よりも「変だな」という気持ちにさせた。
「どうしたの…?」
「………」
  それでも志井は何も言わない。
  けれどそれでいよいよツキトが不安そうに顔を曇らせると、志井はハッとして歩み寄ると「ごめんな」と謝ってツキトの頭を撫でた。
「悪い。ぼーっとしてた」
「……本当?」
「ん…」
「本当にそれだけ?」
  ツキトは志井の顔を覗きこむようにしてそう訊いた。何か言いたそうにしつつ黙ってしまう志井も、これまでに何度も見た。それをこうして追及できる時もあれば無理な時もあり、余計な詮索をして志井に嫌われたくはないから、どちらかといえば後者の割合の方が高いツキトだった。
  けれどだからこそ、こうして訊けた時は勇気を振り絞って最後まで言葉を出そうと決めている。
「お、俺…何かまずい事言った? 志井さんを嫌な気持ちにさせるような」
「いや。違う」
  志井はそんなツキトにまたぐしゃぐしゃと髪の毛をかき回してかぶりを振ると、本当に何でもないというようにその自分で乱した場所に唇を落とした。そうしてその髪にキスを落とした後は額に頬に、そして唇に移行させていって、ツキトが察して目を瞑るとその目蓋にも唇を当てて、志井は再度「違う」と言った。
「あのな、ツキト。俺はやっぱり根本では変わらないから」
「……?」
「俺は勝手な奴だから。本当はお前と一日でも離れていたくないし、お前が俺以外の誰かと楽しく話したりする事もむかついてしょうがない。何でお前は俺だけを見ないんだとか、何で俺はお前にそれを強く言えないんだとか、どうしようもない事でイラつくんだ」
「……イラつく?」
「ああ。時々、今の俺は俺じゃないって思って狂いそうになる時だってある」
  自身を卑下するように唇の端を上げた後、志井はそれを誤魔化すようにもう一度ツキトの唇を荒々しく奪った。ツキトがそれであっという間に酸欠状態になるのも構わず、頬に手を当てそこをなぞりながら、志井はキスだけに翻弄されているツキトの身体ももう片方の手でまさぐった。
「……っ」
  ツキトはギクリとして瞬時身体を強張らせた。
  志井との関係を修復してから早数ヶ月。それなのにまだ志井とセックスはしていなかった。1度もしていない。志井も求めてはこなかったし、ツキトも誘わなかった。本当は時間を見つけて志井のこの部屋へ来る度、今日はやるかもしれない、今度は自分から言ってみよう…そう思いつつ、ツキトは今日までその事を先延ばしにしてきてしまった。いつも準備だけはしてきているのだ。恥ずかしくて志井にその事を告げた事もないが、いつ抱かれても良いようにと、それ用のローションとてリュックに忍ばせている。我ながら淫乱だとツキトは思う。志井と会う時、いつもセックスの事ばかり考えているような気がして。
「し、志井さん…」
  そのくせツキトはそのあと一歩を踏み出す事が出来ていなかった。志井の事が大好きだから大丈夫だ、平気だと何度も頭では言い聞かせている。そもそもツキトにとってセックスの良い思い出は志井との付き合い始めのそれしかない。後は怖くて苦しくて、自責の念に囚われた、己の肌を擦られる感触だけが生々しく耳にこびりつくようなものしかなくて。
  志井とのセックスだけが自分にとって望むべきものであるはずなのに。
「こ…怖い」
  けれど、だからこそであろう。ツキトはつい発してしまったその本当の気持ちにハッとして瞬時ぐしゃっと顔を歪めた。自分を押し倒し上着を脱がそうとしていた志井の手がぴたりと止まる。熱っぽい目で見つめられ、惑うような瞳が「やっぱり嫌か」と問いかけている。志井に悪い、志井に申し訳ないと思うのに、ツキトは戦慄く唇を止める術を知らず、「怖い」とまた呟いてしまった。
「どうしよう…どうしよう、志井さん…」
「………」
  折角久しぶりに会えたのに、また志井に惨めな想いをさせてしまう。
  嫌われる。
「志井さん、お、俺、俺、どうし…っ…」
  何も言わない志井にますます言葉を継げなくなり、先刻までの幸せで楽しい気持ちがあっという間に飛び散ってしまった。志井に触られているところが全部熱くてキスされた事も嬉しいはずなのに、どうしてこれだけが駄目なのだろう。ただ身体を重ねるだけじゃないか。ほんの少しの間だけで済む。それなのに何故何故、と。
「……っ」
  ツキトはじわりと浮かぶ涙に視界を曇らされて、自分の上にいる志井をまともに見ていられなくなった。
「ツキト。好きだ」
  暫くして志井が言った。泣くなという風にツキトの前髪をかきあげて、志井は怯えさせないようにとそっとその額に触れるだけのキスをした。遠慮がちにツキトの頬を濡らす涙を手の甲で拭い、それからもう一度「好きだ」と繰り返す。
  そして志井はツキトが答える間もなく、今度こそ上着をたくしあげてその胸に触れてきた。
「ひっ…」
  そのヒヤリとした手の感触に驚いた事もあったが、何より肌に直接触れられた事でツキトは小さな悲鳴を上げた。それでも志井はその行為をやめようとはせず、何度もツキトの胸と腹を撫で擦るように手のひらを往復させ、ズボンのホックにも手を掛けた。
「はっ…!」
「ツキト」
  離してと叫んでしまいそうになるツキトに志井は強く名前を呼んで、再度じっとした視線を向けてきた。ツキトはそれを自分も黙って見つめた後、「うう」と喉の奥で声を漏らして首を振った。
「本当にごめん…。俺、最低だ…」
「違う」
  けれど志井は即それを否定すると、いやに静かに声で言った。
「今、お前に無理を強いてるのは俺だろ? 最低なのは俺だろ」
「違う…。俺、いい…。俺、俺、嫌じゃない…っ」
「嘘だろ」
「……っ」
  実際はそう、嘘だった。ツキトはやはり恐ろしかった。身体を繋げる事によって何かが壊れるのが怖かった。志井はきっと変わらない、それどころか今よりもきっともっと愛してくれるようになるだろう。そう分かっているのに、だから自分とてここへ来る度にいっその事早く抱いて欲しいと思っているのに。
  それでもどうしてもどうしても駄目なのだ。どうしても心の奥が不安を叫んでいる。
「怖い…」
  けれどツキトが何度目か、同じ絶望の言葉を口にした時だった。
「ツキト。……俺もなんだ」
  志井がツキトの唇の端にキスを落とした後、そう囁いた。
「……え」
  閉じていた目をぱちりと開いてツキトがそう言った志井を探すと、すぐ目の前にいたその愛しい人は、一見すると何を考えているのか分からないような無表情で真っ直ぐな眼差しを向けてきていた。
「志井さん…?」
「俺はやっぱりお前が怖い…。お前を抱く事で俺たちの何かが変わるのが怖い」
「え」
「だから…情けないな、何度もこうしよう、こうしたいと思っていたくせに駄目だった。俺はお前に嫌われたくないんだ」
「き、嫌うわけ、ない」
「………」
「志井さ…す、好き…好…あ、ああっ…」
  志井の瞳に吸い込まれてツキトは自分の半身に気が向いていなかった。その合間に志井によって性器を取り出されて激しく擦られ、ツキトはそれを感じ取った瞬間声をあげた。
「はっ、あ、あぁっ…。し、志井さ…!」
  荒く息が漏れる。志井に触れられている場所だけでなく、全身がどくどくと波打って身体中の血が激しく騒ぎ立てていた。燃えるように熱い。どんどん上り詰めていく。猛烈な快感が脳のてっぺんにまで湧き上がり、ツキトはびくびくと背中を逸らして遂にはもっととねだるように志井にその痴態を晒した。
「はっ…志井さ…いっ! も、もう駄目…あ、駄…っ」
「ツキト…! 何も考えなくていい…。お前、凄く可愛い…」
「――ッ!!」
  ひく、と痙攣するように喉が鳴り、ツキトは声にならない声をあげて最後まで達した。
「はあっ…。う、うぅ…」
  自分ばかりが先にイってしまった事にどっと後悔の念が沸く。志井に裸身を晒した事に安堵もしていたが。
「お、俺、はあ…俺…」
「ん…」
  再びじわりと涙が出てきたが、志井がまた傍にきて唇でそれを吸ってくれたのがとてつもなく嬉しかった。ツキトはそれでも後から後から流れるそれを止められないままに、しゃがれた声で志井の肩に手を触れた。
「バカみたい、だよね…。俺は…これが、こうなる自分を見るのが、怖かった…。感じる自分が怖かったんだ…」
「分かる」
「分かる…?」
「ああ、分かる。お前の言いたい事、分かる」
「……っ」
  優しくそう言ってもらえた事がまた嬉しくてツキトは泣いた。志井の首に両腕を回してがしりと抱きつく。もうこの人と絶対に離れたくないと思った。
  気づいたのは今、だ。
  ツキトはセックスがというより、射精する自分を見たくなかったのだ。忌まわしい過去のせいで不能となったはずの自分が実の兄に触れられただけで何なく達した。ショックだった。志井を裏切ったという想いと重なり、既に1度ズタズタになっていた心がもう一度傷つけられた。
  そうしてツキトは、それを癒す為に志井に助けを求める事にもまた抵抗があった。そんなのはずるいと思ったし、許されるはずがないという想いもあったから。
  けれど志井はそんなツキトにただ「分かる」と言った。
  そこには自分も同じ想いだからという気持ちが十分に込められているように思えた。
「ん、んんっ…!」
「ツキト…!」
  まだ日も明るいリビングの床で、2人はその後何も考えずにただ激しく抱きあった。行為自体久しぶりで受け入れる事が容易ではないだろうツキトを志井は丹念に解して十分馴らした後、己のものを挿入した。そのあまりに時間を掛けた行為自体がツキトにはとてつもなく恥ずかしいものだったが、志井の愛情が感じられたから、時折くれるキスが甘くて優しくて泣きたい程に嬉しかったから、足を広げ志井にそこを晒し続ける事も大丈夫だった。
「あっ、あっ…はぁ、好き…っ。志井さ…」
「……っ」
「好きっ」
  荒い吐息と自分に向かって強く腰を打ち付けてくる志井の動きをダイレクトにその身に感じながら、ツキトは何度も志井に「好きだ」と告げた。頭が朦朧としてきていて、志井が何か言ったようなのにそれは殆ど聞き取れなかった。ただ掲げた足の向こうから迫ってくる志井のものを深く己の奥に咥え込み、ツキトはその度声を上げていつしかもっと来て欲しい、もっと激しくしてと訴えていた。
「んっ、あ、あ、あッ…」
  絶え間なく突かれる毎に漏れる喘ぎ声が自分ではないようだった。志井の動きが徐々に早くなり、ああもうすぐ達してくれると分かった。全部欲しい、志井の全部が欲しいと思いながら、ツキトはぎゅっと目を瞑り、その目じりからまた新しい涙を零した。
  もっと早くこうしていれば良かった。こんなに気持ち良いなんて、こんなに満たされた想いをするなんて、と。
「……っ」
  遠くなりかける意識の中で、ツキトは確かにそう思い、感極まるのと併せるようにしてもう一度自分も志井と共に達した。





「門限が20時だったから、いつも夜は帰ってたでしょ」
「ん…」
  先ほどから自分の頭をしきりと撫でる志井に苦笑しながら、ツキトは裸のままベッドの上で渡されたカップを両手で挟み話し始めた。
「志井さんのベッドにこうして入るの、久しぶりだよね」
「そうだったな」
「本当はずっとここに潜り込みたかった」
「何だ。そうすれば良かったじゃないか」
「嫌だよ」
  だって誘っているみたいじゃないかとツキトはふざけたように言いながら、渡されたカップの中のものを一気に飲み干した。志井が作ったコーヒーカップの中に入っているそれは、氷入りの冷たいウーロン茶だった。ツキトがそれが飲みたいと言ったからだったが、このカップを使いたいと入れ物まで指定するとさすがに志井も面食らっていた。
  そのカップは志井が初めてツキトにプレゼントした「あの」器だ。いつも家で愛用しているくせに、志井の所へ来る時にも持ち歩いていたのだとツキトは照れながら告げた。
「そ、それでさ…。俺、こうなるの、いつも想像してて。その時はした後…これにジュースとか入れてもらってここで飲むんだって決めてたんだ…」
「何だよそれ。そんな計画があったのか」
「うん」
「そうか」
  志井はやんわりと笑いながら既に自分は着替えた状態でベッドの端に腰を下ろし、まだツキトの頭を撫でていた。どうしても離れ難いらしい。ツキトがそれを嫌がらないというのも志井の行為を助長していて、2人はそうして事が済んだ後も何だかんだで密着した状態を続けていた。
「腹減ったか。そういや、昼飯抜いちまったな」
「あ。買ってきたお菓子もそのままだ」
「そうだな。何か食べるか」
「うん。………」
「………」
「……ふふ」
「ふっ、何だよ」
  それでも未だどちらも動こうとしないので、ツキトが最初に笑い出し、志井もまたつられたように笑った。さあ立ち上がろう、シャワーを浴びて着替えてご飯を食べよう。…そうやって次に動くべき事が決まっているはずなのに、やはり2人は動かない。
  いつまでもベッドの上で見詰め合っていた。
「なあ。ツキト」
  先に動いたのは志井だ。ようやっとツキトの頭から手を離すと、志井は自分のカップを持つツキトの手元に目をやりながら、暫し迷った挙句言った。
「愛してるから」
「……志井さん」
「ずっと愛してる」
「俺もっ」
「そんな焦ってあわせなくていいって」
「あ、あわせてないよっ。何それ!」
「ふ…。なあ、それでさ」
「ん…あ…」
  再びちょこんと触れるだけの口づけをしてきた志井に、ツキトは思い切り意表をつかれて顔を赤くさせた。志井はそんなツキトに愛しげな視線を向けると、背後のものにちらっと目をやって、再びまた幸せそうな表情を閃かせた。
「とりあえず…オムライス、食うか?」
「え…! あ、遂に完成したの!? 究極のオムライス!」
「そう。あの店より最高にうまいやつ。あいつに敗北宣言させる前に、ツキトに食わせるよ」
「楽しみ! 食べたい!」
「じゃあ、着替えて待ってろ。今用意する」
「うん!」
  志井が立ち上がると同時に、ツキトもそれに誘われるようにして視線を上げ、その背を追った。だしぬけ、志井が出て行く扉横の壁に自分が贈ったあの絵が目に入った。
  あの洋食屋をモデルにした窓の大きな家の絵。
「ふ……」
  自然ツキトの顔に笑みが零れた。それからふっと背後に目をやり、カーテンの隙間から漏れる夕陽に目を細める。ああ、綺麗だな。何もかもが綺麗だと思いながら、ツキトはぎゅっと自らの右手を握り締めた。
  志井の特性オムライスを食べたら、また一枚絵を描こう。ツキトは思った。


  今ならきっと、とびきり最高の作品が出来そうな気がする。



Fin…




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最後まで読んで下さりありがとうございました。一応後記とか書いてみました。宜しければ。