あの窓を開けたら



  ツキトにとって志井は何もかも初めての相手だった。高校生の頃「ガールフレンド」と呼べる親しい間柄の子はいたが、それも「付き合った」と言って良いのかは甚だ疑問だ。相手からはろくすっぽデートもしないうちに「月人は私の事が好きじゃないのよ」と言われてあっさりフラれた。約束を交わす度にツキトが兄からの用事を優先して断り続けたのが原因だが、それも彼女が言うように「本当に私の事が好きだったら」どうとでもなる問題だった。結局、ツキトにとって彼女は「恐ろしい兄に逆らってまで付き合いたい子ではない」という事だったのだろう。勿論ツキトもフラれたばかりの頃はそんな風には思えず、情けない事にかなりの期間塞ぎこんで、それをまた兄に怒られた。お前に色恋なんて元々早かったんだ、くだらない事にかまけていないで勉強しろ、と。そう言われて、実際ツキトはそれから高校を卒業するまでの間、女の子とは全く縁のない生活を送った。
  だから、キスをしたのは志井が初めてだ。
  付き合うようになり、すぐ一緒に暮らし始めてセックスしたのも志井が最初。始めの時こそ驚きと途惑い、慣れないところを使われて身体はもろに悲鳴をあげたが、それも愛情と経験を積んでいく事ですぐにただの快楽に変わった。むしろ志井は自分と同じ男だと言うのにどうしてこんなに気持ち良いのかと、ツキトは性のことで一時期真剣に悩んだ程だ。
  今までは自慰も然程必要としない身体だった。それが志井にほんの少し触れられただけで感じまくって涙を流して淫らな声を上げてしまう。何度も精を吐き出してはもっととねだって手を伸ばす。「今日はしない、明日は断る」と決意しても、求められれば嬉しくて結局すぐに足を開いた。…ツキトはそんな自分が我ながら恐ろしかった。志井にどんどん壊されて、今まで知る事のなかった己の姿があからさまに晒される……それが怖いと。
  ただ一方でツキトは、そうやって包み隠さず誰かと愛し合える事は堪らなく幸福な事だとも感じていた。求め、求められる事の喜び。孤独な上京を不安に思わなかった日はない。そんなツキトに志井は声を掛け、優しく接してくれた。絵を認めてくれた。そして身体まで欲してくれた。破局を迎える前までの志井との穏やかなセックスは、ツキトの身体だけでなく心まで満たしてくれていた。
  幸せだったのだ。


  ―4―



「ツキト。無理しなくていい」
  必死に縋り「したい」と訴えたツキトに、しかし志井はややあってからそう言った。
「今日は疲れてるだろう。いいからもう寝ろ……」
「何で、俺…っ。大丈夫、だから!」
  志井が必死に耐えているのが分かった。けれどだからこそ、ツキトももう引き下がれなかった。
「今日こそ俺…大丈夫だから! 本当だよ? そ、それにもし…もし俺がまた逃げようとしたら、その時は無理やっ…無理やりしても、いいから…!」
「バカ言うな!」
「…っ!」
  思わずきっと睨みつけ怒鳴り声をあげた志井にツキトは驚いて声を失った。咄嗟に縋っていた手を離す。ただ、志井の方もそれで「しまった」と己を持ち直せたのだろう、ハッとしたように口を噤むとすぐに悪い、と謝ってきた。
  ぐしゃりと片手で前髪を掴みながら、志井はツキトから半分顔を隠した。
「ツキト…頼むから。頼むから、今夜はもう勘弁してくれ…」
「志井さん…」
「お前にそんな風に言われて俺がいつまでも冷静でいられると思うか? …けど、お前は誰がどう見たって無理してる。俺としたいなんてお前は微塵も思っちゃいない。……思ってないだろ」
「そんな事…っ。俺、志井さんとしたいよ…!」
「鏡見てみろ」
  ぴしゃりと吐き捨てられ、ツキトは再度びくりと身体を揺らした。自分から視線を逸らす志井の表情はやはり怖いものだった。怒りが絶えず瞳の奥で揺らめいていて、それはもう本人の意思とは別に隠しようもない程に広がっていた。
「ツキト」
  それでも黙りこむ2人の沈黙を先に破ったのは志井だ。震えるツキトを視界の端に捉えたのだろう。ハアと深く息を吐き出し、やっとの思いという風に声を出した。
「ツキト。本当に頼む…。そんな死にそうな顔で俺にそういう事言うな。俺に気を遣うな。大切にしたいんだ、俺は…。お前を大切にしたいんだ…」
「し、志井さ…ごめ…」
「謝らなくていい!」
「!」
  また怒鳴られて、ツキトは出しかけていた手を引っ込めた。驚いた事もあるし、怖さと後悔と悲しみで志井に触れるのが辛くなったのだ。志井の怒りの波動を直接感じ取る事は苦痛以外の何物でもなかったから。
「いつか…こんな俺はどっかへいっちまいそうで…」
「え…」
  けれどそんなツキトに気づかず志井はぽつりと呟いた。
「俺は根っからのクズ野郎だからな…。気を遣うばっかりのお前にどうしようもなくなって、いつか抑えが利かなくなるんじゃないかと怖くなる時だってあるさ…。実際……俺はお前を滅茶苦茶にしてやりたいと思う時がある…」
「…お…俺……」
  そうしても良いと言ったら、きっとまた志井は怒るのだろう。ツキトはもう何も言えなかった。
  大体、ツキト自身が本当に「それ」を望んでいるのかと問えば答えはノーだ。もうあんな恐ろしい思いはしたくない。もうセックスはしたくない。それはたとえ相手が志井であってもそうなのだ。心のどこかで思っている。もう誰にも触れられたくない、誰にも触れたくない、と。ツキトは相馬に「俺は駄目かも」しれないと答えた。たった独りで生きていけるかと問われて、それは俺には無理かもと。実際そうだ、ツキトはいつでも寂しくて不安だった。目覚めた時にはもう曖昧な悪夢にも、苦しくて悲しくて痛いと思っていた事だけは忘れない。うなされる度に差し出してくれる志井の手がなければ、きっととっくに駄目になっていただろう。いや、そもそもあの夜、もし志井があの場所へ来てくれなかったら、その時点でツキトの生涯は終わっていた。確実に崩壊していただろう自分の身も心も志井が拾い上げてくれた。志井が助けてくれたのだ。だから自分は既に独りでは成り立たない、志井がいなければその存在すら許されないものになっているのだと、ツキトはそんな風に理解していた。
  にも係わらず思うのだ。もう誰とも……たとえ志井とでも、身体を繋げる事はしたくないと。
  気持ち良いと感じていた時期の事など、頭では覚えていても身体はとうに忘れてしまった。
  ただ脳裏を過ぎるのはあの男の憎悪と狂喜と、殺意の篭った眼と―――。
  夜の公園で再会した、志井の信じられないものを見るような、あの茫然とした顔。
 
  それに……。

「ツキト」
「!」
  ぴくりとも動かないツキトに志井が声をかけた。弾かれたように顔を上げると、志井はすっかり憔悴しような顔でツキトの事を見下ろしていた。
「……っ」
  まただ。また痛い。胸を鈍器で殴られているかのようだ。
  胸が痛い。
「部屋へ行け」
「え…」
「自分の部屋へ行け」
「………」
  反射的にツキトはゆるゆると首を横に振ったが、志井はそれで再度怒りに燃えた目を見せた。分かっている、もう部屋に戻らなければならない。ツキトも頭の中で必死にそう言い、すぐにでも足を動かそうとしていた。
  けれど駄目なのだ。
「志井さん…」
  無意識に甘えるような声が漏れ出た。
  自分たちの関係はほんの些細な事であっさりと切れてしまう。こんな危げな状態がそうそう続くわけはなかったのだ。どうして気づかなかったのか。
「…ここにいたい」
「………」
「志井さんが嫌なら黙っているから。でも、ここで眠りたい…」
「ツキト……」
  ウンザリしている。分かっている。しつこいのは、どうしようもないのは分かっている。
  それでも止められない。
「志井さんのベッドがいい」
「ああ、分かった。いいさ、使えよ」
  けれどツキトが何かの意地のようにそう口を紡いでいたのを志井は投げ捨てるようにそう切って顔を逸らした。
「俺が出て行く」
「え……?」
「お前はこの部屋を使え。俺が向こうで仕事する」
「……志井さん」
  今にも泣きべそをかいてしまいそうな声にツキトは自分自身驚いた。ごくりと唾を飲み込み喉を上下させたが、それでも自分に背中を見せる志井からは目が離せなかった。
  置いていかれる。何処かへ行ってしまう。
「行かないでよ……」
  そういえば以前にもこんな風に言った事があるな…。
  乾いた唇でその言葉を紡いだ直後、ツキトはぼんやりとその時の事を思った。

  行かないで。

「……ッ!」
  ただ、それがいつの事だったかと思い出そうとした瞬間、両肩に酷い痛みが走った。
「いい加減にしろ…!」
「痛っ…」
  低く殺気立った声を発したのは志井だ。ツキトに激痛を与えてきたのも志井。
  志井に両肩を掴まれて強く押されて、ツキトは体勢を崩しあっという間に傍のベッドへ倒れこんだ。そのまま志井もツキトの全身を拘束するようにして両肩を掴む手に力を込め、上に圧し掛かる。志井の手の力はツキトの両肩にその指先が食い込むのではないかと思う程のもので、ツキトはあまりの激痛にぐっと喉を鳴らした。
  勢いで倒れこんだ2人の体重を受け、ベッドは暫しの間ギシギシと軋んだ音を発した。
「……志井、さん」
  その音を耳の端で聞きながら、ツキトは自分がこのままベッドの中へ埋もれていってしまうのではないかという錯覚に囚われた。不安のあまり志井の名を呼び、ツキトは薄っすらと目を開いた。
「!」
  けれどその視界に映ったのは志井ではない。ぎらついた眼光を惜しげもなくこちらへ叩き落とし欲望に滾った身体を晒してきていたのは、あの夜突然現れた狂人だった。
「あ…ぁ……」
  あまりの恐怖で喉がひくつき、ツキトは唇を半分開いたままの状態で頭の中が真っ白になった。


  何度も殴られ、獣のような格好のまま後ろから突かれた。
  男の欲を止め処なく注がれ、その酷い臭いに吐き気を覚えた。
  開かれた両足の間にざらついた舌と下卑た笑いが忍び込んだ。
  声をあげろと刃物で脅され、男の肉棒が容赦なく突き刺さった。
  あの悪夢が。


「―――…っ!!」
  けれど思わず発しそうになった絶叫はツキトの唇から漏れる事はなかった。
「……ツキト」
  それを感じ取ったのか、それとも単に自分がそうしたかっただけなのか。
  志井は咄嗟にツキトの口を片手で塞ぎ、その声を奪った。ただその瞬間、何故かツキトの視界はクリアーになり、己に覆いかぶさるようにしている人間は紛れもなく志井だと認識できた。
「ん…んっ」
  それでも「恐怖」は去っていない。身体の自由を奪う志井はツキトの口からも手を離さず、苦しそうなツキトの様子にも全く動じた風がなかった。また、怒りの感情が徐々に沈殿していくように、志井の表情はどんどんと静かに、そして正体の見えないより不確かで不気味なものになっていくように見えた。
「………」
  ツキトは声を奪われたままそんな志井の瞳を黙って見つめた。無意識のうちにまた涙が零れた。そんな目で見ないで欲しい、そう言いたいのに言葉を出す事は許されなかった。
「これでもしたいか」
  志井が言った。
「簡単なんだよ…。お前を抱く事なんて、簡単なんだ…。だが分かっただろ。お前がどれだけ全身で俺を拒絶しているか…俺を見ていないか…俺を否定しているか…」
「……っ」
  違うと言いたいのに言えない。それに頭のどこかで「そうかもしれない」と咄嗟に思ってしまった自分もいた。ツキトはどうして良いか分からず、ただバカみたいにぼろぼろと涙を落とした。いつもならこれが流れると志井はすぐに「ごめんな」と謝ってそれを優しく拭ってくれた。そう、だからツキトは泣いたのかもしれない、助けて欲しくて。けれどこの時の志井はそれをしてはくれなかった。口元を手で押さえているからいつもの優しいキスも勿論なしだ。
  こんなのは嫌だ。
  けれどツキトがどうにかもがき、訴えたいと思った瞬間―――。
  志井の乾いた声が無機的に響いた。
「出来もしないくせに……したいだ何だのって、口先だけの誤魔化しはやめろ。…イラつくんだよ…!」
「――……」
  涙が止まった。
  幻影を目にしたツキトだけでなく、この時は志井の方も相当おかしくなっていた。それは間違いのない事だし、ツキトもそんな事は重々承知していた。仕方がないと、悪いのは自分だともすぐに思えた。
  けれどこの時発せられた志井の言葉はツキトの胸にズシンと重い鉛のようなものを落とし、いつまでも消えない深い傷を残した。

  その後、どうやって眠ったのかは分からない。
  ただ言える事は、その夜ツキトは志井のベッドで気を失ったように意識を閉ざし、そのまま夢も見ずに眠った。
  そして。

  朝目が覚めた時、志井の姿は何処にもなかった。





  元々出掛ける時はいつも2人一緒だったし、志井が留守をするような事があってもツキトは1人だけで外へ出歩くような事はしなかった。だから部屋の合鍵は持っていない。戸締りをせずに出て行く事をどうしようとは一瞬思ったが、それでもツキトは昼を過ぎたあたりに独りマンションの外へ出た。どうしても部屋にいたくなかったのだ。
  初めてそう思った。
  屋外はぽかぽかととても暖かい晴天で、街の通りも非常に明るく賑やかだった。近くに幼稚園があるせいか、母親同士の交流場である緑の公園や商店街への歩道が綺麗に整備されていて、全体的に活気がある。学生はまだ学校だろうが、比較的賑やかなその光景にツキトは心なしかほっとする思いがした。
  当てもなくのろのろと歩いていたが、とりあえずは志井と何度か来た事のある一番近場の公園へ向かった。人口的な遊歩道は赤いレンガが何十メートルと敷き詰められていて、その両脇には細い植木が幾十にも連なりちょっとしたアーチを形成している。その木々の隙間をぬって太陽の光がツキトの頭をキラキラと優しく照らし、辺りを吹く心地良い風とも相俟って、ツキトをより安心させた。
  とにかく落ち着こう。どれくらいか歩いた後、ツキトはようやっとそう思った。
  まず、昨夜の事は早々に忘れてしまうべきだ。自分も後悔しているし、志井とてきっと後悔している。でも、互いに謝りそうになったら自分からそれは止めて、もうやめようときっと言おう。前向きに、そう前向きに何でも笑って、志井を苦しめないように、自分も苦しまないようにして過ごすのだ。簡単な事じゃないか。
  絵も、描こう。
「そうだよ…。俺、何やってんだよ…」
  真っ直ぐの遊歩道はやがて幾つかの分岐を迎え、一方は商店街へと続く出口へ、一方はブランコや滑り台などの遊具がある広場へ、そして一方は高台から見下ろせるベンチのある休憩所へと続いていた。ツキトは人の少ない、けれど見晴らしの良いそちらへ何となく進んで行き、行き止まりの手摺りに手をついて何度も何度も「描こう」と思った。
  そういえばスケッチブックは何処へ仕舞っただろうか。志井が持っているはずだが。
  けれどそう決意した直後、だ。
「すみません」
「え…?」
  突然背後から酷く申し訳なさそうな男の声が響いて、ツキトはびくとして振り返った。ただその声がまるで無害だとは何となく瞬間的に分かり、恐怖は感じなかった。
「何ですか?」
「えっと…。見えないンで」
「あ! すみません!」
  男は薄汚れた木のベンチに座って絵を描いているようだった。ここへ来た時は目に入らなかったが、どうやらツキトが立っている方向の景色をスケッチしていたらしい。自分の存在に気づかずもろにその位置に立ってしまったツキトに、男は遠慮がちな様子で「どいてくれ」と訴えたのだ。
「気づかなくて…っ。すみません!」
「いいですよ」
  男はにっこり笑って首を振った。ハンチングを目深に被ったその顔は帽子が影になっているせいではっきりとは見えなかったが、笑んだ白い歯は人の良さそうな雰囲気を醸し出していた。年の頃は志井と同じかそれ以下だろう。平日の昼間にスケッチとは随分呑気な話だが、何となく眠そうな目にTシャツ・ジーパンというラフな格好からして、サラリーマンという感じではなかった。ただ、昨晩会った学者の相馬ともどことなく違う。相馬とは違い髪の毛は短く刈られていて清潔感があったし、ズボンのポケットから覗いている携帯のストラップには可愛らしい人形がたくさんついていて、ツキトが何となく思い描いている「研究者」のイメージではなかった。
  それでも、芸術家という風でもない。
「僕のこと、珍しいですか」
「えっ」
「いやあ。ガン睨みされてるから」
「す、すみませんっ」
  いつの間にかすっかり観察していたらしい。ツキトは慌てて目を逸らした。
  恐らくは男がスケッチブックなど持っていたせいだ。それで警戒感が薄れたし、相手の柔らかい声には危機感など抱きようがなかったから。
「別にいいですよ。絵を描く時にはね、観察眼も必要でしょうから」
「え?」
「ね。見て下さいよ」
  ツキトの聞き咎めた事を思い切り流して、男は来い来いとツキトを手招きした。断っても良かったがその時はそんな事考えもしなかった。大人しく近づき、男に促されるまま隣に腰掛ける。そうして、きっと目にした時からずっとそうしたかったに違いない、ツキトは男の持つスケッチブックに目を落とした。
「あ…?」
  しかし白い紙に描かれていたものは、ツキトが想像していたものとは違った。男の作品はここから見渡せる街並か、はたまた空をメインにこの風景全体を捉えているものかと思っていたのだ。
  その絵は全く関係のない異国の地を描いたものだった。
  男はツキトが先刻まで立っていた場所を描いていたから「見えない」と言ったのではなかったのか?
「あの…」
  あからさまに疑問の目を向けると、男は何でもない事のようにまたにっこりとした。
「絵、好きですか?」
「え? あ……」
「ご自分でも描きます?」
「な、何で…?」
  思わずたじろいでそう訊き返すと、男はそんなツキトにこそ不思議そうな目をして苦く笑った。
「いや…。見当違いならすみません。でもこれを覗く時、凄くわくわくした風だったから。好きなのかな、と」
「え…」
  そんな顔をしていただろうか?
「………」
「好きじゃないなら、こんなのつまらない絵ですよね。才能もないんだ」
「そんな事…っ」
  男のあっさりと切り捨てたような声にツキトは慌てて首を振り、焦ったように口を開いた。同時にスケッチブックを閉じようとしたその手も自らの手で止める。
「違いますよ、ちょっと驚いただけです。てっきりここを描いているんだと思ったから…。この絵、僕は好きです。これ、イタリアのヴェニスですよね。この街を流れる細い運河…僕の好きな画家もよくここをモチーフにしていて、僕自身それをよく真似て同じように描いてました」
「そうなんだ? いやあ、偶然だな。僕も好きなんだよ」
「本当ですか?」
「うん。それならあれにも行った? ほら、国立美術館で2ヶ月くらい前までやってたでしょう、この人の個展。僕は忙しくて1度も行けなかったけど」
「あ……」
「行ったの?」
「あ…い、いえ…」
  言葉を濁しながらツキトは俯き、無理にその会話を止めた。
「あの…!」
  それでもこの絵はもう暫く見ていたい。本来ならば立ち上がって去って行くところを、しかしツキトは男から離れる気がせず、そのスケッチに目を落とし続けた。

  見ろ。結局他人の物真似しか能がないんだろうが。

  幾つかの模倣作は兄からさんざんバカにされ、呆れられた。けれどツキトはそういう作業を無駄なものだとは思っていない。惹かれた画家が何度も飽く事なく描いていたそこは、同じようにいつまでもそれを眺めていたツキトにとっても絶対的な憧れを残した。それはとても不思議な感覚で、どこか胸躍る事だった。自分では1度も足を運んだ経験がないその地をまるで故郷のように感じるなんて、本当に素敵な事だから。
「これ、色はつけないんですか」
  気を取り直してツキトは尚も男に話しかけた。昨日相馬とも話をしていた分、余計に志井以外の他人と言葉を交わす事に新鮮さを感じていたのかもしれない。
「うーん。鉛筆だけ。僕は絵は止めたんだ。今は違う仕事をしてる」
「え?」
  男は不意にそんな事を言った。
「ある人の作品を貸してもらって、懐かしくなったからちょっと描いてみただけだよ。いつかこうして会った時に話のネタにもなるかと思ってね」
  男はツキトからは目線を逸らしている。前方を見つめたままま実に淡々としていた。
  やはり害意は感じられない。
「あの…?」
  けれどツキトの胸はいやにドキドキと高鳴っていた。
  何か、何かが。
  何かが訪れる前触れだと感じた。
「僕の依頼人はその絵を描いた人は才能がないって言っていたけど、どうなんだろう。ただ、少なくとも僕よりはあると思うよ。家に帰って、お兄さんに頼んで、美術大学へ行くのも手じゃないかな。もっと勉強するべきだよ」
「………」
「……なんて、こんな事を言ったのがバレたら、僕はクビだな」
  驚きのあまり立ち上がれずにいると、男はようやくツキトの方へくるりと顔を向けた。
  そして言った。
「小林月人君だね」
「………」
「良かった。やっと1人になってくれたね。いつか絶対こういう隙が出来るだろうとは思っていたけど、こうして話せる機会を辛抱強く待つのには骨が折れたよ。でも僕はただ機械的に君の居場所を君のお兄さんに告げる事はしたくなかったんだ。……ああ、やっぱりこんな仕事は向いていないな、プロ失格だ」
「兄さんに……?」
「そうだよ。君の捜索を頼まれていたんだ。僕は<リングJ>という探偵事務所の上月(こうづき)と言います」
「………」
  何も言えないツキトに上月と名乗った男は依然として冷静な様子のまま、おもむろにポケットの携帯を取り出した。
「こう言っては何だけど、君のお兄さんは恐ろしい人だ。自分から帰るのと、僕に連絡されて連れ戻されるのとじゃ扱いも随分変わるんじゃないかと思う。どうする? 僕も君のお兄さんを随分と待たせてしまって、社での立場も危いし…実際もう僕以外の人間が君の捜索に入っているんだ。見つかるのは時間の問題だよ」
「どう、どうして…? だって、連れ戻されるって、何で…」
  上月の言っている事の意味が分からずツキトはただ狼狽した。意味が分からない。捜索されていたという事も驚きだけれど、そのひどく切迫したような物言いは何なのだろう。兄がそんなに必死になって自分を探すわけはないではないか。
「悪いけど詳しい話をしている暇はないな。今すぐ決めてくれ。自分から帰るか、僕にこの携帯を掛けさせて……お兄さんに迎えに来てもらうか」
「だ、だって…そんなの! そ、それに、志井さ―」
  咄嗟に志井の名前が飛び出しかけてツキトは口を噤んだ。けれど上月は勝手知るような顔ではっと小さくため息をつくと「知ってるよ」と言った。
「悪いけど、結構調べさせてもらったんだ。君の同居人の事もね。……彼の事を隠すわけにはいかない。お兄さんには報告させてもらうよ」
「ちょっ…」
  何が何だか分からない。ツキトはただ真っ青になった。
  上月の妙に落ち着き払った態度は逆にツキトの胸をより強く掻き立てた。調べただの迎えを寄越すだの、この人は一体何を言っているのだろう。ばくばくと破裂しそうな程に心臓の音が高鳴り、ツキトは座っているにも関わらず軽い眩暈に襲われた。
「あ。ごめん」
  その時、隣にいた上月の携帯が鳴った。
  彼は一言断りを入れた後、未だ石のように動かなくなっているツキトを横目に携帯を耳に当てた。その探偵事務所とかいう所の人間だろうか、慣れたような口ぶりで彼は一言二言簡単な相槌を打っていた。
「………は? 何…言ってるんです?」
  けれど雲行きがガラリと変わったのは、暫し向こうの声を聞いていた上月の顔色がさっと真剣な顔つきになった時だった。
「ちょっと………え? ちょっと待って下さいよ、何言って…!」
  不意にがばりと立ち上がって怒鳴り声を上げた上月にツキトははっと我に返った。自分も反射的に立ち上がったが、何が起きたのか分からない。上月もツキトの方は見ておらず、ただ携帯を持ち替えて何やら必死に声を上げていた。
「何…何考えてるんですか、尾けてたんですか!? 俺を!? い、今、ここにいるって――」
  上月の緊張で裏返った声はツキトにはまるで別人のものに聞こえた。先刻まであれ程落ち着き払っていたようなのに、一体どうしたのだろう……。
  けれどそれを不審に思ってツキトがそっと眉をひそめた時、背後からその声はかけられた。
「え……?」
  先程までそよいでいたはずの風はこの時何故かぴたりと止んだ。実際は吹いていたのかもしれないが、少なくともツキトには他の音は何も聞こえなかった。その声しか聞こえなかった。だからすぐにそちらへ視線を向けた。
  けれど、それが現実だとは思えない。実際目にしても信じられなかった。

「月人」

  顔を向けた先には兄の太樹が立っていた。
「兄、さん…?」 
  それと同時に隣でごとりと携帯を取り落とした上月の気配がしたが、ツキトにはそちらを向く余裕はなく、ただ目の前に突然現れた兄の姿だけを凝視した。いつもと同じ、会社へ行く時のようにきっちりとしたスーツを着ていて、鋭い精悍とした顔つきもそのままだ。1年前と何も変わっていない。……ただ何だろう、最後に見た時よりは幾分か痩せたような印象を受けたし、髪の毛も乱れていて家にいる時のように前髪も下ろされたままだった。
「太樹兄さん…。どうして?」
「………」
  兄は何も答えなかった。最初にツキトを呼んだきり、暫しその場に立ち尽くして動かない。
  ただ、ツキトを見据える真っ直ぐな視線は一切逸らされる事がなかった。
  そしてツキトが再度そんな兄を呼ぼうと唇を開きかけた、その刹那。
「え………」
「――――…」
  足音を感じさせない程のそれは極自然な動作だった。あっという間にツキトの傍にまで歩み寄った兄・太樹は、しかしすぐ前にまで来たその直後、ツキトの頭を横から平手で思い切り殴りつけた。
「……ッ!!」
「社長!!」
  上月の怒りにも似た叫びが聞こえたが、耳の傍を殴られてキンと鼓膜を響かせたツキトにはそんな声は聞こえなかった。物凄い勢いで張り飛ばされたツキトはまるきり無防備だった事もあるが、そのまま勢い良く地面に倒れこんだ。
「………ぅ…」
  強い衝撃にツキトは意図せずけほりと咳き込んだ。顔を上げて何とか体勢を立て直そうと痛みを押して起き上がろうとしたがうまくいかない。それ程兄の一撃は凄まじかった。
  じっとその場にうずくまっていると、そんなツキトの傍にやがて砂利を蹴る足音が近づいてきた。ふと目をやると相手の靴先が視界に映り、兄がすぐ横に立ってこちらを見下ろしているのが分かった。
「兄さ……」
「………」
  兄はまだ何も言わない。心底蔑んだ怒りに満ちた目を向けるだけ。
  そうしてどれくらい見詰め合っていたのだろうか。ツキトが根負けして項垂れるように視線を逸らしたすぐ後だ。
  その唇はゆっくりと開かれた。
「バカが。………帰るぞ」
  氷のように冷たいその声にツキトは怯える事すら暫し忘れた。ただ唖然として、そう発した兄の静かな顔を見上げる事しかできなかった。



To be continued…




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