あの窓を開けたら
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―5― ツキトはろくな抵抗も許されないまま、兄の太樹に引きずられるようにして公園を出た。上月がどうなるのかは分からない。ずっと兄の後ろに控えていたらしい屈強そうな若い男が彼の腕を取り、一言二言何事か話し掛けているのを視界の端に捉えたのが最後で、あとはツキトも人の心配をしているどころではなくなった。公園の入口に横付けされていた車の前には2人の男が立っていて、太樹が戻ってきたのを見て取ると運転手の方が素早く後部座席のドアを開けた。老齢の少し腰の曲がったその男はツキトも以前屋敷で何度か見かけた事のある人物で、一瞬目があった時は向こうもひどく嬉しそうな顔をしてみせた。助手席の前に立っていた若い男の方にも見覚えがあり、こちらは確か兄の専属秘書をしているはずであったが、彼の事は兄に腕を取られて無理やり車に押しやられた為、ツキトもまともな視線を送る事はできなかった。 ともかく公園を出てその車に乗る間、ものの5分といったところか。 「に、兄さん…」 やっと声を出せたのは更に数分後、車がゆっくりと発車し始めてからの事だ。兄が全身に纏っている怒りの感情は目に見えずとも容易に感じ取れたし、そもそもあんな風に殴られたのも初めてだったからただ怖かった。兄・太樹はいつでも厳しい人だったが、ツキトを殴った事はない。他の人間に対してどうだったかは定かでないし、姉の陽子は「あの鬼はたとえ相手が女でも、むかつけば平気で手をあげる」などと毒づいていたが、ツキトがその発言を真に受けた事は1度もなかった。 けれど今、この痛みはホンモノだ。 容赦なく叩かれた頭と耳はじんじんと未だ悲痛な悲鳴をあげており、倒れ伏して動けなくなった時に強引に引っ張り上げられた腕もまだ抜けるように痛かった。当然だ、この車に押しやられるようにして乗り込まされた時も、太樹はツキトのその腕を決して放そうとはしなかった。共に座った後部座席でも、その広いスペースにも関わらず、太樹はぎゅっとツキトを自分の方へ引き寄せてその身体を掻き抱いた。その力強さに押し潰され、ツキトは顔を太樹の胸に擦り付けるような体勢を強いられてしまったが、それでも逆らえず、身じろぐ事すらできなかった。 怖かった。恐ろしかったから。 「兄さん…」 けれどもう一度、ようやく息をひとつ吐き出したツキトは、今度はそっと顔をあげて兄に声を掛けてみた。とにかく何か言って欲しい。罵倒でも何でも、この重い沈黙よりは遥かにマシだと思った。 「………」 しかし兄は応えない。依然厳しい表情のまま前方を向いたきり黙りこくっている。そうしてツキトにもそれを強要するように、ツキトの肩先を抱いた手にただぐっと力を込めた。 「う……」 だからツキトも再び口を噤んだ。そうするしかなかった。 「社長。リングJの田綿(たわた)様からお電話が入っております」 その時、助手席に座っていた秘書が携帯を片手に無機的な顔で振り返った。ツキトは太樹の胸に顔を押し付けている状態なのでまたもやその顔を凝視する事は叶わなかったが、ただ「ああやっぱりこの声には聞き覚えがあるな」とは何となく思った。 「今回の件について直接謝罪されたいとの事ですが」 「後にしろ」 けれどその秘書の言葉を太樹はあっさり切り捨てた。ただ、実に忌々しいという風に舌打ちした後、ふと思い出したように「あのジジイ…」と閉じかけていた口を開いた。 「あのジジイ、新人にどういう教育をしている…。さっきの男に関してはこちらに直接回すように言え。河瀬(かわせ)が確保してたが…奴に任すなよ。報告書を提出させてから、お前らでよくよく躾けておいてやるんだ」 「畏まりました」 「………無駄な時間を取らせやがって」 低く押し殺したような声。それと共に、太樹のツキトを抱く力にはより一層の力が加えられた。何とか怒りを抑えようとしている節もあったが、誤魔化すように車外の流れる景色へ向けているその激しい瞳の色は一向に冷める気配がない。 「………」 ツキトは下方からそんな兄の表情を何度となく盗み見たが、やはりそれ以上の動きはどうしても取る事ができなかった。今はもうただ青褪めて大人しくしているだけ。昔からツキトの心も身体も、怒っている兄の太樹には絶対逆らえないように出来ていた。本当は言いたい事なら幾らでもあったし、たった今太樹の口から発せられた物騒な発言にも身が凍る思いがした。兄が言う「あの男」とは間違いなく上月の事だ。だとすれば「躾」などと言っていたが、もしや彼は兄の部下たちに酷い事をされるのではないだろうか…。ツキトはぶるりと背中を震わせ、改めてその顔を見上げた。向こうはこちらを見ていない。何も見ていないのかもしれないが、視線は窓の外へ向けられたままだ。 「兄さん、あの人は……」 何とか声を絞り出せたが、やはり反応は得られなかった。まずい、どうしようと頭は激しい警鈴を鳴らしたが、気ばかり急いて言葉はそれについてこなかった。 「あの人は…っ」 それでもツキトは尚唇を開き喉を震わせた。ほんの少しの間言葉を交わしただけだが、ツキトは上月という青年が決して悪い人間ではない事をもう知ってしまっていた。第一、彼はツキトを想って依頼人である兄にツキトの居場所を知らせる事を躊躇っていたのだから、そうしてもらった自分がこのままだんまりを決め込むわけには絶対にいかないと思った。 「兄さん、あの人は悪くないよ」 「………」 返事は期待せずに続けるしかなかった。 「あの人…僕に家に帰った方がいいってちゃんと言ったよ。僕が帰らないなら、兄さんには自分が連絡するって。だから…!」 「黙ってろ」 「……っ」 ぴしゃりと言い放たれてツキトはびくんと身体を揺らした。勿論、そんな些細な動きで太樹の拘束から逃れられるわけもなかったが。 「他人の心配をする余裕がお前にあるのか」 「太樹兄さん…。でも、でも僕は…!」 「黙れ。――いいか。これから当分外へは出さない」 「え……?」 「暫くは部屋でじっとしてろ」 「そんっ…!」 そんな、と言いかけたツキトは、しかしじろりと厳しい目を向けられた事で途端またしゅんとなって俯いてしまった。やはり条件反射なのだろうか、凄まれると逆らえない。どうしてもどうしても駄目なのだ。金縛りにあったように自分の全部が言う事を利かない。兄に叩かれたところも依然として鈍い痛みが続いているし、そもそもツキトはその「兄に殴られた」というそれ自体にも相当打ちのめされていた。兄がこんなに怒るなんて思いもしなかった。確かに置き手紙ひとつで突然家を飛び出た事は悪かったかもしれないが、あの時はツキトなりに考えて考え抜いてやっと取った行動だったのだ。勿論自分の事を第一に考えて選択した事だが、この兄にとっても良かろうと思ってした事なのに。 面倒で手のかかる弟がいなくなって、兄も清々したはずだ。 それなのに。 「お前は……」 その時、不意に太樹が口を開いた。 「……っ!」 それに完全に意表をつかれ、ツキトは驚いて顔を上げた。太樹はツキトを見ていない。気のせいだったのかと思った程だが、それでもじっと見つめているとようやく声がやってきた。 「お前は俺が探しに来ると思っていたのか。それともその逆か」 「え…」 「俺は探さないと思っていたか」 「う、うん……」 正直に答えると太樹の暗い瞳は微かに揺れた。それはやはり怒りの篭ったもので、それに怯えたツキトは咄嗟に離れようと再度身体を動かした……が、当然太樹はそれを許してはくれなかった。 「た、太樹兄さんが、僕を心配するなんて…」 とうとう思い余ってツキトは吐き出すようにそう言った。居た堪れなかったのだ。もう子どもではない。こんな風に抱きしめられて、こんな風に縛られて。怒りを向けられて。 それに逆らえない自分自身に一番腹が立つ。 「誰が心配なんかするか」 「え……」 けれど兄の太樹から発せられたその厳しく冷たい声に、やはりツキトは動きを止めた。 太樹は言った。 「お前は家の恥だ。ロクな事をしない。ただの役立たずなだけならまだ良かった、それを……―――男と暮らしていただと?」 「……!」 「………まあいい。話は全部帰ってからだ」 絶句して完全に声を失ったツキトに、太樹はふっと息を吐き出してから一旦言葉を閉じた。ツキトの反応でまた激しく燃えたってしまいそうな怒りを抑制する為だろうか。再度窓の外へ目をやると、後はもう何も言おうとはしなかった。 ただ別段大した意味はないのだろうが、太樹はおもむろにツキトの頭髪をぐしゃと掻き撫ぜてその耳元にもさり気なく触れた。 それは先刻この兄に殴られてツキトが悲鳴をあげていたところと丁度同じ箇所だった。 月人には太樹がいれば大丈夫でしょ。 幼い頃のツキトは実の母にそう言われてそっぽを向かれ、放っておかれた。特別冷たくされたという事はない。けれど優しさをもって接してもらった覚えも一切なかった。 ツキトたちの両親は双方の家の都合―所謂政略結婚で夫婦になったが、互いに「それなりの愛情はある」と言った物言いをし、実際仲もそこそこに良かった。否、それどころか傍目にはどこからどう見ても理想のおしどり夫婦で、理想のパートナーでもあった。夫は仕事の付き合いで頻繁に行われるパーティ等には必ず妻を連れて行ったし、妻もまたそんな夫の接待には非常に協力的だった。2人の年齢は十以上離れていたが、それが逆に良かったのかもしれない。年老いた夫は華美な振る舞いで場を盛り上げる妻をとても大切にしたし、妻もそんな夫に甘えるのはやぶさかでないのか、適当に息抜きをしては外国などへも1人でどんどん行っていた。無論夫が仕事の都合をつけて2人で行く事もあったが、その際も喧嘩などは一切した事がないという話だった。夫は仕事に関してはとことん冷酷な分、妻には従順で優しかった。妻も美しい容貌で大勢を惹き付ける割には、外では常に夫を立てて控えめだった。だから「それなりの愛情」うんぬんというのは、きっと互いの照れ隠しなのだろう、見合い結婚だろうが何だろうがこれ程息のぴったり合った夫婦も珍しい…と、少なくとも周囲の人間たちは彼らの事をそう評価していた。 そんな2人の間に生まれたのが太樹、陽子。それに末っ子の月人だった。 長兄の太樹はどちらかといえば父親似で、幼い頃から物静かで余計な事は言わない怜悧さがあり、また非常に勘の鋭い子どもだった。その非凡さに父は賞賛の言葉を惜しまず、太樹が成人するや否や自分はさっさと身を引こうとした程、息子には一方ならぬ期待と信頼を寄せていた。 一方、長女の陽子は外見も中身もまるっきり母親似で、「フランス人形みたい」という陳腐な誉め言葉は彼女がその意味を理解する前からお決まりのように多くの大人たちによって使われていた。またそうやって蝶よ花よと育てられた所以か、はたまた生来のものだったのか、彼女の自信に満ちた大胆な振る舞いはより多くの人間を魅了し、多少の傲慢さもその美しさを際立たせるだけだった。母もそんな娘を誇りに思い、可愛いく着飾ってやったり、本人がやりたいと言えばピアノでもバレエでも何でもすぐにやらせてやった。 健康で優秀で美しい、息子と娘。 2人には太樹と陽子でもう十分だった。少なくとも小林家の嫁としての義務を果たした母はそう考えていたようだ。 月人ができたって知った時は本当に驚いたわ。だって――…。 両親…特に母はツキトにだけ殊更関心が薄かった。才能溢れる上2人の子どもたちに比べれば、確かにツキトは平凡で特に取り立てたところもなかったかもしれない。しかし末っ子の息子だ、本来ならば母親として一番溺愛してもおかしくはないツキトを、何故か母はいつも放っていた。実際、親代わりのような兄の太樹がいたから不自由はなかったが、それでもツキトは寂しかった。 月人ができたって知った時は本当に驚いたわ。だって――…。 だって、もう子どもは作る気なかったんだもの。 特に悪意の感じられる物言いではなかったが、実の母親から面と向かってそんな風に言われれば辛いに決まっている。他の子どもはどうか知らないが、少なくともツキトは何気なく発せられたその母の言葉を生涯忘れないだろうと思った。いつどんな拍子で言われたのかは忘れた。けれど言われた事自体は忘れない。母を憎んではいないけれど、何を望まれる事もなく、逆に望む事も憚られるその関係は、他所で眺める親子とは明らかに違う、歪んだものに感じられた。 だからどうしても卑屈になった。明らかに「デキル」兄や姉と自分を比べ、自信を失くして俯く事も多くなった。外へ出るのも嫌だったから人見知りになった。それでも両親はそんなツキトには一切構わず、「絵を描く事が好きなちょっと大人しい子ども」くらいにしか思っていないようだった。何にしろ3人のうち2人も「当たり」だったのだから、末っ子の不出来くらい不平を言うようなものでもないだろうと。 絵が描きたい? 別に構わないけれど…太樹兄さんに相談なさい。 きっと、だからだ。ツキトが美大への進学を相談した時、母はただそれだけ言った。父は一瞬渋い顔をして見せたが、やはり最終的には母と同様の事を言ってすんなり流したように思う。まあ好きにすればいい、ただし兄の太樹が許すなら。両親はツキトの事は長兄の太樹に任せっきりであったし、元々2人は太樹ほどツキトが会社を手伝う事にも乗り気ではなかった。心の中では絵なんてもので生計を立てられるわけはないと思っていただろうが、何もかもが彼らにはどうでも良い事であったのだ。彼らにとってツキトの事は太樹が良いと言えば良いし、駄目と言えば絶対に駄目なのだった。 月人の全ては兄の太樹が握っていたのだ。 自宅に車が滑り込んだのはまだ日も沈みきらない夕刻だった。大した渋滞にはまらず高速を抜けて来られたからというのもあるが、実家と東京とがこれほど近いものだったとは、ツキトはこの時初めて知った。 家を出てきたばかりの頃はどれほど遠く、離れた場所に感じていたことか。 「いやあだ、月人! やっと帰ってきたと思ったら、あんたボロボロねえ!」 そんな風にぼうと考え事をしていたツキトを真っ先に迎えたのは姉の陽子だった。 ツキトが戻って来ると事前に何処からか聞いていたのだろう、大仰な門をくぐった車が屋敷の前に停まった時には、陽子は既に待ち構えていたような様子でそこにいた。花柄のショールを肩にかけ、ワインレッドのロングスカートを履いた姉は別れた時から何も変わっていない。今日はずっと家にいたかのようなリラックスした雰囲気が感じられたが、厚めの化粧は相変わらず欠かしてはいなかった。しかもその真っ赤な紅が引かれた唇はにやりと意地悪く上がっていて、ツキトを見る目も以前同様からかいたくて仕方がないという嬉々とした色を放っていた。 「お前……仕事はどうした」 ツキトを車へ押し込んだ時同様、その腕を引っ張って外へ出た太樹は、妹の陽子に無遠慮な棘々しい視線を向けた。確かに仕事から帰ってきたばかりの姿には見えないし、退社するにもまだ早い時刻だった。 「申し訳ありません!」 しかしそんな太樹の声を受けて真っ先にそう叫び深々と頭を下げたのは陽子の傍にいた若い女性の使用人だった。どうやら彼女が太樹のスケジュールをどこかで見知って陽子に教えたらしい。ぶるぶると震えながら、ひたすら「すみませんすみません」と謝っている。そんなに太樹が恐ろしいのならば黙っていれば良いようなものだが、恐らくは彼女にとってより恐怖なのはこの陽子だったという事なのだろう。 すっかり恐縮しきっているそんな使用人に陽子は笑いながら大きくかぶりを振った。 「いいのよ、あんたは謝らなくて。兄さんだって私がここにいる事くらい分かってたでしょうよ。そうでしょ? 月人が帰ってくる大事な日に仕事なんて! それに私はやる事はちゃんとやってますから。公私混同している兄さんに言われたくないわよ」 そうして陽子は太樹が何事か言い返す前にツキトを窺い見るようにして尚も続けた。 「月人、あんたちょっと見ない間にますます痩せたんじゃないの? その死にそうな顔ったらないわね。東京行ったらすっかり垢抜けて可愛くない弟になっちゃうのかなぁって思った事もあったけど。本当、期待通りで笑っちゃうわよ。やっぱりあんた最高だわ」 「どけ、陽子」 「その前に私にも月人触らせてよ」 「近寄るな!」 「………痛いわね、もう」 差し出しかけた手をお預けのように太樹にバシリと叩かれ、陽子は露骨に眉をひそめた。兄に面白くない事をされるとちっとあからさまに舌打ちをする癖も以前のままで、こういうところは俄然「良いところのお嬢様」からはかけ離れる。 そんな陽子は大袈裟に手のひらを擦って見せながらむうと口を尖らせた。 「兄さんばっかりずるいわよ。私だって月人が帰ってくるの心待ちにしてたんですからね! ずっと心配してたんだから!」 「え?」 これにはツキトが驚いて目を丸くした。 心配? この姉が自分を心配。実に想像できない言葉である。姉にはからわれ苛められ、とにかく数限りない嫌がらせをされた事しか記憶にない。 「何よ月人。その訝しそうな視線は」 陽子はにやりと笑って腕を組み、偉そうにツキトの事をを見下ろした。 「あんた、私があんたの心配してないとでも思ったの? 心配してたに決まってるじゃないの。可愛い可愛いってそりゃあ大切に育てていた弟が陰険な兄様に苛められて家出しちゃったのよ? 心配するなって方が無理よ。そうでしょう?」 「………」 苛められた覚えはあっても育ててもらった記憶はないというのが正直な思いであったが、ツキトはとりあえず引きつりながらも少しだけ笑って見せた。姉のこういった態度は何だかひどく懐かしかったし、兄の太樹にずっと掴まれ放してもらえないという息苦しさにはほとほと参っていた。どうにかなってしまいそうな程苦しい思いがしていたから。 だからこの昔と変わらない姉の言動が却って嬉しくもあったのだ。 「でも月人」 けれどそう思ったのもほんの僅かな間だけだった。 陽子はニヤニヤ笑いながら言った。 「あんたもやるわね。向こうで恋人作ったんだって? しかも男の」 「え…」 「もう本当イイわ。あとでどんなヤツか教えてよね。あ、写真もあるはずよね。兄さん、Jから貰った報告書アタシにも見せてよ」 「……支倉(はせくら)」 「はい」 しかしそうやってはしゃぐ陽子の声を太樹が止めた。傍に立っていた秘書の男をわざと強い口調で呼ぶ。 「ツキトを部屋へ連れて行け」 「はい」 「陽子、お前は俺と来い」 「何処へ?」 陽子はもう笑っていなかった。たちまちむっとした顔をして自分にそう命令した太樹をすっと据わった目で見やる。折角戻ってきた愚かな弟をこの兄は自分に触らせるどころか口をきくことも許そうとしない。そんな横暴さに陽子はあからさま気分を害してみせたのだ。 「いいから来い」 けれど太樹も一歩も引かなかった。依然としてツキトを陽子から隠すように背後に控えさせ、もう一度支倉と呼んだ秘書の男を顧みる。相手はただその意を汲み取ったように黙ってもう一度頷いた。 「……はああ。分かったわよ。月人、じゃあまた後でね」 その様子に陽子もすっかり諦めたようになって肩を竦めた。途惑うツキトにちらとだけ笑ってみせて、陽子はついて来いと言った太樹よりも先になって歩き出した。恐らくは屋敷に横付けされている離れへ行くのだろう、そこは2人が家に仕事を持ち帰る時に篭る書斎代わりにもなっている場所だった。 「行け」 「え」 それと同時に太樹のツキトを掴んでいた手も離れた。 驚いて顔を上げるツキトには構わず、太樹もすぐに妹の向かった方向へと歩いて行った。 もうツキトの方はちらとも振り返らなかった。 「それでは月人様、こちらへ」 そんな2人の背中をぼうと見つめているツキトに、やがて秘書の―兄は支倉と呼んでいたが確かにその名には覚えがあった―が、ツキトを中へと先導した。 「お帰りなさいませ」 「お帰りなさいませ、月人様!」 するとすかさずその場にいた使用人の若い女性と、今までずっと黙っていた運転手の老齢の男が一斉に深々と頭を下げた。 「あ…っ」 そんな彼らの態度にツキトはあからさま面食らい、思わずその場で固まった。けれどその瞬間、まるで今まで堅く閉ざしていた記憶の扉が次々と開いていくかのように、過去この家で過ごした様々な出来事がツキトの脳裏を物凄い勢いで駆け巡って行った。 そうしてようやく実感した。 ああ、この家に帰ってきてしまったのだな…と。 「変わってない……」 別に案内などされなくともその場所くらい容易に分かる自室。支倉が開けてくれたドアの向こう、その慣れ親しんだ空間を目にしてツキトは開口一番そう呟いた。 一年もいなかったのに、まだ油の絵の具特有のあの匂いが残っている気がした。錯覚かもしれないが、机の隅に置かれた道具入れも戸棚に仕舞っていた数冊の画集もそのままだ。家を出る時荷物は最小にしようと思って泣く泣く置いてきたものばかりだったが、それらはいずれもツキトにとってとても大切な物だった。 けれど正直まだ残っているとは思わなかった。半ば覚悟していたのだ、きっとこれらのものは自分が消えた後、兄によって全て処分されてしまうだろうと。 でもそれらは変わらずそこにあった。 「着替えはクローゼットに入っております。暫くこちらでお休み下さい。今、お茶を持って来させますので」 支倉は言いながらツキトより先に部屋へ入り、カーテンを開いて締め切っていた雨戸も勢い良く開け広げた。するとたちまち外の夕日が中へと差し込み、ツキトはその仄かな赤色の光に思わず目を細めた。暗く空気の篭っていた自室はたったこれだけの事であっという間に元の状態に返ったようだ。 一年の空白が埋まるわけもないのに。 「他に何か欲しい物はございませんか」 「え」 支倉の問いにツキトははっとして視線を向けた。思えばこの男とはここへ来るまで数時間も一緒にいたというのに、こうやってまともに面と向かったのはこれが初めてだと思った。 「他に…?」 「はい。何なりと仰って下さい」 けれどその顔にやはりツキトは覚えがあった。すっきりと襟足で切り揃えられた髪型は秘書らしく清潔感があり、1年前もこの人は変わらずこんな風に学生のツキトに対して丁寧な物言いをしていた。確か姉の陽子が「結構な美形」と言って気に入っていたように思うが、そんな姉のあからさまな誘いにも支倉は今のように冷静な態度でうまい具合にかわしていた。そんな機械的な面が兄の気に入っているところなのだろうが。 「別に…何も…」 ツキトが口ごもりながらそう言うと、支倉は窓の前に立ち尽くしたまま淡々と続けた。 「そうですか、それではお茶だけ運ばせます。お食事は何時頃になさいますか。社長はご一緒できないと思いますので、月人様のお好きな時間にこちらへ運ぶように致しますが」 「あの…兄さんは…?」 何だかこの言われ方にはどうしても違和感を抱いてしまう。それを払拭したくてツキトは支倉の言葉を掻き消すように兄の名を出した。 もっともツキトが少し急いた声を出したところで、優秀な秘書のペースが崩れるわけもないのだが。 「仕事の方がまだ片付いておりませんので、恐らくこの後は社の方へ戻られると思います」 「ど、どうして…?」 ツキトはぐっと手のひらを握り締め、支倉から視線を逸らしつつ言った。 「忙しいのなら、どうしてわざわざ…っ。それに…それに、どうして僕があそこにいるって分かったんですか?」 「興信所で調べさせていましたから」 「でも、上月さんはまだ知らせてないって」 「上月の行動に不審な点が多々ある事は分かっていましたので、以前から既に他の人間にも調査させていたのです。ですが、月人様のいらっしゃる場所を特定できたのは今日の朝でした」 「今日…?」 「その足で社長は車を出されたのです」 「仕事は…?」 「………」 支倉はツキトのこの問いには答えなかった。ただ再び口を開き、その感情の見えない声は他の事を告げた。 「月人様の元へ向かう途中、偶然にもJの方から上月と月人様が接触したという連絡が入ってきましたので、マンションの方ではなく直接あの公園へ向かいました。月人様にもお荷物などあるでしょうし、そちらの方はどうされるのかとお聞きしたのですが……社長は必要ないからと」 「………」 「何か入用の物などありましたでしょうか」 「それより…っ」 律儀な支倉に見当違いの苛立ちを感じながらツキトは激しく首を振った。 「……兄さんは…どこまで知ってるんですか……」 「………」 「志井さんのこと…知ってる、みたいだった……」 志井の名前を出すだけでもツキトの喉は焼けるように熱くなった。けれど兄に直接問い質す方が余程恐ろしい。ツキトはこの何を言っても決して感情を荒げないだろう支倉という男に八つ当たりに近い怒りを抱いているくせに、出来ればこの男の口から答えを聞きたいと思った。兄の太樹と相対する勇気がないから、それでも真実は知りたいから、今はこの男に頼る他ないと思ったのだ。 それはひどくずるい事だと、ツキト自身よく分かっていたけれど。 「教えて下さい。兄さんは志井さんの事、知ってるんですか?」 「はい」 支倉はただ簡潔にそれを肯定した。 けれど聞けたのはそれまで。 「志井さんとのこと、どこまで……」 「あとは社長から直接お聞きになって下さい」 泣き出しそうなツキトを見つめ、支倉は僅かに憐憫の情を示す瞳を向けたが、それも本当に一瞬の事だった。自分が外へ出る代わりにツキトをさり気なく部屋の中へと押し入れて、支倉はドアを閉めながらやはり心の見えない声で言った。 「食事は適当な時間に運ばせます。それから……お車の中でもお聞き及びかと思いますが、社長の許可なく外出はされないで下さい。見張りの者を置いていきます」 「見張り…?」 茫然として振り返ったツキトに、しかし支倉はもう何の反応も示さない。無情にも閉められたドアはパタンと乾いた音がして、それだけがツキトの耳にいやに強くこびりついた。 「何言ってんだ…。見張りなんて…」 誰もいなくなった自室でやっとそう呟けたのは一体いつになってからか。 間もなくしてドアの向こうから使用人の女性が遠慮がちにノックする音、お茶を持ってきたと告げる声が聞こえてきたが、ツキトはそれには一切応じようとしなかった。 ただもう立ち尽くして。 思うのはたった一つだけ。 志井さんに何て言えばいい? 頭に浮かんだその人の姿を思い浮かべ、ツキトは未だその場に佇んだままきつく拳を握り締めた。そう、志井はきっと待っているから。今もうこの時、ツキトの不在を知って心配しているかもしれない。鍵も掛けずに出てきてしまった。もしかしたら部屋の電気も点けっ放しかもしれない。布団だって干してない、洗濯物だって……。 「……っ!」 いや違う、そんな事はどうでもいい。 ツキトはぶるぶると首を振り、喉元へとせり上がってくるどうしようもない悔しさや悲しさや焦りといった感情を持て余してぎゅっと目を瞑った。 バカ。鍵なんか、電気なんか、今はどうでもいいじゃないか。 今はそんな事、どうでも良くて……。 |
To be continued… |
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