あの窓を開けたら


  ―6―



  子どもの頃から人と話す事がそれほど好きではなかったから、志井はいつでも無口だった。両親が息子である彼にあまり強い関心を示さなかった事もそんな性格を作る要因となっていたのかもしれないが、いずれにしろ志井は他人というものを常にどこか一歩引いた場所から眺める癖がついていた。もともとあらゆる面で器用だったからそんな冷めた一面があったからと言って集団から孤立するような事はなかったし、志井自身、別段人の輪に進んで溶け込みたいとも思っていなかったから、その性質を厄介だと思った事もない。
  ただ淡々と、何となく日常を送る。
  それが志井のスタイルだった。
「君といると実に便利そうだ。是非友達になろう!」
  才能溢れる志井に対し憧れや畏怖からへりくだった態度で近づいてくる人間は多くいたが、相馬はそれとは少しだけ異なっていた。
「何故って、君は俺の家と違って金持ちでイイ物をいっぱい持ってるだろ。それに君自身も男前で女の子にめちゃくちゃモテる。近くにいれば分け前が転がりこんでくるかもしれない」
「お前、ふざけて言ってんのか?」
「何で。真面目に言ってるよ」
  その頃、2人は共に中学3年で15歳。その年、志井のいた学校に「家の都合」とやらで転校してきた相馬は「原始人」という妙なあだ名をつけられていて、実際髪の毛はボサボサ、大きくて人懐こい目はとても愛嬌があったが、常に何かをきょろきょろと探しているような仕草は落ち着きがなく、「いつも食べ物を探し飢えている」と悪い方向に解釈されていた。また、しょっちゅう授業をサボっては学校の裏手にある山林へ入り込み、そのまま戻って来ないものだから、「原始人が山へ狩りに行った」と学校中の人間が笑っていた。
  志井には全く関係のない話だったのだが。
「目立つ人間には2種類あるな。無理やり目立とうとして煩く騒ぎ立てる奴と、目立ちたくもないのに周りが放っておいてくれない奴」
  相馬は一体何をやっているのか、どこかで採ってきたらしい草の根をガリガリと石で磨り潰しながら、自分の背後に立ち尽くしたままの志井にそう言った。いつまで経っても山林から帰ってこない相馬を当時志井たちの担任だった新人の若い女性教諭はいつも半泣きになりながら自ら探しに行っていたが、その日は無理が祟ったのか熱を出して休んでいた。そこで代理の学年主任が志井に白羽の矢を立てたのだ。理由は明白、教師でさえ辟易する変わり者の相馬を連れ帰る事など「普通の生徒」に出来るはずはない、「志井」ならば何とかしてくれるのではと考えたからだ。志井にしてみれば果てしなく迷惑な期待のされ方だったが、この頃はまだ教師に対しても周囲の人間に対しても極めて大人しく従順だった為、志井は憮然としながらも黙って席を立った。
  そこでようやく探し当てた相馬に言われたのが先の台詞だ。君といると実に便利そうだから友達になろう、と。
「なあ、自分はどっち側の奴か分かるか?」
  相馬が言った。
「目立つタイプの人間。君は後者だろ。構われたくなんかないのにどうしたって注目されてしまう。だからここにいるわけだ。全く迷惑な話だよな」
「……そう思うんなら、とっとと教室戻ってくれ」
「俺がこのまま戻ったらまた注目されちゃうよ? 『ああ、やっぱり志井に頼んで良かった、あの相馬をこんなにあっさり連れ戻してきた! これからも志井に頼もう!』……ってさ」
「………」
  珍しくぐっと詰まる志井に、ここで初めて相馬がくるりと振り返った。見るといつもはしていない黒縁眼鏡を掛けている。咄嗟に「おや」と思った。「原始人」というあだ名とはえらくかけ離れた、そこにはひどく聡明な目を持つ精悍とした顔があったから。
「俺には君と違って夢があるんでね」
  その言い方もいやに理知的だった。
「自分の好きなように生きられない人間は哀れと言うけど、もっとも憐れなのはその自分の好きなものってのが何かも分かっていない奴の事を言うのさ」
「俺がそうだって言いたいのか」
「いっつもつまんなそうな顔してるだろ」
  直接肯定しなかったが、それが相馬の答えだった。地面に直接胡坐をかき、その両足を両手で掴んだ格好の相馬はやや伏し目がちになりながら笑った。
「正直、お前。俺が一番気に入らないってタイプの奴だよ。……けど、お前はここにいる俺の事を一発で見つけた。悔しいけど、やっぱ凄い奴なんだろうな。だから言ってんだよ。案外気があうかもな?」
「何が……」
「何がって。だから、友達。友達になろうぜ!」
  ばしばしと膝を叩きながら相馬は威勢よくそう言った。志井の依然として胡散臭そうな警戒したような視線にも全く構う風がない。思えばこの相馬は確かにクラスのはみ出し者で嘲笑の的だが、本当の意味での「除け者」にはなっていない。誰もが彼のこんな屈託のなさやマイペースなところを本心では嫌っていないし、それどころか憧れてさえいる。誰をも寄せ付けないはずなのに、この人の良い顔で自然周囲を惹き付けて、本人の意思と反して放っておいてはもらえない。そうだ、目立つ人間の「後者」とは、それこそこの相馬の事を言うのではないのか。
  しかも彼は志井と同じようでいて、実は全く違う。
「俺は好奇心の強い人間だからなぁ。是非見たいな。お前みたいなのが好きなものとか…ああ、あとは惚れた相手を見つけた時とかな! その時の顔!」
  後に相馬はそんな事を志井に言った。あれから何となく共にいる機会が増えて、相変わらず志井は無感情だし相馬は破天荒に何処へでもすっ飛んでいなくなるような感じだったが……それでも2人は「友達」になった。
  そうして相馬はそんな友人の志井に事ある毎に言うようになったのだ。
「お前みたいなのは恋とかした方がいいんだよ。全く想像できんが…でも、するべきだよ。何にしろお前は俺と違って独りじゃ生きていけない、憐れな男なんだからな」





  何故あんな事を言ってしまったのかと、今更悔やんでみてももう遅い。
  ツキトが身体を開けない事を責めるなど、ましてやそれでもそうしようと努力している事を詰るなど、一番してはいけない行為だ。
  できもしないくせに…、その言葉が口から零れ落ちた時、志井は頭の隅ですぐに「しまった」と思う自分を自覚していたのに、その場で即ツキトに謝る事ができなかった。傷つき泣いていたツキトを放ってその場から逃げ出し、静かな暗い夜をたった独りで過ごさせた。
  何て最低なんだ。結局俺はこうなのか。
  どうして良いか分からなかった。こんな気持ちで、こんな状態で、たとえ明日明るい朝が訪れて、優しいツキトがこちらを向き「志井さん、おはよう」と言ってくれたところで…否、言ってくれるかも分からないが…。
  自分も変わらぬ態度で「おはよう」と言えるだろうか?

「ツキト……?」

  だから志井はその朝、いてもたってもいられず外へ出た。いつもならちょっとの買い物で外へ行く時にも必ず書き置きをして出掛けたが、その日は気が動転していたのか何も残さず出てきてしまった。

「鍵が…」

  それでも昼過ぎになって再びマンションへ戻ってきた時には、志井も幾らか落ち着いた気持ちを取り戻していた。出し抜け家を飛び出し向かった先は、本来ならいつも配送で受け取るはずの洋菓子店だ。「あれ、こんなに早く、しかも受け取りに来るなんて珍しいわね」と気の良い女主人にからかわれ、それでもきちんと笑い返せた。この日その店で注文していたのはツキトが特に好きだと思われる季節の果物がふんだんに盛られた特製プリンで、この店でも毎日20個しか作られない予約限定商品だった。それをいつもの綺麗な箱に入れてもらい、志井は家路に着くまで何度も何度も考えた。ツキト、昨夜は本当にすまなかった。どうかしていたんだ、あんな事本心じゃない。俺はツキトが傍にいてくれれば本当にそれで良いんだから。ただお前が俺の傍で笑っていてくれさえすれば。
  そう、そう言えば良いのだ、と。

「……な」

  けれどドアの鍵を開けようとして、志井はその異変に気がついた。きちんと閉めて出て行ったはずの扉が開いている。幾ら気持ちが急いていたとはいえ、これだけは忘れるわけがないと思った。いつ何が起きるかといつもびくびくしていたのはツキトよりもむしろ自分の方だし、このマンションの居場所を知っているだろう刈谷という青年の事も志井はいつも気になっていたから。
  だから鍵を掛け忘れるなど。
  しかし、それならばどうして鍵が開いた状態になっている?
「ツキト!」
  もう一度、部屋へ飛び込みながら志井は先刻より大きな声でその名を呼んだ。広いリビングとはいえ、物の少ないすっきりとした空間で相手の姿が見えない事は一目瞭然だ。思わずごとりとプリンの入った箱を取り落とし、志井は急いで昨夜ツキトを置いてきぼりにしてしまった自室を、そして次にツキトの寝室、ベランダ、浴室と…。
  全て見回って愕然とした。
「何……」
  いない。
  何処にもいない。この部屋にいない。
  一体何処へ行った?
「ツキト!」
  半ば悲鳴のような声が飛び出して、同時に足は勝手にまた外へ向かって動き出していた。家を空けたのは意味もなく周辺をうろついていた時間もあわせて2〜2時間半といったところか。その間、取り立ててて移動手段のない、しかもここへ越してきてから1人で外出をした事のないツキトが彷徨う場所など限られている。大丈夫、すぐに見つかる。ツキトとて部屋でじっとしているのは辛かったのだろう。ただの散歩だ。いや、俺が何も言わずに部屋を空けたから、もしかして心配して探しに出てくれたのかもしれない。むしろ不安に思っているのはツキトの方だ。
  早く見つけてやらなければ。
「ツキト!」
  周囲の目など関係なく志井は叫んだ。突然声を上げた志井の姿に近くを通った買い物帰りの主婦などがぎょっとしたような視線を向けてきていたが、勿論そんなものに構っている余裕はなかった。志井が目にしたいのは、気になるのはいつだってツキトだけ。ツキトだけなのだ。ツキトが笑っていたり喜んでいたり、そういう姿をいつでも見ていたい。だから洋菓子店にも行った。こんな自分を相手にツキトが何をもって喜んでくれるのか、それが分からなかったから。物を与える事でしか、志井はツキトへ自分の好意を表現する術を見出せなかった。ツキトの大切なものを奪った自分に、そんなもので何かが返せたとは無論思ってはいなかったが。

『お前はな、本当は不器用なんだ』

  お前は独りでは生きていけない、そうバカにするように言い切った友人の相馬は、以前そうも付け足して志井に仕方がないなという風な苦い笑いを見せた。

『何でも出来る奴に限ってこうだ。もっと己を知れよ。そうしないといざ本当に好きな子が現れた時、お前はその子を傷つけちまうかもしれない。そうなったらな…、たぶん1番ダメージを受けるのは誰でもない、お前自身だぞ』





  お前たちはもういいぞ、下がっていろという低い声がドアの向こうから聞こえてきて、ツキトは俯けていた顔をゆったりと上げた。
「月人」
  間もなくしてスペアキーを使用したのだろう、がちゃりと無遠慮にその扉は開かれ、兄の太樹が顔を出した。姉の陽子も近くにいたのか、「何すんのよ!」と何やら怒る声も聞こえたが、これはしかしすぐに遠ざかって行く。どうやら自分もツキトの部屋に入ってこようとしたのを太樹の手の者に止められたらしい。恐らくは支倉が言っていた「見張り」の者だろう、先刻までずっと部屋の前に立っていたようだが、太樹が入ってきて姉の怒り声が小さくなるのと共に、その気配も消えていった。
「月人」
  ベッドにいたツキトを太樹がもう一度呼んだ。それからちらりと、机の真向かいにある窓へと目を向け眉をひそめる。
  もう真っ暗だというのに、そこは夕刻支倉が開け広げたままの状態で未だばたばたとカーテンを揺らし、冷たい風を中へ運びこんでいた。
「窓くらい自分で閉めろ」
  バタンと乱暴にそれを閉める太樹の姿をツキトは黙って見つめた。夕刻よりは兄の怒りの感情も随分と沈静化したように見える。時間が経って落ち着いたのだろうか、不機嫌な様子に変わりはないが、これなら1年前にも何度も見た。
「兄さん」
  ツキトはそんな太樹に向かい、口を開いた。たとえ太樹の態度が恐ろしいものであっても、これを言う為に自分はずっと待っていたのだから。
「兄さん、電話させて下さい」
  カーテンも完全に締め切ってからこちらを見やってきた太樹に、ツキトは顔をくしゃくしゃに歪めながら言った。
「あのドアの前にいた人にも、誰に何度頼んでも…絶対に掛けさせてくれないんだ…。太樹兄さんの許可がないと駄目だって……。何で? 電話くらいさせてくれたっていいじゃないか…っ」
「何処へ掛ける」
「そ、そんなのっ」
  志井のところへ掛けるに決まっている。
「し…志井さん……」
「誰だ」
「知ってるんでしょ?」
  思わずカッとしてツキトは一旦は俯けた顔をがばりと上げた。もろに目の前の兄と目があう。ぎくりとしてまた視線を逸らしかけたけれど、逃げてばかりもいられないと咄嗟に思い直してツキトは両手を差し出した。
  そうして傍に立つ兄の両腕を必死に掴んだ。
「志井さ…志井克己さんって言うんだっ。一緒に暮らしていた人だよ! ずっと一緒にいてくれたんだ!」
「………」
「僕の絵を好きだって言ってくれた! 才能あるって…。優しくて…良い人だよ」
「ハッ!」
「……っ!」
  思わず鼻先で笑った太樹にツキトは驚いて目を見開き、寄せていた手も反射的に放した。兄の口元は皮肉交じりにやや上がっていて、それすらその端麗な容姿には非常によくあっていたが、それでもツキトには恐ろしかった。
  兄は言った。
「優しい? 良い人間か。月人、その割にお前はその大層な人間とくっついたり離れたり、随分忙しなかったようだな」
「え…」
「才能がある? 初めて他人に生温い賞賛を貰えてご満悦だったわけだ、お前は。…――そのくせ、その男とくっついたらラクガキ遊びももう終わりか」
「………」
「未練なしか? 家を出てまでやろうと思っていたものも、お前にとってはその程度か」
「ちがっ…!」
「月人」
「……っ」
  がつりと無造作に髪の毛を掴まれてツキトは声にならない声をあげた。しかもそのまま強引に顔を上げさせられ、近寄ってきた太樹と無理に目線を同じにさせられた事で、ツキトはぎゅっと眉を寄せた。
「何が違う。何も違わない。お前に才能なんぞないし、根性だってない。せいぜいそうやって誰かに甘えて依存する事しか能がない。……だったら家にいろ。どこの馬の骨とも知れん奴に媚びを売って、その結果がこれだ。家は恥をかいたし、お前は――」
  言いかけて、しかし太樹はふと口を閉ざした。ツキトが痛みで閉じていた目を薄っすらと開けると、そこには珍しく迷いを含んだような兄の瞳の色があった。それでツキトも容易に悟った。
  ああ、やっぱり全部知られているのだな。
「……飯くらい食え」
  ようやくツキトの髪の毛を離し、太樹はくるりと踵を返した。ドアを開けて階下にまでよく響きそうな張りのある声で使用人の名を呼んでいる。
  間もなくばたばたと多少騒がしい音が聞こえて、部屋に夕食のトレイを持った女性が入ってきた。夕刻、さんざドアの向こうからツキトに食事を摂ってくれ、せめてお茶だけでも飲んでくれと懇願していた使用人だ。ベッドに茫然と座ったままのツキトはどこからどう見ても尋常な様子ではなかったが、それでも彼女は幾らかほっとしたような顔を向け、先ほどは失礼しましたなどと言って机の上に食事を置いた。一瞬何の事かと思ったが、ああ電話は駄目だと拒絶した件かとは、ツキトも後になって気がついた。
「座れ、月人」
  また2人きりになったすぐ後、椅子を引いて太樹は当然のように言った。ツキトが逆らうなど微塵も考えていないといった態度だ。
  ツキトはちりちりと胸に燃え立つ小さな炎を感じて、それに従うまま首を振った。
「いらない」
「いらないじゃない。食べろ」
「欲しくない」
「………」
「電話…掛けさせて下さい!」
「駄目だ」
  きっぱりと、そしてすぐさま太樹はそう言った。そこには特別な怒りも苛立ちももう見えはしなかったが、だからこそツキトの「条件反射」は危険だと訴えて背中から足元からとにかく全身をぶるりと震わせた。
  それでも譲るわけにはいかないのだ。
「心配…してるから。絶対」
  ごくりと唾を飲み込んだが、その音がいやに大きく部屋中響き渡った気がした。
「志井さん、絶対…絶対心配してるんだ。いつも、勝手に何処かへ行くなって言ってて、それすると怒って…。でも謝るといつもすぐ笑ってくれた。……好きだって……言ってくれた!」
  自分だって好きだ。志井の事が大好きだ。頭の中でツキトは何度も何度もその言葉を唱えた。
  志井の事が好きだと。
  それなのに。今なら本当にそう思う。志井の事が好きなのに、どうして勝手に部屋を飛び出してしまったのだろう?と。外に出た後すぐに昨夜のあんな事は忘れられる、忘れようと思えたのだから、別段部屋にいて思っていたってきっとすぐに立ち直れたはずなのだ。逃げ出さなければ良かったのだ。


  逃げ出す? 逃げ出したのか、自分は………。


「僕は…でも、僕も……」
「月人」
  それでも志井が好きなのだと太樹に告げようと思った時、その声は降って来た。
「その男の事は忘れろ。もう二度と会う事はない」
「え…?」
「俺が許さん。お前は俺の傍にいろ」
「何…?」
  驚いて何も言えないツキトを太樹は無理に立たせるとそのまま強引に自分が引いた椅子に座らせた。そうして機械的に振り向いて顔色を窺ってくるツキトにも太樹は依然として変わらぬ表情で、ご丁寧にもトレイに乗っていたお絞りを開いてまだ熱の篭ったそれをツキトの手の平に無理やり乗せた。それでもツキトが動かないと見ると、今度はごしごしと自分が代わってツキトの手を拭いてやった。
「兄さん…?」
  温度のあるそれが何度も自分の手を拭い熱を放ってくる事で、ツキトはようやく声を出せた。未だ「志井に二度と会わせない」と言われたショックで頭はボーッとしていたが、それでも自分に対しこんな意外な所作を取った兄の事は驚きだったから問い返す事ができた。
「兄さん…。だって、僕は…」
「そいつには俺から連絡しておく。お前が多少なりとも世話になったと言うのなら、手切れ金でも何でも渡してやるさ。……だが何度も言わせるな。もう二度と俺から離れる事は許さない」
「………」
「勝手に何処かへ行く事も」


  1人で勝手に何処かへ行くな……。


  それは志井が自分に言ってくれた台詞ではないか? ツキトはドキリとして声を失った。そう、以前郊外の病院へ行った時、志井から待っていろと言われたのに一人で院内の庭園へ行ってしまった。スケッチをしていた女の子と少し話をしただけだったが、慌てて後を追ってきたあの時の志井はツキトを酷く怒ったのだ。「勝手に何処かへ行くな」と、心底心配そうな顔をして。
  あの時ツキトは志井のその大袈裟な態度に途惑いつつも、とても嬉しいと感じていた。見放されていない、ずっと見てもらえているという安心感。あれは志井がツキトにくれた本当に嬉しい言葉だったのだ。
  けれど………違う。
「兄さん……」
  ツキトは太樹の顔を見つめながらどくどくと高鳴っていく胸の鼓動を鎮められなかった。
  そうだ。そもそもその台詞を先に自分に言ったのは―――。





「別にいいわよ。好きな所へ行っていなさい」
  差し出しかけた小さな手を邪険に払われ、その時ツキトは自分を見下ろしそう言った母の顔を悲しそうに見返した。母は隣に立つ姉の陽子をその場にいた知り合いのピアニストに紹介する事に一生懸命だった。その日は会社の創立を祝ったパーティが丁度小林グループが施工したばかりのホテルで行われていて、ツキトもその会場に無理やり連れて来られていた。兄の太樹や姉の陽子はそういった場にも慣れたものだったが、ツキトは違う。普段滅多に見る事のない煌びやかな場所、雰囲気、そして見知らぬ大勢の大人たち。奇異の眼が常にこちらを見ているような気がして、ツキトは不安で仕方がなかった。
  だから母に手を繋いで欲しかった。「はぐれそうだよ」、そう小さく呟いて、ツキトは自らの手を差し出したのだ。
  けれど母は「別にいい」と言ってツキトを突き放した。はぐれたって構わない、母にしてみればホテル内で子どもがうろちょろしたところで誰かが面倒見てくれると思ったのかもしれない。いつも家に篭ってばかりなのだから、たまには他のものも見て回りなさい…そういう意図があったのかもしれない。
  けれどツキトは景色の見えない大海にぽんと投げ出されたような孤独を感じ、失望したままどんどんと背の高い大人たちに押し流されるようにして、広い会場内で途方に暮れた。
  時々誰かが親しそうに話し掛けてくるのも、「これが小林家の3番目の子ども」という好奇とも厭らしさとも感じるねっとりとした視線に寒気がした。本能的に、自分をただの子どもとして見ている大人がここにはいない事を感じ取っていたのだ。
「月人」
  どれくらい経ってからか。
  不意に聞き慣れた声が聞こえてきて、瞬間ぐっと手を掴まれた。ツキトがあっと思う間もなく、それはぐいぐいとツキトを引っ張り、やがて外へ出てホテルの中庭へ連れて行かれた。そこには白い丸テーブルと椅子があり、あれよあれよと言う間にツキトは抱き上げられ、その椅子にすとんと座らされた。
「あんな所で突っ立ってたら、お前みたいな小さいのは潰される」
  目の前に片膝をついてそう言い聞かせるような声を発したのは兄の太樹だった。会場に入る時には一緒にいたのに、「ちょっとここで待っていろ」と言って何処かへ消えたきり姿が見えなくなっていた。その兄が今はもうすぐ近くにいて、どうして分かったのだろう、1度人ごみに揉まれて転んだ時にじんと痛めた膝小僧を優しく撫でてくれている。別段擦りむいた跡も血を出した形跡もないのに。
「痛いか?」
「ううん」
  ツキトが首を振ると太樹は「よし」と珍しく頭を撫でてくれ、ぽんぽんともう一度軽くその場所を叩いて立ち上がった。そうして何を考えているのか、依然として賑やかな会場をじっと眺め、心なしか軽く嘆息したようだった。
「行っちゃうの?」
  心細くて思わずそう言ってしまうと、太樹は驚いたような顔をして振り返り、すぐにふっと優しく笑んだ。
「行かない」
  言って太樹はまたツキトの頭を優しく撫でた。
  そして言った。
「お前こそ、待っていろと言ったろ。勝手に逸れて…案の定だ。放っておくとすぐ何処かへ行くんだからな、お前は」
「そんな事ない…」
「そうなんだよ」

  いいか、月人。

  太樹は再び座りこんでツキトの両手をぎゅっと握った。ツキトがそれを大人しく受け入れてじっとした目を向けると太樹はまた優しく笑んで言った。
「勝手に1人で何処かへ行くな。俺はお前の姿が見えなくなると、いつだって本当に心配なんだから」
「本当?」
「ああ」
「心配?」
「何だよ。本当だよ、心配だ」
「……へへ」
  嬉しくてツキトも思わずにこりと笑った。家族の中で心配だと、何処へも行くなとちゃんと言ってくれるのはこの兄だけのような気がした。
  実際太樹だけだった。家族の中でツキトの事をきちんと見ていてくれるのは。
「うん。じゃあ僕じっとしてる。ここで待ってる」
「今日はもう待ってなくていい。帰るぞ」
「え?」
「くだらない…。こんな身内だけのパーティ、全く金の無駄だ。……俺はこれを探してただけだよ」
「あ!」
  一体どこから出したのか、太樹が手品のように突然手のひらに出した「それ」に、ツキトはぱっと顔を輝かせた。嬉しくて嬉しくて、さっきまでの悲しみがまるで嘘のようだった。

  月人には太樹がいれば大丈夫でしょ。

  母のそう言った言葉が悲しくないと言えば嘘になるけれど、それでも大丈夫なのはきっと本当の事だと思った。





「全部食い終わらなけりゃ、この部屋からも出さないからな」
  まるで兄こそが新しい見張りのようだ。椅子に座るツキトの背後に立った太樹は厳とした物言いを崩さず、無理やりスプーンを差し出した。反射的にそれを握り締めたツキトは、じっとそのトレイに乗った食事を凝視した。
  そして、その中でも一際あの出来事を思い出させる一品を見つめる。
「………」
  あのパーティの時も。
  兄の手から魔法のようにこれが出てきて、ツキトは凄く嬉しかった。しかしだからと言って今もまたこんな風に……もしや太樹の中では、自分はまだあの頃の小さな弟のままなのだろうかと、ツキトは疑わしくもなって思わず肩先を揺らした。
「兄さん」
「何だ?」
「まだ僕がさ…。これ…プリンが一番好きだって思ってるの?」
  スプーンでそれをつつきながらツキトは自嘲気味に笑った。箸やナイフ、それにフォークが並べられている中で、兄は真っ先にスプーンを取り自分に渡した。きっとこれなら…プリンならば食べるとでも思ったのだろう。
「もう子どもじゃないよ…」
  呟くようにそう言ったツキトに兄は憮然として応えた。
「何だっていいさ。飯が食えないならそういうもんから食えばいいと思っただけだ」
「何も食べたくない」
「なら、ここからは出られないな」
「………ずっと?」
「ああ。ずっとだ」
「………」
  冗談だろうと言い返したかったが、何故か出来なかった。ちらりと振り返るとばっちりと目があい、ツキトはそこでやっとまともな抵抗を示すように不満気な顔をして見せた。
「何だ」
  すると太樹はまたツキトの髪の毛を…しかし今度は無理に掴むのではなく、乱暴に掻き混ぜながらゆっくりと撫でた。車の中でもたった一度そうしたように。
「早く食え」
  そうして太樹はまた言った。やはり食べなければ先へ進めないというのは本当らしい。
「……食べるよ」
  ツキトはぶっきらぼうにそう答えながら慌ててまた前を向き、勢いのまま手にしたスプーンでプリンを掬った。


  心の中に突如として浮かび上がった、何か得体の知れない感情には……敢えて気づかぬフリをした。



To be continued…




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