あの窓を開けたら
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―7― 絶対に眠れないと思っていたのに、目が覚めると既に時計の針は昼近い時を刻んでいた。 「嘘だろ…」 思わずベッドの上で茫然としたツキトは、しかし締め切ったカーテンの向こうからでも分かる明るい日差しに思わず目を細めた。本当にもう昼なんだ。ぼんやりとそんな事を思いながら上体を起こし、とにかく今日こそは志井の所へ電話を掛けさせてもらわなければと固く決意する。 結局、昨夜はどれほど懇願しても兄の太樹からそれをする許可を得る事はできなかった。しかも夜中にこっそり掛けようと部屋を出た時には、昔はあったはずの場所からその目的の物は既にどこぞへ撤去された後だったのだ。 何という徹底ぶり。兄は本気なのだと思った。 『その男の事は忘れろ。もう二度と会う事はない』 きっぱりと言われたその言葉が今もツキトの胸にズキンと響く。志井と二度と会えないなど、幾ら兄の言う事とはいえ容易には信じられない。というよりも、全く実感が湧かない。一昨日まで本当に当たり前のように一緒に暮らしていたのだ。志井に支えてもらい、志井に寄り添う事で安寧を得ていた。それがなくなるなんて。 『もう二度と俺から離れる事は許さない』 その直後放たれた兄のもう一つの台詞にもツキトはぶるりと身体を震わせた。何だろうと思う。何故兄はあのような物言いをし、そして自分はそう言われた事にこれほど動揺しているのか。 志井の事を考えるのと同じくらいに胸が痛む。 「……やめよう」 無理やりかぶりを振り、ツキトは考える事を放棄した。まずは電話だ。志井の声を聞く事が出来ればこの訳の分からない気持ちのモヤモヤも晴れるに違いない。ツキト、何処へ行っていたんだ、心配した……慌てるように電話口でそう叫ぶ志井の姿を想像し、ツキトはぎゅっと目を閉じた。そう、志井ならばきっとそう言ってくれる。あの時の気まずい出来事など全部なかったかのように、ただ自分がいなくなった事を心配して、早く帰って来いと言ってくれるはずだ。そう、早く戻らなければ。 そこまで思ってとりあえず落ち着くと、ツキトはゆっくり立ち上がって部屋の出口へと向かった。 1日の始まりだ。 「……―――」 音もなく開いた扉の向こうには、昨夜ちらと見ただけの―本当はロクに顔も見ていなかった―相手が小さな丸椅子に腰掛けて分厚い書物に目を落としていた。否、別段椅子は小さくないのだ。ただこの人物の体形と比べるとあまりにもそう見えるだけで…。 「おはようございます」 ツキトを認めると、その大柄の人物は無機的な顔でそう挨拶してきた。 薄手のグレースーツに身を包んだその「女性」は、年の頃二十代前半といったところだろうか。ショートカットにフレームのない楕円型の眼鏡を掛けたさっぱりとした顔だちは、「そこだけ」を見るならばどこぞの国立図書館にでもいそうな才女に見えた。……が、顔から下――つまり身体は完全なる格闘家であった。 支倉が置いていった「見張り」だ。 「よく眠れましたか」 声は実に淡々としているが、別段悪気はないらしい。じろじろと一見不躾な視線を向けてきているのも、昨日は明らかに憔悴し取り乱していたツキトを心配しての事だと取れなくもない。 そんな見張り役はツキトが自分の問いかけに何も答えないと察すると一人でさっさと口を切った。 「今日は良い天気ですよ。食事はリビングで摂られてはどうでしょう。先に下へ行ってお坊ちゃんが起きてらした事を羊(ひつじ)さんに伝えてきます。何か食べたい物ありますか? ボス・支倉からも昨日重々申し付けられましたが、今朝は社長からも言付かりました。あまり食欲がないようだから、お坊ちゃんが食べたいと言う物は何でも食べさせるように、と。社長ってご家族には凄くお優しい方だったんですね。知りませんでした」 「………え」 「何せ社長のお姿を拝見出来たのは後にも先にも入社式の時だけでしたから。イメージだけが先行してましたが、人の抱く印象って本当に勝手ですね」 本に「ドラえもん」の栞を挟みおもむろに立ち上がった彼女はそれだけで板張りの床をぎしりと軋ませたが、ツキトを何より驚かせたのは相手の巨体や台詞の内容などではなく、その話し方であった。 昨日抱いていたイメージと何となく違う。いや、全然違う。 それに何だ、お坊ちゃん? 「それ……誰のことですか」 「は?」 「お坊ちゃんって…」 「お坊ちゃんのことです」 相手は平然としてそう答えた。視線は真っ直ぐツキトに向けられている。 ツキトは露骨に嫌な顔をしてみせた。 「そんな呼び方やめて下さい。……それと、羊さんって誰ですか」 「お坊ちゃんという呼び方、好きなのですが駄目ですか…。それではボス・支倉や羊さんと同じく、月人様とお呼びします。羊さんというのは典子(てんこ)さんの事です。昨日お会いしたばかりですが、羊のようにおどおどびくびくしてらして、月人様の事になると泣いたり笑ったりとても忙しなかったので。それに、私の中でこういう大きなお屋敷でメイドをしてらっしゃる若い女の人は羊という感じがするんです。だから羊さんです」 「……メイドって。執事じゃなくて?」 「月人様、それは駄洒落ですか?」 自分には意味不明だという顔をして、見張り役の巨体な彼女は丸い眼鏡をくいと指先で上げながら不審な顔をしてみせた。 「私のイメージでは、執事は白髪のご老人がやるものですが。それに、羊さんのように食事の支度からお庭の草むしりに至るまで全部ご自分でやられるような感じではなく、こう…そう、たとえば社長の1日のスケジュールを全て把握していたり、お屋敷やホテルでのパーティ全体を取り計らったり……あ! でもそれは普段うちのボス・支倉がやっている事ですね。ボスはお年寄りでもこちらの執事でもありませんが。とういか、このお屋敷に本物の執事さんはいらっしゃるのですか?」 「あ、あの!」 この人はこんなにお喋りだったのか。 ツキトは多少の眩暈を感じながら思わず口を挟んだ。まさかこんな風にドアの前に立ちんぼうを喰わされるとは予測していなかったし、はっきり言って「見張り」の存在など忘れていた。昨日はとにかく混乱していたから、この人物に対しても覚えている事といえば、何としても「電話を掛けさせるわけにはいかない」という厳とした言動だけで。 正直、ツキトはこの人物が「女性」だという認識すら持っていなかった。 「……今日、いつからここにいたんですか」 努めて冷静なフリでツキトはそう訊いた。すると相手はぱちぱちと瞬きをしてから「そうですね…」と己の腕に巻かれた皮の時計に目を落とした。 「社長がこちらを出られたのと入れ替わりですから……七時頃かと思います」 「そんなに早く?」 「今日は朝から本社で会議があるとの事でした」 「いや…その、貴女が。そんなに早くうちに来たんですか」 「ああ…。私なら大丈夫です。ドジな新卒で力仕事だけが取り柄の私にこのような大役を仰せつかって光栄です。まさか社長の弟さんであらせられるお坊ちゃんのお付きの仕事を頂けるなんて。特別手当も頂けるんですよ、時間外勤務だから」 「………はあ」 「あ! しまった、またお坊ちゃんと言ってしまいましたね」 すみません、そう言ってぺこりと頭を下げた彼女は、それからようやく本来の役目を思い出したのか、「羊さんに食事の用意をお願いしてきます」と慌しく階段へ向かって歩き出した。その度、よく磨かれた床はやはりぎしりぎしりと苦しそうに呻いていた。 その姿を殆ど呆然と眺めていたツキトだったが、しかしふっと思い出したように突然「あ」という声が飛び出た。 「え?」 それに彼女が驚いたように振り返ると、ツキトは少しだけ困ったようになりながら「あの」と改めてその見張り役の彼女を見やった。 何にせよ、相手の事をまるで知らないというのは辛いから。 「あの、名前……あなたの。教えてもらっていいですか」 支倉範之はここ一年間における語り切れぬ程の苦難の日々も己の雇い主である太樹の弟―月人―が帰ってくる事で、全てに終止符が打てるものと思い込んでいた。普段よりあまり根拠や裏づけのない事に確信を抱いたり期待を寄せたりはしない方だったが、これに関しては珍しく自信があったから、まさか「こんな事」になるなど考えてもみなかった。 あの子が帰ってくれば社長は元に戻る。仕事はうまく機能する。 「ねえ支倉」 「……はい。何か御用でしょうか」 けれど事態は好転するどころかどこかややこしく絡まってきている。ノックもせず突然こちらのテリトリーに侵入してきたこの人物もその原因の一つだ。 「相変わらずつれないのねぇ」 支倉がいる秘書室に堂々と入り込んできたのは社長の妹であり、本社の営業部長でもある陽子だった。堂々とした足取りで支倉のいる奥のデスクにまで歩み寄ってきた彼女は、さっとその背後にまで回りこむと仕事中の相手にはまるで構わず、実に艶のある声で囁いてきた。 「今、誰もいないじゃないの。知ってるのよ」 支倉は敢えて無遠慮な態度で陽子を振り返りもしないのだが、陽子はそれをどうとも思わないらしい。むしろ頑として仕事の書類から目を離さない堅物秘書の姿は彼女の嗜虐心をより一層煽るらしく、陽子は支倉の肩先から首筋へ厭らしく細い指先を這わせつつ実に楽し気な様子で続けた。 「特に一番の邪魔者がいないのがいいわ。私の敬愛するお兄様、生憎と今日はお昼からお得意様の所へお出掛けらしいじゃない。珍しく貴方にお留守番させて」 「他にも早急に済まさねばならない用がありますので」 暗に「貴女の相手をしている暇はありません」と言っているのだが、当然の事ながらそれもこの陽子には通じない、軽く鼻先で哂われて終わりだ。そうして今やその女王の指先は支倉の首筋から顎、遂には頬へと這い上がってきている。 こういうのを俗に「逆セクハラ」と言うんじゃないのか? 「……部長」 「嫌ァね。2人っきりの時は《陽子さん》って呼ぶようにいつも言っているでしょ。何なら《陽子》でもいいわよ?」 「部長」 その手を払う事はしない。不快な表情やあからさまな拒絶もNGだ。 思えばポーカーフェイスの作り方はこの女から習ったと支倉は思う。多少の苦労を重ねたせいで実年齢より上に見られる事もしばしばだが、その分得られた事も多い。 学生の頃から企業経営の論文や起業シュミレートの代案を書いては、支倉はせっせとこの会社の「企画立案部」という所に足を運んでいた。支倉は母親からの愛情を十分に受け実に真っ直ぐ育ったが、病気がちの母と2人きりの暮らしは信じられない程貧しかった。だから子どもの頃から地元の名士として名高い小林家には少なからず羨望と妬みの感情を抱いていたし、「ああいう環境でぬくぬくと何不自由なく暮らしてきた人間はどういう風に育つのだろう」というちょっとした興味も持っていた。 その思いが成人を過ぎた後も色濃く残っていたのかもしれない。学生であろうと優秀な人材には大いに門戸を開くと公言していた若過ぎる新社長の方針に、「どうせただのマスコミアピールだろう」と思いつつも、気づけば熱心に通っていた。そうしてある時遂に、その社長である太樹から支倉は直接声を掛けられたのだ。自分とさほど年も離れていないはずのこの男は、家柄と運だけでこの地位に登りつめたと罵るには、既にあまりに多くの実績を手にしていた。そんな人物がこちらに一体どんな言葉を掛けてくるのかと、支倉は今まで感じた事もない高揚感を胸に抱き、その前に立ったものだ。 けれど言われた言葉はたった一つ。 『鞄持ちをやる気はあるか』 割と自信作だった企画書など箸にも棒にも掛からなかった。その時は酷くがっかりし、やはり企画立案部などお飾りの部署だったのかと失望もした。おまけに、その鞄持ちは社長である太樹のというわけではなく、当時はそれこそ「お飾り」として周囲の失笑を買っていた、社長の妹である陽子の「お付き」を意味するものだったのだ。 正直、その後の1年間の事はあまり思い出したくはない。 「支倉を兄さんに取られてからのうちの部署はホントにつまらないわ」 だってイイ男がいないんだものと陽子はぞんざいに言い放った。 「でも、あんたをこっちに移す時の兄さんの言い草がまた笑えたわね。『元々見込みがあるから採った、お前みたいなのの下で我慢できるようなら本物だ』って。本当、よく耐えたものねえ、あんた。新人で私の部署に1年以上いられた男はいないもの」 「恐縮です」 「別に誉めてないわよ」 フンと鼻で哂い、陽子は再び支倉の前方に移動してから長くカールがかった髪を片手でふわりと掻き上げた。 そうして。 「でもね」 声の調子は淡々としたまま変わりなかった。だから、その所作自体に慣れているとはいえ、支倉は突如として自分を襲ったその「震動」に思わず顔を上げた。 ドン、という重く鈍い音が聞こえたと同時、サイドデスクに設置されていたPCまでもがぐらりと揺れた。幸い手にしていた数枚の書類は無事だったが、他の物は幾つか散乱して床にバラバラと散らばった。この華奢な身体にどれ程のパワーが隠されているのか、陽子の拳が1度デスクを叩いただけでこの有様だ。 そして惑う事なく向けられてくるこの表情――人は美しいと言うが、これは凶悪と呼ぶにふさわしい。 「……何をなさるんです」 「もうね。どうでもいいのよ、あんたなんか」 ニヤリとした笑みを浮かべて陽子は言った。 「確かに、今までは兄さんがいない隙をついてあんたをからかうのは愉しかった。あんたは入社してきた時からの私のお気に入りよ。でもね、本当にいいのどうだって。……だって私の《本物》が帰ってきたんだから」 「本物?」 問い返す支倉に陽子は大きく頷いた。 「そうよ。昔からとうに諦めていたし、実際今回帰ってきたところで、どうせ兄さんに取られたままだろうっていうのはある程度覚悟してたけど。……けどね、あの人は私を本気で怒らせたわ。帰ってきたあの子に指先一つ触れさせてくれない。部屋へ近づく事すら妨害するのよ。兄さんの所へ帰ってきたんじゃない、私たちの所へ戻ってきたのよ、あの子は。それを…月人を独り占めにしようだなんて、絶対に許せない……」 「……部長」 やっぱりか。支倉はその場で頭を抱え込みたくなった。 この会社に入った時、貧しいながらも女手一つで自分を育てあげてくれた母は泣いた。良かった良かったこれで安心だ。しっかり稼いで、どうせなら社長になれるまで出世しなさい、と。世襲制の会社だからそれは無理だよとその時は笑ったが、支倉は心の底ではこの言葉をいつも胸に抱えていた。太樹があらゆる特権を掴み掛けてきた今、小林グループは今までの形と明らかにその毛色を変えようとしている。能力ある新しい息吹を迷いなくどんどんと取り込み、逆に古い体質は躊躇なく斬り捨てて行く。母の望みとて、決して叶えてやれない夢ではないのではないか、と。 ところが、「月人」という存在が小林家から消えたこの1年間だけは、その新しい風も嘘のようにぴたりと止み、グループ全体も低迷期に入り込んでしまった。いつも自信に満ち溢れていた社長の手腕も精彩を欠き、以前ならば決してしなかっただろう強引なやり方も辞さず、世間から批判を浴びる事も多くなった。妹の陽子は陽子で元から派手だった男漁りがよりあからさまになり、それが部下だけでなく得意先や有力なパイプ持ちのお歴々の関係者にまで触手が伸びかけたものだから、フォローをする方としては堪ったものではなかった。 月人がいないだけで、彼らがこんなに変わるとは。 『月人さんは絵がお好きなんですか。宜しければ今お描きになったもの、私にも是非見せて下さいませんか』 『は…はい。……でも……いえ、やっぱり駄目です』 『え? どうしてですか?』 『兄さんの秘書さんでしょう? 僕の絵を見たいなんて言ったのがバレたら……クビになります。本当ですよ』 支倉が月人と会話を交わした事など、片手で数えられる程度だ。しかしかの小林邸で見かける彼は、支倉が子どもの頃に抱いた「あんな所に住む人間はどんな風に育つのか」という問い掛けを一番大きく裏切ってくれた…けれどもそれは実に喜ばしい…回答を示した少年だった。才能溢れる兄や姉に囲まれ、自分に自信を持てないながらも決して曲がった育ち方をしていない。年の離れた兄からは異常なまでの束縛を、傲慢な姉からは理不尽な虐めを受けていたようだが、尚濁りなく育つあの純粋な瞳。支倉に言わせれば「才能がある、素晴らしい」といつも声高に叫ばれている2人の兄と姉とて、そんな月人を原動力にしてこそ、その力を発揮しているのではないかと思われた。 だから支倉から見た月人は小林グループの「守り神」だった。決して失われてはならない存在。 つまりその守り神を見つけ出す事が出来た今、これで何もかもが元に戻るはずだったのだ。 そのはずだったのに。 「Jからの報告書、出しなさい」 沈黙し続ける支倉に陽子は言った。 今日の彼女は珍しく赤や紫ではなく、ベージュのスカートを履いていた…が、その丈は呆れる程に短い。その格好で支倉のデスクの上にドンと座り、細い足を組んで見せた彼女は……自分から目を逸らす事など決して許さないというような鋭い眼光を閃かせ、再び勢いよく言い放った。 「あの子は私の弟でもあるのよ。東京で何をしていたのか、どういう暮らしをしていたのか。知る権利があるわ」 「……社長命令でお見せする事はできません」 「知るもんですか、どうとでも誤魔化しなさいな。いい? 私を怒らせるとたとえ兄さんの直属の秘書であるあんたでも、私はどうとでも酷い立場に追い込んでやる事が出来るのよ。未熟だった頃のあんたと一緒にいてやったのは私でしょう。私が育ててやったのよ。その恩を忘れたの」 「いいえ」 「なら教えなさい。月人の東京での男……志井克己って奴の事をね」 「……部長」 何故志井の名前まで知っている? 勿論顔には出さなかったが、支倉が一瞬言い淀むと、陽子はしてやったりという風にくっと口の端を上げ、ちろりと舌でその上唇を舐めた。 「Jほど詳しくは調べられなかったけどね。断片的なところまでならこっちにも色々と情報は回ってきているのよ。……たとえば村島正男(むらじま まさお)ってクズの事も」 「部長、これ以上のお話は……」 「今回兄さんの怒りに触れたっていうJの若い子、もう家には帰してあげたわけ。あんたらの《虐め》の後、兄さんの所へ寄越す事になってたはずよね。……でも、昨日の兄さんは月人を置いていった後、その日キャンセルしたあちこちの埋め合わせで夜まで手一杯だった。報告を満足に聞いている暇なんかなかったはずよ。まさかまだ何処かに監禁しているとか」 「部長。今回の件に関しましては、昨日社長自らが直接部長にもお話をされたはずです。確かに未だJへの対応は検討中ですし、あの新人には直接こちらで教育する必要も感じていますが…我々は暴力団ではありません。部長自ら妙な噂を流すのはグループ全体の為にも良くありませんよ」 「暴力団になったっていいわよ。クズを殺せるなら」 「……何を」 「クズだけじゃない。図々しくもあの子の恋人だなんて1年もいい気になってた志井ってバカな男も。全部殺してやりたいのよ。私は。ねえ、支倉?」 「………」 思わず詰まったところに陽子は襲いかかるようにして更にぬうと上体を寄せてきた。息が掛かる程の至近距離にまでその流麗な顔が近づく。既に殺気立った眼光は消え失せていたが、その瞳の奥には静かな怒りが煌々と灯っていた。 絶句する支倉に陽子は言った。 「月人に関して一番の情報を握ってるっていう上月。こいつに会えないのなら、直接志井って奴の所へ行くわ。それもこれも全部止めてくれって言うなら、答えは簡単よ。Jからの報告書、見せなさい」 「出来かねます」 「私も本来なら今は月人から一時も離れていたくはないの。書類に目を通してそれで終わりなら、それがいいわ。余計な時間を掛けなくて済む」 社長の帰りは何時頃だったろうか。 支倉は直ちに頭の中でぎゅうぎゅうに詰まっている主の予定を思い浮かべながら、ともかくは一刻も早くこの事を太樹に告げなければと思った。この女性が1度暴走し始めると、それを止めるのは容易ではない。ましてや今回はその原因が「月人」なのだ。 しかも彼女は最重要極秘事項である「村島」―通称ムラジなる男―の事まで知っている。漏らしたのはどこのどいつだ。 昨日の夕刻、部屋の入口で心細そうにぽつんと佇んでいた痩せっぽちの少年の事を支倉は思い出していた。否、もう成人しようという年だ、少年などと言ってはいけないだろう。けれど折れそうに細いあの身体、怯えきった震える表情は1年前より余程酷くなっている気がした。 月人は支倉が大切に思うこの会社の「守り神」だが、一方でまた一人っ子である自分に「もしこんな弟がいたらさぞかし可愛がり甲斐があるだろう」、そんな風にも思わせる相手だった。 「報告書をお見せする事は出来ませんし、上月に会わせるわけにも参りません」 がたりと椅子を蹴って立ち上がり、支倉は毅然として言った。 とにかく社長が戻るまでこの女を動かすわけにはいかない。支倉は伏し目がちになりながら言葉を継いだ。 「しかし……実は社長が社を出られてから志井克己本人よりこちらに連絡が入りました。その事に関してなら、お話させて頂きます」 ツキトはちらちらと自分の横に座り寛いでいる人物に探るような目を向けた。向こうは何という風もない顔で使用人である典子が出したコーヒーを飲んでいるが、同じくカップを傾けるツキトの方は、先ほどからそれを手にしていても飲むという作業には没頭しきれていない。 少し遅い昼食を摂った後、ツキトは例によって「見張り」役である巨漢の女性―田中淑美(たなかよしみ)―にほんの数分で良いから電話を掛けさせて欲しいと訴えた。 が、あっけなく断られてしまい、先ほどまでは少々いじけた気持ちでいた。田中はそれ以外の事に関してなら本当によく口を動かしたが、話が「電話」「外へ出たい」等になると途端石のように静かになって厳しい顔になる。ただでさえ迫力ある体形に一見気難しそうな顔つきをしている彼女が沈黙すると、それはかなりの迫力を感じさせた。 だからツキトはまた心の中で深く深く嘆息していたのだ。また夜遅くに帰ってくるだろう兄の太樹に直談判しなければならないのかと。 それが、である。 夜を待たずしてその当人がツキトの隣に座っているのだ。リビングのソファでスーツの上着を脱ぎネクタイを思いきり緩めて、長い足を伸ばした格好でコーヒーを飲んでいる。 そう、兄の太樹は今ツキトの隣にいる。 「………会社、今日はもう戻らないの?」 「いや。これを飲んだら戻る」 「………」 「何だ。さっきから黙ってじろじろ見やがって」 「だって……」 もごもごと口篭ると、そんなツキトを横目でちろりと見た太樹は黙ってカップをテーブルに戻した後、素っ気無く言った。 「お前がまた不貞腐れて何も食べてないんじゃないかと、心配して戻ってきてやったんだ。ありがたく思え」 「べ、別にそんなの………頼んでないよ」 「………」 「あっ……」 思わず発した反抗の言葉に太樹が何も返さないものだから、ツキトは途端一人でたじろいだ。 広い部屋の中には今ツキトと太樹の2人だけで、先ほど茶を運びに来た典子や見張りの田中も外の廊下にでもいるのか、先ほどまでの干渉が嘘のように完全に姿が見えなくなっている。そして、恐らくは誰もが太樹の突然の帰還に驚いているはずなのに、それをあからさまに顔に出しているのは傍にいるツキトただ一人だけなのだった。 「兄さん、仕事……忙しいんでしょ……」 自分もカップをテーブルに置いた後、ツキトは俯いたまま相手の顔は見ずに声を出した。2人きりで黙っている事に耐えられなかった。 「支倉さんが選んだっていう田中さん……。僕が起きてきてからさっきまで、ずっと傍に付きっ切りなんだ。……これじゃどこにも行けないよ」 「どこにも行かなくていい。お前は今謹慎中の身なんだから」 「そ、そんなの……勝手に決めないでよ」 「お前の事は俺が決める」 「なっ…何で…!」 どうしてそんなに一方的に、きっぱりとそんな事を言うのだろう。 「………」 けれどツキトはその反発の台詞をどうしても表に出す事が出来ず、やはり太樹の顔も直視できずに唇を噛んだ。考えなくとも分かる。兄は自分がまた隙を見てここから逃げ出し、外で勝手な事をして小林家の恥になるようだと困るから、だから気が気でないのだ。忙しい合間を縫ってこうやって様子を見に来ているのだって、全ては自分がバカな行動を取らないよう、厳しく監視する為なのだ。全部、家の為だ。 けれど、その結論はツキトの胸を否応なく苦しめる事になった。 「陽子の事だが」 そんなツキトの思いを知ってか知らずか、その時突然太樹が先刻までの口調を変えて口を開いた。 「あれにはあまり関わるな。支倉には、お前の見張りというよりもあのバカを何の躊躇いもなく抑えつけられる奴を寄越せと言ったんだ。どうだ、なかなか適任だったろう。余計な事は喋らないしな…ああいうのは使いやすくていい」 「な、何それ…。それに……あの人、凄くお喋りだよ」 「そうか? 俺には何も言わないが」 「兄さんの事を怖がってるんだよ、きっと」 「はっ……言うな」 また言い過ぎたかと心内で思い切り焦っていたツキトだが、想いの外兄は何も思っていないようで、むしろ楽しそうに口元を緩めて目を細めた。 ツキトはそれでようやく自分もまじまじと傍の兄に視線を向けられた。 「月人」 「あ…」 すると太樹もまたにゅっと手を伸ばし、まるで昔の習慣がふっと戻ってきたようにツキトの小さな頭を撫で、ぐしゃりと髪の毛をまさぐってきた。 それはツキトには酷く心地の良いものだった。 「とにかく」 ツキトの頭に手を置いたまま太樹が言った。 「支倉の人選はベストだった。お前が気に入ったなら、田中には暫く住み込みでお前につかせようと思ってるくらいだ」 「え……ど、どうし……だって、陽子姉さんが何をしたの?」 「今は何もしていなくとも………あれは毒だからな」 忌々しそうにそう言う太樹は一瞬だけ眉をひそめたものの、またすぐに平静な顔に戻ると、再びぐしゃりとツキトの髪の毛を掻き混ぜた。それがあまりに優しく、それも何度も何度も行われるもので、ツキトも最初こそ気持ちが良いと思っていたものの、やがてどうして良いか分からなくなってしまった。 「ちょっ…兄さん、やめてよ…っ…」 「嫌か…」 「だって……あっ!」 けれど再度逆らおうとした時には、ツキトはもうぐらりと身体は横倒しにされていた。 「に、兄さ……?」 「月人」 何を思ったのか、太樹は突然ツキトを自分の方へ引き寄せると、その長く力強い腕ですっぽりとその身体を自分の懐へと抱きこんでしまった。昨日、車の中でもそうしたように。 昨日のそれよりも強く深く締め付けるように。 「……っ」 そうされた直後こそ逆らったものの、何故かツキトは太樹の胸に納まった己の身体を動かす事が出来なかった。 何故かじっと大人しく、太樹に抱かれたままその胸の鼓動を聞いた。 「兄さん……」 「ん」 「ぼ、僕……僕は……」 おかしいと、ツキトはこの時はっきり思った。 自分は誰であろうと、こんな風に触れられたり抱きしめられたりはもう出来ないようになっていたはずだ。志井でさえ、駄目なのだ。身体がぶるりと震えて涙が出てきてしまって。本当は嬉しいはずなのに志井に手を伸ばされこうやって抱きしめられると、ツキトはどうしても背筋を凍らせ、それを無理に押し殺した。 何度も何度も。それを繰り返していけばいつかは慣れるだろう、平気になるだろうと信じながら。 それが何故、兄の太樹にこうされるのは平気なのだろう。 「……月人」 「あっ…?」 ふっと吐息が近づいたと思った時、ツキトは自分の額近くに仄かな熱が触れてきたのを感じた。ツキトを引き寄せしきりにその頭を撫でていた太樹が、おもむろに唇を寄せてその前髪に口付けたのだ。 「な……」 兄は何をした? どうしてこんな事をする? 「何……?」 「静かにしていろ……」 けれど太樹はツキトにそう一つ告げただけで、その問いに対する答えをくれようとはしなかった。 ただ、もう一度、二度、と。 「……やっ」 喉の奥でほんの微かな拒絶を漏らしたツキトを無視し、太樹はツキトの髪の毛に軽いキスを落とし続けた。ただ無造作に唇を押し当てているだけのようにも取れたし、相手の存在を確かめるようにただ触れているだけにも見えた。 「兄さ……」 ツキトは半ば茫然としながらも、けれど兄からのその行為を確かに感じ取りながら、ただ引き寄せられたその胸の中で顔を押し付け固まっていた。 電話を掛けなければ……。 ずっとそれだけを思っていたはずなのに、今この瞬間、ツキトはその事を完全に忘れていた。 |
To be continued… |
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