あの窓を開けたら


  ―8―



「克己、ツキト君がいなくなったって本当か?」
「ああ」
「ああ、じゃないだろ。お前、それでどうするんだよ」
「どうするって……別に」
  訊いている相馬の方は焦っている風なのに、何故当の志井はこんなに平然としているのだろう。ツキトは向かい合わせに座って話している志井と相馬をぼやけた視界に捉えながらまずそう思った。
  2人がいるのは先日ツキトも交え3人で食事をしたあの店で、志井たちがいる席もあの時と同じだった。ツキトはそんな2人のすぐ傍に立っている形なのだが、その姿に彼らはまるで気づいていない。

  ああ、そうか。これは夢か。

  何となく納得して、ツキトはそれからごしごしと両の目を擦った。夢だと気づき、それならばこの曖昧な視界も仕方がないと頭の隅では思っているのに、クリアーにならない曖昧な世界がどうにも気になって仕方なかった。もっとはっきり志井の顔を見ていたいのに、どうしてもその表情を窺えない。夢とは言え、その事がツキトには悔しくて堪らなかった。
「おい。別にってのは何だよ、別にってのは!」
  そんなツキトの想いに反して、2人の会話はどんどん続いている。…と言っても、しきりと声を出しているのは相馬だけで、志井はやはり静かだ。親友のがなり声も別段何とも感じていない風に呑気にコーヒーカップを傾けたりして黙りこくっている。
  ツキトの胸に暗いものが過ぎった。
「お前、ツキト君の事あんなに可愛がってたじゃないか。その彼が急にいなくなったんだぞ? 置き手紙も何もなしに突然だろう? それを、何でそんな態度なんだよ!」
「電話もないんだぞ」
「あ?」
  怒ったような志井の声にツキトはどきんと心臓を跳ね上げた。勿論、そんな様子は依然として2人には全く届いていない。志井の視線もツキトへは向く事がない。
  その志井は今では目の前の相馬の方もロクに見ず、ただ低く暗い声をツキトの耳に突き刺した。
「俺が嫌になって出て行ったにしろ、何か一言くらい言い置いてから消えろってんだよ。仮にも1年も一緒にいた相手に……あんないい加減な奴だったのかと失望した」
「……怒ってんのか」
「失望したって言っただろ。そんな感情……あんなガキに抱いてもしょうがない」
「だ、だがなあ! おい、もしかして何か事情があったのかもしれないだろうが。連絡取れない何かさ……。それに、もし何かの事件だったらどうするんだ?」
「事件?」
  何故か鼻で笑ったような志井にツキトはただ茫然として動けなかった。大丈夫だこれは夢だ夢なんだからと必死に訴えてみても、ただはっきりしない志井の姿を無意識に凝視する事しか出来ない。血の気が引いて、身体の芯が冷えていくような感覚に蝕まれていく。
「確かにもうごめんだな……あんな想いは」
  そんなツキトには構わず夢の中の志井はそう呟いた。
「正直、俺はほっとしているのかもしれない。あいつがいなくなって」
  相馬の答えなど待っていないのだろう、志井はあくまでも自分のペースで言葉を継いだ。
「あいつの無理したような笑いも悲壮な顔も……もう見なくて済む。あいつが在るべき所へ帰ったのなら、もうそれでいい。大体善太郎、こんな不自然な関係があるか? あいつは俺に触れられるのが怖いんだ。俺の傍にいるのが怖いんだよ。なのに…俺を恐れているくせに、あいつは俺に好きだと言う。……ふざけた話だろ」
  陰の篭ったその声に愕然としたのはツキトだけではない、夢の中の相馬も同じだったようだ。多少仰け反りながら、それでも「落ち着け」と言わんばかりに嗜めるような声を絞り出す。
「お前だけにってわけじゃないだろう。ツキト君は、誰に対しても…」
「なら何で兄貴は平気なんだ?」
「……え」
  瞬間、相馬の姿だけが突然ツキトの視界からぱっと消えてなくなった。
  見えたのは、くるりとこちらを向いた志井の眼だけ。
「志井さ……」
「どうして兄貴にはされて平気なんだ」
  それはあまりにも蔑んだ冷徹なものだった。だからツキトはやっと自分に気づいてくれた志井に何の言葉も返せなかった。
  違う、とも。
  志井の事が好きなのだ、とも。
「月人」
「あ……」
  そうして、ふっと肩を引き寄せられその身体ごと何か温かいものに包まれたと感じたと同時―――背後には兄の太樹が立っていた。
  兄さん、と唇だけで呼びかけたものの、太樹の目があまりに静かで「何も言わなくて良い」という顔をしていたものだから、ツキトもそのまま出しかけた声を飲み込んでしまった。そうして太樹が寄せてきた唇が自分の髪に、額に、そして頬にまで落ちてきたのを確かに感じ取っていたのに、ツキトはそれをそのまま従順に受け入れ、今度こそ深く深く目を閉じた。いつの間にか志井の姿は消えていた。
  こんなのおかしいと、夢のでもそれははっきりそう思っていた。
  外国か何処かそういう習慣がある場所・家族ならいざ知らず、こんないい年をして、実の兄にキスしてもらってそれを何とも思わない…? 自分はおかしいんじゃないだろうか。そう思った。志井に初めて抱かれた時も随分と悩んだけれど、そうか、あの頃からとっくにおかしくなっていたのかもしれない。否、それとも、それよりももっとずっと前から?
「……でも」
  けれどそういう自覚を抱えながらも、ツキトは太樹に抱きしめられるその感触を愛おしむようにして、ひたすら大人しく己の身体を兄のその腕に委ね続けた。
  怖くない。
  そう、志井の言う通りだ。
  兄に触れられても志井に感じたような恐怖は、自分にはない。





  どすんばたんと何か重い物が次々と廊下に置かれていくのが分かる。
「……煩いよ」
  外で響く騒がしい音を遮断する為、ツキトは気だるい腕をゆるりと動かして己の耳を塞いだ。
  まだ目を開きたくない。カーテンを閉めているとはいえ、きっともう昼に近い時間だろうという事は分かった。だからこそ余計にその現実を認めたくない。それに瞼を開いた瞬間、今現在自分が居る場所を、そしてまた昨日と同じ日常が始まり終わるのだろう事を認識しなければならない。憂鬱だった。
  ただ、昨日あった熱っぽさは消えている。典子が寝る間際にくれた薬のお陰かもしれない。
「田中さん! もう少し静かに片付けできないんですか!? 月人様が起きてしまうじゃないですか!」
「すみません。ですが、幾ら何でもこれは乱雑過ぎますよ。明らかに使っていないような物は処分してしまったらどうです」
「駄目ですよ! 奥様の許可なくそんな勝手な真似をしたら、私、協会に帰されてしまいます!」
  静かにと言いつつも田中より余程大きな声を出しているのは、まさしくその典子らしい。ツキトは何やら言い合いをしているような2人の声を聞きながら、思えば典子や兄の秘書である支倉はいつの間に自分の事を「月人様」などという空寒い言い方で呼ぶようになったのかと思った。もともと家出をする前とて2人とはそれほど懇意に話をしていたわけでもないが、少なくとも以前の支倉はツキトの事を「月人さん」と呼んでいたし、典子も親しげに「月人君」と言ってくれていたはずだ。姉の陽子などは自分の事は「お嬢様」とか「陽子様」とか呼ばれないとすぐにわざとへそを曲げてみせるところがあったが、ツキトにしてみればどこぞの王侯貴族でもあるまいし、「お坊ちゃん」だとか「月人様」だなんて呼ばれる事の方がむず痒くて仕方なかった。
  この家に戻ってきてからはただただ気持ちが混乱しきっていたから、そんな事を訂正する元気もなかったが。
「おはよう…」
「あ! 月人様、おはようございます!」
「ああ、お坊ちゃん、起こしてしまいましたか。おはようございます」
  ドアを開け廊下に出ると、予想通りその場にいて何やら大掃除をしていた2人は一斉にツキトを見やり、それぞれの呼び方で挨拶をしてきた。田中は二日前のスーツ姿から既にTシャツとチノパンというラフな私服に変わっている。典子もいつものライムグリーンのエプロンとジーパン姿で手にははたきと箒を持っていた。
「隣の部屋を空けてるんだ?」
「す、すみません!」
  ツキトが廊下に出された箪笥だの壷だのを眺めながら何気なくそう言うと、典子はひどく申し訳なさそうな目をしてくしゃりと顔を歪めた。小柄で細目、黒髪を一つに結った少々地味な印象を受ける彼女は、大手の家政婦紹介所からツキトの家に派遣されてきてかれこれもう3年になる。しかしながら何故かいつまでも慣れたところがなく、田中の言う通り「常におどおどびくびく」、そしていつもどことなく泣きそうな顔をしていた。
「すみません! やっぱり煩かったですよね! 田中さん、だから言ったじゃないですか!」
「私より羊さんの方がよっぽど煩かったですよ」
「だからっ。私は羊じゃありませんっ」
  必死な顔をしている典子に比べて、田中はあくまでもマイペースだ。しかしツキトはそんな2人の言い合いをひどく珍しい思いで見つめやった。高校卒業後すぐに働き始めたという典子と新卒の田中は偶然にも年が同じだったらしいが、それにしても典子のこんな風に誰かに強気な態度を向ける姿というのは初めて見たと思ったのだ。
「2人、仲がいいんだね」
  無意識にぽんと飛び出たツキトの言葉に2人はまたしても一斉に視線を向けたのだが、やがて典子が目を見開いて激しく首を左右に振った。
「と、とんでもありません月人様っ! 何で私がこんな巨大プロレスラーみたいな人と!」
「何ですかその巨大プロレスラーって。確かに大学時代はアマレスの選手でしたが」
「そうなんだ」
  ツキトが感心したように返すと田中は何でもない事のように頷いた。
「これでもオリンピック強化選手の一人でした。膝をやられて断念しましたが」
「あ…そうなの…。それで兄さんの会社に入ったの?」
「私、子どもの頃から高い所が大好きなんです。将来の夢は世界一高い幸せの住処を建てて、そこで暮らす事です」
「せ、世界一高い……幸せの住処?」
「はい、そうです。だから私、うちの会社が建てる強くて立派で格好良い建造物がみんな大好きなんです」
「………」
「まあ何とかと煙は高い所が好きだって言うものね!」
  黙りこむツキトの様子には気づかず、典子がからかうように言った。田中はそれを平然と聞き流しながら、「そういえば陽子部長も高い所がお好きだって仰ってましたね」などと言って逆に典子を慌てさせていた。
  そうして田中は再びツキトに向き直るといやに真面目な顔で問いかけた。
「それより熱の方はどうですか。昨日よりは顔色も宜しいようですが」
「あ、うん。大丈夫だよ、ありがとう」
「今日は社長も帰って来られるそうですので」
「う、うん…」
  食事の支度をしてくると足早に去っていった典子を見送りながら、ツキトは田中のその言葉にはなるべく平静を装って頷いた。
  今朝見た夢が途端脳裏を過ぎって胸が苦しくなる。志井の冷たい眼、「ほっとした」と、ツキトを失った事を何とも思っていないかのようなあの台詞。
  そしてキスをし抱きしめてきた兄の姿。
  一昨日の昼間、突然帰ってきた太樹から不意に引き寄せられ唇を落とされた時、ツキトの思考は完全に真っ白になった。兄はその事について特に何も言わなかったし、翌日は仕事が忙しいとの事で家に帰って来なかったから、あのキスの意味を訊く暇もなかった。もっともそんな時間が許されたとして、ツキトに「あれは何だったのか」などと問いかける勇気はなかっただろうが。
  そうこうしているうちに突然の環境変化故かツキトは熱を出してしまい、昨日は1日ベッドの中だった。
  何が何だか分からないうちにこの家で過ごす時間が淡々と刻まれていく。このままでは本当に大切な物を失くしてしまうのではないかという焦燥感に駆られながらも、ツキトはどうする事もできていない。
「お坊ちゃん」
「えっ」
  ふと声を掛けられ、ツキトははっとして我に返った。目の前の田中は隣室の空き部屋―元はツキトらの母親が人から貰い受けた物を放り込むだけの物置―から廊下へ出した物を雑巾で丁寧に拭いていたが、ぼうっとしていたようなツキトにはやはり心配そうな声を出した。
「やはりまだ具合が悪いのではないですか」
「だ、大丈夫だよ…」
「でも食事を取ったらお部屋で休むようにして下さい。お坊ちゃんの具合がいつまでも悪いと私もボスや社長から怒られますし、悪くするとクビになりますから」
「まさか……」
  無理に笑おうとしたツキトに、しかし田中は素早くかぶりを振った。
「私のような人間をお屋敷に居候させてまで守りたいと思う大切なお坊ちゃんですよ。お坊ちゃんに何かあればボスも社長も普通ではなくなります。……まだこちらに来て4日目ですけど、それについてはよくよく分かったつもりです」
「………」
「ただ、幾ら社長命令とはいえ、会長や奥様がいらっしゃらないうちに私のような者が勝手にこちらに住まわせてもらって、本当に大丈夫なのかという点は心配ですね。部長も腹を立ててらっしゃるようですし」
「あ……」
「……会長と奥様は現在中国支社の方へ行かれてるらしいですよ。お帰りの日程などについては何も伺っておりませんが」
「………」
  田中がさり気なく両親の居所を話して聞かせた事にツキトも気がついた。
  彼女がこの「仕事」について4日目ならツキトが家に帰ってきてからも4日目という事になるが、その間ツキトは家族の誰にも、勿論典子や支倉、この田中に対しても自宅に両親がいない事について一言たりとも訊ねなかった。その事も含め、田中にしてみればこの小林家というところは、それは不自然極まりない家庭に映った事だろう。未成年である我が子が1年以上家を飛び出て連絡なしでも平静として普段通りの生活を送り、仕事をこなす両親。反してその代わりとでも言うように弟を血眼になって探し、その後はまるで監禁のように「見張り」までつけて、実の妹―月人にしてみれば実の姉―陽子を近づけさせないようにする兄・太樹。それに対しヒステリックになって怒る太樹の妹・陽子。
  そしてそんな家族に最初こそ抵抗を見せたものの、今ではもう唯々諾々と従ってしまっているかのような、物言わぬ「月人」。
「お坊ちゃんという身分も色々大変ですね」
  田中が言った。
「私がお坊ちゃんに出来る事があったら何なりと仰って下さい。何せ時間外勤務で特別手当はたんまりですから」
「……田中さん。その呼び方やめて下さいって言ったじゃないですか」
「ああ…そうでした。申し訳ありません」
  やっとのことでそれだけを言ったツキトに田中はちっとも悪びれた様子も見せずちらりと笑って見せた。それはいたずらっぽい、からかいの含まれたものにも見て取れたが、発せられた台詞自体は彼女なりにツキトをリラックスさせようと思って言ったものだったのかもしれない。
「もう……」
  だからツキトも、そんな田中にようやく少しだけ笑う事が出来た。





  典子が用意してくれているだろう食事を取る為、ツキトが田中と共に階下へ下りると、そのリビングでは姉の陽子が当たり前のような顔をして中央のソファに座っていた。彼女の傍には相変わらずおどおどびくびくな典子がどうしたものかと蒼白になっていたが、当の陽子はそんな相手にはまるで構う風もなく、ようやっと下りてきたツキトにひらひらと片手を振った。
「おはよう寝ぼすけ月人。ようやくお目覚めね」
「部長…。何故こちらに?」
  しかし陽子の突然の出現にツキト以上の驚きを見せたのは見張りの田中であった。彼女の仕事は陽子を極力ツキトに近づけないようにする事であり、よって彼女の1日の行動に関しては支倉やその部下たちからも随時緻密な報告を送られていた。
  その予定の中に彼女が昼間自宅に帰還するなどというものはない。
「私がいつ家に帰って来ようがお前の知った事じゃないわね」
  ぴしゃりと言い捨てた陽子は、しかしそれでツキトが怯えたような顔を見せた事に素早く気づいたらしい。途端、ぱっとにこやかな笑みになると、「月人、これからランチなんですってね。早くいらっしゃいよ」といやに気色の悪い猫撫で声で手招きをした。陽子に命令されて典子がそうしたのだろう、彼女が作ったツキトの為の食事は陽子が座るソファの前のテーブルにすとんと置かれていた。
「部長。社長はこの事をご存知なのですか」
  田中がさっとツキトの前に立ちはだかって毅然として尋ねた。彼女の巨大な背中で途端ツキトの視界から姉の顔が消える。
「知ってるわけないでしょう」
「困ります」
「あのお兄様に心底困ってるのはこっちの方よ。自分が帰れないからって私にまで無茶な仕事押し付けてきて。昨日はホント散々だったわ。徹夜明け、ちょっとの隙に自宅へ戻ってシャワーを浴びる権利もないわけ、私には?」
「とにかく困ります」
「だったら、兄さんが帰ってきた後にでも何でも『あんたの妹が勝手に帰ってきて困っちゃいました〜』って報告すればいいじゃない。―あぁ、何だったら今すぐ電話して教えてもいいわよ? 戻ってこられるの、何時になるか分からないけどねぇ」
「部長……」
「でもね。ちょっとはない頭振るって考えてごらんなさい」
  田中の言いかけた言葉を止めて陽子が言った。未だツキトにはその姉の表情は見えない。少なくとも声色はひどく柔らかく落ち着いたものだった。
「兄さんは確かにあんたに私が必要以上に月人を構うのは止めさせろって言ったらしいけど? 何も『口もきかせるな、食事も一緒に取らせるな』…とまでは言っていないでしょう?」
「それは…そうですが」
「支倉がどういう言い方したのか知らないけどねえ、私が月人にしてきた今までの事なんて全部ただの愛情表現よ! 家族同士のスキンシップなの、分かる? 可愛い弟があまりにも可愛いからちょこっと触ってただけじゃないの。それ、何か問題あるわけ?」
「はい。それは問題行動の一つとして抑えるよう、ボス支倉から強く申し付けられております」
  生真面目に頷いた田中に陽子は呆れたように肩を竦めた。
「はーあ。分かった分かった。じゃあ触りもしないから、とにかく月人寄越しなさい。この横に。隣に座るだけでいいから」
「………」
「どう? 月人?」
「えっ…」
  突然声を掛けられ、ツキトは焦った風に田中の身体をぬうようにして姉の陽子へ目を向けた。にこにこと優しげな顔で笑っている陽子は、怖いくらいに「いつものもの」とは違っていた。以前までよく見てきた姉の笑顔はいつでも意地悪く、ツキトをどこか値踏みするような害意があったから。
  けれど今はどちらかといえば苦笑……そして「何も一緒に座る事も許されない程の事はしていないだろう」という、至極もっともな訴えのみを映している「普通」の笑みだった。
「姉さんが……何か太樹兄さんが怒るような事を言ったりしたりしたから、こんな大袈裟な事になったんじゃないの?」
  田中を通り過ぎてそろりそろりと傍に歩み寄ってきたツキトに陽子は軽快に笑って見せた。
「ちょっと離れているうちに言うようになったじゃない。でもま、そういう考え方もあるわね。あんたがいなくなるちょっと前の私、確かにあんたに対してスペシャルに厭らしかったかもだし」
「な、何それ…」
「だって月人見てると触りたくって構いたくって仕方なくなるんだもん〜」
「部長!!」
「分かってるわよ」
  言いながらもうツキトの肩を背後から抱こうとしている陽子に田中がぎっとした声を出した。しかし陽子は珍しくそんな相手を叱り飛ばす事もせず、ひどくご機嫌な様子でツキトへ向けた手をぴたりとそのまま宙に止めた。
「まあいいから食べなさい。月人、あんたの今の使命はね。いっぱい食べてせめて元の体重に戻る事よ。まったく何て痩せ方してんのよ。こんなに細くなっちゃったら抱き心地が悪いじゃないの」
「そ、そんなに痩せてないよ…」
  典子がすかさず入れてきてくれた紅茶に口をつけてから、ツキトは姉のじっとした視線から逃れるように傍のロールパンを手に取った。ご丁寧にもそれは既に半分に割られバターまで塗られている。焼きたてのパンにそれがうまい具合にとろけて、食欲をそそる良い匂いが嗅覚をくすぐった。
  ふと、志井の事を思った。
  過剰な程ツキトに対し何でもやってやるという態度を見せていた志井は、ツキトが遅い朝食を取る時は、こうやって同じようにトーストにバターを塗ってくれた。そしてその事に恐縮しまくるツキトの顔を心底嬉しそうに見やっていたのだ。
「それにしても、太樹兄さんも酷いわよねえ」
  陽子が言った。
「そもそも月人が家出したのだって、太樹兄さんのせいじゃない。あの人が美大に行きたいって言う月人の事を才能ないだ何だってボロクソ言って無理やり近くの大学に入れようとしたから、だから月人は家が嫌になってしまったんでしょう? ねえ?」
「そ、それは……」
「いいのよ月人。無理して太樹兄さんの言いなりになんかなる必要ない。あんたにはあんたの人生があるんだから」
「姉さん…?」
  今まで姉が自分にこんな物言いをした事があっただろうか。
  多少面食らった気がしてツキトが思わず視線を上げると、陽子は依然として最初に見た時のような穏やかな笑みを向けてきていた。
「太樹兄さんには本当に呆れてるのよ」
  そして陽子は尚も続けた。
「だってそうじゃないの。大体この部屋にあった電話、一体何処にいっちゃったわけ?  私だって知らないのよ、変な話でしょう。文句言ったら『用があるなら自分の携帯使え』とか言ってんのよ、ホント笑うしかないわよ。そうまでして月人を縛りたいのね、あのお兄様は。月人の考え、希望を無視して」
「ね…姉さんっ! 電話、掛けさせてくれるのっ!?」
「ん…」
「部長! それは駄目です!」
  ツキトの声を掻き消すようにして今度は田中が叫んだ。傍の典子はただオロオロするばかりだ。
  陽子は悠然とした表情でソファにもたれかかったまま、ぞんざいに長い足を組んでいた。その堂々とした格好でツキトの事をじっと眺めやっている。
  だからツキトもそんな姉の顔をじっと見つめ返した。姉が何を考えているのかはツキトには量りかねたが、それでも期待してしまう気持ちは抑えようがなかった。
「部長。社の方にお戻り下さい」
  しかしその期待も、あっさりとした無機的な声によって掻き消された。
「………あらあら」
  ツキトがその声のした方へゆっくりと顔を向けたのと同時、隣にいた陽子もやや驚いたような苦い笑みを零した。
  田中の立っていた近くの扉から入ってきたのは、太樹の秘書である支倉だった。
「支倉。あんたも大変ね。私を止められる人間がいないからって、こうもしょっちゅう公私混同されたんじゃあ、堪んないんじゃない? それと、幾ら何でも来るの早過ぎ」
「部長。社長のお気を散らせる事がどれ程この先の仕事に影響を与えるかをまずお考え下さい」
「知らないわよそんな事」
  どうでもいいし、と投げ捨てるように言った陽子は、この時初めて心底怒りに震えたような瞳をちらつかせた。ツキトがその影を捉えられたのはほんの一瞬だったが、扉の前に立つ支倉が尚も急かすように陽子に午後のスケジュールを再確認させているのを耳の奥に捉えると、もうそんな姉に対する怯えの気持ちは消えてしまった。そして、ああ結局姉も忙しい合間をぬって自分の様子を見に来てくれたのだなと思った。
  自分は本当に足でまといだ。何処へ行っても。

  正直、俺はほっとしてるのかもしれない。あいつがいなくなって。

  夢の中で言った志井の言葉が聞こえたような気がした。兄や姉、それに支倉や典子や田中。
  そして志井。
  色々な人に迷惑を掛けて、一体何をやっているのだろうと悲しくなる。
「月人」
  その時、ソファから立ち上がった陽子がおもむろに上体を下げてツキトの耳元に唇を近づけた。ふっとキツイ香水の匂いが鼻をついたが、それを厭う合間もなく陽子は囁くように告げた。
「あんたの味方は私だけよ。兄さんを信用するのはやめなさい」
「え…」
「あの人はあんたを自分の好い様にしたいだけ。……昨日だってあんたに内緒で勝手に会ってたのよ」
「会っ……だ、誰と……?」
「それは勿論―」
「部長、いい加減にして下さい」
  姉の言葉をツキトは最後まで聞く事ができなかった。今ではすっかり眉間に皺を寄せた支倉が陽子を厳しい眼で見据え、そしてあからさまに責めた口調を発してきたのだ。
  陽子もそれであっさりと口を噤んでしまった。
「はいはい、行くわよ。でもねぇ、支倉。言っておくけど、私はあんただって油断ならない奴だと思ってるから。あんた妙にこの子を神聖視してるみたいだけど、根底ではね、きっと同じよ、私たちと。ふふ……その事、お兄様が知ったらどう思うかしらね?」
「車を待たせてあります。お急ぎ下さい」
「……無視、ね。いいわ、行くわよ」
  もう一度、陽子は「じゃあね月人」とひらひらと手を振ると、後はもう振り返りもせずにリビングを出て行った。見送る為だろうか、慌てたように典子がその後ろをついていく。田中は一瞥しただけでその場に残ろうとしたが、支倉の「お前も行け」という目配せに気がついたのか、やや遅れて自らも陽子の出て行った後を追っていった。
  部屋にはツキトと支倉だけが残された。
「月人様」
「支倉さん、兄さんは志井さんと会ったんですか…?」
  疑念に囚われたような顔をしつつもそう迫ったツキトに支倉は一瞬目を細めた。
「ねえ…っ」
  すぐに何も言わない支倉にツキトは焦れた思いがして、尚一層突っかかるように相手の前にまで行き、その腕を掴んだ。支倉がそれでびくりと身体を揺らしたが、構わずにそのまま激しく揺さぶった。
「教えて下さい! 志井さんと会ったんですか!?」
「……昨日は社長もあまり時間を割く事ができなかったのでほんの数分でしたが」
「志井さんが来たんですか…?」
「はい。こちらの『後日改めて』という要望も無視して、いきなり本社の方に来られました」
「…………」
  観念したように口を開いた支倉に、逆にツキトはやや茫然とした思いで動きを止めた。支倉の腕を掴んだままその手を離す事も出来ず、その場で硬直してしまった。
  心配して追ってきてくれたのだろうか、それとも……?
  嬉しい気持ちと不安な気持ちがごちゃごちゃになって頭の中を駆け巡る。
「そ、それで……」
「は」
「何言ってた? 志井さん、僕のこと……」
  迎えに来たと言ってくれたろうか。突然、あんな形で部屋から去る格好になってしまって、志井には何の一言もなく消えてしまって。志井は心配しているだろうか、怒っているだろうか、ああそれとも――。

  もし、今朝見た夢のように安心されていたら?

  いや。そんなわけない。そんなわけは。
「ずっと何の連絡もしないでいた事は申し訳なかったと仰ってました」
「え?」
  支倉の声にぎくりとしてツキトは顔を上げた。相手は相変わらず冷静な顔をしており、ツキトの手を己の腕からゆっくりと解く時も実に落ち着いていた。
  そしてツキトにもそうあるようにとまるで言い聞かせるようにその手を優しく取り、支倉は静かに口を開いた。
「月人様の体調が悪い事をお伝えしましたら、お大事に、と。元気になって落ち着かれたらまたお会いしたいと」
「…………それだけ?」
「社長は会わせるつもりはないとはっきり仰ってましたが」
「そ…そんなの…。そん…でも、そしたら、志井さんは? 志井さん、会いに来てくれるって言ったでしょう?」
「…………」
「支倉さん!」
  遂に声を荒げたツキトに、支倉はふっと目を伏せ何事か考えこんだ後、すぐにまたツキトへ真っ直ぐな視線を寄越した。
  そうして触れていた両手をもう一度強く握り直すと、支倉は身体を屈めツキトと目線をあわせた後、初めて言い含めるような調子で言った。
「月人様。これから言う私の言葉がもしもお気に障ったようでしたら、どうぞそのまま社長にお伝え下さい。一昨日、私も社長から月人様があの男について話された事を聞きました。……ですが、彼は本当に月人様にとって優しくて良い方だったのですか?」
  支倉のその言にツキトは驚きと怒りで目を見開いた。
「な、何言ってるんですか、そんなの当たり前です!」
「では何故こんなにも痩せて…大好きだった絵も描けなくなってしまわれたのですか」
「………っ」
「あの男が原因なのではないのですか」
「違っ……」
  必死に声を出そうとしたツキトをぎゅっと手を握る事で諌め、支倉は自分が続けた。
「確かに社長のされている事は……月人様にも酷く窮屈な事かと思います。ですが社長も……それに部長もです、月人様がもう出て行かれないと分かれば落ち着かれるでしょうし、そうすれば田中もそれ程長くこちらへ置く事はなくなるでしょう。外出禁止なんてものはすぐに解けますよ。それに―今ならきっと、一生懸命お願いすれば美術大学への進学も許してもらえるのではないでしょうか」
「………え」
「社長にお聞きした事はありませんが、きっと許して下さいますよ。月人様がその気にさえなれば」
「そんなわけないよ」
  ツキトは反射的にそう返しただけだったが、支倉は大きくかぶりを振った。
「よく話されて下さい。そして理解して下さい。……昨日、あの志井という方にお会いして、初めて部長の言われた事にただ一つだけ賛同した事があったんです」
「え……?」
  支倉はどことなく必死に見えた。だからツキトも色々な事に思考がついていけない状態になりながらも、何とか言葉を出す事ができた。
  ツキトは支倉をじっと見つめた。
「姉さん……。志井さんの事、何か言ったの?」
「………」
「支倉さん…?」
「彼は……太樹社長によく似ていると」


  まったく笑っちゃう。まるでコピーね。


「………」
  何も発しないツキトを支倉は黙って見つめ続けた。
  支倉は陽子が放ったその最後の言葉までをツキトに伝える事はしなかったが、「コピー」と言い、喉の奥で酷薄に哂ってみせた陽子に、初めて己も深く頷きたい気持ちがした。勿論、そう言った陽子の方は、それはそれできっと面白くない想いもしたのだろうが。
「月人様。社長とよく話し合われて下さい」
  沈黙したままのツキトに支倉はもう一度言った。ツキトがこの家から、社から離れる事は絶対に止めたいという一念が彼を珍しく熱くさせていた。

  ツキトはもう支倉のその声を聞いてはいなかったのだけれど。



To be continued…




7へ戻る9へ
(※「戻る」リンクはツキトシリーズのページへ飛びます。)