気づくとツキトは息を切りながらも、タイミングよく駅に入ってきた「あの場所行き」の電車に飛び乗っていた。
  絶対に行かないとか、絶対に会えないとか、そんな思いは発車を告げる高らかな笛の音を聞いた瞬間にもう吹き飛んでいた。電話をする前に考えていた「何処か遠くへ行く」などという思いもとっくに消え去っていた。元々行きたい所などないのだ。
  志井の元以外は。
  ツキトの頭の中は電話口の向こうで志井が言った言葉でただもういっぱいだった。

  『絶対来い。いつまでも待ってるからな』

  志井はそう言って一方的に電話を切ると、最後の選択をツキト1人の胸に委ねた。ひどいと思ったけれど、逡巡するようりも先に身体が動いていた。心よりも余程正直で余程純粋だった。ツキトはそんな自らの身体をぎゅっと両腕で抱えるようにしてから、揺れる車内で1人はっと息を吐いた。それから、本当に志井は待っていてくれるのだろうかと、不安と期待とで逸る気持ちを何度も何度も宥めすかせた。
「は…っ」
  誰に押し出されるわけでもなく、駅に着いた電車の扉が開いた途端、再びツキトはひたすら全速力で走り始めた。傷の癒えていない方々傷む全身を鞭打って、ただ志井が来いと行ったあの美術館のある公園へ。
  ひたすらに。



  ―9―



  当初ひどく取り乱していた志井は、それでも自らを無理に抑え付けるようにして嗚咽を漏らすツキトが落ち着くのを受話器の向こう側で辛抱強く待った。
  時折優しい言葉も交えて。
「………」
  それによって徐々に冷静さを取り戻していったツキトはぐずぐずになった顔面を片手で乱暴に拭った後、未だ鼻声のままながらも何とか言葉を出した。
「志井さん…ごめん…」
  ここが人気のない公道で良かったとツキトは思う。電話ボックスの中とはいえ、こんな所を誰かに見られたらたまったものではない。何度も何度も片手で溢れ出る涙を拭いて、ツキトは姿の見えない志井に向かって無理に笑んだ。
「はは…俺、みっともないね…」
『……大丈夫か』
「うん…」
  大丈夫じゃないよ。
  本当は真っ先にそんな言葉が浮かんでいた。大丈夫じゃない、もうめちゃくちゃだ。痛いくらいに胸が苦しくて張り裂けそうで、今すぐ助けに来て欲しい。今すぐぎゅっと強く抱きしめて甘い口づけをして欲しい。そう思っているのに、けれどツキトはその台詞を、吐きそうになる自分をぐっと我慢して、努めて明るい声を出した。
  その声色はかなりわざとらしいものだったのだが。
「もう平気だよ。ごめん、最近疲れてたんだ」
『………今どこだ』
「家」
  嘘ばかりだ。
  しかし、見慣れない公道脇のボックスで座り込んでいるのだなどとは口が裂けても言えなかった。そんな事を言えばどうしてそんな所にいるのか、何があったのかと志井に強く詰問されるだろう。そんな事にでもなったらツキトは己を平静に保っていられる自信がなかった。
  絶対に耐えられない。
  あんな事、志井にだけは知られたくない。
『……ツキト』
  しかし暫く迷った風な空気を伝えた後、志井は控えめながらも強い口調を発してきた。
『これからお前の所へ行ってもいいか?』
「え…」
  どきりと胸を鳴らすと、それが聞こえてしまったかのようなタイミングで志井がまくしたてるように言った。
『お前何だか変だろう。具合悪くても何も食べたりしてないんだろう? 薬も…。中には入らないからせめて様子を――』
「だ、駄目!!」
  思わずボックス全体が揺れたのではないかという程の大声をあげてツキトは驚いて叫んだ。
『ツ…ツキト?』
  耳元でもろにその声を聞いたのだろう。当然の事ながら志井は仰天したような声を出して悲鳴のような声を上げたツキトを訝しんだ。
『どう…したんだ、ツキト…?』
「駄目なんだ! 志井さん、お願いだから来ないで!」
  ツキトは受話器にかぶりつくような勢いで尚も悲痛な声を張り上げた。
「絶対に来ちゃ駄目だから! 絶対っ、絶対に来ないで!」
  全身からどっと冷たい汗が流れた。
  刈谷があの男―ムラジ―は夜になったら戻って来ると言っていた。それは何の確証もない事だけれど、ツキト自身も恐らくはそうだろうと思っている。
  だから不安が脳裏を過ぎったのだ。
  もし奴がアパートへ向かった志井と出会ったりしたら…。
「志井さんお願いだよ! お願いだからあそこへは近寄らないで!」
『………お前、今どこにいるんだ』
「!!」
  恐ろしいくらいに静かな志井の声を聞いてツキトははっと我に返った。
  茫然として固まっていると、志井が慌てさせないようにする為だろう、依然として低い声のままに続けた。
『その言い方だと、お前も今あの部屋にはいないんだな? …何があった?』
「………」
『言えないのか』
「あ……」
  志井に責められるような言い方をされるとツキトはいつでも苦しくなった。
  それでも言える事と言えない事がある。ツキトは自分に言い聞かせるように首をゆっくりと何度か左右に振った。
「何でも…ないんだ」
『何でもないことないだろう…』
「本当に何でもない」
『ツキ――』
「何でもないから!」
  半ば懇願するような涙交じりの声でツキトは再度その言葉を繰り返した。とにかく志井を危険な目に遭わせたくない。自分は行為の間中ずっと志井の名前を呼んでしまっていた。あの恐ろしい悪魔のような男が志井の存在を認めたら一体何をするか考えるだに恐ろしい。そしてその事に思いを巡らせた時、自分は何と愚かでどうしようもない事を言ってしまったのだろうと、ツキトは後悔の念でいっぱいになった。
「ごめん……」
  だから謝ったのだが、そのツキトの台詞は志井の神経を逆撫でしただけのようだった。
『そんな台詞は聞き飽きた! 言えないならいい、とにかくどこにいるかだけでも教えろ!』
「………」
『ツキト!』
「どうして…教えなきゃいけないの…」
『………』
  ツキトの言葉に志井は一瞬息を呑んだように沈黙した。
「ねえ、どうして…。別にいいだろ…」
  本当は来て欲しい。
  ツキトの中でその想いはどんどん大きくなっていった。言葉と裏腹に心の中の叫びが大きくなる。
「俺と志井さん、もう関係ないじゃないか…」
  だったらどうして自分は電話など掛けた? どうしてこの人の前で泣いてしまったりした?
「俺、教えたくないんだから…」
  見つけて。
  今すぐここに来て、捕まえて欲しい。
「俺がどこにいようと…志井さんに…関係、ない…」
  志井さん、好きだ。
「……だから、俺…教えな…」


『なら、これからお前のアパートへ行く』


「なっ…」
  きっぱりとした志井のその台詞にツキトは顔面蒼白になった。瞬間、ムラジの殺伐とした乾いた眼光が脳裏に浮かんだ。
「どうして! 来ないでって言ってるじゃないか!」
『お前が理由を話さないからだ』
「俺、今あそこにいない!」
『そんな事は分かってる。だがお前が居場所を言わないなら、あそこへ行くしか俺には手がない。だから行く』
「駄目だったら!」
『なら教えろ』
「ひどいよ!!」
  初めて怒り口調で怒鳴ったツキトに、それでも志井の声色は変わらなかった。ただ静かな声で「どこにいるか言え」と言うだけで。
  ただ、ツキトや本人ですら気づいていなかったが、この時の志井は相当に焦っていた。あんな風に芸なくツキトの居場所だけを訊いていた志井は、その態度とは裏腹に胸中穏やかではなかったのだ。ツキトに何か良くない事が起きているという事が容易に分かったから。
  またツキトの方でも心身共に限界が近づきつつあった。
「志井さん…お願い…」
『どこにいるんだ』
「お願いだから…お願いだからあそこへは行かないで…」
『……だからお前がいる所を言えば行かない。いい加減にしないと切るぞ。俺はお前の部屋へ行く』
「どうして…もう関係ない…」
  力なくそう言い続けるツキト。
  もうそうして懇願するしかなかった。
  志井の声は聞いていたい、志井と会って触れ合いたい。それでもそれは叶わない事だし、それが分かっていてこんな女々しい事をしてしまった自分は本当にどうしうようもないと、ツキトはただ自責の念に駆られた。
  すると志井が先刻とはガラリと変わった口調でぽつりと言った。
『ツキト…泣くな…』
「……え?」
  消え入りそうな志井のその声にツキトは顔を上げた。見えるはずもない志井の姿を求めて、ツキトはぼんやりとガラスを隔てて見える外の景色を見やった。
  耳には志井の声が響いてくる。
『頼むから…頼むから泣かないでくれ…』
「志井さん…?」
  言われて初めて気がついた。先刻あんなに必死に拭った涙の雫が、またとめどなく次から次へとツキトの目から溢れ出していたのだ。
「志井さ…」
『ツキト、顔を見るだけだ…。約束する。お前が嫌なら話しかけない。触れたりしない。だから、だから頼むから今いる場所を教えてくれ。頼むから…』
「志井さん…」
  こんな弱々しい志井の声は初めてだった。ツキトの心は思い切り揺れた。
  自分だってこんなに会いたいのだ。
  会いたくて会いたくて。
  でも。
「……嫌われたく…ないんだ……」
  この顔を、姿を見られたら察せられる。ツキトにはそれがどうしようもなく怖かった。
「もうとっくに嫌われてるけど…もうこれ以上、弱い自分見られて軽蔑されるの、嫌だ……」
  だから会えない。こんなに狂おしいほどに恋焦がれているのに。
  それでも自分はその顔を見る事は叶わない。自ら選んでそうしている。
「だから…」
『……お前を』
  すると志井は小さな、けれどはっきりとした声で言った。
『お前を軽蔑した事なんてただの一度もない』
  ツキトが喉の奥だけで「え」と返すと志井は続けた。それはどこか自嘲したような色を帯びていた。
『いつだってお前は…俺には眩し過ぎた…』
「う、嘘…何……」
  何を言っているのだろうとツキトが思い切り狼狽しても、志井は変わらぬ調子のままに「本当だ」と繰り返し、そして呼んだ。
『ツキト』
「あ……」
  志井のあのよく通る声で名前を呼ばれる事が好きだと、ツキトはこの時はっきり思った。
  志井は言った。
『とにかく俺はもう出る。お前、家の近くにはいないのか? あそこまで出て来られるか? ……お前の好きな絵がある場所』
「え…」
『あの美術館がある公園だ。あそこで落ち合おう。いいな? 車で出るから30分しない。お前は?』
「お、俺、俺、行かない…」
『……俺は行くからな。絶対来い。いつまでも待っているからな』
「志井さん…っ」
『切るぞ』
「待っ―…」
  しかし止めるツキトを無視して志井は電話を切ってしまった。ぷつりと消えたその音に、ツキトは絶望的な思いがした。志井と切れてしまった。志井の声が聞ける唯一の手段だったものを切られてしまった。
  今動けば、今度はあの姿を見る事ができるのだけれど。
「俺…」
  行きたい、行きたい。会いたい。
  それでもそれに反抗する気持ちが邪魔をして、ツキトはボックスに座り込んだまま、暫くは動く事ができなかった。無意識にフラリと立ち上がって駅に向かった時も、言い訳のようにあそこへは行かないなどと自分を誤魔化しながら足を動かしていた。結局ホームで電車を認めた瞬間には、もう慌てて飛び乗っていたのだが。



  みっともないくらいに、未練たらしい。



  暗い夜の公園は、入口付近の広場こそ何人かの少年たちがスケボーを転がし遊んでいたが、美術館へと向かう細い散歩コースにまで差し掛かるとさすがに人の気配は皆無だった。5メートル毎に頼りない外灯がある以外辺りを照らすものはなく、僅かに漏れるその照明音とツキトの吐く息だけが辺りを満たしていた。
  ツキトは公園内に入ると走らせていた足を緩め、ゆっくりと、だが無心で歩いた。
  視界が定まらないのは暗さのせいだけはない。腫れあがった瞼の部分が時間が経過する毎にますますひどくなっていく。こんな酷い自分の顔を見たら、志井は何と言うだろう。どんな顔をするだろう。それはとても不安だったけれど、それでもツキトは志井がいるであろうその場所へ向かった。
  音のしなかった世界で突然背後から肩を掴まれるまでは。
「なっ…!?」
  不意に襲ったその力強い手のひらにツキトはびくりとして勢い振り返った。
「………無駄だよ」
「……!」
  いつから後ろについていたのか。
  翳った虚ろな表情を向けて刈谷が言った。
「無駄なんだよ、ツキト」
「な…で…?」
「あいつ、もういないよ。俺が言った。ツキトは来ないって」
「刈谷…」
  抑揚の取れた相手のその声にツキトがただ唖然としていると、目の前の刈谷はふと口元を歪め、ズボンのポケットの方に視線を落とした。
「俺たちをホテルに運んでくれた奴、いるだろ。今さっきあいつに電話したから直ここに来てもらえる…。入口で待ってようぜ…」
「………」
「ツキト。お前、分かりやす過ぎ」
  刈谷はツキトの顔は見なかった。ただ下を向いたまま、地面の奥の更に奥を見つめるように俯いていた。
  そしてその態勢のまま刈谷は言った。
「何だかんだ言ったって、お前はあの男の所へ戻る気だったんだよ。助けてもらって弱い自分見せて、同情買って。元の鞘に納まるつもりだったんだろ」
「そん……」
  違うと言いかけて、けれどツキトは唇を噛んだ。
  経緯はどうあれ、その刈谷の言い分は本当にそうだというような気がしたから。
  汚い自分。
「志井さんに…会った…?」
  名前を呼んだ時ズキリと胸が痛んだが、その様子を察せられないようにやや下を向きながらツキトは訊いた。
「志井さんに…」
「会ったよ。お前より先にここに来たから。あの人に、『ツキトはもうあんたの事なんか何とも思っていない、むしろ迷惑に思ってる』って言っておいた。『最近はあいつ、俺と毎晩ヤッてるから欲求不満って事もないし』って」
「………」
「嘘じゃないだろ? これからそうなるんだから…」
「刈谷…」
「今は俺たちこんなだけど…これから恋人になるんだから…」
「………」
  明らかに様子のおかしい刈谷にツキトはただ唇を震わせ怯えた目を向けた。何を言っても響いてこない気がしたし、実際何も言えないから黙っていた。
  すると刈谷がツキトの手を引っ張り、そして踵を返した。
「帰ろう? さっきは1人にしてごめんな…。もう俺勝手にバックレたりしないし…。お前の事もちゃんと見てるから…」
「刈谷、俺…」
「俺、ちゃんとお前のこと…」
「刈谷、聞いてよ」
  ここで言わなければ駄目だと思い、ツキトは必死になって刈谷に向かった。
「刈谷、俺――」
「ちゃんと守るから」
「聞いてくれってば」
「俺が――」
「俺、志井さんが好きなんだよ…」
「………」
  やっと刈谷の動きが止まった。振り返りはしないが、背後で一生懸命自分に向かって言葉を継ぐツキトに耳を傾けている風ではある。
  ツキトは大きく一呼吸した後、改めて言った。自分自身にも言い聞かせるように。
「志井さんのことが好きなんだ」
「………」
「ずっと…ずっと好きだったんだよ…。別れようって言われても、絵が描けなくなってあの人のこと恨んでも、それでも絶対…絶対、絶対に俺、あの人を忘れられない…!」
「………」
「だから…俺、刈谷と一緒にいられない…」
「…向こうは」
  その時ようやく刈谷が夢から覚めたような声を出した。ガラガラになった喉を無理に起こすようにして、冷めた声を投げてくる。
「あの男はお前の事なんかもう何とも思ってないんだよ」
「……うん」
「諦めろよ」
「でももし、今日は会えるなら…」
「………」
  ツキトが言うと刈谷はまた沈黙した。
  後ろしか見せないそんな刈谷にツキトはもう一度、意を決したように言葉を放った。
「だったら、今日だけでも顔が見たいよ…」
「――…ッ」 

  刈谷の手が、離れた。

「刈谷…」 
  しかしツキトが刈谷に再度声をかけようとした、その時だった。
「……! ツキトっ!」
「な…っ!?」
  突然刈谷がツキトのことを力任せに突き飛ばした。
「ぐっ!」
  全く予想していなかったその衝撃にツキトはもんどりうって倒れ、その場で思い切り尻餅をついてしまった。薄っぺらい胸板を強引に押されてしまっただけに、じんとした痛みが徐々に半身を襲う。
  けれどその痛みも、顔を上げた瞬間全て消えた。
「あ……」
「ツキト、逃げろ!!」
  尻餅をついたツキトの前に立ちはだかり、刈谷が鬼気迫った声で怒鳴った。
「……!」
  ツキトは完全に動けなくなってしまった。


「お前よぉ……」


  ゆらりと暗闇の向こうからやってきたその身体と声にツキトは腹の底から戦慄した。
「…ぁ……!」
  刈谷の時は全く周りに注意を払っていなかったから、その足音が聞こえなかった。
  けれど、この男は違う。
「ふぅ…かったるい夜だぜ……」
  ムラジはツキトたちの前に悠然として現れ、一歩二歩と近寄った。
  周囲に人は見当たらず、音もないのに、ムラジのこちらへ向かってくる足音はまるで聞こえなかった。そこにいるのに、真っ直ぐにこちらに視線を向けてきているのに、暗殺者のように気配を感じさせず、ムラジはツキトたちに接近してきた。
  その恐ろしく不穏な空気を振り払うようにして刈谷が叫んだ。
「テメエ…!」
  いつの間に出したのか、刈谷のその手には鋭い刃のナイフが握られていた。
「テメエ、何で…ッ!」
「ん〜?」
  ムラジは間延びしたような声を出した後、ぴたりと足を止めた。刈谷が手にしているナイフに恐れをなしているというわけではない。獲物を物色するように、刈谷の後ろにいるツキトをねっとりとした眼で見やっているのだ。そしてムラジはツキトの姿を確認すると、にたりと口の端を上げた。
「待ったか…ツキト…? 俺を咥えたくてたまらなかっただろ、アァ?」
「ムラジ答えろ! どうしてここがっ!」
「ああ…? やかましいな…テメエの大層なオトモダチが教えてくれたんだよ…」
「なっ…」
  刈谷の肩がぎくりと震えた。
  やがて無意識のようにわなわなと全身を戦慄かせ、刈谷は押し殺したような声で訊いた。
「ムラジ…お前アキラをどうし…」
「アキラっつーのか、あの色男。どうでもいいだろうがぁ? テメエン家の周囲をウロウロしてたからよ、ちょっと物を訊ねただけだぜ…。へへっ、優しく質問してたとこにぃ…テメエから電話あったからよぉ…。あのゴミは用済みだ…。…大体俺はあんな面には興味ねえんだ…興味…。殺してる時間が勿体ねえ…」
「ムラジ! アキラは無事なんだろうな!?」
「……ア? …テメエ、誰に向かってそんな口利いてんだ」
「くっ…!」
  ぎゅっと拳を握り締めている刈谷がツキトの視界に入る。その間も執拗にムラジの視線がこちらに降り注いでいるのが分かったが、見た瞬間に叫び出してしまいそうで、ツキトは一生懸命刈谷の拳にだけ目を向けていた。
  本当は今すぐ逃げ出したい。
  でも身体が動かない。
「刈谷…テメエを殺してる時間も勿体ねえ…」
  その時ムラジがややイラ立った調子でそう言った。
「ツキト置いて消えろぉ…。そうすりゃ、テメエは見逃してやる…」
「バカ…言うんじゃねえよ…!」
「俺はぁ…そいつとヤりてえんだよぉ!」
「がっ!」
  刈谷が拒絶した瞬間、恐ろしいスピードでムラジが拳を繰り出してきた。刈谷は避ける間もなくそれを頬に喰らい、苦悶の声を漏らすとあっという間にその場にひれ伏してしまった。
  そしてムラジはそんな倒れこんだ刈谷の腹を足で押さえつけて笑った。
「このまま踏み潰してやろうか…?」
「ぐあっ…!」
「柔らかい肉だなおい…。鍛えろよぉ、少しは?」
「…く、そ……」
「お前…こいつ連れて高飛びでもしようとしてたか…? くくっ…それでこんな所でお友達が迎えに来るのをこそこそ隠れて待ってたってのか?」
「ツキト…逃げ……」
「逃げられるわけねーだろぉッ!」
「ぐあっ」
  もうやめてくれ。 
「あ…ぁ…」
  口がきけなくなったようにツキトは唇を半開きにしたまま刈谷がムラジに蹴られる様をただ眺めていた。どうして、これじゃあ昨夜と全く同じ状況だ。そうしてまた自分は逃げられず、刈谷も逃げられず、この悪魔にいいようにされて心も身体もめちゃくちゃにされてしまうのだ。
  そうなってしまうのか。
「もう…嫌だ…」
  ツキトは不意に、刈谷が使う事なく地面に落としてしまったナイフを手探りで探し当て取り上げた。
「もう……」
「ツキトぉ……」
  ムラジがそんなツキトを見て軽く笑った。
「その物騒なもんをどうするつもりだ? テメエに俺が刺せるのか? テメエの細腕で何ができる? 俺はな、お前なんぞよりももっとヤバイ奴らにそれを何度も向けられた…。何度向けられても…俺は逆にそいつらにそれの味を教えてやった」
「………」
「テメエは大人しく俺にヤられてろ…なあ?」
「……お前を刺せないなら」
「ん……」 
  ツキトは意を決したようになってナイフの柄を強く握ると、刃を自らの喉元に向けて言った。
「俺、自分が死ぬ…!」
「……くく、そうかよ…」
「本気だ!!」
「……くく……クククク……ヒィハハハハッ!!」
「……っ」
  狂ったように笑うムラジにツキトは身体の芯から凍りつくような想いで、ただその不気味な光景を眺めた。ただ笑われているだけで、見下げられているだけでもう指の先一つも動かす事ができない程に恐怖している。
「最高だぁ…ツキト…その目…くくくく…俺のもんだ…テメエは俺の…!」
  しかしムラジが恍惚とした表情でそう呟き、刈谷を足蹴にしてツキトに近づこうとした、 その時だった。


「ツキト」


  ムラジがやってきた反対の方向から。
  美術館がある方向から、その闇の向こうから。
「あ……」
「何だぁ…? テメエ……」
  志井がツキトの前に現れた。
「ツキト」
「……ッ!」
  驚きで声を失ったツキトに志井はゆっくりと近づくと、茫然としたままに目の前の狂人を見やった。それからもう一度ツキトを、最後にムラジの足元に転がっている刈谷にも目を向け、眉をひそめた。
「……ツキト」
「誰だって訊いてんだ……」
  今までで一番殺気の篭った声だった。
  ムラジが言った。
「死ぬか、テメエ…?」
  瞬間、ツキトが弾かれたように声を上げた。
「志井さん、逃げて!」
「テメエが……志井かぁ―ッ!」
「あっ!!」







  けれど「それ」はツキトが声を上げきる前に起きた。
「………っ」
  ツキトの叫びによって素早く志井に襲い掛かったムラジは獲物を見つけた肉食動物そのものだった。爛々と眼を輝かせ志井に向かうムラジのその姿をツキトは何か映画のスローモーションでも観るかのようなひどくゆったりとした時間の中で見つめていた。
  けれどそれは一瞬の出来事で。
  肉を貫き骨を砕いた音だと分かったのは、随分と後になってからの事だ。
「………ガ」
  ドサリとその場に倒れこむ音がして、それきりムラジは動かなくなった。
「………」
  ゆっくりと顔を動かし。
  身体ごと地面に視線をやり。
  ありえない光景をツキトはただ信じられない気持ちで見ていた。
  白目をむき、口から泡を噴いて倒れているムラジなる狂人。
「志井、さん…?」
「……こいつ」
  しかし当の志井はそう言ったきり、もう何も言わなかった。
  ただムラジを一撃で倒してしまったその自らの拳を握り締めたまま、志井はじっと全ての出来事を理解するようにして足元に転がる狂人を見下ろしていた。
「………」
  だから志井が改めてツキトのことを見つめてきたのは、もっとずっと後になってからの事だった。
「ツキト……」
  その優しい声で名前を呼んでくれたのも。
  やがて聞こえる警察のサイレンの音や、それと共に集まってくる野次馬たちの声をツキトが認識してから後――。
  そう。


  ツキトがやっと呼吸できたと思った、ずっと後のことだった。



To be continued…




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