―3― 一晩悩みに悩んだ挙句、結局ツキトは志井の家へチケットを返しに行く事にした。 「雨、降りそうだな…」 ドアを開けた瞬間どんよりとした曇り空が視界に広がって、ツキトはくぐもった声を出した。 いつもの出掛けの時間より、まだ一時間程早い。 「………」 白いスポーツシューズの紐を固く結んだ後、ツキトはちらりと振り返って玄関先に置いたまま放置されている黒いこうもり傘を見た。どうしようかと一瞬考えた挙句、しかしそれには手をつけず、ドアを閉め鍵をかける。それからズボンのポケットに2つ折にして突っ込んである封筒をもう一度だけ確認した。 自室のゴミ箱に捨てようと思ったが、それはできなかった。 実際昨夜は何度かその前に立ち、カップ麺やら鼻紙やらが無造作に入れられているゴミ箱代わりの四角いダンボールを暫くの間睨み続けた。しかし、封筒を硬く握りしめた自らの手は、いざとなるとどうしても開く事ができなかった。知らないフリをしていればいい、こんな物はハナからなかったのだと記憶の彼方へ閉じ込めてしまえばいい。そう思っているくせに、優しい色をしたブルーの封筒を眺めているとどうしようもなく胸がざわめいて身体が芯から熱くなって、ツキトはそれを自分の手で消し去る事ができなかった。 昼間なら志井は会社に行っているだろうから家にはいない筈だ。貰ったチケットは封筒に入れたまま家のポストへ投函してしまおう。 もうすぐ夜が明けるだろう頃にようやっとその結論を見出せて、ツキトは少しだけ安心した。見つからない筈の答えを出せたその事だけに、とりあえずはほっとしたのだ。 もう二度と行く事はないだろうと思っていた志井の家へ至る道を歩きながらツキトはぼんやりと考えこんだ。意識はズボンの封筒があるところに集中してしまう。 これをポストから発見した時、志井はどんな顔をするのだろうか。 物陰に隠れてその姿を確認してみたい気もしたが、すぐに思い直してツキトはかぶりを振った。いつまで経っても未練がましくて本当に嫌になる。昨夜も散々そうやって自分自身を罵倒していたけれど、まだまだ足りない。 「あ……」 志井の家が見えてきて、ツキトはぴたりと足を止めた。志井はいない。分かっている。それなのに途端心臓が飛び出しそうになって、そのままUターンしてしまいそうになって、ツキトはぐっと足元に力を込めた。 「よし…っ」 それから猛烈な勢いで駆け出すと、ツキトはその間一度も息を吸う事なく門前のポストに封筒を滑りこませ、また立ち止まりもせずに走り始めた所にまで一気に戻った。 「はぁっ…」 さすがに苦しくて口から鼻から大きく息を吐き出した。 「……っ」 慌てて振り返ったが、ツキトのこの一連の行動を見ている者は誰もいなかった。勿論、志井が家から顔を出してくるという事もない。 「………」 息が整い気持ちが静かになるにつれ、ツキトは自らの不審な行動に猛烈な恥ずかしさを覚えた。だからその気持ちを振り払うように再び全力で走り出した。 もう一度だって振り返りたくないと思った。 しかし、その日の夜。バイト明け。 「な、何で…?」 ツキトは部屋に入る前に呆然としてしまった。 疲れて帰ってきたボロアパート。そのポストの中には、またあの封筒が入っていたのだ。否、封筒こそ真新しい物に替えられていたが、中身は同じ。あの絵画展のチケット10枚。 「………」 暫しその場に立ち尽くしたまま言葉を失ったが、やがてそれを強く握り締めるとツキトは唇を噛んだ。日中の自分のあの行動は何だったのだ。あんな思いまでしてあそこへ行って、恥ずかしさでいっぱいになりながらあの道を走ったのに。 「冗談じゃない…!」 明日また返しに行こう。 今度はすぐにそう決めると、ツキトは折り目のない真新しい封筒をじっと見つめた。 そして翌日。 バイト前、ツキトはチケット入りの封筒を志井宅のポストへ投げ入れた。今度は走らず、ゆっくりと歩いて行った。 けれどその夜帰宅した時には、チケットはまたツキトの元に戻ってきていた。 「なぁツキト。お前一体どうしちゃったの?」 深夜のコンビニエンスストアのレジ前、煙草の整理をするフリをしながら刈谷がツキトに話しかけた。今日は珍しく静かだなと思っていたが、どうやらツキトの横顔を観察していたらしい。 珍しくも神妙な顔つきで刈谷はツキトに言った。 「食べてないだろ」 「何? 食べてるよ」 「嘘つけ。頬がこけてる」 「やっ…さ、触るなって!」 「ほらーもう。ガリガリ」 刈谷は不服そうな顔をしながらツキトの頬をつねった指をくいくいと動かした。それからどっかりと傍の椅子に腰を下ろし、偉そうにふんぞり返って足を組む。刈谷の長い足がレジ内で幅を利かせると、ツキトの立つスペースはどうしても狭くなる。迷惑そうな顔をしながらツキトはついとそっぽを向いた。 「俺が痩せてるのは前からなの」 「そうだけど。最近更に痩せた。俺そういうの分かるから」 「分からなくていいよ」 「しかもイラついてるだろ。カルシウム不足」 刈谷は言った後無理にツキトを自分の方に向かせようと、靴の先でツキトのふくらはぎを蹴飛ばした。 「何するんだよっ」 「スキンシップだよ」 「こんなの…っ」 「なあ。明日デートの約束した日曜日だよ。覚えてるだろ?」 「……行くなんて言ってない」 ぶすくれたままツキトはそう答え、あからさまにため息をついた。嫌な態度を取っているという事は重々承知していたが、今はあの絵画展にまつわる事など考えたくないと思った。 結局、3回。 ツキトは志井の家へあのチケットを返しに行った。そして3回とも知らない間に返された。 相手の姿が見えないそんな攻防を数日の間続ける事によって、ツキトの神経は相当に参ってしまっていた。元々好きだった相手なのだ。その人物に訳の分からない行動を取られて、気にせずにいられるという方がどうかしていた。本来なら直接本人に「こんなことはやめてくれ」と言えればそれが一番良いのだろうが、ツキトにはそうする事もできなかった。 「ん…? あ、ああ、今日はパス。あ? うるせえなぁ…」 「……?」 突然の会話にツキトがはっとして振り返ると、いつの間にか刈谷は自分の携帯電話で友人らしき人物と会話を始めていた。今はバイト中だというに全く信じられないとツキトは呆れたが、自分とて仕事になどちっとも集中していないのだから、人の事は言えないなと心の中で自嘲した。 「え? 何、明日? 明日ってなあ…」 「………」 聞こえないフリをするのは無理があった。 刈谷が座っている場所はツキトがいるすぐ傍だし、何せ今は客の1人もいない静かなコンビニ内である。友人にしきりに遊びに誘われているらしい刈谷の声はツキトの背中越しにもしっかと聞こえてきてしまう。 「だからー、俺は明日デートだって言ってんでしょ。しつこいよ、いい加減」 「刈……」 堪らなくなってツキトが声を出そうとすると、しかし戒めのように刈谷から再びの蹴りを入れられた。蹴りと言ってもトンと挨拶程度に触られるだけなので痛くも痒くもないのだが、それでもツキトはそれによって抗議めいた顔で勢いよく振り返った。 「……!」 しかし刈谷の顔を見た瞬間、思わず息を呑んで黙りこんでしまった。 いつからだろう、刈谷は真っ直ぐな真摯な目でツキトの事を見つめていた。 「………」 「 とにかく。今度付き合うからね。こ・ん・ど! それじゃあ、働き者なので切りますよー」 ピッと軽い電子音が聞こえ、刈谷は言葉の通り一方的に通話を断ち切った。 「あの…」 「これでデート断れなくなったね」 ツキトが言う前に刈谷がそう言い、にこりと笑った。 「俺って結構付き合い良い人間なのよ。バンド仲間もそうだけど、昔っからの遊び友達とか大切だから頼まれると断れない性質だしさぁ。でも、今回はツキトを優先」 「だって…俺は……」 「勿論、バイト明けの徹夜状態で遊ぼうなんて言わないよ。デートだから今日は部屋に泊めてって事も言わない。昼過ぎにさ、あの公園で待ち合わせ。な、そうしよ? 俺、ツキトに思いっきり美味いメシご馳走してやるから」 「い、いいよ…」 「よくなーい。そんなどんどん抱き心地の悪い身体になられちゃ、俺が困るー」 「ば…っ」 とんでもない事を大声で叫ぶ刈谷に、ツキトは誰もいない店内で真っ赤になって辺りを見回した。刈谷はそんなツキトにニコニコと笑いかけながら小首をかしげ、そうしてひどく優しい声色で言った。 「ね、ツキト。嫌な事は俺が忘れさせてあげる」 「………」 「俺、楽しい男って知ってるだろ?」 「……うん」 「よっし、決まり!」 嬉しそうにガッツポーズをする刈谷の姿に、自然ツキトも笑みがこぼれた。 息抜きだったらあの美術館じゃない方がいいのだけれど。 しかし子どものようにはしゃぐ刈谷のデートプランにケチをつけるのも悪いと、ツキトはただ苦笑したまま強引な友人の顔を見つめた。 そして刈谷との約束の日。 寝て起きたらもう約束の時間だった。昨夜会ったばかりだし、さすがに刈谷が言うような「デート」気分にはなれていなかったが、それでもバイトの入っていない日にやる事があるというのは良い事だと思った。 「やっば…ちょっと寝坊したかな」 急いで支度をし、ツキトは火元をチェックしてからふと押入れの方へ視線をやった。 『どうせだからさ、あのスケッチブックも持ってこいよ』 刈谷は別れ際にそう言っていた。 「……無理だよ」 昨夜の刈谷に言い訳するようにそう呟いて、ツキトは財布だけ持つと玄関へ向かった。昨日の晩、また戻ってきてしまったチケットの入った封筒もテーブルの上に置いたまま。それは見ないようにして外へ出た。 その日はここ数日の薄暗い日が嘘のような晴天だった。そういえば刈谷は「自分は自他共に認める晴れ男だ」と言っていたっけ。今日の天気はそのせいかなと、ツキトは底抜けに明るい友人の笑顔を思い出し、たまには憎まれ口も最小限にしようかなと頭の片隅で思った。あんな風に軽い男でも、刈谷がここ最近鬱々とした自分に気を遣って少しでも楽しくしてくれようとしていたのは事実なのだ。それなのにいつまでも志井の事で当たっているのは良くない。 アパートの階段を下りながら、ツキトは足元を見つめつつ刈谷にどんな礼をしようかと考えていた。 「ツキト」 しかし階段を下りて地面を見つめたままの状態、その視界の先に見慣れた革靴が飛び込んできた事でツキトの時間は止まってしまった。 「あ……」 そこには志井が立っていた。 「何処へ行くんだ?」 「………」 向こうはツキトがドアを開けたところから見ていたのだろう。随分と落ち着いた様子でツキトにそう訊ねてきた。 休日だというのにスーツを着ている。前髪は下ろしたままだから、突然呼び出されて出社するところなのだろうか。それとも帰る途中なのか。いや、どちらにしろこの駅は志井の職場の位置とは全く正反対だ。仕事の前後だろうが何だろうが、今、志井がここにいるのはツキトに会う為なのだ。 「あ……」 あれほど会いたいと思っていた志井が目の前にいる。 どくどくと高鳴る心臓の鼓動を気にしながら、ツキトは顔を強張らせたまま目の前の志井を見つめた。向こうの鋭く切れ長の目もじっとこちらを見据えてきている。 怖い。 どうしてかツキトはそう思った。チケットをポストに見つけた時の最初の晩、胸が苦しくなるほどに志井を恨み、そして恋しいと思ったツキトだった。それがいざ当人を前にするとそんな想いよりもまず先に恐怖が立った。 何故そう思ってしまうのか、その理由は分からなかったけれど。 「ツキト」 ツキトが何の反応も示さない事にイラついたような表情を見せ、志井は眉をひそめた。それからちらと腕時計を見る。やはりこれから何処かへ行くのだ。ぼんやりと頭の片隅でそんな事を思いながら、ツキトはただそうした志井をじっと見つめた。 たったの数十センチの距離なのに、ひどく遠い人のように思える。不思議だった。 「ツキト。お前、どういうつもりであんな事をしたんだ」 「ど…いうって…?」 まともに声を出したつもりなのに声が掠れた。慌てて咳き込んだが、志井は不機嫌そうにそんなツキトを見下ろしている。 そして言った。 「何だって俺ン家にチケット10枚も捨てて行く?」 「え…?」 怪訝な顔をしていると、志井はますますイライラを募らせたようになってツキトを見やった。 「3回も。何考えてんだ? 何でそんな真似する?」 「だ、だって、それは…」 志井が最初にそうしたからではないか。 うまく言葉が出せないままにツキトが困った顔をすると、志井はふうと大きくため息をついてからまたちらりと時計を見た。そんな、今のこの時間を無駄なように感じている志井の態度にツキトは再び胸を痛めた。 「お前、確かあの画家好きだって言ってなかったか。だったらあんなにあるチケットだ。自分で観に行けばいいだろう? どうして俺に渡す?」 「し、志井さんが…」 「俺が何だ」 たたみかけるように言われてツキトはびくりと肩を揺らした。 弱々しい声になってしまう。駄目だと思いながら、どうしてか下手に出てしまった。 「志井さんが俺にあれをくれたんじゃないの…?」 「………」 志井はすぐに答えなかった。 「だ、だから…」 沈黙が嫌でツキトは自棄になったように言葉を継いだ。 「だから…俺、迷惑だから。だから返しに行ったんだ。あんなの…受け取る理由…ないし」 「……迷惑」 ぽつりとそう呟いた志井にぎくりとしてツキトは思わず目を逸らした。怒らせてしまっただろうかと心配だった。今更相手を怒らせようが失望させようが関係ない筈なのに、未だに相手の顔色を伺う事をやめられない。 「だったら」 外した視線に志井の肩先が微かに揺れるのが見えた。 ツキトは改めて志井の顔を見つめた。 「……捨てればいいだろう」 「え……」 「だったら捨てればいいだろう。わざわざ返しに来るなんて面倒なこと…」 「返…やっぱり、あれは志井さんが……」 「………」 「志井さんがポストに入れていった…?」 「………」 志井は返答しなかったが、否定もしなかった。 「志井さん…」 やはりあれは志井がポストに入れていった物なのだ。ツキトの中で一気に鼓動が早まった。顔を上げてじっとその目を見詰めると、その対象である志井は眉間に皺を寄せたままツキトのことを見返した。 「迷惑なら捨てろ。あんな事するな。……むかつく事するな」 「で、でも…!」 「何だ」 「あんなに…。た、高いし…」 ぼそぼそとか細い声で言ったツキトに志井は馬鹿にするような笑みを向け言った。 「はっ…。……会社の知り合いが余ったからってくれたんだよ。別に俺が買ったわけじゃない」 「………」 嘘だとすぐに思ったが、ツキトはそれを追求する気にはなれなかった。 部屋のテーブルの上に置いてきたチケットを思った。今すぐ階段を上がって取りに行くべきか、少しだけ迷う。けれど動けなかった。たぶんもう少しの間だけこうして志井の顔を見ていたかったからだろう。 「とにかく」 仕切り直すように志井が口を切った。 「あれは俺にはいらない物だ。けど、お前には必要なもんだろ。タダで行けるんだからありがたく受け取っておけばいいんだ。俺から貰うってのが気に食わないみたいだけどな、俺はあれに一銭だってかけてない。人から貰ったもんなんだよ。だからお前は…」 まくしたてるように言っていた志井の唇が一瞬淀んだようになって止まった。 「………?」 ツキトが顔を曇らせたまま続きの言葉を待っていると、志井は誤魔化すように踵を返し、元来た道を戻るようにして一歩二歩と歩き出した。 そして道路に出る一歩手前にまで来て、一言。 「……お前、描いてるのか?」 「え…」 息が止まるかと思ったが、何とか聞き返す事はできた。 志井はそれに応えてすぐ声を発した。 「絵だよ。描いてるのか。何で手ぶらなんだ」 「………」 「こんな休日までバイトなのか…。それにしたってお前は…外出る時はいつも持っていただろう?」 感情の読み取れないような静かな声にツキトは震えた。怒っているのか呆れているのかは分からない。けれど、どちらにしろ志井が自分に対して抱いている気持ちはマイナスのものなのだろう事は分かった。 バレていると思った。 絵をやめてしまっていること。 筆を避けていること。 「志井さん…」 「お前、何の為にここにいるんだ」 「え…」 またしても声になったかならないかの音で返すと、志井は急に振り返ってつかつかとツキトのすぐ前にまで歩み寄り、物凄い勢いで力強くツキトの手首を掴んだ。 「痛…っ」 「描いてないだろう? 何でだ? あの公園にも行ってないんだろ?」 「痛い…! 志井さ…痛い、から…っ」 「いつまでやってるつもりだ…。あんな深夜のアルバイトなんか」 「ど、うして…」 それを知っているのかと言おうとしたが、志井に掴まれている手首がただ痛くてツキトは声を出せなかった。ぎゅうと締め付けられるように、痣ができてしまうのではないかという程に、志井の拘束は続いた。 「痛いよ…!」 理不尽な痛みに腹が立った。 「何で…お前は…」 「痛い!」 理不尽な問いかけに胸が痛んだ。 「放し……」 ツキトがぎゅうっと目をつむって何度も解放を願うも、志井の追い討ちのような問いは更に続いた。 「答えろツキト。お前どうして描くのやめた? あの時は…別れた時はまた描くって言ってただろ? その為に東京来たんだろ? 何で…」 「……っ」 どうしてやめたか、だって? 「……の、せいだから…!」 だから、思わず口走った。 「何だって?」 「絵のせいだから!」 自分でもまさかそんな言葉が飛び出るとは思ってもみなかった。 「……何?」 「………」 「何…言って」 けれどその台詞はツキトだけでなく、志井にも有効だった。驚きで緩められたその力にツキトはばっと手首を振ると、志井に掴まれ痛めた手首を自分自身の手でそっとさすった。 「……ツキト。お前…何を……」 志井の呆然とした声に泣きそうになりながらツキトは俯いたまま言った。 「志井さんが…俺を嫌いになった理由…だから」 「な…」 きっと当たっている。そう思った。 だからもう一度、今度ははっきりと答えた。 「だから…描きたくなくなった…」 別れる直前まで、ツキトは自分たちがどうしてそうなってしまったのかちっとも分かっていなかった。 あれ程優しかった志井がある日突然冷たくなった。最初は単純に飽きられたのだろうと思ったし、元々男同士の恋愛なんてまっとうじゃない、他に綺麗で素敵な女性が現れたら志井がそちらへ行くのは道理だろうと、そう納得していた。 納得したフリをしていた。 「ツキト…お前…」 志井の声を聞きながらツキトは堅く唇を横に引き結んだ。馬鹿な事を言ったと思ったからだったが、もう遅かった。そして何も言えないようになっている志井にはやはり胸が痛んだ。 恐らくはあのスケッチブックを押入れにしまった時にツキトは気づいた。 志井が自分を好きになってくれたのは自分の絵を好きでいてくれたからだ。だから嫌いになる理由があるとしたら、きっと自分のこの絵を嫌いになったからだろう。見るのも忌々しいくらいの何かが、自分のこの絵にあったからに違いない。 だからツキトは絵を描くことができなくなった。 今まで目的を持って絵を描いていた事などなかったが、ツキトにはいつの間にかできていたのだ。 志井に好かれるような絵が描きたいという願望。 でも、今は。 「志井さん…だからもう…俺は会わない…。志井さんとは会わない、忘れさせて…。志井さんを忘れられたら、そしたら俺…俺はまた描けると思うから…」 志井は答えなかった。 ただじっとこちらを見ているのだけがツキトには分かった。 刈谷との待ち合わせ時間にはきっともう遅れてしまう。頭の片隅でそんな事を思いながら、けれどツキトはその場から動く事ができなかった。 |
To be continued… |
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