「お願いだから忘れさせてよ…志井さんのこと…」
  そう言った後ツキトが堪らず俯くと、周囲に誰もいないせいか、それとも2人の間の空気が固まったせいなのか、ひどく重い静寂が辺りを包んだ。
  ツキトにとってその時はとても長く、また短くもあった。



  ―4―



「――……め、だ」
「……え?」
  最初に声を出したのは志井だった。
「志井さん…?」
  ツキトが崩れそうになりながらも頼りない目を向けると、志井はどことなく茫然とした表情をしながらも再びツキトの手を強く握り直した。
「痛っ…」
  ツキトが顔を歪めるとその拘束は一瞬緩まり、けれどまた強まった。
「志井さん…っ」
  もういい加減にしてくれ。ツキトは心の中で大声を上げていた。

  貴方の行動1つ1つに自分の心はこんなに乱れる。
  自分の心臓はこんなに煩く鳴り響くんだ。

「志井さん!」
  ツキトは苛立たしさと悔しさでいっぱいになりながら、今度こそ渾身の力で志井から離れようとした。
  けれど、その刹那。
「あ!」
「駄目だ…」
  きっぱりと言ったその声の後、ツキトは志井によって強く抱きしめられていた。
「志井さ…」
「……駄目だ」
「な、にを…」
「………」
  けれど志井は両腕でめいっぱいツキトの身体を包み込むようにして離れない。顔を合わせようとしない。そしてツキトの質問に答えようとしなかった。
「くぅ…っ」
  とくとくと鳴る志井の心臓の鼓動を聞き、ツキトの胸はまた痛くなった。どうしてこの人は自分の事をこんな風に抱きしめるのか。まるで愛してくれているようだ。まるでまだ好きだと言っているようだ。おかしいではないか。一方的に突き放して、冷たくして、「お前とは終わりだ」と言ったのは紛れもなく志井の方なのに。それなのに、別れてもう数ヶ月が経とうという今、こんな風に絵画展のチケットをしつこく渡してきたり、こんな風に痛い程に抱きしめてきたり。
  からかわれているのだろうか。有頂天にさせておいて、また何とも思わず捨てる気なのか。
「もう…嫌だ…」
  ぎゅっと目を閉じ、ツキトは言った。同時に志井の服を強く引っ張り、無理に引き離そうとする。
「嫌だ…嫌いだ、志井さんなんか…!」
  志井は応えない。もう一度言った。
「嫌いだ…っ」
  自分で言って自分で傷ついた。それでも責めずにいられなかった。
「俺とは終わりだって言ったくせに…! 俺が忘れるって言うとそんなの駄目って…。そんなの勝手過ぎるよ。なら俺どうしたらいい…。こんなの酷すぎる」
  やはり志井は応えなかった。
  ツキトも期待はしていなかったが、それでも止められなくて再度語りかけるように声を絞り出した。
「ねえ…志井さん、俺の話聞いてる?」
「……ああ」
  やっとくぐもったような声が漏れてきた。ツキトはほっと肩から力を抜き、こくりと唾を飲み込んだ。
「なら…自分がめちゃくちゃなこと言ってるって…分かってる?」
「ああ…」
「じゃあ…。じゃあ離してくれよ…」
「………」
「もう…いられないよ…」
  一緒にはいられない。
「ツキト」
  するとようやく志井は身体を離し、ツキトのことをじっと見つめてきた。どきんと胸を鳴らす。やはり自分は志井の事が好きだとツキトは思った。
「悪かった」
  志井が言った。そして口調を変え、意思の強そうな目を見せた。
「絵は…描くんだな?」
「え……」
「俺と離れられたら…。俺がお前の記憶から消えれば、お前はまた…描けるんだろう?」
「う、うん……」
「……分かった」
「志井さ……」
  しかしツキトが何事か言おうとした時、不意にどこか聞き慣れた電子音が鳴り響いた。びくりとしたが、志井の仕草で彼の携帯が鳴っているのだと分かった。
「……ああ、分かってる。今行く」
  仕事の話のようだった。そういえば志井はここに来た時何度か時間を気にするような所作を見せていた。
「――ああ。ああ、そうだな。明日のプレゼンはそれでいく。分かってる、そこは今日修正する」
  どこかイライラしたような感じではあったが、志井はその後も暫く何事かツキトには意味の分からない話を交わした後、ため息と共に通話を切った。
  それからすっかり無機的な顔になってツキトを見やる。その瞳はひどく暗い、闇に包まれた淀んだ色をしていた。
「…仕事?」
  仕方なくツキトが口を切ると志井は頷いた。声は出さない。ツキトはさり気なく視線を逸らし、努めて明るい口調で言った。
「いつも忙しいんだね。もう行かないと…でしょ」
「………」
「あ、チケット。部屋にあるんだけど、今度は送り返――」
「捨てろ」
「え…」
「いらないなら」
  志井はそう言った後、すっと再びツキトに近づいた。はっとした時、すぐ傍に志井の顔があってツキトはまた動けなくなった。
「あ…」
  そして志井はツキトに触れるだけの軽い口付けをした。
「志井さ…」
「………」
  言葉を出しかけたツキトに志井は目だけでそれを制した。
  そうして片手を差し出しツキトの前髪を優しく梳くと、目を伏せて言った。
「本当に…すまなかった」
「………」
「悪かった」
  それだけを言うと、志井はツキトの答えを待たず逃げるようにしてその場を去って行った。
「………」
  ツキトは暫く金縛りの状態になったまま、志井が残していった唇の感触にただ震えていた。
「やっぱり…ひどいや…」
  そうして随分と経った後、ツキトはようやく、たったそれだけ毒づいた。





  重い足取りながら向かった待ち合わせの公園に刈谷の姿はなかった。
「当然か……」
  約束の時間からもう1時間以上過ぎている。
  きょろきょろと辺りを見回す。天気が良いせいもあり、日曜日の公園は家族連れやカップルなどで大層賑わっていた。元々美術館やボート乗り場など、散策以外にも色々と楽しめる場所だ。ツキトとて気持ちの乗っている時ならこの風景にどれほど創作意欲を駆り立てられるか知れない。

『俺がお前の記憶から消えれば、お前はまた…描けるんだろ』

  志井の言葉が耳に木霊した。
  本当にそうだろうか。ツキトは自分自身に問いかけた。
  あの頃のようにスケッチブックと対面する自分を想像できなかった。あれを開けばどうしても志井を思い出す。感嘆したような声を漏らし、凄い絵だ、才能があると言ってくれた。単身東京に出て来て空腹で不安でどうしようもない時に、心からの賛辞を贈ってくれた。家族の誰も認めてくれなかった事を、安寧な生活を捨てるなど愚かだと言われた事を、志井だけは認めてくれたのだ。
  その志井を忘れて、またあの頃のように絵を描く?
  一体何の為に?
「……最悪だ」
  あてもなくフラフラと公園内を歩きながら、ツキトは思わず独りごちていた。そして、知らぬ間に園内の奥、赤レンガの美術館の前まで来てしまう。あの駅前の掲示板にあったポスターがここでも所狭しとガラス張りの入口付近に貼られているのが見えた。
  志井から貰ったチケットは持っていない。
「………」
  暫しその場に佇んで、ツキトは途惑ったように美術館の入口を見つめた。
「ツキト!?」
  その時、聞き慣れた声が背後から聞こえ、振り向くとそこに刈谷が立っていた。
「あ……」
「何だよツキト! 来たのかよ! もう〜完全フラれたと思ったよ!」
「ご、めん…」
  別段責める口調でもなくそう言う刈谷の横には見知らぬ女の子が寄り添うように立っていた。
  チェックのミニスカートに黒のブーツを履いた金髪のその少女は、年はツキトと同じくらいだろうか。しかし誇張の過ぎるメイクが逆に拙さを感じさせ、幾分か幼く見えない事もなかった。
  少女は刈谷の腕をぐいと掴んで不服そうに口を尖らせた。
「ねえ、もしかしてこのコ? 例のコ」
「ん? あー、お前煩い。もうどっか行っていいよ」
「はあ!? ひっどい、もー! 何なのソレ!」
  恐らくは先刻まで普通に談笑していたのだろう。それが突然素っ気無くされた事に少女は相当頭にきたようで、ぎっとツキトを睨むと棘のある声を出した。
「ねーアンタ、ホモってホント?」
「え……」
「…っせーんだよ、お前は!」
  刈谷が焦ったように口をついたが、少女は勢いに乗ってまくしたてる口調を余計に早めた。
「そのカッコもさあ、かなりヤバイんじゃん? 髪も。田舎もん丸出しだよ。この人、かなり熱しやすく冷めやすいよ。飽きられたくなかったら、ちょっとは何かしなね?」
「………」
「もう死ね、お前」
「いったあーい! もう何すんのよー!」
  刈谷に後頭部を叩かれて少女は大袈裟に悲鳴を上げた…が、刈谷がもう自分とは遊んでくれないという事を知っているのだろう。丁度タイミング良く掛かってきた電話の相手とたちまち会話を始めると、少女はハンドシグナルで「バイバイ」をしながらあっさりと去って行ってしまった。
「ったく、忙しない奴…」
  2人きりになった後、刈谷は誤魔化すように苦笑した。
「だってさあ、ツキトが来ないと思ったから。あいつが丁度ケータイに掛けてきて遊んでって言うからさ」
「……うん」
「ツキト、怒った?」
  顔色を伺うようにしてそんな事を言う刈谷にツキトは首を横に振った。
「別に怒ってないよ。俺だから。約束遅れたの」
「さっすがツキトは話が分かるねー! なあツキトもケータイ持てって。そしたら連絡取り合えるんだからさ」
「刈谷」
  先程の少女と同じような高い調子で話し続ける刈谷に、ツキトは一旦息を吐き出すとゆっくりと言った。
「俺がホモだって…。友達みんなに言ってるの」
「え?」
「皆…。この間の人…ムラジって人も俺のこと知っているみたいだったよね。……言ってるの?」
「ツキト?」
「同じ男にフラれて傷心で。いつまでもうじうじしてちっとも前に進めない…」
「おいツキト…」
「情けないホモ野郎がいるって…皆にそう言ってるの?」
  強い言い方ではなかった。
  けれど明らかに傷ついている目をしたツキトに、刈谷は言葉を失ったようだった。
  ツキトとて別に刈谷を責めるつもりで言ったのではない。情けないホモ野郎。それは自分自身でそう思ったからそう口走っただけだった。
「………っ」
  じわじわと苦しさが胸の中を占めた。泣きたくはなかったのでぐっと堪え、それからすいと踵を返した。
  もうここにはいたくない。
「お、おいツキト! 待てよ!」
  刈谷が遠くで呼び止めている声が聞こえたけれど、ツキトは振り返らなかった。逆に逃げるように歩調を速めた。
  刈谷は追って来なかった。



「だからさぁ、ホント、笑っちゃうんだって!」



  半ば茫然としながら公園を出た所で、ツキトは電話ボックスに寄りかかりながら大声で話をしているその声にはっとし、思わず身を隠した。
「マジフツー! 平凡なコだよー。どんな可愛い子かと思ってたのに! あれは見る価値なしだね。え? あーいい、いい! 深夜のコンビニまで行くのマジたりーじゃん?」
  周囲になど気を配る気配もなく、話に夢中になっているのは先刻の少女だ。やたらとジャラジャラとしたストラップをつけた真っ赤な携帯を耳に押し当て、ツキトを見た感想を電話の向こうにいる相手に知らせている。
  すかさず公園内に身を潜ませ、ツキトは耳だけ外のボックス方面に向け息を飲んだ。
「ありゃ、フラれるわけだよ。遊ばれたんじゃん? だって前の男、超金持ちのリーマンらしいもん。絶対向こうは道楽だったんだって! でもさぁ汚くない? そんな話して刈谷クンの興味引こうとしてさあ。え? はあ? うっせーよ、馬鹿! フラれたんじゃないって、 いいのアタシは! どうせちょっと会うだけで良かったんだから〜!」
  笑ったり怒ったりと少女は実に忙しなかった。
  ツキトはぐらぐらと足元が覚束なくなるのを感じながら、必死に気持ちを落ち着かせようと何度も深呼吸を試みた。そして一刻も早くこの場を立ち去ろうと思った。これ以上ここにいてはもう明日から刈谷の顔を見る事はできなくなる。刈谷が口の堅い男だとは元々思っていなかったが、それにしても酷過ぎると思った。
  とても平静でいられなかった。
  しかし、何とか踏ん張って少女がいる反対方向の道へ歩き出そうとしたその時だった。
「ありゃ刈谷クンの一人勝ちでしょ」
  ひどく底意地の悪い声がツキトの耳に響いた。
「ムラジなんかさ、わざわざ見に行ったらしいけど。そうー! ぎゃっはは! でもあいつに勝ち目はないって。刈谷クンが落とせないわけないもん、あんなコ」
「な、に……」
  思わず声を出しかけ、ツキトは慌てて口を塞いだ。少女は気づいていない。
  そして言った。
「でもさあ、刈谷クンがあの子とヤる時はビデオか何か隠しておいてもらいたくない? ちょっと見てみたいじゃん、男同士がヤるの。は? やだ、売るわけじゃなくって〜。皆で回し見しようよってコト! 刈谷クンに頼んどく?」
  何でもない事のように少女は言い、そして笑った。
「でもさ」
  更に1つ付け足して。


  幾ら賭けの為とは言え、刈谷クンもよくやるよ。


「賭け…?」
  どくん、と心臓の音が跳ね上がり、ツキトは瞬時嘔吐感に見舞われた。
「……っ」
  咄嗟に口元を押さえ、その場にしゃがみこむ。少女の会話はまだ続いていたが、ツキトにはもう聞こえなかった。
  眩暈を感じると同時に視界もどんどん狭まって行く。あのいつもの胸の痛みが襲い、そしていよいよ立ち上がれなくなった。
「どぅ…ッ」
  どうしよう、と。
  けれどその言葉すら喉の奥で消え、ツキトは顔を強張らせた。
  マズイ、マズイ。ハヤクコノバヲタチサラナクチャ。
  そう思うのに動けない。刈谷はまだこの公園内にいるのだ。さっき別れたばかりなのだ。追いかけては来なかったが、いつここに来るか分からない。用のないあそこにいつまでもいるとは思えない。
  ここを去らなきゃ。
「く…っ」
  襲いくる不快感と必死に戦いながらツキトは何とか状態を整え、そしてよろよろと歩き始めた。通行人の何人かが如何にも具合の悪そうなツキトに心配そうな視線や、またはただの好奇の目を向けてくる。その視線がちくりちくりと痛かったけれど、構ってはいられなかった。
  惨めだった。
  けれど、あまりに悲しいせいだろうか。
「ふ……」


  ツキトの口元から意図せず零れ出たのは、微かな笑みだった。



To be continued…




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