―5― 家へ帰るまでの記憶がツキトにはなかった。気づいた時には布団も敷かず、外着のまま畳の上でうつ伏せになっていたのだ。顔を上げると畳に押し付けていた左頬がちりちりと痛んだが、それ以上に熱っぽくなっている身体にツキトは顔を顰めた。 「……くっそ」 馬鹿みたいだ。再度の失恋と友人の裏切りがそんなに痛かったのか。 無理に身体を起こして暫く座り込んだままぼんやりとする。部屋の中は随分と暗い。何時だろう、この静けさではもう夜中なのだろかと思う。電気を点けようかとも思ったが、その為に立ち上がるのは面倒だった。霞む意識の中で数分間思い悩んだ挙句、結局ツキトは立ち上がるのをやめて再びばたりとその場に突っ伏した。 ザラザラとした畳の感触は決して心地の良いものではない。むしろ熱のあるこの身体には良くないものといえた。 けれどツキトは立ち上がれなかった。 「どうでもいい……」 誰も聞いていないのに誰かに向かって言うようにツキトは呟いた。 口付けをして去っていった志井の事も、訳の分からない「賭け」とやらで自分に近づいてきたらしい刈谷の事も。そんな事はもうどうでもいいのだ。自分には関係ない。理解できない人種などこの世界中どこにでもいる。何も驚く事はない。何も傷つく事はない。 何でもない事なのだ。 「……水…飲みたいな……」 食べ物はいらない、ただ水が欲しいとツキトは思った。胃の底まで染み渡るようなとびきり冷たいやつがいい。それを一気に飲み干して喉を鳴らして。きっと気持ちがいいだろう。こんな熱などすぐに下がってしまうに違いない。熱が下がったら何をしようか。もうあのアルバイトは辞めよう。いきなり2つとも辞めたらさすがに生活に困るだろうから、辞めるのはコンビニだけにしよう。そうすれば刈谷にも会わなくて済む。いや、彼にはこのアパートを知られているから、この際ここも引き払うか。そうすれば志井とももう会わなくて済む。二度と会わなくて済む。もう二度と。 ならいっその事、東京を離れてしまえばいい。 こんな町、もういる意味なんかない。 「そ…だ…。もう…いいや……」 結論を出してしまうとツキトの頭の中はひどくクリアーな状態になった。一度目を開いて、再びゆっくりと瞼を下ろす。どっと安心した気持ちが心臓にまで流れ込んできた。どうしてもっと早くそうしなかったのだろうか。そうだ、ここから離れてしまえばいい。こんな所からは一刻も早く逃げ出そう。 「………」 逃げる? 「悪くなんか…ない…」 ツキトは言い訳するように唇を動かしそう言った。 「熱が下がった、ら……」 二言目は最後まで言い切る事ができなかった。 ツキトは燃えるように熱くなる全身と足元から凍りつくような寒さを同時に感じながら、再び眠りの世界へと入っていった。 翌日、アルバイトを休んだツキトの元へ刈谷がやって来た。丁度2人がいつもレジに入っている深夜帯だ。開け広げたドア先に荒く息をついている刈谷の姿を見つけた時、ツキトは立ち上がった事によって起きた眩暈と相俟ってそのまま倒れそうになってしまった。 「ツキト大丈夫か!? うわ、身体だるそう」 刈谷はツキトの顔を見た途端そう叫び、手にしていたビニール袋を持ち上げて「色々買ってきたから。食い物と薬」とまくしたてるように言った。アルバイトの時間だというのにどうしたのかと思うツキトの心を読み取り、その後も早口で言葉を継ぐ。 「前の時間の奴拝み倒して抜けさせてもらった。だって来たらツキトが熱出して休んでるって言うからさ。それ知ってて1人であんなとこいられるかって。大慌てでここまで来たよ。久々、こんな走ったの」 「………」 「ツキト早く横になれって! …って、まあ俺が立たせちゃったわけだけど。俺が看病してやっから、な? ここ寒いし早く中に――」 「刈谷…」 くらくらとする身体を必死に立たせ、ツキトはぐっと湧き起こる気持ちを堪えるように目を閉じた。今にも自分を押し退け部屋へ入って来ようとする刈谷の前をしっかりとガードする。そしてきっぱりと言った。 「悪いけど帰って」 熱は昨晩から上がる一方だ。 着替えもせずそのまま畳の上で寝てしまったのだから当然と言えば当然だが、気だるかった身体はより一層熱を帯び、水を求めて水道へ向かうのさえ一苦労だった。 そんな状態で今刈谷と面と向かうなど冗談ではない。 「俺…本当辛いから…」 「だから俺が看病してやるって言ってるじゃん! そんな状態で1人じゃメシも満足に食えないだろ? 俺だってそれくらいの事はできるんだぜ?」 「いらない…。食欲ないから」 「駄目だって。そんなんじゃ薬も飲めないだろーが! あぁいいから早く部屋入れって。いつまでもこんな所立ってたら――」 「だから帰ってくれって…!」 感情を押し殺したような低い声を地面に叩きつけ、ツキトは足元を見つめたまま唇を噛んだ。 「ツキト…?」 名前を呼んでくる刈谷の声が頭の方から降って来る。ツキトは答えなかった。 「やっぱり…昨日のこと怒ってんのか?」 刈谷はそう言い、それから小さく息を吐いた。 「本当に悪かったよ。俺こういう性格だろ? 仲間にはさ、つい言っちゃうんだ。自分が見た事や聞いた事…出会った奴の事も。ツキトの事は特に好きだから、つい嬉しくて色々喋っちまったんだ。でも昨日のツキトの顔見て本当にマズイこと言ったんだって分かった。本当に反省したんだよ」 「……もういいよ」 だから早く帰ってくれ。 そう心の中で思うツキトに、刈谷は納得しかねるように声を荒げた。 「もういいって何だよ。それって俺を許してくれたわけ? それとももう俺なんかの事はどうでもいいっっていう、そっちの意味の『もういい』なのか? なぁツキト」 「どっちもだよ」 「ツキト。そりゃないだろ…」 ぽつりと呟いた刈谷はその場に立ち尽くしたまままだ動こうとしない。立ち去る様子は微塵もない。ドアを閉めたくとも扉を片腕で押さえてしまっている刈谷を押し退ける力は今のツキトにはなかった。 悪寒が酷くなる。吐いてしまえれば良いのに、胃の中は空っぽだった。 「なあ。好きなんだよ」 刈谷が言った。その言葉にツキトはぶるりと背中を震わせた。同時に猛烈な怒りが全身を駆け巡った。 「やめてくれよ…!」 「ツキト」 「刈谷…バンドなんかやめて俳優にでもなればいいんだ…。凄い演技だよ…。ホントに…俺のこと好きみたいに聞こえる…」 「何言ってんだ! 好きだから好きって言ってんだろーがッ!」 消え入りそうなツキトの台詞に今度は刈谷がカッとなったようになって怒鳴った。頭にじんとくるくらいその声は腹の底から出たもののようで、ツキトは響いた身体を立たせておくのがいよいよ辛くなった。 それでも刈谷はツキトに詰問する事をやめなかった。 「なぁどういう事だよツキト。俺がお前に言ってる言葉、お前全部嘘だって思ってるのか? お前は人の言う事ちゃんと受けとめてくれる奴だって思ってたよ。それなのに何でそんな酷いこと言うんだよ? 幾ら能天気な俺でも頭くるぜ」 「……じゃあ俺のことなんか嫌いになればいい」 「ツキト!」 「もう…眠りたいんだ…。お願いだから帰って…」 「帰れるわけないだろ!」 「あっ!」 より声を上げる刈谷に身体を押される形でツキトは後ろへ倒れこみそうになった。すかさず刈谷の腕で支えられ抱きとめられたが、肌が触れ合ったと感じた瞬間どうしようもない寒気を感じて、ツキトはない力を振り絞って抵抗した。 「離…っ」 「るせー! いいから静かにしろ!」 ツキトを片腕だけで抱きとめたまま、刈谷は後ろ手でバタンと乱暴にドアを閉めた。そのままじたばたと暴れるツキトを引きずるようにして部屋の中へ入り、真ん中に敷かれていた布団の上へ投げ飛ばす。 「いっ…」 「病人のくせに無駄な体力使ってんじゃねーよっ」 「お前が…!」 叫び返そうとしてツキトはげほげほと咳き込んで声を詰まらせた。拍子に目尻から涙が出てしまい、焦ってそれを拭う。刈谷にそんな様を見せたくなくて、ツキトはすかさずうつ伏せになって布団に惨めな泣き顔を押し付けた。 「う…っ」 それでも嗚咽が漏れてしまう。ただ情けなかった。刈谷を追い出したいのにそれができず、かと言って真正面から刈谷に昨日聞いた「賭け」の話を持ち出す気にもなれない。本当は思い切り罵倒したい。最低だ、お前なんか友達じゃないと言って今こうしていばりくさっている刈谷に思い知らせてやりたい。お前の思惑になんか絶対に乗らない、あんなくだらない連中と賭けをしているお前など絶対に勝たせてやらない、と。 「うぅ…」 それなのにツキトの唇から漏れるのは、ただの弱々しい泣き声だけだった。昨夜も散々居た堪れなくて自分が許せなくて熱に浮かされながら泣いていたのに。動かない身体をしんとした部屋に横たえさせながら、このまま意識が遠のいて死んでしまったらどうなるのだろうと考えた。ここで死んだら志井はどう思うだろうと考えた。この期に及んでまだそんな事を思う浅ましい自分が大嫌いだと思うのに。 「ツキト」 その時、ふわりと優しい手がツキトの髪を撫でた。びくりとして顔を上げると、傍に刈谷が座り込んでいてじっとした視線を向けてきていた。 「な…」 「何で泣いてんだよ…? 俺が泣かした…?」 先ほどまで怒っていた刈谷がひどく静かな声でそう訊いてきた。ツキトが眉間に皺を寄せたままそんな刈谷を見つめていると、しきりに髪の毛をまさぐっていた指先がぴたりと止まった。 「刈……」 「なあツキト…。本当に好きなんだ」 「………」 「俺は本当にお前の事が好きなんだよ」 真剣な目に見えた。どうしてそんな顔でそんな酷い嘘がつけるのか心底不思議だった。 言ってみようか。ツキトは葛藤した。昨日のあの少女が言っていた事は何なのかと。どういう事なのかと訊いてみようか。そんな気持ちになった。言い訳でも何でもそれは違う、誤解なのだと焦って言ってくれるかもしれない。それが嘘でも、そう言われればまだ今よりはマシな気持ちになれるのではないだろうか。 途惑う瞳を刈谷に向けながら、ツキトはそんな風にも思った。 「刈谷…」 けれどツキトが震える唇を戦慄かせた時だった。 ドン。 突然その音は鳴った。 「な…っ」 ツキトに触れ、更に近づこうとしている刈谷が思い切り意表をつかれたような顔をして動きを止めた。ツキトもだるい身体ながらドアを叩くその音に怪訝な顔をした。 こんな遅くに自分を訪ねる人間などいるわけがない。一体誰が。 志井さん…? 「あ……」 瞬間的にその名が浮かんだ。いるはずはないのに、来るはずはないのに、志井しか思い当たる人物がいなくて、ツキトは咄嗟に身体を起こそうとした。 「いいから寝てろ…。俺が出る」 けれど刈谷がすかさずそんなツキトを止めた。両肩をぐっと押さえつけて再び布団に寝かせてしまうと、自分はさっと立ち上がり玄関へ向かう。 「刈谷…」 「いいから。こんな時間にどんな非常識野郎だよ」 自分の事を棚に上げて刈谷は憤ったようにそう言った。それから「はい」と思い切り不機嫌そうな声を上げて玄関先へ姿を消す。ツキトが寝ている場所からそのドアは見えない。キッチン横にある入口は柱と引き戸に遮られている為、顔を少し上げただけでは誰がやってきたのかを確認する事はできないのだ。 けれど焦ったような刈谷の声は確かにツキトの耳にも入ってきた。 「な…! お、お前何考えてんだよッ!」 「だから1人で愉しむなって言ってんだよ…」 そのドス黒い声にツキトはびくりとして反射的に上体を起こした。 志井ではない。 けれど、その悪意に満ちたしゃがれた低い声には確かに聞き覚えがあった。 「お前ふざけるなよ…! 酔ってんのか?」 ツキトの事を気遣っているせいか、刈谷の声は囁くような小声で、それでいてひどく切迫したものだった。 「煩ェ…。殺すぞテメエ…」 けれど相手を非難するかのような刈谷のあからさまな言い様にも、その人物はまるで動じた風もない。それどころか悪意を増幅させたかのような陰の篭った声が響いた。 「テメエだけ美味しい思いするってのはどうかと思うぜ…?」 「何言ってんだよ? いいから帰れよ! 大体お前何でここ…!」 「ふん…ンなのミカに訊けば一発だ…。あいつ、お前とガキのセックスビデオ録るって張り切ってたからな…。へっ…。けど、あんまり場所が貧相だからってがっかりしてたぜ? ヤる時は違う所設定してくれってよ」 「ば…!」 「けどよぉ…」 信じられない会話がぬるぬるとツキトがいる場所にまで入りこんでくる。それにツキトがただただ茫然としている時だった。 「……よぉ」 声と共にのっそりと黒い影が目の前に現れた。 いつぞやコンビニにやって来て冷めた目を向けてきたあの男だった。 「何だ丁度ヤるとこかよ…?」 ムラジは布団の上で上体を起こしたまま硬直しているツキトにニヤリと粘着質な笑みを向けてきた。あの会った時と同様、黒いジャケットのポケットに両手を突っ込み、くちゃくちゃとガムを噛みながら固まるツキトを見据えてくる。 「いい加減にしろよお前! 何考えてんだ!」 「何が…?」 「何がじゃねーよっ。ツキト熱あるんだよ! 寝てんだよ! どうかしちまったんじゃないのか? 何強引に――」 「煩ェって…言ってんだろーがぁッ!」 「ぐあっ…!」 低く呟くような声から一転、繰り出してきた蹴りと同時にムラジは刈谷の事を怒鳴り散らした。目が正気ではない。ツキトは蹴り飛ばされてその場に倒れる刈谷を見て、ようやく夢から覚めたような顔をして身体を仰け反らせた。 「くっそ…テメエ…!」 「色男は黙ってろよ…? 俺たちいつでも分け合ってきたじゃねーか? 今回はちっとそれが早いだけだ。……お前より先に頂くだけだ」 「ふざ…!」 「テメエがいつまでもノロノロしてやがるからよぉ…。俺のムスコももう我慢できねえってよぉ…」 段々と間延びしたような言い方をしながら、ムラジはぶつぶつと意味不明な言葉を呟きつつ、もう一度自分の足元に倒れ込んでいる刈谷の腹を蹴り付けた。そうして噛んでいたガムもその場にぺっと吐き捨てる。 それからムラジは改めてツキトに視線を寄越してきた。何ものも捉えないような冷めた眼の奥に、確かにぎらついた欲望が見え隠れしていた。 「あ……」 「なあ。ホモ君」 ムラジがツキトに向かって言った。 「賭けなんざ、くだらねえ。どっちが勝とうが負けようがどうだっていいだろうが? 俺はただ単に――」 キモチヨクナリタイダケナンダヨ。 「い…やだ…」 「逆らったら殺す」 のそりと近づいてムラジは言った。刈谷は低く呻いたまま立ち上がる事ができない。 ツキトは眼を見開いて自分に迫ってくる悪魔のような男をただ見つめた。 身体が動かない。痺れを感じる。無理に上体を起こし、背中を引いただけでこんなに苦しい。 全部夢だったらいいのに。 「あ…あ……」 「やぁらかいほっぺだな?」 近づいてきて、目の前に屈みこんでくるこの男の姿も。 全部。全部全部全部幻だったらいいのに。 「んっ…ふぅ…!」 両頬をムラジの大きな片手でぎゅっとつかまれ、そのまま強引に唇を重ねられる。 「たまんねえなぁ」 一度離され、ムラジはぺろりと上唇を舐めた後そう言って口の端を上げた。 その後また噛み付くような乱暴なキスが始まった。ムラジのざらついた舌がツキトの口腔内をねっとりと嘗め回し探ってくる。舌を取られた。しつこく絡められそれを吸い上げられて、ツキトは息を吸えないままがくがくと膝を震わせた。何とかしようと自由の利かない足で相手を蹴ろうとするも、すぐに察せられて平手で思い切り強く頬を打たれた。 「うっ…」 「逆らったら殺すっつったろうがぁ?」 「……ぃ…」 「服脱げ。全部だ。テメエで脱いで見せろ」 「………」 全部嘘だ。 ツキトの頭の中は真っ白になった。 「さっさとしろぉ!」 容赦なく叩きつけられる言葉に気が遠くなる。このまま意識を飛ばせたらどれだけ良いだろう。けれどそれはできない。 全部嘘。全部夢。全部幻。 「う…っ」 あまりの事に涙も出ない。先刻まで止め処なく流れていたものが、今はどこかの神経が壊れてしまったかのように、カサカサに乾いてしまっていた。 同じように感情も乾いてしまえば楽なのに。 |
To be continued… |
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