―8― 「お前。マジでそれヤバイよ」 心底呆れた風なその耳慣れない声を、ツキトはぼやけた意識の中で聞いていた。 「だから前からあんな犯罪者とは付き合うなって言ってただろうが。俺は知らねーよ。ホント。勘弁してくれよ。俺をこんな危ない事に巻き込むんじゃねえよ」 「煩ェな…分かってるよ」 相手に散々責めの言葉を吐かれ、苦し紛れにそう返答をしたのは刈谷だ。ツキトは刈谷の姿を認めようと視線を横へずらそうとしたが、身体がだるくて目だけ動かすのがやっとだった。 滑らかな白いシーツの感触は肌に優しいが、見知らぬ景色に気持ちがざわつく。 刈谷に説き伏せられ懇願されて半ば無理やり連れて来られた先は、車で数十分程走った所にあったビジネスホテルだった。料金が安い割に昨今のビジネスホテルは設備は整っているし、サービスも行き届いている所が多い。刈谷が選んだそこもその例に漏れず、ツインの部屋にはベッドの他にテレビ、机、それに鏡台。清潔感のあるユニットバスも完備されていて、ツキトも今こうしてベッドに横になる前はそこでようやく汚れきった身体を洗い流す事ができた。疲弊して足元の覚束ないツキトを刈谷は異様に心配していたが、部屋を出る前に拒絶された事が効いているのか、無理に浴室に入って来る事はなかった。 だからツキトはそこで初めて、本当に久しぶりに1人きりになる事ができたのだ。 「分かってねーよ、お前は。このバカ」 ドアの方、ツキトが寝ているベッドからは死角になっている場所で2人の会話が聞こえる。ツキトが眠っていると思っているのだろう、声は常に囁く程の小さなものだったが、ただ時々互いがムキになったように声を荒げるのがツキトは気になった。 浴室から出た後は、もうそこから逃げ出す事も忘れてツキトはベッドになだれ込んでいた。本当は刈谷と一緒にいるのは嫌だった。早くこの場から逃げ出したい、そればかり思っていた。けれどそう思うツキトの体力は既にとっくに限界値を越えていたのだ。とてもすぐに動ける状態ではなかった。 「お前。これからどうするんだよ」 声は尚も続いている。 今話しているのはツキトの部屋にやってきた車の主だが、朦朧としていたせいでその人物の顔は思い出せない。しかし背格好や声から察するに、恐らくは刈谷とそれほど年も変わらないだろう青年という事だけは確かだった。 そしてその人物は先刻からしきりに刈谷のことを責め、これからどうするのだとせっついていた。 「逃げたはいいけど、あの部屋にはもう戻れないだろ。あの気狂い、一旦執着したらしつこそうだからな」 「しつこいなんてもんじゃねえよ…」 消え入りそうな刈谷のその声にツキトの覚醒していないはずの意識はぎりぎりと痛みを訴えてきた。同時に、ムラジなる男の野獣のような眼光を思い出し、動かないはずの身体がゾクリと震えた。 刈谷が押し殺したような声を発した。 「とにかく…俺はもうあいつをツキトには絶対に近づけさせない…。当面は俺の所も危険だから…」 「俺の部屋は嫌だからな」 「分かってるよ」 「分かってねえよ。頼ろうとしてただろ? 実際今も泣きついてきたわけだしな。いいか、俺はマジであんな連中とは関わりたくねーんだって。それも前から言っていたよな? ……けどな、俺はお前の事はダチだと思ってんだよ。これからも一緒にやっていきてーって思ってんだよ。だからここらでいい加減きっちりケジメつけろ」 「どうやってつけろってんだよ…」 いじけたような刈谷の言いようにまた相手はむっとしたようだった。 「知るか馬鹿野郎! それっくらい自分で考えろッ! …ったく、最低だよお前…。どうすんだよあの子…」 その言葉にツキトははっとして目を開いた。 自分の事を言っているのだとすぐに分かった。 「……ツキトのことは俺が一生守る」 「はっ…」 「一生…俺が…」 「一生責任取るの間違いじゃねえの? ……けど、そんなのあの子にしたら迷惑な話かもしれないぜ」 「………」 「お前のせいであの子、あのクソ野郎にヤられまくったんだろ?」 「……!」 顔も知らない相手が発したその言葉にツキトは言いようもないショックを受けた。 「……っ」 けれどもやはり身体は動かなかった。 声は続いた。 「顔だって酷ェもんだよ、めちゃくちゃ殴られて。本当…最低。お前も…まぁお前の事はどうでもいいけど、あの子には本当同情する」 「………」 「あんな目に遭って、お前なんかに守るって言われてもな…」 「煩い!」 「静かにしろっ。起きるだろ…!」 「ち…っ!」 舌打ちと同時に急ぎ足でこちらにやってくる音が聞こえ、ツキトは慌てて目を閉じた。瞬間的に起きている事を悟られるのは嫌だと思ったのだ。 「………」 じっとこちらの様子を伺っているだろう刈谷の息遣いが足元の方から感じられた。ズキズキと痛む胸を心で必死に抑えながら、ツキトは不自然なまでに固く目を閉じその場をやり過ごそうとした。 「とにかく…」 その時、もう1人の…刈谷の友人の足音も聞こえてきて、同時に戒めるような声が降りかかってきた。 「いつまでもここにいるわけにはいかねえよ…。お前ン所もヤバイならさっさと荷物まとめてきた方がいいだろ。……お前、当分地元歩けねーよ」 「何でだよ…。犯罪者は向こうだぞ…!? 何で俺の方がこそこそ隠れなきゃいけねーんだよ…!」 「…まあ、奴の事はマジ別件でも何でも、サツに垂れ込んだ方がいいかもな…。あいつ、調子に乗り過ぎだぜ…」 沈んだ調子でぽつりとそう呟かれた声を最後に、部屋はしんと静まり返った。暗く濁ったような空気が辺りに充満しているようで息苦しかった。 それから数十分程した後、刈谷とツキトを残してその友人は部屋を出て行った。遠巻きにツキトと刈谷の部屋の様子を見てくるという事だったが、「絶対に部屋の前には行かないからな」とその友人は何度も念を押して出て行った。余程ムラジという男の恐ろしさを知っているのだろう。否、むしろ刈谷が知らな過ぎたのかもしれない。 「ツキト…」 友人が去ると、刈谷はベッドの端に腰を下ろしツキトを呼んだ。そしてツキトがそれに呼応してすぐに目を開くと、刈谷はひどく驚いたような顔になって目を見開いた。 「ツキト…いつから起きてたんだ」 「今…」 ツキトの嘘は刈谷にはすぐにバレたようだ。刈谷は苦しそうに俯くと布団の裾をぎゅっと握り締めた。 「あ、あいつはさ…。一緒にバンドやってる奴なんだけど、中学の時からの親友なんだ。今時信じらんねーくらい硬派な奴でさ…。俺がつるんでるグループにも絶対入らないの。だから…あいつなら安全だと思った」 「………」 「あいつ、絶対人のこと話さないし。口堅いから」 言い訳のようにそう紡ぐ刈谷の口調は、ツキトがムラジに犯された事を暗に示されているようでツキトにはまた辛いものだった。勿論、この事を公言するような人間を刈谷が選ばなかった事はありがたかったが。 「ツキト…」 刈谷の声を聞きながらツキトは黙って相手の言葉を待った。別段聞きたいとも思わなかったが、他にできる事がなかったのだ。 「あの…さ…」 しかし刈谷はなかなか言葉を出さない。そうして何度も逡巡したようになり、どうしようかという目を閃かせてから、やがてツキトを改めて見やると言った。 「好きだよ」 「………」 もう何度目の告白だろう。ツキトはそう言った刈谷の口元を見つめながら、ただ力なく表情を翳らして目を閉じた。ハアと大きくため息もついたけれど、ぞわぞわとした内から沸き起こる嫌悪感は振り払えなかった。嫌っているというのではない。今回の事で刈谷を憎んでいないと言えば嘘になるが、それでもツキトは刈谷を罵倒したりする気は起きなかったし、先刻の刈谷の友人が言っていたように「一生責任を」取ってもらう事など考えてもいなかった。 ただ、どうしても受け入れられない。 刈谷と並んで歩く事はもうできないのだ。それだけは確かだった。 「俺、もう東京を離れるよ」 やっとツキトがそう声を出せたのは、傍に座る刈谷が今にも自分に迫ってこようと身を乗り出してきた時だった。 「ツ…キト?」 茫然とした声を出す刈谷にツキトは目を瞑ったまま言った。 「俺、この街にいる理由、ないし。どうして来たのかも…忘れた」 また、描くよな? そう言った志井の言葉が脳裏を過ぎったが、別にこの町を去ったからと言ってその約束を違える事にはならないだろう。 そう自分をごまかしながら、ツキトは続けた。 「確かにさ…あの部屋にはもういられないよ…。俺、正直あの男怖いし…。だから出てくる時、財布とかちゃんと持ってきたし。通帳も…」 「ツキト!」 「大家には電話で部屋の解約して、中に残してきたものは勝手に処分してもらう。どうせ大した物もないんだ…」 「ツキト、俺は…!」 「絶対無理だから」 刈谷の言葉をきっぱりと制してツキトは言った。目を合わせたくなかったので目を閉じたままだったが、仕方なく上体を起こすとツキトはそこで初めて目を開いた。 刈谷の悲痛な、そして半ばこちらを責めるような視線とぶつかったが、それは一瞬だけ見てすぐに自分から目を逸らした。 「一緒にいるなんてできない」 「ツキト、頼むから聞いてくれ」 「嫌だ」 「……本気なんだ、俺は」 「俺だって本気だ」 「……っ」 頑として受け付けないツキトに刈谷は息を呑んだ。弱々しく肩で息をしているツキトはアパートですっかり顔色を失くしていた時と大して変わりがないのに、もうすっかり腹を決めてしまっている。それが分かったのだろう。 「……ツキト」 刈谷は暫くの間沈黙していたが、やがて無理やりにツキトの手首を掴むと言った。それにツキトが驚いて逆らおうとしても離さなかった。 「なら…ヤらせろよ」 「……刈谷」 その発言にツキトが唖然とすると刈谷はますます激昂したように声を荒げた。 「聞こえなかったのかよ? だったら1回くらいヤらせろ。あんな奴に先越されてそのままお前は俺から消えるって…? そんな…そんな事が許されるとでも思ってんのか…」 「それが……本音?」 ツキトが失望を隠せないままに小さくそう声を出すと、刈谷はさっと俯いたきり、もう顔を上げようとしなかった。 ただツキトの手首を掴んだままで。 「………」 その時が一体どのくらい続いたのか。 きっと赤黒い痕がついてしまっているだろう、じんと傷む手首を感じながらツキトが声を出した。 「……別にいいよ」 項垂れたようになって動かない刈谷にツキトは無機的な目を向けて言った。自分でも分からない、恐らくはもうどうでもいい心境に立っていたのかもしれない。 「別にいい。ヤらせてやるよ。刈谷がしたいならヤっていいよ。好きなだけ…やれば?」 相手が何の反応も示さないとその自棄はどんどん大きくなっていった。同時に、昨夜まで散々に犯されて侵食された自分の身体がどんどん忌まわしいものに思えてきて、吐き気を感じた。 そうだ。だったらめちゃくちゃになったっていいじゃないかと、そうも思った。 「もうどうだっていい…」 ツキト。 「どうだって……」 どうだっていいという言葉を吐きながら、けれどツキトは志井の自分を呼ぶ声を聞いていた。 「どう……」 その瞬間、自らの声が萎んだ風船のようになって途中で消えていくのを感じていた。 ああ、あの人の声が聞きたいな。 そう思った。 「……駄目だ」 すると、ずっと口を噤んでいた刈谷が不意に唇を動かした。 「え……」 もう当に相手の反応を諦めていたツキトは突然声を発した刈谷に面食らって身体を揺らした。 まだ手首は拘束されたままだったけれど。 「駄目だ」 その刈谷はツキトが聞き返すと再び同じ言葉を繰り返した。 「お前はどこへもやらない。絶対に…逃がさない」 「刈、谷…?」 そのひどく澄んだようなよく通る声にゾクリとして、ツキトは震える声で相手の名前を呼んだ。それでも視線が合わさる事はなかった。刈谷は未だ下を向いたままだったから。 「ツキト……もう諦めろ」 「な…にを…?」 「………」 怯えた声でツキトが再度聞き返すとここでようやく刈谷は顔を上げた。随分と落ち着いた静かな表情になっている。痛々しく腫れ上がっている顔だが、それでも精悍とした面持ちだった。 「諦めろよ。あんな男……」 「何言って…」 「だから…俺にしとけって言ってんだよ…ッ」 「あ…!」 吐き捨てるように、半ば自暴自棄になったように刈谷はそう叫び、そしてそのままツキトの身体を押し倒した。 「ぐっ…」 掴まれた手首はまだ解き放たれない。 ベッドに縫い付けられたようにその場で抑えられたまま、刈谷に上から圧し掛かられる。突然腹に襲ったその圧迫感でツキトは苦痛に顔を歪ませたが、それについて抗議の声を上げる前に刈谷の顔がぬっと迫ってきた。 「刈…」 またされてしまうのだろうか。 「………」 けれどツキトが覚悟をしてぎゅっと固く視界を遮断した時だった。 「……くそ…!」 呻き声のような嘆きと共に、ずっしりとした体重をツキトは感じた。 「あ……?」 「……!」 刈谷はただ上から覆いかぶさり、ツキトの首筋に顔を埋めただけでその動きを止めた。 「くそ…くそ、くそぉーッ!」 「か……」 「ちくしょうッ!」 こんな感情を丸出しにした刈谷をツキトは見た事がなかった。 刈谷は驚き固まるツキトには構わず、ベッドを拳で思い切り殴った後、何も言わずにまるで逃げるように部屋から出て行ってしまった。 「………」 そのあっという間の出来事にツキトは暫し呆然としたまま、ベッドに横たわったまま動く事ができなかった。 未だ感じる、刈谷によって縛られていた手首への痛み。けれど痕を確認する為に腕を上げるのも億劫だった。 「は……」 吐息のような自嘲のような声が漏れ、ツキトは後ろ姿を追う間もなく消えた刈谷の姿をちらと思った。 そしてはっとする。 逃げるなら今かもしれない。ツキトはゆっくりと上体を起こした。 元々シャワーの後も着てきた服を纏っていたから、ツキトは立ち上がると窓際のテーブルに置きっぱなしにしていた自分の財布を取り、すぐに身支度を整えた。といっても、持ってきたものは財布くらいだ。その中身を確認する。大して入っていないが、この街を離れるくらいには持ち合わせがある。後の物はもうどうでもいいと思った。 あのスケッチブックも。 「いいか……」 自分自身を納得させるようにツキトは呟き、それからふと窓から見える外へと視線をやった。 暗い。 昼過ぎにこのホテルにやって来て、少し眠っただけだと思っていたが、外の景観が真っ暗な事から、本当は思っていたよりも眠ってしまったのだという事に気づいた。時計を見ると20時になる少し前だった。 今ならまだ電車は走っている。 行ける所まで行ける。 行くあてなどないくせにツキトはそれだけを思うと部屋を出た。先の長い廊下を左右確認してみたが、刈谷の姿はなかった。 結局、ホテルを出るまでツキトは誰にも会う事はなかった。 外へ出て、そこが自分の知っている場所だという事にツキトはどこか安堵した。以前、清掃業のアルバイトで訪れた事のある会社がすぐ近くにあった。これなら駅まで容易に歩いて行ける距離だ。 夜遅いといっても、まだサラリーマンや学生が飲み歩いている時間帯だ。寂れたビジネス街もまだある程度は賑わっていた。ツキトは通りを行く人間がちらちらとこちらを見ているように感じられて、自然と道の端を歩くようにしていたが、なるほどこの腫れあがった顔が目立つのだと気づいたのは、酔っ払ったサラリーマンが「大丈夫か? 喧嘩か?」と絡んできた時だった。 「大丈夫です…」 小さく応えてツキトは逃げるように雑踏から離れた。人のいない所へ行きたい。ここは歩きたくない。その思いが強かったのか、いつしかツキトは駅ではなく国道の外れ、車の交通量は多いが人通りはめっきり少ない通りの方に流れ着いてしまっていた。 「………」 プップーと高らかにクラクションを鳴らし、トラックや乗用車がツキトを邪険にするようにしてすぐ横を猛スピードで駆け抜けていく。ツキトは構わずその煙とエンジン音に塗れた道をのろのろ歩き、何を目指すでもなくただ足を動かし続けた。 駅に行って電車に乗って、何処か遠くへ行ってしまおう。そう思っていたはずなのに。こんな街から遠ざかって、今すぐ何もかもこれまでのことも忘れてしまおうと思っていたのに。自分は何を探して彷徨っているのか。 けれどツキトが自身をそう心の中で嘲笑した時だった。 「あ……」 目の前にぽつんと現れたその四角い箱に、ツキトは声をあげ足を止めた。 「………」 それは何の変哲もない電話ボックスだった。 「はっ…」 何のことはない。何処にでもあるそれは、このまま見過ごして通り過ぎてしまって良いもののはずだ。それなのにツキトは何故かそれをじいっと見やったまま、動く事ができなくなっていた。否、むしろそれを凝視した後はまるで夢遊病患者のように覚束ない足取りでそのボックスにまで近づき、気づいた時にはもうその扉を開けていた。 声を聞くだけなら。 虚ろな目のまま、ツキトは受話器を握るとボタンを押した。指は勝手に、とうの昔に暗記してしまっていたあの番号を押す。それはツーツーと何回かの取次ぎ音を流した後、あっという間に目的の場所へと導き、ツキトにあの声を伝えた。 『……はい』 それはひどく不機嫌で、けれどそれこそが心から焦がれ愛しんできたあの声だった。 『もしもし…?』 声は…声の主、志井克己のそれはどことなく淀んで聞こえた。 疲れているのだろうか。そういえばあの最後に会った時も仕事先から電話が掛かってきたりして忙しそうだった。元々勤務時間などあってないような多忙な仕事をしている人だ。一緒に暮らしてそういう事は何となく分かっていたが、それでも、思えばツキトは志井の仕事の内容を一度も詳しく聞いた事がないなと今更に思った。 『……誰だ』 何も返答しない電話の相手に、志井は徐々にイラついたような声を出して詰め寄ってきた。とりあえずは呆れられて切られるまではその声や息遣いを聞いていようと思っていたツキトは、そんな志井の不機嫌な声すら嬉しくて、ボックスに背中を寄りかからせると身体を休めるようにして目を瞑った。 受話器をぴったりと耳に当てる。 もっと志井の声を聞いていたいと思った。 こんな物でも繋がっていると感じられる、この瞬間が大切だった。 だから、切れるまで。向こうが切るまでは、このままで。 『………』 しかしどうした事か、志井はなかなか電話を切ろうとしなかった。相手が誰かとも、もう問い質そうとはしなかった。それでも志井が電話口のすぐ近くにいる事は、その吐息が微かに伝わってくる事で分かる。ツキトはそれを不審に思いながらも、それでも嬉しくてただ黙って受話器を耳に当て続けた。 ずっとこうしていたいと思った。 『……今日』 するとやがて、志井がぽつりと声を出した。 『ずっとかかりきりになっていたプロジェクトが一区切りついて…あそこへ行った』 何だろう。突然話し始めた志井にツキトはどきりとして目を開いた。 志井の声は静かで、そして抑揚が取れていた。 『会えるわけもないのに…。未練たらしいだろ』 「え…?」 驚いて思わず声を上げてしまうと、電話口の向こうで志井はぎくりとなったように息を詰まらせた。分かっていて話していたというわけでもなかったらしい。途端、思い切り途惑ったような声が受話器から聞こえてきた。 『お前…ツキト、か…?』 「あ……」 どうしようと思ったが、ツキトはごくりと唾を飲み込んだ後、こくりと頷いた。 声に出さないと相手には伝わらないと気づいたのは、それから数秒後の事だ。 「うん……」 『ツキト…』 心底驚いたようなその声にツキトはずきりと胸を痛めた。もう会わないと、忘れさせてくれと言ったのに、こんな風にいたずらまがいの電話を掛けてきた自分に呆れているだろうか。それを思うとやはり胸は苦しくなった。 だから誤魔化すようにツキトは言った。 「志井さん…。お…お別れなんだ」 『何…?』 志井の声に後押しされるようになってツキトは続けた。 「俺、この街出るんだ。もう二度と来ない。どこかへ行くって決めたから。どこへ行くかとかは…まだ決めていないけど」 『決めてない…?』 「そ、そう。もうこの街にいる理由もないし。いたく…ないから。だから」 『………あの美術展には』 「え……」 『行ったのか? 1回くらいは』 「う、ううん…」 『何故。お前がここへ来たのは、あの画家の作品を1回でも多く見たいからだって言っていたじゃないか』 「うん」 『ならどうして見ないで出る。しかも急に』 「べ、別に…」 『別にじゃないだろう』 今度は志井が不意に感情を沸き立たせたようになってまくしたててきた。 『絵だってまた描くと言っていたじゃないか。なのにどうして…お前が嫌なら俺はもうあそこへ近づいたりしない。俺に会うかもしれないと気になって行けなかったのか? 俺のせいなのか、この街を出るっていうのは』 「そ、そんなんじゃ…」 むしろ逆だ。 目的のなくなったこの街にいた理由は、志井がここにいたからだ。 だから離れたくなかったのだ。たとえもう相手の心が離れていても、傍にいたかったから。 『ツキト。……どこへ行くんだ』 「………」 『お前…大丈夫か』 「ど……」 どうしてそんな事を訊くのか。 「な、何で…」 『声が…いつもより掠れてる…』 「え……」 『ちゃんと食ってるのか? お前はいつも…自分の身体の事はお構いなしなんだからな…』 「うっ…」 『……? ツキト…?』 不意に嗚咽を漏らしてしまったツキトに志井が焦ったように声を上げた。ツキトはその瞬間、もう堪らなくなってしまい、みるみる間に流れてきた涙を流したまま、しゃくりあげるようにその場で泣き崩れてしまった。 「う、うう、う、うーッ!」 一旦泣き出してしまうと、それはもう嵐のようだった。 『ツキト…? おい…おい、どうしたんだ…!』 「う…。し、志井、さん…」 会いたいよ。 その声が相手に届いたかどうかは分からない。 ただ。 『ツキト今どこにいるんだ!? なあどこだッ!? おい…おい、答えろツキト!』 「好き、なんだ…」 こんな自分を見られたくない。 けれどどうしようもなく会いたい。 「うぅ…うっ、うー…っ」 ツキトは真っ暗な電話ボックスの中に身体を沈めたまま、ただ受話器を握りしめ泣いた。 『ツキト! おいツキト!!』 耳に響く志井の声だけが唯一の救いのような気がした。 |
To be continued… |
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