「ふんわりきらり」


第11話 



  何だか居た堪れない。
「 ……あの」
  雪也は涼一と2人だけにされた店内でどうして良いか分からず、ただその場に立ち尽くしていた。
  目の前の得意客―剣涼一―はこちらから視線を逸らしているが、自分と同じようにその場に佇んだまま物凄く怒った顔をしている。その怒りが自分に向けられているだろう事は、如何な鈍い雪也にも容易に分かった。
  問題は彼が何故こうまで気分を害しているのかという事だ。
  確かに彼の注文した花を他の客に売ろうとしたのは問題だっただろう。たとえ彼が今日来る可能性が低かったとしても、あれは彼の注文した、彼の為の品だったのだ。それに対する非礼は詫びなければなるまい。
  しかし涼一はそんな雪也に「そんな事はどうでもいい」と切り捨てるように言い放った。そして初対面である、その場にいた客(光一郎)にまで当たり散らした。あのお客さんはもう二度とうちの店に来る事はないだろうなと雪也はぼんやり思う。折角ツキトの絵を気に入ってくれていたようなのに。
「 ……涼一さん」
  そこまで思って、雪也はしかし全ての考えを振り切るようにして涼一を呼んだ。今はとにかく、この目の前の人だ。何だか昨夜からこの人にはペースを狂わされてばかりのような気がするが、悪い人でない事だけは間違いがないのだから、きちんと話せばきっと分かってくれる。
「 涼一さん、あの―」
  しかし花の事で怒っているのではないとしたら、一体何だというのだろう。雪也がそう思いながら尚口を切ろうとした時だった。
「 店、閉めろ」
「 ……え?」
  突然言われた事に雪也は目を見開いた。すぐにはその言葉の意味を理解できず、硬直する。
「 聞こえなかったのか。店閉めろって言ったんだよ」
  すると涼一は尚も苛立たしそうに言ってから周りに咲く花々を忌々しそうに見回した。どうしても怒りが収まらないという風だ。一昨日まで毎朝殊勝な顔つきで店に寄っていた時の涼一とは別人だと思う。あの時の涼一は物腰の柔らかい、穏やかで優しそうな人だと感じた。また際立った端整な容貌からも常に己に対する自信が見られて、きっと今まで何不自由なく暮らしてきたのだろう事を想像させた。だからこんな風に余裕のある雰囲気が出せるのだろうと。そう、雪也は思っていたのだ。
  それが。
「 あ、あの…。店を閉めろと言われても…」
「 不満なのか」
「 ふ、不満って…。その、うちの閉店時刻は夜の19時で…」
「 そんな事言ってるんじゃない」
  雪也のオドオドとした言いように涼一はキッと眉をあげると、更に声を荒げて実に横柄に言い切った。
「 この店をやめろと言ってるんだよ。お前にはもう必要ない。この仕事が好きだと言っていたから、もう暫くは好きにさせようかとも思っていたけど…。けど、やっぱり駄目だ。いつまたあんな輩が来るとも限らないし。雪は自覚がなさ過ぎる」
「 は…? ちょ、い、一体何を…」
「 昨日言っただろ。お前、俺について来てもいいって言ったろ!」
「 え?」
  涼一の言葉に雪也はぽかんとして口を半開きにしたまま黙りこくった。
  そんな相手の態度にいよいよ業を煮やしたようになった涼一は、更に雪也に向かって止めの一言をぶつけてきた。
「 お前、俺の事が好きだと言っただろう! 俺の恋人になると言った!」
「 な………」
  涼一の言葉に雪也は頭の中が真っ白になった。
  一体何を言われているのだろうと思った。





  もてなされた夕食を残さず一気に平らげた涼一は、締めのデザートを出してきた雪也に実に感動した顔を見せた。
「 料理、上手いんだな」
「 あ、ありがとうございます。いつもやっている事なので…」
「 いや、本当凄いよ。俺ん所のシェフのより断然美味い!」
  涼一はそう言って雪也を絶賛した後、再び満足そうに空を仰いで目を細めた。すっかり寛いだ様子だ。
  夕食を出される迄の涼一は上がりこんだ雪也の部屋を随分と不躾にじろじろ眺めたりしていたが、その後はとにかくよく喋った。さすがに食事中は雪也の料理に集中していたが、元々根が話好きなのだろう。雪也がキッチンでデザートの用意をする間も、それはとりとめのない話ではあったが次から次へと実に様々な話題を振ってきた。
  そして今は雪也が持ってきたものに興味津々なようで、涼一は嬉しそうに目を輝かせている。
「 それ何?」
「 りんごのタルトです。日中、ちょっと時間が空いたので作ってみたんです」
「 そういうのもやるんだ」
  心底感心したように言った後、涼一は差し出されたフォークを手に「まだまだ食べられる」とでもいう風に目の前のデザートに勢いこんで取り組み始めた。
  雪也はそんな涼一を半ば珍しいものを見るように眺めていたが、こうやって自分の作ったものを喜んで食べてもらえるというのはやはり嬉しい事だと思った。
  緊張していた身体も少しだけ和らぐ。
「 剣さん、ご自宅に専用のシェフがいらっしゃるんですか」
  だから何となく訊いてみたくなった事を口にすると、涼一はそんな雪也に口を動かしながら「うん」と何でもない事のように頷いた。
  そうして食べていた物をごくりと飲みこんでから続ける。
「 俺んち金持ちだから。一族みんな守銭奴で金儲けが趣味なんだよ。主に手を出してるのは機械関係だけど、金融、建築、食品関係何でもやってる。最近じゃ香坂と北川のグループが牛耳ってる製薬業にも進出するとかで、俺はそれには手を引けって言ってんだけど」
「 はあ…。あの、もしかして剣さんって…」
「 え?」
「 あの剣財閥の方なんですか?」
「 そうだよ」
「 ………」
  思わず口を閉じた雪也に涼一は動かしていた手を止めた。
「 ……もしかして俺の事知らなかった?」
「 あっ…」
  すみませんと小さく謝った声は、しかし涼一には聞こえなかったらしい。
  もっともその事自体に別段失望したようでもなかったのだが、涼一は雪也の態度には「何だ…」と何事か考えるような顔をしてから1つだけため息をついた。
「 俺…。あんたは知ってるかと思ってた」
「 え」
  そして驚き顔を上げる雪也に涼一は言った。
「 だって俺を見る度、妙にへりくだった態度取るし。仕事は平気かって急かせるような事ばかり言うし。…けど、そんなのあんたにしてみたら客商売なんだから当たり前か。はっ、バカみたいな自惚れだな…。確かに剣の嫡男と言っても、大学出立てで何の実績もない俺が世間に知られているわけないもんな」
「 いえ、私がそういう世界に疎いだけです」
「 普通はそうだよ」
  一生懸命否定しようとする雪也に涼一は苦く笑うと「それなら損した」と独りごち、視線を逸らした。
「 え?」
  雪也がそんな相手の態度に首をかしげると、涼一はさっと顔を上げまじまじとした視線を寄越してきた。
  そして言った。
「 あんた、雪也って言うんだろ」
「 え?」
「 名前」
「 は、はい…」
  どうして知っているのだろうとはすぐに訊けなかった。けれど店に出る時も、いつも胸につけるプレートには「桐野」という苗字があるだけなのに。
「 調べたんだ」
  雪也の疑問を涼一はすぐに答えて解消させた。
  それから残っていたタルトをぽいと口に放り込み、しみじみと味わうようにして食べてしまってから続ける。
「 俺、お前に…雪也に興味あったから」
「 俺……わ、私に?」
「 『俺』でいいって。ついでに敬語もいらない」
「 で、でも…」
「 それよりさ」
  涼一はさっと上体を寄せるようにして隣に座る雪也に接近すると、より窺うような目を向けて訊ねてきた。
「 俺、雪也の事をもっと知りたいんだ。お前がどういう奴でさ…。何が好きで、いつもどういう事考えているのか、とか。そういう事」
「 どうして……」
「 どうして?」
  雪也の問いに涼一は呆れたような顔を一瞬だけ閃かせた後、軽く肩を竦めた。
「 どうしてもこうしてもないだろ? 普通は分かるだろう? こんな小さい店に普段はない高級な品物毎日特注してさ。毎日お前の顔見に来てたんだぜ。どんなに忙しくてもお前に会いに来てた。それで察しないなんて、そんなの嘘だろ?」
「 ………」
  雪也が眉をひそめると涼一は何も言わなくて良いとばかりに片手を軽く挙げた。
「 俺、いつも思ってた。お前はこの店で毎日ホントによく働いていたけど、どうしてか恋人も作らない、友達も作らない。いや、親しい奴は何人かいるみたいだけど、それでもお前は徹底的に誰かを受け入れるって事をしないだろう。それは何でだろうって…ずっと気になってた」
「 そんなこと…」
  ない、と言おうとして、けれど雪也は黙りこくった。
  自然、背中に冷たい汗が流れた。突然自分の前に現れたこの客…涼一に、自分の暴かれたくないものを晒されたような…そんな重たい感じがして急に怖くなったのだ。
  何も分かるはずはない。そうは思っているけれど。
「 でも、そんなのは俺だってそうだよ」
  すると涼一が蒼白な雪也を慰めるようにして言った。
「 俺、お家柄かな。やたらと愛想は良いし人付き合いも上手いって誉められるけどさ。どこかで誰も彼も疑っているところはある。こういう世界にいたらそれは当然の事だけどな。けど、そういうのって本当は多かれ少なかれ誰でも持ってるもんなんだよな。それが露骨かどうかって違いだけで。だから別に俺が特別ってわけでもないんだろうけど」
  でも、と一旦切ってから涼一は雪也を真っ直ぐに見つめて言った。
「 俺と雪也は……そういう中でも絶対に近い。だから俺は雪也をこの店で見かけて、こうして通ううちにさ。もっともっと近づきたいって思ったんだ」
「 それは…」
  それはつまりと、雪也は頭の中で涼一の言われた言葉の意味を何度も何度も頭の中で反芻した。
  こんな地位ある人が、自分とは別世界にいる凄い人が、こんな風に言ってくるなんて。それは何だか信じられないけれど。
  でも。だからこそかもしれない、こんな風にまるで告白のようにこの人が自分にこう言ってきたのは。
  もしかしなくても、この剣涼一という人は自分と「友達になりたい」と言っているのか。
「 俺…特別に面白い事を話せるわけでもないし…本当につまらない奴なんですけど…」
  雪也が恐る恐るそう言うと、涼一は途端目を見開いて嬉しそうな顔をして見せた。
「 何でそんな事言うんだよ? 俺にとっては雪也って凄い天然記念物もんだよ。こうして喋る前から思っていたけど…。今実際に面と向かって益々確信した。雪也って俺にとって最高に理想に近い奴だよ」
「 そんなこと…。俺、俺、せいぜい花を育てたり…料理作ったりしか…知らないし」
「 俺はそういうの全然知らない。だから教えて欲しい」
  涼一はぐっと雪也の肩先を掴むと、いやに熱っぽい口調で言った。
「 あの買ったバラだってさ。家の使用人や会社の奴じゃすぐ枯らして駄目にしちまうんだ。雪也みたいに大事に扱ってやればきっともっと長持ちするはずなのにさ。なあ…俺ん家でそういうのも、見てくれない」
「 え? それは…勿論…」
「 ホントか!?」
  あっさり了承する雪也に、今度は涼一が信じられないというように声を大にした。
  そんな涼一の態度に雪也は面食らったけれど、すぐに立ち直ると自分も少しだけ笑んで見せてそれに答えた。
「 もし良かったらメモとか作りますけど。どういう時間にどういう場所に置くと良いかとか…」
「 いいよ。雪也が来てくれるならそれでいい」
「 え…は、はい…」
「 俺、この一ヶ月間、いつお前にこの気持ちを言おうかずっと考えてた。雪也だって絶対悪い風には思っていないって自信はあったけど、でも何か…どうしてもうまく切り出せなくてさ。雪也が俺の家の事で途惑ってるんだとしたら面倒だなとも思ってたし、実際に付き合うとなったら色々と大変だし。でも、雪也は俺の事知らなかったわけで、そっちの問題はとりあえずなかったわけだ…!」
「 は、はあ…?」
「 なあ。これからはもっといっぱい会おう? もっと…俺、雪也の傍にいたいからさ」
「 ………」
  どんどんとまくしたてるように紡がれる数々の言葉に翻弄されながら、それでも雪也は心底嬉しそうな表情を作る涼一に決して悪い気持ちは抱かなかった。こんな自分と「付き合いたい」と言ってくれるその気持ちが嬉しかったし、少々強引ではあるけれどこういう人と接する事は、弱い自分にとってむしろとても良い事のような気もした。
  その後、2人は「お友達になれた」お祝いとして、しこたまアルコールを摂取した。涼一が飲みたいと言ったからだったが、雪也の家には安物のワインしかなく、恐らくはそれを一気に煽ってしまったのが良くなかった。その後もぺらぺらとよく喋る涼一に余計悪い酔い方をしながら、雪也はただ流されるままに涼一と杯を重ねた。

  つまり。
  つまり、そのせいでその間の記憶が雪也にはあまりない。

「 雪…。本当に俺と付き合ってくれるんだな?」
  そう確認された事は薄っすらと覚えている。さらに何度となく「『剣さん』はやめろ。今度からは『涼一』と呼べ」と言われた事や、「代わりに俺は『雪』と呼ぶから」とか、そんなお互いの呼び名を決められた事も何とか記憶の片隅には残っているのだが。
  けれど、それだけなのだ。





  だから雪也は面食らってしまった。
  一体何がどうなって、そんな「付き合う」話になっているのかと。雪也にとっての「付き合う」と涼一にとっての「付き合う」はどうやら天と地ほどに差があったようだ。しかしあの朦朧とした意識の中で本当にいつ「好き」だの「恋人」だのの単語が出たのか、全く定かでない。
  雪也は最高潮に不機嫌な顔をしている涼一を前に、ただただ茫然としていた。
  それでも何とか乾く喉を意識しつつ。
「 ………あの、涼一、さん…」
「 涼一って呼べって言っただろ!?」
  けれどそんな一言も半ばヒステリックな声にあっという間に掻き消された。
  涼一は雪也が昨夜の記憶を持たない事など露とも知らず、また自分とは全く、それこそ180度違う解釈をして自分と「付き合おう」としていたとは想像すらできなくて、ただ悔しそうに拳を握りしめた。
「 あんな奴といちゃつきやがって…! 俺は絶対許さないからな、幾ら…! 幾ら客商売でもあんなのあるかよっ。しかも俺と恋人同士になった直後に!」
「 涼一さん…っ」
  直後も何も恋人同士じゃない。
「 ………っ」
  しかしその言葉を雪也はどうしても発する事ができなかった。
  目の前の涼一があまりにも必死だったからか、それとも。
「 ……こんなの」
  突然知ってしまった相手の本当の気持ちにただただ身体が熱くなってしまったからか。
  雪也の混乱する頭は何も考えられなくなっていた。




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ちょいとこの2人、間抜け過ぎますね…(汗)。