「ふんわりきらり」


第9話 



  店主の修司は他人に興味がないと言う割には、相手の些細な変化にとても敏感だ。今朝もバイト要員のツキトが店に入ってきた瞬間、「あれあれ」などと苦笑気味に声を上げた。
「 ツキト君どうしたの。寝不足みたい」
「 だ、大丈夫です」
  どうして分かるんだと思いながら、ツキトは誤魔化すように赤くなっている己の目をごしごしと擦った。確かに昨夜は眠るどころではなかったけれど、その事を妙に勘繰られるのは嫌だ。勿論修司はこちらが触れて欲しくないと思っている事を無理に訊いてくるような人間ではないが、ツキト自身がどことなく後ろめたい気持ちだったから、なるべく視線をあわせたくはなかった。
「 朝飯食った?」
  開店前の店先に水を撒いて来ようとするツキトに修司が声を掛けた。
「 まだですけど」
「 まだって事はこのまま昼まで食べる気ないだろ。いいから、お前は仕事の前にまずそこに座れ」
「 でももうすぐ開店…」
「 いいから座る」
「 ………」
  珍しく強い口調の修司に渋々カウンター前の席に腰を下ろすと、ツキトは首に掛けていたタオルを取り、手持ち無沙汰のようにそれをぎゅっと握った。
  修司は勝手知ったるような態度で実は既に用意していたらしい物をツキトの前に差し出した。メニューはフレンチトーストに卵とベーコン。それに修司の特性コーヒーだ。
「 可愛いツキトにはミルクたーっぷり入れてやったからな」
「 また…修司さんはすぐそうやって俺を子ども扱いするんだな…」
「 違うの?」
「 違う」
  キッとしたように言うツキトに修司は笑った。
「 そうかねえ? 俺にはとてもそうは見えんが」
  それでもツキトの寝不足の原因を無理に訊ねる気はやはりないらしい。修司は先刻まで開いていた新聞を畳むと、朝食を摂るツキトの代わりに自分が水を撒くと店の外へ出て行った。珍しくも働こうという気になっているのか。それともさり気ないツキトへの気遣いか。
  恐らく答えは後者だった。
「 ……はあ」
  実際ツキトの今の心境はといえば、とてもアルバイトどころではなかった。昨夜からずっと独りになりたいと思っていて、今朝方ようやくそれが叶ったわけだけれど、気づけばもうカフェで働く時間だ。休んでしまいたい、そう思った。この混乱する頭の中身を順繰りに整理して、昨日の出来事をきちんと自分の中で消化したい。
  ただそう思ってはみても、どうにも駄目なのだ。
  だからこうして少しの間だけでもこの大好きな店で独りきりにさせてもらえた事はありがたかった。修司の気持ちを嬉しいと思う。
「 志井さん…」
  そしてツキトは自分を困惑に落とし込んだ張本人の名前をそっと呼んだ。もうあの人の顔をまともに見られそうにない。重く暗い気持ちになりながら、ツキトは修司が淹れてくれたコーヒーをただじっと見つめやった。





  「泣くほど嫌か」…そう訊かれて尚ボー然としている間に、ツキトは志井によって強引に押し倒された。
「 え…?」
  はっとして目を見開くと、すぐ傍に近づいてきた唇にまた己のものを塞がれた。驚きで再びもがいたが、志井はそれを何とも感じていないような様子で更に強くツキトの手首を捕まえた。
「 痛い…っ」
  眉間に皺を寄せて抗議の声を上げたが、やはり相手はびくともしない。どんどん恐ろしくなり、ツキトは半ばパニックに陥ったようになって再び足をばたつかせてその場から逃れようとめいっぱい暴れた。
「 嫌だ、嫌っ…! 放し、志井さ…ッ」
「 ………」
  暴れるツキトに反し、その身体に跨るようにして両の手首を拘束する志井の方は実に静かだった。ガランとした物の少ない部屋で音を出しているのはツキトだけ。それが滑稽で、けれど怖くて、ツキトは自分を拘束したまま微動だにしない志井に何度も「放して」と懇願した。
  それでも相手は動かなかった。
「 何で…」
  ばたばたと動かしていた足もあっという間に疲れてしまった。両腕に至っては志井に縫い付けられている手首のせいで僅かに床を擦るだけだ。
「 ………」
  すっかり諦めたようになり、ツキトはぴたりと動きを止めて、自分を黙ったまま見下ろす志井の瞳を改めて見やった。
「 あ……」
  照明を背後に背負った志井の眼はどことなく青みがかっているように見えた。吸い寄せられるようにそれを見つめ続けていると、やがてまたその瞳の主はゆっくりと下りてきてツキトの唇に触れてきた。
「 ん…」
  喉の奥でくぐもった声が出たのが自分でも分かった。けれども落ち着いてそれを受け入れてしまうと、ツキトはもうそれを嫌だとは思わなかった。
  志井のキスはとても優しくて静かで、そして温かかった。今度は意図してそれを喜ぶように迎えてしまうと、相手にもそれが通じたのか先刻まで強く掴まれていた手がすっと軽くなった。志井の手が離れたのだと分かった。
「 志井さ…」
「 黙ってろ」
  瞬きをしながら途惑うように自分を呼ぶツキトに、志井は短く命令すると自らも自由になった片手でツキトの頬をさらりと撫でた。ツキトが黙ってそれを許容していると、また「もう一度」という風な志井の口づけがやってきた。
  もうツキトは逆らわなかった。
「 ん、ん…」
  おかしい、こんな風にずっとこの人と唇を触れ合わせているなんて。
  そう思いつつもツキトは志井から与えられる熱にただ溺れた。さり気なく開かれていく胸元に冷たい風が差し込んだ時も、これから起こる事が何となく分かったのに動けなかった。ただ無意識のうちにカッと身体を熱くすると、それを助長するように志井がツキトの足を割って太腿に自らの足を割り込ませてきた。股間にそれが当たってツキトが思わず声を漏らすと、志井はそれすら黙るようにとまた新たなキスを与えてきた。
「 志井さ…志井さん…」
  どうしようもなくて縮こまった声で相手の名を呼んだが、答えはなかった。どんどん不安になったが、完全に露になった胸に唇を当てられた時にはもう観念していた。あられもない声を出す事こそが怖くて空いた両手で口を塞いだ。
  志井の身体への愛撫は徐々に執拗になる。けれどそれを止める為に手を動かしたら声が出てしまう。
「 ……っ」
  ツキトは必死になって耐えた。そうこうしているうちにまた目尻からじわりと涙が滲んだ。
「 ……うっ」
  しゃくりあげるような声が口元から漏れてしまい、慌ててまた強く両手でそこを抑え付けた。逆らう手段を全てそこへ集中してしまっている為、ズボンを引きずり下ろされた時ですらツキトは大人しくしていた。ただ恥ずかしくて口を塞ぎ、次いで顔も隠した。スースーする下半身に志井が触れてくる。びくびくと腰を揺らすと、志井はそれを落ち着かせるように何度かゆっくりとした動作でそこを撫で、内股にキスの雨を降らせてきた。堪らない。ツキトはぎゅうっと眼を瞑ったまま、必死に今にも上げてしまいそうな嬌声をぐっと飲み込んだ。
「 ツキト」
  するとようやく沈黙し続けていた志井が口を開いた。
「 あ………」
  びくっとしてゆっくりと目を開くと、志井はツキトの目線のすぐ傍にまで寄っていて、さらりと頭を撫でてきた。
「 志井さ…?」
  掠れた声で呼ぶと、志井はツキトの両手を口元からさっと取り去った。そうして再度「嫌か?」と訊いてきた。
  散々煽っておいて今更訊くなど酷過ぎる。ツキトはようやくむっとした想いに駆られて「ひどい」と一言呟いた。
「 ああ」
  すると志井は素直にその非を認めると、謝罪のようにツキトの髪の毛を梳いた。ツキトから離れようとはしないくせに態度だけは殊勝だった。
  けれど志井のその態度のお陰でツキトもようやく息をつけた。必死に酸素を入れながら志井に向かって言葉を出す。
「 俺、俺…。こんなの…」
「 嫌か?」
「 違う…。でも身体が…あ、熱くてっ…」
「 今鎮めてやる」
「 …あっ!」
  志井が身体を屈めたと思ったと同時、ツキトは不意にやられたその快感に思わず折角耐えていた声を上げてしまった。志井がツキトの性器を口に食み、実に丁寧な所作でそれを舐め上げてきたからだった。
  さすがにショックが大きかった。
「 うぁッ! 志井さ、やぁっ…! あっ、あっ…」
  舐り上げられるその感触に身体の芯が燃えるように痺れ興奮し、ツキトは腰をじりじりと揺らした。それでも志井の荒淫は止まない。口腔内に深くツキトのものを咥えこみ、絶頂を誘うように思い切り吸い上げてくる。ゾクリとする快感と共に志井の圧倒的な存在感を得て、ツキトは全身を震わせた。
「 あぁッ…!」
  それは呆れる程あっという間だった。
「 ひっ…く…」
「 ツキト」
  短く声を上げツキトが息を詰まらせたようにひくつくと、志井はツキトの放ったものを唇の端に残したまま名前を呼んだ。
「 ツキト」
  自分を見ようとしないツキトにその声はどことなく心配そうだった。慰めのつもりか、迷ったような手が何度かツキトの顔を行き来する。
「 う…」
  けれどそれも逆効果だ。ツキトはただショックで泣きじゃくった。子どものようだと思っても止められなかった。
「 ひっ…う、う…っ」
  もう離れて。
  志井の前で剥き出しになっている性器も、それに纏わりついている己の精液にも我慢ならない。こんな風に裸になっている自分が嫌だ。
  恥ずかしくて死んでしまいそうだった。
「 ……っ」
  声にならない声で訴えたが、志井はツキトの傍から離れてくれなかった。
  ただ。
「 ……分かった」
  ひぐひぐと肩を揺らして泣き続けるツキトに志井が根負けしたように呟いた。
「 う…?」
「 分かったから…」
  志井は泣きじゃくるツキトを優しく抱き上げると、赤ん坊をあやすように自らの胸元に迎え入れた。そうしてぽんぽんとツキトの背中を叩き、何度も「もうしない」と繰り返してツキトの背中を幾度も擦った。
  それにより余計に自身を情けなく思ったツキトは更に涙を零してしまったのだが。

  結局その夜、ツキトは志井の部屋で眠った。

  いきなり信じられない事をして自分を混乱させたのは紛れ間もなく志井だ。にも関わらず、ツキトは心を乱したまま自分の背中を抱き続けてくれた志井に縋ってその晩は一時も離れなかった。未だ裸のままだとか、今や志井に強くしがみついているのは自分の方だとか、もうそんな事はどうでも良かった。それどころではなかったのだ。
「 志井さん…志井さ…」
「 ああ、ここにいる。もう眠れ…」
「 志井さん、いる…?」
「 いる」
「 俺…」
「 もう泣くな」
  それは疲弊したような声だった。
  志井はきっと失望しただろう、そう思った。自分だけあっという間に達し、相手を生殺しにしてただ甘えている。泣いて逃げた。志井がどう思っているのか、それが恐ろしくて眠るどころではなかった。いっそ抱かれてしまえば楽なのにそれも出来ない。ずっと憧れていた人なのに。そう思っているはずなのに、ただひたすらに恐ろしかった。
  志井に申し訳なかった。
  強引に組み伏せられ否応なく唇を合わせられた、そんな事をされたのに、ツキトは志井に悪いような、いけない事をしてしまったような、そんな罪悪感に駆られていた。





「 きっともう俺の事なんか嫌いになったよ…」
  カウンター越しにそう呟きながらツキトは深くため息をついた。
  この店で志井の事をいつも目で追っていた。好きだったのだ、きっと。今までに感じた事のない気持ちで。特別な人として。
  けれどあんな事があって今朝も殆ど喋らずに部屋を出てきてしまい、志井とはもう駄目だろうとツキトは思った。ぐるぐるする頭の中で分かっているのはただそれだけだった。
「 はあ…」
  だからツキトは志井が昨晩自分の所へ泊まれと言った意味も、傍にいろと言った理由も全て忘れてしまっていた。
  まさか自分が誰かに狙われているなど、考えてもいない事だったから。
  ツキトはただ志井にされたキスの事ばかり考えていた。 




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