「ふんわりきらり」


第13話 



  場面は再び修羅場中の涼一と雪也がいる花屋へと移る。


「 煩ェな! 今はそれどころじゃないって言ってんだろ!?」
  電話の向こうで何やら必死に訴えているらしい相手にそんな怒声を浴びせ、涼一はそのまま床に叩きつけてしまうのではないかと思う程に、先だってからやかましく鳴り響いていた携帯の電源を乱暴な手つきでオフにした。
「 あの…」
  涼一は忙しい身分だ。そもそも今日とて、本当は来られないはずではなかったか。
「 涼一さん…」
  幾ら「涼一と呼べ」と言われても、そんなに急に出来るわけがない。雪也は自分のその呼び方で再びキッと殺気立った眼を向ける相手に心内で震えあがりながら、それでも今最も気になっている事を口にした。
「 お仕事…行かれなくて大丈夫なんですか」
「 あ!?」
「 ……今の電話だって」
「 今はそんな事どうだっていいだろう!?」
「 良くないですよ!」
  涼一の興奮した声を掻き消したくて、雪也は自分も自棄になったように声を荒げた。
「 なっ…」
  思いのほか効果はあったようだ。涼一は珍しくも…というよりも初めて耳にした雪也の叫び声に意表をつかれ、ぴたりと動きを止めた。
「 ……っ」
  雪也はそれでイカらせていた肩を鎮め、一旦息を吐いてから再び静かな口調で言った。
「 お仕事行って下さい。今日はどうしても外せない用があるって仰ってたじゃないですか」
「 ………」
「 あの…その、付き合うとか…そういう話は、その後じゃ駄目ですか」
「 その後って」
「 涼一さ……。その…涼一、さんの…お仕事がひと段落ついてからで」
「 ………」
  俯いたまま必死にそれだけを言った雪也を涼一は暫し黙ったまま見やっていた。口は閉じたものの、怒りはまだ治まっていないようだ。
  けれど雪也の狼狽ぶりからさすがの涼一も気づいてしまった。
  直接言われなくとも分かる。どうやら昨夜交わした会話は完全にすれ違っていたらしい。雪也は自分が考えていた「付き合う」とはまるきり別の意味で捉え、了承の意を示した。確かに曖昧な言い方しかしなかったし、悪乗りしたせいで雪也を後半完全に酔っ払わせてしまった。そんな中で交わした約束や言葉など、雪也にしてみればいい迷惑だろう。現に今、勝手に1人で先走りし、勝手に1人で怒りまくった自分に対し、雪也は明らかに途惑っている。
  雪也は俺と「付き合う」気なんかなかったのだ。
「 ……くそっ」
  それでも涼一はそのまま昨夜発した自分の「告白」をなかった事にしたくはなかった。ずっとずっと想っていたのだ。それこそ普段の自分ならばすぐにでも手に入れようとしただろう強引な手法も使わずに、純情青年よろしくただ毎日店に通うだけで。
  それが、その好意が相手にさっぱり伝わっていなかったなんて。
「 俺は…お前の事がずっと気になってて……」
「 涼一さん…」
「 初めて見かけた時からずっとだ。俺はずっとお前だけ見ていて…」
「 りょ……」
  しかし雪也が思いつめたような相手にどうにも返せず、ただ力なくその名前を呼ぼうとした時だった。
  タイミングが良いのか悪いのか。
  或いはわざと出て来たのだろうか。
「 桐野君」
「 あ……」
  顔を上げた先、店の外からこちらを覗いて声を掛けてきたのは隣家の友人・創だった。涼一はさっと振り返り、途端に凶悪な顔つきになったが、幸いその表情は雪也の立ち位置からは見えなかった。
  当の創にはばっちり見えたわけだけれど。
「 ……お取り込み中かな」
「 見て分かるだろ」
  涼一のくぐもった声。雪也は途端慌てた。
「 ど、どうしたの…?」
「 雨降ってきてるんだ。外の鉢植えなんかは良いのかなと思って」
「 え!」
  創の言葉に雪也は今度こそ驚き、反射的に駆け出した。傍の涼一を通り抜け、外に出る。なるほど、細いながらもぽつぽつとした雨がいつの間にかぐずついた空から舞い落ちてきていた。これから晴れるのかと思っていたのに。
「 あ、ありがとう教えてくれて…!」
  雪也は言いながら急いで外に出していたシクラメンを中へ移そうと胸に抱えて運び出した。創が「手伝うよ」と言って後に続く。
「 ありがとう、創…」
「 いいよ。……でも本当に良かった?」
「 な、何言って……あ?」
  創の声と横を通り過ぎる影を認識したのとほぼ同時だった。
「 涼……」
「 お前も雪を狙ってんのかよ」
  雪也の背後についた創の真正面に立って涼一が言った。先ほど光一郎に対して見せた態度同様、雪也に近づく全ての人間を射殺さんばかりの鋭い視線だ。
  恐らくは涼一自身も止める事のできない感情が勝手に暴走し始めていた。
「 隣の本屋だな。何かって言うとすぐに雪に近づくだろう」
「 雪、ね…」
  ちらと雪也の方へ視線をやった創は、この事態を何もかも理解していると言わんばかりの顔をしてから素っ気無く返した。
「 何をどう勘繰っているのか知りませんが、俺と桐野君はただの友達ですよ。そりゃあ隣同士ですから、多少なりとも他の人よりは接触も多いでしょうが」
「 接触」
「 ……言葉尻を捕らえて妙な誤解しないで下さい。それとも、本当にあの男たちは貴方が雇った?」
「 ……? 何の事だ…」
  創の問いかけに涼一の眉は僅かに寄っただけだった。
  創はそんな涼一をじっと見やった後、「嘘はついてないようですね」と呟いた。
「 訳の分からない事言いやがって…」
  ただでさえイライラしているところを創の意味不明の言葉。涼一はより一層不快な顔をして舌打ちした。
  しとしとと降り出した細い雨の音がしんとした店内にまで響いてくる。
  雪也は途惑いの色を濃くしながら、創の前に立ちふさがったまま微動だにしない涼一の背中を不安そうに見やった。
  そんな状況を打破したのはやはり創だった。
「 ……いい加減どいてもらえますか。これ、早く中へ運ばないと。そうだろ桐野君」
「 う、うん」
「 ………」
「 涼一さん……」
「 ………」
「 涼――…」
「 帰る!」
「 え」
「 あれ。桐野君を手伝わないんですか?」
「 煩い!」
「 涼一さ…っ」
  しかし、この時の涼一は雪也の困り果てたような声にもまともな反応を返さなかった。否、返せなかった。
  子どものように声を荒げたかと思うと、涼一は次第に雨足の強くなり出した外へ飛び出し、そのまま早足で通りの向こうへと消えてしまった。
「 ………」
「 やっぱり来るべきじゃなかったかな」
  茫然として涼一が去った方向を見やる雪也に創がそう言った。それで雪也も焦って首を振り、言葉を継いだ。
「 そ…そんなこと。そ、それより早くしないと…っ」
  誤魔化すように言って、雪也は気まずそうに創から視線を逸らすと、胸に抱えた鉢植えをどんどん奥の棚へと移して行った。
  頭の中は悔しそうに顔を歪める涼一の事ばかりだった。けれどそれを創に悟られたくなくて、雪也は必死に身体を動かした。
  頭がじんじんとし、胸の奥がかっかと熱くなっていた。





「 なーなーツキト。あの2枚目、今日は来ないな」
  カウンターで頬杖をついた修司が暇そうな顔でテーブルを拭いているツキトにそう声を掛ける。
「 煩いなあ…」
  実はそう話を振られたのはこれで3回目で、ツキトはイライラしたように手にしていた布巾をぎゅっと握り締めた。
  本来天候が急にぐずついたりすれば、いつもは暇な時間帯も雨宿りの客で賑わうはずなのだが、不思議と店内はしんと静まり返っていた。
  客はカウンター席にいる数馬の兄・和樹と、奥のテーブル席にちょこんと座っている友之だけだ。和樹は修司のコーヒーがいたく気に入ったらしく、すっかり寛いでその味と香りを楽しんでいる。友之は食べてしまったホットケーキの皿を前に、ぼんやりと外の景色を眺めていた。
  落ち着いた雰囲気が店を満たしていた。修司が掛けた、10年くらい前に流行したピアノ曲が緩やかに流れている。
  ただそんな中、ツキトだけが落ち着かずにそわそわしていて。
「 煩いって事はないだろ。俺は親切で声掛けてやってんだよ」
「 どこが?! 俺の事は放っておいて下さい!」
「 やー、暇だと余計色々な事考えちまうだろ? だからさ、俺は敢えてより一層その事を考えてしまうように、その悩みの種を振ってやってるわけ」
「 だから放っておいて下さいってば!」
  完全にからかわれている。
  ツキトは思い切りぶすくれて、普段ならば気の良い恩人の修司から目を逸らした。修司の冗談も軽いノリも決して嫌いではないけれど、こればかりは駄目だ。昨日の今日で落ち込んでいるところを、さらに手痛く突付かれているも同然なのだから。
「 2枚目って誰の事です」
  けれど事情の知らない和樹が不意にその話に乗ってきた。
  別段特に興味をそそられた様子でもなかったのに、余程修司が可笑しそうな目をしていたのだろう、和樹もつられたようになってツキトに好奇の視線を向けた。
  客である和樹を無下にもできず、ツキトは慌てた。
「 な、何でもないんです。気にしないで下さい。この人、相手の嫌がる事を突っ込むのが趣味なんです」
「 ひでえなおい。その言い草」
「 だって事実でしょう!」
  修司にだけはキッとした目を向けて、ツキトは再度そっぽを向いた。
  志井の事は考えたくない。
  昨日の今日で。
  昨夜の出来事には、まだほんのちょっと脳裏を掠めただけでも身体が火照ってしまう。あの人にしてみればあんな行為は日常茶飯事でただの気紛れ戯れに過ぎないのだろうが、自分にはきつ過ぎる。
  ましてや、あんな情けない態度で逃げ出してしまっては。
  好きなのに。どうとも言えず別れてしまった後では。
「 はあ…」
「 ため息つくと幸せが逃げるよ」
  どこかで聞いたような事を和樹が口にした。それからふと思い出したようになると、足元に置いていた鞄から何かを取り出し、ツキトに差し出した。
「 これあげるよ」
「 ……? 何ですか?」
「 元気になる薬」
「 薬…」
「 何なに。そっち系のやつ?」
「 何です、そっち系って」
  修司のふざけた言いように苦笑した後、和樹は自分が差し出した小さな薬瓶を見つめるツキトに人の良い笑みを向けた。
「 それ、身内が作った魔法の薬なんだ。まだ何処にも売られていない貴重品だから大切に飲んで」
「 ……ビタミン剤か何かですか?」
「 んー。魔法の薬かな」
「 ………」
  そのあまりに胡散臭い台詞にツキトが多少引いた心持ちでいると、相変わらず涼しげな笑みを浮かべている和樹は背後の席にいる友之にもちらと視線を送った。
「 あの子にも分けてあげて」
「 え?」
「 友達なんでしょ?」
「 あ…えーっと」
「 そういや、あの子の友達全然戻ってこないな」
  修司が微かに苦い笑いを浮かべ呟いた。
  和樹はそんな修司に不思議そうな視線を送ったものの、特には何も言わなかった。
  ただ奥の席でじっと外の景色を追っている友之に再び視線をやると、自らも店の入口である扉のある方へ目をやり、ため息交じりの声を漏らした。
「 参ったな。当分止みそうにない」
「 ………」
  和樹の言葉でツキトも促されるようにして、だんだんと降りの激しくなってくる外へ憂鬱そうな目を向けた。
  志井は傘を持って出かけただろうか。
  ぼんやりとそんな事を思った。




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