「ふんわりきらり」
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第14話 しとしとと降り続く雨空を友之は黙ったままぼんやりと見上げた。 何を見るでもなく視線を空へ彷徨わせる事は、以前からの癖のようなものだ。他人と顔をあわせるのは苦手だけれど、周囲の景色を何ともなしに追う事は好きだった。その瞬間はいつもぽっかりと胸に空洞が出来て、それはどこか寂しいものなのだけれど、決して傷つく事のない時間でもあったから。 「 はい、傘」 「 あ……」 けれど今日の友之は独りではなかった。 「 濡れるから」 「 あ、ありがとう…」 親切に傘を差し出してくれたツキトに友之はぺこりと頭を下げて礼を言った。 ツキトとは数馬に連れられるままやって来たカフェで知り合ったのだが、彼は正体の知れぬ友之に対しとても良くしてくれた。客とはいえ、金を持っているかも定かではないような薄汚れた子どもである友之に、まるで弟の世話を焼くかのような優しさで接してくれたのだ。店が混雑してきても友之が退屈していないか、また不安に思っていないかなどいちいち気に掛けてくれたし、自分が店を上がる時になっても数馬が一向に現れる気配のない事を見ると、思い切ったように。 「 友達が来るまでうちに来ない?」 ――……そうまで言ってくれたのである。 それは店内にいた友之以外の客―和樹が出て行き、いよいよガランと寂しい雰囲気になった時の事だった。 「 修司さんに伝言頼んであるし、大丈夫だよ」 共に行く事を躊躇ったような友之にツキトはそう明るく言ってから、自らも手にしていた傘を開いた。 それで友之も渡された傘の柄を握り締め、大人しく横に並んで歩いた。元々行く所のない身だったから、ツキトの親切は嬉しかった。数馬が知れば「知らない人についていっちゃ駄目でしょう」なんて冗談めかしたお小言を貰いそうだったけれど、友之自身どうしてツキトの言葉にそのまま甘えてしまったのかよく分からなかった。今までさんざ身内の悪意に晒されて母と共に苦労してきたせいか、友之は人と接する事が苦手だし恐ろしかった。だから他人とはなるべく関わりあいにならないようにしようと思い、あの大好きな花屋の青年とでさえ距離を取ってただ見つめるだけだったのだ。 それなのにここ数日はそんな今までの自分と大分違う。 路上で自分の頭をこずいた数馬に言われるままについて行ったし、こうして今さっき知り合ったばかりのツキトと肩を並べて歩いている。彼の家へ上がりこもうとしている。 こんなに誰かに縋り付いていないと不安な人間だなんて知らなかった。 「 ……あの、さ」 そんな時だった。 とりとめもなく物思いに耽っていた友之に、ツキトが不意に気まずそうに声を掛けてきた。 「 もしかして迷惑だった? 誘ったこと」 「 え……」 「 あ、何かちょっと困ったような顔しているから。もし家に帰りたかったらそれでもいいよ? 俺、送っていくし」 「 ………」 帰る家などない。いや、あの親戚の家は一応は自分が身を寄せる場所なのだろうけれど、母のいなくなった今、自分は厄介者でしかないのだ。 何と答えて良いか分からずに黙りこくっていると、そんな友之にツキトはますます困ったように苦い笑いを浮かべた。 「 そりゃそうだよね。いきなりたまたま寄った店の店員に『うちに来る?』なんて言われても…さ。ご、ごめんね?」 「 あ……」 慌てたように友之は首を振り、急いで言葉を切った。 「 そうじゃ…ない、です。家は……」 「 本当?」 思わず言い淀んだ友之に、けれどツキトは「迷惑ではない」という意思表示だけをしっかりと捉えて嬉しそうに笑んだ。それから自身も決して口がうまい方ではないのだろう、たどたどしい早口で捲し立てるように言う。 「 あ、あの、俺、君の事を前から知ってるって言ったよね? 俺、あの雪也さんのお店で自分の描いた絵を置かせてもらっているんだけど…。だからあそこでちょくちょく君の事見てて、いつか頼めたらなって思ってたんだ」 「 ……頼む?」 「 うん」 友之の不思議そうな眼差しにツキトは頬を上気させて頷いた。 どことなく興奮している。志井の事で憂鬱だったはずなのに、今は以前からの願いが叶えられそうな事で頭がいっぱいになっているようだった。 「 俺、君に俺の絵のモデルになってもらいたいなって思ってて」 「 ………」 「 あっ! 別にそんな大変な事ないと思うんだ。その、ちょっとの間椅子に座っててもらうだけでいいから。座っているのが疲れるなら、君が楽だって思う姿勢を取ってくれてるだけでもいい。俺、あんまり金ないからそんな大したお礼も出来ないし…その点は申し訳ないんだけど」 「 ……座っているの?」 「 ! う、うん! そうだよ!」 これはいけそうだと思ったのだろうか、ツキトの顔がパアッと明るくなった。 友之はそんなツキトのくるくる変わる表情を不思議そうに眺めやった。 そうしてその後ツキトは、降りしきる雨の中で友之に自らの夢を嬉々として語り出した。絵が描きたくてそれを反対する家族の元から逃げ出してきた事。大好きな美術館がある故郷から離れたこの街で、修司や雪也と知り合った事。そんな自分は恵まれていると感じている事。 今はちょっと気になる人もいるのだという事。 「 あ…ごめん。何だか俺ばっかり話してるね…」 ツキトはひとしきり話すと、今度こそ困惑したように笑い、足を止めた。 友之はそれにあわせて自分も歩を止めたが、若干振り返るような体勢になりながらもすぐに首を横に振った。誰かのこんな風に楽しそうに話す声を聞いているのは、とても嬉しい事だと思っていた。 「 俺、おかしいな。普段はこんなに喋る方じゃないんだけど。ちょっと…昨日から情緒不安定なのかも……」 「 不安定?」 「 うん。それに…」 君は何か話しやすいし。 ツキトは照れたようにそう言って笑った後、ふと我に返ったようになってから「あ」と顔を上げた。 そして現在立っている場所から前方を指し示して言った。 「 ところで家に帰る前に寄りたい所があるんだけどいいかな」 「 ……?」 分からずに友之が首をかしげると、ツキトはまたにこりと人好きのする笑みを浮かべた。 「 この先の美術館。そこが俺がこの街に来た理由なんだけどね。今、大好きな画家が作品展をやっていて、このところ修司さんのお店を出た後いつも寄っているんだ。チケットたくさん持っているから、君も入れるよ。一緒に行かない?」 「 美術館?」 「 うん」 しっかと頷くその顔をじっと見やりながら、友之はこんな風に何かを好きになれて夢中になれているツキトを単純に凄いと思った。 それから促されるままに、前方に見える公園入口へと視線をやる。 「 あ……」 ツキトの話に夢中だったからか。それとも相手の歩調に合わせることだけに集中していたからか。 今、自分たちが立っている場所に今更気づいて、友之は思わず声を漏らした。 「 ? どうかした」 それにツキトが不思議そうに首をかしげる。 友之は慌てて首を横に振ったが、修司の店に行く前に数馬と立ち寄ったこの場所に、ふと今までに感じた事のない嫌な予感を抱いた。自分が攫われた場所だから、いつでも暗い公園だから……そんな理由からではない。 『 本当にここに来るのか? 失敗は許されねえぜ』 あの時はまるで意味が分からなかったけれど、確か今日あの公園の茂みに隠れていた柄の悪い大人たちは、確かに誰かを待っていた。そうして不穏な事を話していたのではなかったか。 そう、あの時数馬は確かその名を口にしていた。男たちが待ち伏せをしているという、その誰かの名前を。 「 ………思い出せない」 「 え? 何? どうしたの?」 「 ……っ」 尚問いかけてくるツキトに友之はただ所在なげに首を振り、けれど自分の呆けた危機感のなさや記憶力のなさにひどく鬱々とした気分になった。 何か自分は大切な事を忘れてしまっているような。 「 本当にどうしたの? 行こう?」 はっとして顔を上げると、ツキトが随分と前にいてこちらを見ていた。きっと早くそのお気に入りの絵を見たいのだろう。急かす風でもないけれど、明らかにツキトの気持ちは前方へ向かっていた。 「 ………」 友之はそんなツキトの様子に何故かますます危機感を抱きながら逸る心臓の音を聞きつつ、それでも言われた通りに足を動かした。 そして今更ながらに、何故自分はあの時ここで身も知らぬ人間たちに拘束されたのだろうと思った。 「 ツキト」 その時だった。 「 あ……」 凛としてそう呼ぶ誰かの声と、それに対して唖然としたような声を漏らしたツキトの声とを聞いて、友之はまた失いかけていた意識を外へ戻した。 目の前にはツキトの事をじっと見つめている背の高い男がいた。知らない人間。何となく尻込みする想いがして、友之は数歩、後ずさった。 「 志井さん…」 ツキトが掠れた声を出す。どうやらツキトの知り合いのようだ、心なしかほっとしつつも、友之はどうしてか未だ危げにどくどくと鳴っている心臓の鼓動を鎮める事ができずにいた。傘を通してぽつぽつぽつと落ちてくる雨音がその胸の早鐘と合わさって、友之の耳を更に煩く刺激した。 何だろう。何だか、とてもとても怖い。 「 ど……どうしてここに?」 一方のツキトも突然自分の目の前に現れた志井の姿に思い切り動揺して、背後の友之の様子にはまるで気づく事が出来ずにいた。 今日1日店に現れなかった志井を悲しく思う反面、心のどこかで安堵もしていた。あんなみっともない醜態を晒しておいて、実際どのような顔をして会えばいいのか分からなかったから。 「 ……な、何か」 用ですか、と言いかけて、そんな台詞は少し冷た過ぎるかなと思って躊躇する。ツキトは困ったように俯いた。 「 ツキト」 すると志井はそんなツキトをどこか焦れたような想いで見つめた後、やや早口に言った。 「 今日はあの店上がるの早かったんだな。うちの方の仕事は入ってないだろう?」 「 え……」 志井に何を訊かれているのか分からずツキトは一瞬ぽかんとしたが、それでもすぐに頷くと慌てて答えた。 「 はい、今日は…。修司さんが早く上がっていいって言ってくれて…。お客さんも午後過ぎからはさっぱりだったので。し、志井さんも…」 ごくりと唾を飲み込んでツキトは続けた。 「 今日は…お店、来な、来なかったですね」 「 ………」 「 ……あのっ」 「 ツキト」 ツキトに言わせずに志井はまた名前を呼んだ。そして何故か一回背後を気にしたようにちらと見た後、急ぐように口を開く。 「 今日はあそこへは寄らない方がいい…。どうしても行きたいというのなら仕方ないが、とにかく独りにはなるな」 「 え…」 「 ………」 「 どうして?」 「 行くなら俺もついて行く」 「 きょ、今日はっ」 志井とは一緒にいないと思わず口の端に乗せそうになり、けれどそれも途中で止めてツキトは自らの顔を持っていた傘で咄嗟に隠した。志井が何を考えて何をもってこんな訳の分からない事を言っているのか分からなかったけれど、昨日の今日でこうも冷静に、こうも普通の態度である志井が何だか急激に癪に障った。 自分だけがこんな風に意識しているのかと思うと悔しかった。 「 ひ、1人じゃないです。今日は…友達と一緒でっ。だ、だから別に志井さんにご一緒してもらわなくても平気です!」 「 ツキト」 「 それにどうして俺が1人でいちゃいけないんですか? 俺は…家を出てからずっと1人でやって来たし、そりゃ…! そりゃあ、志井さんから見たら俺なんかすごい頼りないガキに見えるのかもしれないけど、でも…っ」 「 ツキト」 勢いこんで話すツキトをいよいよ強い口調で呼ぶと、志井は半ば呆れたように嘆息し身体を揺らした。傘越しにも志井が自分に対して辟易しているのが分かり、ツキトは猛烈に居た堪れなくなった。 けれどそんなツキトに志井が放った台詞は全く別の事だった。 「 友達なら…走って行っちまったぞ」 「 え?」 「 もういない」 「 ……ええ!?」 驚いて振り返った先、確かに先刻までいたはずの友之の姿はなくなっていた。 「 え、えええ…?」 思い切り面食らったツキトは最早何処にもいない友之の姿をその場できょろきょろと首を動かす事で追ってみたが、当然の事ながら相手を見つける事はできなかった。 「 な、何で…友之君?」 「 俺に怯えて逃げたのかもな……」 「 え?」 志井のぽつりと言うその台詞にツキトがぎょっとすると、ここで志井は初めて途惑ったように口元を歪めた。 「 別に悪気はなかった。けど多分、物騒な眼つきでもしてたんだと思う」 「 だ、誰が……」 「 だから俺が」 「 何で……」 「 ………」 ツキトのボー然とした問いに、しかし志井は答えなかった。 代わりに手にしていた傘をさっと頭の上から外すと、サアッと降り注ぐ雨の空を見上げてすっと目を細めた。 まるでカッとなった頭を冷やすかのような、それは少しだけ子どもっぽい仕草だった。 「 ………どうして」 志井に対してというよりも、この時は急に逃げ出してしまった友之に対して。 ツキトは思わずそんな言葉を漏らし、ハアと大きくため息を吐いた。 折角捕まえられたと思ったのにまた逃げられた。あの子はまたこのまま何処かへ行ってしまうのだろうかと、何ともなしに思った。 「 はあ…はあ…っ」 闇雲に走り出した友之は、そのまま人通りのある街の通りに戻りたくなくて、通りを曲がった後、すぐに公園の裏手へと続く小さな入口から暗い細道へと飛び込んだ。 自分でも何が起きてこんな風に逃げ出したのかイマイチよく分からない。 きっかけはツキトが「志井」と呼んだ男の顔を見たからだ。別段彼が自分に何かをしてくるとか、そんな風に思ったわけではない。そういう恐怖ではない。けれど彼の身体から発せられているような、どことなく殺気立ったオーラは直感的に怖いと思った。彼は自分と同じように何らかの危機を抱いて、だからこそあんな風に警戒の篭った表情を携えていたのだと思うのだけれど。 その「危機」がどんなものなのか分からないから、また厄介だ。 「 はっ…!」 「 ……っと」 その時、だった。 「 ……大丈夫か?」 「 !!」 ロクに前も見ずに歩いていたせいだ。 友之は公園内に飛び込んだ後、周囲を細い木々に囲まれている散歩道を走っていたのだが、そこを通り掛かっていた人間の身体に思い切り頭からぶつかってしまった。 「 ………っ」 「 前向いてたか?……気をつけないと」 驚きで声も出ない友之の小さな両肩をそっと支えるように掴み、その相手は静かな声で嗜めるようにそう言った。 「 ………」 そっと顔を上げる。 こちらを見下ろしている相手ともろに視線がかちあった。 「 傘、ないのか?」 「 ………」 訊かれてはたと気づく。ツキトが貸してくれた傘はいつの間にか何処かへ放ってしまったようだ。木々に覆われている公園内でとはいえ、シトシトと降りしきる雨が友之の頭を容赦なく濡らしていた。 「 ……あ」 けれどそれもほんの短い間だけだった。 さっと黒い影が覆い被さってくるのを感じたと同時、ふと見上げると頭上には大きな黒い傘。ぶつかってしまった相手が友之に自分の傘を掲げてくれたのだと分かった。 「 もう遅い。早く家に帰れよ」 相手は実に柔らかい口調でそう言った。相手が子どもだと思って努めて優しく接してくれているのだろう。友之はぼんやりとそう言ってくれた青年を見上げた。先刻ツキトの前に現れた男も背が高かったけれど、この青年も随分と長身だ。ただ整った精悍とした顔つきは、どことなく疲れているようにも見えた。そして何もかもに興味を抱いていないような、そんな無機的な目をしているように感じられた。 それこそ、先ほどイキイキと絵の話をしていたツキトの瞳とは対照的だ。 「 ……? どうした?」 あまりにも繁々と見つめられて途惑ったのだろう、その青年――光一郎は、友之の視線から逃れるように非難めいた口調を発した。他人の好奇の視線には慣れている。けれど、こういう子どもの純粋なそれにはあまり触れていたくないと思った。 「 さっさと帰れよ」 慌てて俯き自分から視線を逸らした友之に、光一郎は誤魔化すように再度そう言った。 「 ……もう遅いから」 けれど差してやった傘を引っ込めて自ら去る事は何故か出来なかった。 |
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