「ふんわりきらり」


第15話 



  専属運転手である藤堂が「何かあったんですか?」と至極もっともな質問をしてきた時も、光一郎はうまく答える事ができなかった。1人で大丈夫だと呑気に出掛けていったのは自分だ。にも関わらず、夕方過ぎに邸宅へ帰宅した時は身体を半分以上濡らしていたし、リフレッシュどころかどことなく疲れてしまっていたし、何より――。
  見知らぬ少年を連れて帰ってきていたから。
「 落ち着いたか?」
  使用人たちに一旦預け、風呂だの食事だのを取らせた後、光一郎は改めて自分の前にちょこんと座った少年に声を掛けた。少年―友之―は光一郎の問いに対し素直にこくんと頷いてから、現在の状況に自分こそが途惑っているという風な顔で不安そうな眼差しを向けた。
  そんな友之の視線に何となく耐えられず、光一郎は向けていた目を自分から先に逸らした。
「 ……友之君」
  けれど訊く事は訊かねばなるまい。
  雨降りの公園では詳しい事を訊けなかったから…否、突然の事にらしくもなく思考がついていかなかったから、何はなくともととにかく連れてきてしまった。だからこそ、今ここでハッキリさせなければ。
「 名前…公園ではそう名乗ったけど。上の姓は?」
「 ……北川」
「 ………」
  自分と同じ異国の名を口にした友之に光一郎の鼓動は早くなった。
  名前だけではない、見た目も「帰る家がない」というその状況もそのまま、自分が探していた義弟ではないか。確たる証拠はないし、こんな偶然があるのだろうかという気もする。
  けれど、ほぼ間違いない。



  早く家に帰れと言った時、友之は微かに頷いたけれど明らかにどこか困ったような顔をして俯いた。その瞬間、光一郎は自分がこの少年に対し酷く残酷な事を言ったのだろうと悟った。
「 帰りたくないのか?」
  だから思わずそう訊いたのだが、それに対し友之は初め何も答えなかった。身体こそ差し出された傘に入ったままの状態だったが、光一郎に対し怯えているのは明らかだったし、そもそも見知らぬ人間に自分の事情を話す義理はないだろう。だから友之のその態度については光一郎も特に何とも思いはしなかった。
  ただ。
「 親と喧嘩でもしたのか」
  そう訊いた時、相手の肩先がぴくりと揺れて、そのまま逃げるように自分の元から去ろうとした時には、もうその手首を捕まえていた。
「 ひっ……」
「 待て…。別に何もしないから」
  なだめる為にそう言ったが相手はそれにより余計頑なになったようで、首を竦めるとあくまで光一郎から視線を逸らして逃げようとした。そんな相手に焦れた想いがして、光一郎は多少語気を強めて再度訊いた。
「 帰りたくないのか」
「 ………」
  こくんと頷いた友之に光一郎は続けた。
「 親は?」
「 ……ない」
「 え?」
「 いない」
「 ………」
  思わず口を噤むと、友之は今度ははっきりとした口調で答えた。
「 この間母さんが死んで…。おばさんは、僕が嫌いだから」
  その瞬間だった。
「 ――……」
  光一郎は目の前にいる少年と自分が探していた人間との情報がぴたりと一致する事に気づいた。すると途端にどくんと心臓の鼓動が跳ね上がり、まさか、そんなはずはないと思いつつも、掴んだその手に余計力が入った。
「 いっ…」
「 あっ…。悪い」
  友之の苦しそうな顔に慌てて謝りその手を緩めものの、それでも離せなかった。離したが最後、あっという間に何処かへ消えてしまう気がして。
  それはとても惜しいような気がして。
「 お前……名前は?」
「 ………友之」
  光一郎は友之を自分の屋敷に連れて行く事に決めた。



「 父親の話…聞いた事あるか?」
「 ………」
  黙って首を横に振る友之を光一郎はじっと眺めやった。
  その1度も会った事のない義弟を見つけられたら、やるべき事は決まっていた。光一郎自身にとってはどうでも良い事ではあったが、仮にその義弟が一族のつまらない勢力争いに参入してくるとなれば後々複雑な事になるのは必至だ。まだ何もできない子どもだと聞かされていたからこそ、余計に他の人間に利用されないうちにこちらで先手を打ち、保護しておく必要があった。
  けれど見つけてそれなりの生活を保障してやったら、後はそれまで。
  母親を失った事に同情はするけれど、正直なところ身内としての情などまるでなかったし、そういう意味では我がままで奔放な妹の方が余程気がかりだった。探す気はないけれど、見知らぬ義弟と家出した妹どちらが大切かと訊かれれば、光一郎は妹の方が大切だと答えただろう。光一郎にとって大して好きでもない父親の愛人の子など、他人以上に厄介な存在でしかなかった。早めに片をつけて、面倒事は潰しておきたい。ただそれだけ思っていたのだ。
「 母親から何も聞かされていないのか。突然この街に連れて来られた理由とか」
  だから光一郎は最初友之にそう訊いた。今まで遠い土地で暮らしていたくせに今頃思い出したようにこちらの近くに越してきたのは、友之の母親が父の金でも当てにしてきたからではないのか……そう考えたからだ。
「 ………」
  けれど黙って首を横に振る友之の姿に、光一郎は一瞬吸い寄せられるようにして息を呑んだ。
  分からない。目の前にいる少年はあまりにも、あまりにも小さい。何も持ち得ない人間にしか見えないのに。
「 ……母さんの」
「 え?」
  突然声を発した友之に光一郎はハッとして我に返った。
  友之はそんな光一郎に再び驚いたようにびくりとしたものの、すぐにごくりと唾を飲み込んだ後言った。
「 母さんの、故郷だから」
「 ここが…?」
「 ………」
  黙って頷く友之を光一郎はまじまじと見やった。更に一歩近づき、相手が怯えるのも構わずその前髪に触れてみる。
  さらりとした漆黒の髪が指先に心地良い感触を残した。
「 本当に父親の事は何も聞いていないのか」
「 父さんは…いないって」
「 いないわけないだろ。お前の母親は聖母マリアか?」
「 ……欲しいと思ったこと…ない、です」
「 ………」
「 母さんがいたから」
「 今はいないだろ」
  酷い言い方だとは思ったけれど止められなかった。案の定友之は傷ついた目を見せたが、泣き出したりはしなかった。
  むしろ不意に強い口調になって言った。
「 あの…食事、ありがとうございます…。でも、もう帰っていいですか」
「 何……」
  あのみすぼらしい格好の友之は、帰る場所など冷たい親戚の所しかない。甥が消えてもその行方も捜さないような。
  ここでは温かい食事をやり、立派な服を着せてやり、身体も綺麗にしてやった。そんな居心地の良いここに何故縋ろうとしないのだろう。
「 帰る所…ないだろ」
  憮然としてそう発する光一郎に、けれど友之は首を横に振った。気づくとどことなく心配そうな瞳を燻らせてもいた。
「 あの…。一緒にいた人に、何も言わないで来てしまって…。僕…怖かったから」
「 怖い? 何が?」
「 よ、よく……」
  分からない、と小さな声で友之は言った。
  けれど今度こそ光一郎をしっかりと見上げると友之は言った。
「 それに…。友達も探していると思うから」
「 ………」
  光一郎はここで初めて友之が自分の所から一刻も早く去りたいと思っていたのだという事に気がついた。強引に連れて来られて抵抗できなかったのだろう。けれど心ではあそこではぐれた連れや、友人の事を心配していた。
  これの何処が行方知れずの孤児なんだ。自分がいなくても大丈夫ではないか。
「 ……今日はここにいろ」
  けれどその思いとは全く正反対の言葉を光一郎は吐いていた。
「 一緒にいたって人にはこちらから使いを出して心配ない事を知らせる。友達も…居場所を言えば知らせておく。心配する事はないから」
「 ………」
  顔全部で「どうして」と訊いている友之から、光一郎は今度は身体ごと背を向けてその視線から逃げた。
  俺だって知るか。
  そんな想いが苛立たしさと共に全身を支配していた。





  送ってもらって「ハイさようなら」ができるような性格でもなかったツキトは、雪也でさえあまりの汚さに招待できない自分の部屋に志井を入れて、1人でひたすらオタオタしていた。
「 すみません…。散らかってるんで適当に…」
  狭いキッチンでお湯を沸かしながらツキトはなるべく志井の方を見ないようにして言った。それでも背中はむず痒い。志井の事が気になって、けれど平静を装わなければと躍起になって、ツキトはここに来るまで何回か訊ねた事をもう一度改めて口にしてみた。
「 俺が誰に狙われてるって言うんですか」
  ちらと一瞬だけ背後を見やると、志井は未だ立ち尽くしたまま、物珍しそうにツキトの部屋を眺めていた。たった1部屋しかないツキトのその「城」は、食事も睡眠も、そして絵を描く事も全てその場所で行わなければならなかった。物自体は少ないものの、描きかけのスケッチや参考資料に使っている書物、絵の具などがそこかしこに転がっていて、ツキトは顔から火が出る想いだった。
「 俺にも分からない」
  そんなツキトの心意にはまるで構う風もなく、志井は視線を壁際のキャンパスにやりながら言った。
「 気づいたのはつい最近だ。3人組の怪しい男がお前の周辺をいつもウロウロと探っているような感じだったんで声を掛けたら、すぐに逃げて行った。明らかに向こうの筋の奴らだった」
「 ……俺は別に」
  特に気づかなかったと思いながら、ツキトはそもそも何故自分が狙われるのか、その理由が思い当たらないと思った。一瞬家族の誰かが自分を探して…と思わないでもなかったが、その可能性もすぐに消した。家ではいつでも厄介者だったのだ。家族が自分を探しているとは思えない。
「 俺なんか狙っても何も良い事ないですよ。お金だって持ってないし…。誰かに恨まれているとか…そういうのは、もしかしたらあるかもしれないけど…」
「 何言ってるんだ」
  それこそ有り得ないという風に志井はきっぱり言って、「たぶん、いや絶対」などといやに強い口調で先を続けた。
「 金目的でも怨恨でもないだろ。お前が変な連中につけ狙われている理由なんて1つしかない」
「 ……何ですか?」
  ヤカンに掛けていた火を止めて、ツキトはここでようやく完全に振り返って志井を見やった。自分自身にはまったく危機感というか、そんな風に誰かに見張られている自覚もないが、気にならないわけもない。
  黙って相手の言葉を待っていると、しかし最初にその話題を振った志井はなかなかその答えを言わず、代わりに傍にある絵を指し示して言った。
「 これ…完成したらどこかに売るのか」
「 え…? ああ、それは違います。人に贈るプレゼントで」
「 ……あの店の…修司って奴?」
「 え? 違います。花屋の……」
  それは街の中央広場を描いたもので、いつも世話になっている雪也へのクリスマスプレゼントだった。修司にも何かをとは思っていたが、まだ手はつけていない。年明けになってしまうかもしれないと思っていた。
「 修司さんにも描きたいけど、そんなにいっぺんに描けないから。その絵を贈ろうと思っている人は、俺の絵に一番理解を示してくれている人なんです。それで…」
「 ………」
「 ……? あの…」
  急に黙りこくって表情を消してしまった志井に、ツキトは不審に思って自分も口を閉ざした。
  気まずい。元々口数の少ない人だけれど、いつもはそんな沈黙も決して嫌ではなかった。むしろその静寂が心地良いと感じたくらいだ。
  けれど今のこの空気は……何だかひどく硬くて冷たいもののように思えた。
「 ……あの、お湯沸いたから。お茶淹れますね」
  その場を誤魔化すようにツキトは言った。志井が立ったままなのがひどく気になる。早く座って欲しかった。確かに散らかっていて足の踏み場もないような所だけれど。
「 ツキト」
  すると途惑いまくっているようなツキトにようやく志井が口を開いた。
「 俺と一緒にいること…。考えてくれないか」
「 え?」
  不意に言われた言葉にたちまちどきんとした。
  瞬時、嫌でも昨夜の事が思い返されて、ツキトはカッと顔を赤くした。
「 言っただろ…。冗談なんかじゃない」
  そんなツキトをじっと見つめながら志井は揺ぎ無い調子で続けた。
「 ましてや、お前が考えているように遊びや気紛れなんかでもない」
「 どうし―…」
「 お前の絵を一番好きだと思っているのだって、その俺の知らない奴なんかじゃない」
「 え……」
「 ずっと…。それを言いたかったのに言えなかった。ただバカみたいにお前がいるあの店に通っているだけで」
「 し、志井さん…」
  どんどんと早くなる心臓の鼓動が痛いくらいで、しきりに鳴り響くその音が煩くて、ツキトは自分が発したその声すらよく聞こえないような気がした。この人は自分に何を言っているのか、その事を確かめようと思うのに、それは何だかとても恐ろしい事のような、そんな不安な気持ちがザワザワと全身を駆け巡った。
  けれど。
「 ………」
  そっと窺い見るようにして、ツキトは自らも志井の視線を受け止めた。いつもクールな人なのに、何だか今は違う。困惑したようなこんな目を初めて見たと思う。
  今の自分と同じ目だと思った。
「 傍に…いてくれないか」
  消え入るようなその声を聞きながら、ツキトは言われた事を何度も何度も頭の中で反芻した。そのせいできちんとした返答をする事ができなかった。

  今日は良い日になるといいな。

  いつもそう呪文のように唱えていた。どこか自信なさ気に弱気に笑う事しかできない、力なく祈る事しかできない小さな自分を、こんな風にこの人が想ってくれるなど信じられない。夢なんじゃないか。そう思わずにはいられなかったから、信じるのは怖いから、だから昨夜の志井の求めにもツキトは応じる事ができなかったのだ。
  それなのに、どうしてこの人は。
「 ………俺」
  志井をまともに見る事ができず、ツキトはじわじわと痛み始めた胸をぎゅっと片手で抑えた。 




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