「ふんわりきらり」


第16話 



  元々ツキトが志井を気になり始めたのは、ただ単純に「かっこいいな」と思った第一印象がきっかけだった。ツキトは子どもの頃から自分の容姿や体格に密かなコンプレックスがあり、年の離れた優秀な兄や姉に対しても「何故自分だけがこうも駄目なのだろう」という劣等感を抱いていた。元来が素直な性格なので、その感情から他人を僻んだり恨んだりといった方向にまでは進まなかったが、人並に女の子との恋愛が楽しめず、自分にないものを持つ同性に恋心を持ってしまったのには、それなりの原因があったわけだ。修司には一言、「ミーハー」と一蹴され、それに反論もできなかったが、少なくともツキトの中で志井という男に惹かれる要因は十二分にあったと言える。
  整った綺麗な顔。すらりとした長身、それでいてがっしりとした肩幅。頭もよくてクールで、自分に自信のある大人の男。こんな恋愛、世間は可笑しいと嘲笑するだろうけれど、自分にとってはまっとうな恋情。
  けれど……と、それでもツキトは考え込む。
「 何で…?」
  目の前にいるその理想の人間を前に、ツキトは困惑を隠せなかった。
  自分がこの人に惹かれる理由はある。そしてそれをおかしなものだとは思わない。
  しかしこの人…志井は別だ。
「 からかってる…?」
「 何で」
  思わず口をついたツキトの台詞に志井が気分を害したような顔で眉をひそめた。
「 だ、だって…」
  途端ツキトはオロオロとして視線を彷徨わせたが、志井はこの場を誤魔化す気はないらしい。更に一歩ツキトに近寄り、半ば凄みのある雰囲気で再度迫った。
「 どうしてそんな事を言うんだ。お前。じゃあ昨日の事は何だったと思うんだ」
「 昨日の……」
  言われてぼっと顔に火がついた想いで、ツキトはますます追い詰められ何も言う事ができなくなった。
  昨夜の事は思い出すだに恥ずかしい。志井に良いようにキスさせ、痴態を晒し喘いでしまった。また、それでいてその先を志井には許さず、ただ子どものように泣いてしがみつくようにして眠ってしまって。
  志井はそれを何とも言わず、ツキトを責める事もせず、ただ優しく抱きしめてくれたけれど。
「 遊びや気紛れなら、お前がどうなろうが昨夜のうちに無理やりヤッて終わりだ」
「 なっ…」
  あまりの言いように絶句したが、志井は構わずに冷たい目を見せた。
「 ツキト」
「 う……」
  ドキリとした。
  普段から感情の見えない人。そこがカッコイイと想っていた部分でもあるのだが、こういう風に露骨に陰の面を見せられると怯んでしまう。
  けれど次の瞬間発せられた志井の声はツキトの耳に痛い程響いた。
「 ツキト。俺のものになれ」
「 …………」
「 いやか?」
  ストレートに問われて、何と傲慢な言い方だろうと半ば呆れつつもやはり見惚れてしまった。
「 でも、俺……」
  けれどツキトがそれでも拒絶の言葉を吐こうとした、その時だった。

  ガタン、と。

「 ……ちっ」
「 え…?」
  不意に玄関の方で大きな物音が聞こえた。普段この時間は大抵静かだからその音は酷く大きく聞こえ、ツキトの肩先をびくりと震わせた。また何故か志井も過敏にその音に反応を示し、小さく舌打ちするとくるりと踵を返してドアの方へと向かった。
「 志井さん…?」
「 そこにいろ」
  ぴしゃりと言って志井は外へ出て行った。どうしたのだろう、何故か不安な気持ちになり、ツキトはそこにいろと言われたにも関わらず扉の外へ消えた志井の後を追った。あの音は外の何かを倒したせいか、それとも他の……? たまに聞こえる音と言ったら隣人の夫婦喧嘩とか通りを行くパトカーのサイレンの音か。それも本当にたまに、だ。
「 志井さん…」
  だからツキトは余計に胸騒ぎがして、今や小走りになってドアの外へ半身を出した。
「 え……」
  しかしツキトが顔を出した時には、もう志井の姿は何処にも見当たらなかった。ただバタバタと激しい足音が聞こえ、複数による階段を下りていく音、怒号が微かに耳に入った。
「 何…?」
  どくどくと心臓が早鐘を打ち、何度言われてもつい頭の隅へ追いやってしまっていた志井の言葉が脳裏を過ぎった。
  お前は狙われていると。
「 まさか…」
  自分には全く身に覚えのない事だけれど、志井はそのツキトを狙っているという輩の存在に気づいていて、何やら神経過敏になっている様子だった。まさかとは思うがその連中が部屋のすぐ傍にまでいたのだろうか? そしてそれを志井は追って行った?
「 そんな…!」
  どんな連中なのかは知らないが、確か志井は「明らかにその筋の人間」などと言っていた。だとしたら危険過ぎる。ツキトはさっと青褪めるとその直後はもう志井の命令など忘れ、慌てて自分もそのまま下の通りへ出ようと駆け出した。寒さの厳しい深夜だ、上着も羽織らず外へ出た為、途端冷たい風がツキンと肌に突き刺さったが、今はそんな些細な事を気にしている場合ではなかった。
  志井は何も関係ないのに、危ない目になど遭わせられない。
「 はあ…っ」
  一気に階段を駆け下り、ツキトは止めていた息を吐き出した。そうして激しく肩を上下させながら、駅とは逆の方角を一旦見た後、迷った末大通りの方を行ってみようと体勢をくるりと逆にした。
「 うわっぷ!」
「 えっ!?」
  けれどその途端、ツキトはいつの間にか自分のすぐ傍に立っていた人間と思い切り正面からぶつかってしまった。相手もツキトが急に方向転換するとは思っていなかったのだろう、面食らった声と共に微かに足元をぐらつかせていた。
「 す、すみませ…」
「 い…いやいや…こっちこそ。大丈夫? 怪我とかしてない?」
「 いえ、全然…」
  相手のふくよかな腹に身体の一部が当たっただけだからか、ツキトには何の衝撃もなかった。慌てて見上げた先には、その大らかな体形そのままの、人の良い顔をした恰幅の良い男が苦笑いをして立っていた。
「 すみません…」
「 いやいや」
  ツキとが改めて頭を下げると男はすぐにかぶりを振り、何でもないという風に優しく笑った。
  それからすぐに目の前の建物を見上げ、次に手の中のメモへと視線を落とした。
「 えーとね。すみませんが、ここに駅前カフェでバイトをしている絵描き少年の…ツキトさんていますよね?」
「 え?」
「 探しているんですが、知っていますか」
「 …あの…それは俺ですけど…」
「 えっ、本当!」
  男は警戒するツキトの表情にはまるで気づいていないのか、途端ぱっと明るい顔を見せると「良かった」と天を仰いだ。
「 ああ、良かった、ご本人さんでしたか! こんな時間に失礼します。私もいきなり変な事頼まれて、ちゃんと見つかるかなあと心配だったんですよ。でも案外すぐだった。ほっとした」
「 あの…」
「 ああ、失礼。私、北川邸で専属ドライバーをしております、藤堂と言います」
「 ……藤堂さん?」
  にこにことしている藤堂に自然肩の力を抜いたツキトは、その後彼からの伝言にただ「ええ…?」と驚き、その場で棒立ちになってしまった。

  あの友之がこの街一番の大金持ちの屋敷にいるということ。またそこの当主が当分友之を預かるので、彼を探しているだろう友人が訪ねてきたらそう言付けておいて欲しいと言うこと。

「 友之君…何で…?」
  あんな別れ方をしたので気にはなっていたが、一体彼に何があったのだろうか。
「 私にも詳しい事は分からないのですがね。社長のお話では、どうやら彼はおかしなストーカー紛いの男共につけ狙われているらしいし。元々社長とは縁のある子だとかで、お屋敷で一時的に保護するとか何とか…」
「 ス、ストーカー?」
「 可愛い顔した子でしたからねえ」
  まるで危機感のない能天気な口調と表情にツキトの緊張も大分和らぐ。ストーカーうんぬんの話はよく分からないが、この藤堂という人は悪い人間ではなさそうだ。街一番のお金持ちが友之に悪い事をしようもないだろうし、とりあえずは安心かなと思う。
  けれどそこまで考えて安心した直後、ツキトはハッと先刻までの出来事を思い出して慌てたように顔をあげた。
「 そうだ、志井さん…っ!」
「 え?」
「 あ、あの! あの、志井さ…若い男の人、貴方が来た方とかにいなかったですか…!? 背の高い人で…!」
「 え……? いやあ、こんな時間ですしね。誰かとすれ違ったら分かると思いますが、こちらの通りには私しか歩いていなかったと思いますよ」
「 ならこっちか…!」
  ツキトは藤堂の言葉に当初無意識のうちに避けようとしていた通りを見やって息を呑んだ。途惑いはあったが志井を置いて自分だけが部屋に篭っている事などできない。ツキトは藤堂に礼を言い、そのまま暗い裏通りに向かう道へと駆け出した。
「 えっ!? ちょっ…ツキトさん? どうしたんですか、こんな時間に…!!」
  藤堂が背後から焦ったように呼び止める声が耳に入ったが、悪いと思いつつ振り返りもしなかった。瞬間、更に冷たい風が切るような鋭さで頬をさっと撫でていったが、ツキトは構わずまた息を止め、全速力で走り出した。





  それとほぼ時を同じくして、雪也の店にも招かれざる者の来訪があった。
  ただ、こちらは正体のよく知れた、雪也にとってはどうしたって離れる事のできない相手であったのだが。
「 か……」
「 久しぶりね、雪也」
  ガンガンと店の引き戸が壊れてしまうのではないかという程の力で叩いていたその相手は、慌てて戸を開いた雪也に実に冷めた目を向けた。
「 おお寒い。やっぱりこっちの寒さは格別だわね。アンタもこんな所でシケた店やっていないで、アタシと一緒に南で商売でもすればいい」
「 何…言ってるんだよ…」
「 どうでもいいけど、さっさと入れて」
  半ばボー然と店の前に立ち尽くす雪也を押し退けるようにして、その人物は偉そうな足取りで店内に入り込み、肩に掛けていただけの毛皮のコートを床にバサリと取り落とした。そうして当然のようにそれを拾う雪也に今度は嘲笑した目を向け、フンと鼻を鳴らす。
「 まあ、最近は上得意もついて店の利益も上々みたいだけどね。相変わらず、よくおモテになって羨ましいわ」
「 母さん、やめてくれよ」
  ふざけたような物言いに雪也が堪らずそう言った。
「 何よ」
  するとその相手……雪也のたった1人の身内である母の美奈子は、みるみる不機嫌な顔になると細くつり上がった眉をより一層上げてみせた。
「 アタシは本当の事を言っただけでしょ。アンタは男をくわえ込むのが本当にうまい。でも誰でも彼でもお構いなしだから、それがいけない」
「 何を……」
「 だから」
  懐から長い筒の煙管を取り出した美奈子は暗い店内でも実によく映える赤い唇をにいっとあげ、不敵に笑った。
「 だからアタシは苦労する。可愛い息子の為にアタシが良いのを見繕ってあげなくちゃならないからね。邪魔な輩は排除して」




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