「ふんわりきらり」


第19話 



  雪也は生まれた時から母の美奈子と2人暮らしだった。
  父親の記憶はない。母は平然として「処女妊娠だった」と言うが、普段の派手な男遍歴からして、それはあまりに笑えない冗談だった。
「 アンタ邪魔。ちょっとどっかへ行っててよ」
  それが母の口癖であり、その度幼い頃の雪也は見知らぬ男とベッドを共にする彼女から背を向け、何時間でも外を歩き回らなければならなかった。
  学校だけは何とか出してもらったが、食事やその他の生活費に関しては本当に適当。母は「表」では外国雑貨を扱う店を切り盛りしていて、それの実入りが良い時は気紛れにぽんと札束を置いていったりもしてくれたが、反対に恋人と喧嘩した、「裏」の稼業でトラブルがあったとなれば状況は一変。いつでもそれのとばっちりを食うのは息子である雪也だった。
「 アタシがこんな人生送るハメになったのは雪也、全部アンタのせいよ」
  酒を飲むと性質が悪くなる母は息子を射殺さんばかりの眼をしてその台詞を繰り返した。
「 大体アンタ。またアタシの新しい恋人に色目使ったでしょ。ここに来る男たちはみんなそうよ、アンタに会うとすぐアタシより同じ男のアンタの方がよくなっちゃうんだから」
「 母さん…」
「 ねえ? 一体どういう技使ってるの? どういう事なの? 1人くらいにはホントにヤらせちゃったりしてるわけ?」
  酷い言葉などたくさん投げ掛けられた。その度たくさん傷ついた。
  けれど他に頼れる身内もなく、曲りなりにも今まで育ててくれたたった一人の肉親と思えば、雪也も母を完全に見限る事は出来なかった。
  だから、その気持ちを押してまで「もう離れて暮らさなければ」とこの街に単身出て来たのは、雪也にもそれなりに思うところがあったわけなのだが。
「 母さんはどうして…」
  昔から早く自立しろ、さっさといなくなれと言っていたのは母の方だというのに、どうして今こんな風に目の前にいるのだろう。
  しかも、聞き捨てならない先の台詞。
  あの、ほんのつい先日まで店を覗きに来てくれたあの少年。昔の自分のようで気になって仕方がなかったあの小さい子を、事もあろうにこの母は「裏」稼業の人間を使って攫わせたとのたまったのだ。
  しかもそれが「雪也の為」とは一体どうした事だろう。
「 母さん…あの子を何処へやったの…」
「 アタシは知らないわよ。だから言ったでしょ、あいつらと連絡取れないんだって」
「 母さんが命令したんだろ!」
「 だから、煩い。大声を出しなさんな」
  煙管からふうと白い煙を吐き出して、母の美奈子は忌々しそうに眉をひそめた。それから傍にあった長方形の花瓶をいきなり乱暴に足蹴りして倒した。幸いその中に花は差していなかったけれど。
「 今すぐその人たちに連絡してよ…。それに…本当に、何なんだよ…。どうして…ツ、ツキトや、創にまで何かしたの…?」
  口に出しながら身震いがした。この人が想像を絶する非常識な相手だとは重々承知しているが、だからと言ってやはり容易には信じられない。
「 いきなり現れて…母さんは、一体何がしたいんだよ…」
「 ……酷い言いようねえ」
「 母さん!」
「 あいつらは邪魔でしょ」
「 な……」
  絶句する雪也に母は変わらず平然としている。太い足をぐいと組んで、彼女は偉そうに言い放った。
「 害虫よ害虫。アンタもこんな店やってるんだから分かるでしょ。綺麗な花にたかってくる悪い虫は、その花を育ててやってる人間がちゃんと駆除してやんなきゃ。そしてその花にふさわしい場所に移してやらないとねえ」
「 ……?」
「 アンタ、この街に根付き過ぎよ。いい加減帰ってきなさいって言ってんの」
「 え…?」
  母の言っている事の意味が分からず、雪也は眉をひそめた。
  そんな息子に美奈子の方はむうっとしたように厚い唇を曲げ、指に鋏んでいた煙管から無造作に溜まっていた灰を落とした。
「 店やりたいなら、アタシがあっちで出資してあげてもいいわ。くだらない…。こんな汚らしい街で気持ち悪いお友達ごっこなんか続けて、母親であるアタシの事も忘れて。アンタにはアタシしかいない、そうでしょう?」
「 か…母さん…」
  ボー然として呼ぶ雪也に、ここで初めて母の美奈子は決まり悪そうな顔で視線を逸らした。神経質そうに組んだ足をぶらぶらと揺らし、ちらりと雪也の様子を窺う。
「 ………」
  ああ、この人のこういうところ、昔にも見た事がある。
  雪也はそんな場合ではない事が分かっているのに、酷く冷静な気持ちになり、目の前の随分と年を取ったような母親の顔をじっと眺めやった。恋人とうまくいかない、商売で下手をした、酒を止めようと思ったけれど止められなかった…。
  そんな時、彼女は今までの自分全てを棚に上げて息子である雪也に異常なまでの依存心を見せたのだ。それこそ、雪也の周りにいる人間全てを排除して。
  だから雪也はまともな友達などこの街に来るまで1人も持つ事ができなかった。
  だから雪也は決心したのだ。母から離れ、自分独りで生きていこうと。
  自分を変えようと。
「 ねえ…。帰ろうよ、雪也」
  しかしそんな雪也の決意など毛程も気にせず、相手は途端猫撫で声だ。雪也は彼女のその豹変ぶりに嘆息し、頭を抱えた。
「 母さん…」
「 やっぱり息子が1番よ。アタシには雪也、貴方がいないと駄目なの」
「 だからって母さん…。ツキトや、何の関係もないあの子まで…」
「 何よう、別にアタシはね、雪也には近づくなってちょこっと脅しかけろと言っただけよ。それにあのトモユキって子なんて、身寄りもないみたいだったから、言ったでしょ、アタシが拾ってあげようかと思ったくらいなんだから。……まあ? あのバカトリオが何の連絡もして来ないのが何か引っかかるんだけど」
「 そ! そうだ、だからその人たちに連絡…っ」
「 だから。連絡が取れないってのよ。大方何かミスしてアタシにどう申し開きしようか考えてんじゃないの?」
「 一応電話してみてよ! お、俺はこれからツキトの家に行ってくるから! そうだ創にも謝らなくちゃ…!」
「 今から? 明日にすれば?」
「 何呑気な事言ってるんだよ! あ、あと誰かを脅すよう命令してない!? あ、荒城さんとかは…!」
「 ああ、あのイイ男ねー。あれも候補だったと思うけど。全然普通に店やってたわよね。ったく、あいつら何やってんだか」
「 あとはいない!?」
「 いないわよ。あんたと近しくてあんたが眼中あるのってそれで全員じゃないの? で、そん中で誰が本命だったの? やっぱりあの古本屋?」
「 もう、母さん!」
  しかし雪也がまるで罪悪感のない美奈子を怒鳴り散らした時、だった。


「 ちょっと待て!!!!!」


  その声は突然嵐のようにやってきた。
  ガッシャーンという大きな音が店中に響き渡り―それは開きかけていたシャッターが全開に押し上げられたからだが―突然の事に驚く雪也たちの前には、激しい怒りのオーラを纏った人物がバンと姿を現した。
「 あ……涼……」
「 ……何コイツ?」
「 おいっ! そこのババア!!」
「 何ですってえ…?」
「 涼一さん…」
  雪也がその突然現れた人物―剣涼一の名前を呼ぶと、当の涼一は顔を真っ赤にさせて先ほどよりも大きな怒鳴り声をあげた。
「 おい、ババア! 何でお前、俺をその《狙うリスト》に入れてないんだよ!?」
「 は?」
「 涼一さん?」
  ぽかんとする2人に涼一の方はとにかく怒り心頭だ。
  心底腹立たしいという風な顔をして美奈子を見つめ、それから自分の目の前にまで来た雪也を指差す。
「 コイツの本命は! 俺だろうがよ! 何で雪の眼中ある人間がさっきの奴らで全部なんだ!? 本当にちゃんと調べさせたのかよ、何か勘違いしてんじゃねえのか!?」
「 あ、あの…」
「 雪っ。お前も何黙ってんだよ! 俺がこのババアの《狙うリスト》…お前をモノにしようとしている候補者になってないってのは、絶対に変だろうが!!」
「 は、はあ…」
「 …ちょっと雪也。一体何なの、誰なのよコイツ…」
「 コイツじゃねえっ。俺は剣涼一だっ。俺はこ…これから…これから、雪の恋人になる男だーっ!!!」
  めいっぱい叫んだ涼一の声は、果たして店内だけでなく、隣の創の家、はては通り2つ向こうくらいの建物にまで響いたのではないかと思う程の声量だった。
  ビリリとしたその声が夜の闇を駆け抜けて、しんとした静寂を一時騒然とさせた事を当の涼一は知らない。 





「 うわっちぃ、バリバリきたあ…!」
  ちょうどその頃、友之から離れて独り夜の通りを歩いていた数馬は、突然自分の全身に走った電流のような衝撃にぶるりと身体を震わせた。
「 おお…けど、これだよこれ! このオーラだよ、ボクが探してる種類のモノは! 一体何? 何かボクが思ってた方向とは逆だなあ。読み違いかな?」
「 いや、そんな事もないだろう」
「 ………」
「 こっちはこっちで、当たってると思うぞ」
「 ………ちょっと」
  背後から突然掛けられた声に数馬はぴたりと動きを止めた。
  そうしてややあってから、数馬は「はあぁ」とあからさまなため息をついた。振り返るのも嫌で、そのまま自分の背後でにこにこしているだろう相手へ言葉を出す。
「 うまく撒いたと思ったのはボクの勘違い?」
「 いや、そんな事ないよ。父さんと2人で追い込みかけたからね。目立たない俺の方にまで気を配るのは如何なお前でも難しかったんだろう」
「 厭味だなあ、和樹兄さんは」
「 何が」
「 目立たないってところ」
「 真実だろ。才能溢れる父さんやお前と違って、俺は普通の人間だからな」
「 そういうのが厭味だって言うの!」
  ようやくくるりと振り返り、数馬は実に嫌そうな顔をして血の繋がった兄―和樹の事を見やった。
「 どうして放っておいてくれないわけ?」
「 可愛い弟が長い事家出なんかしていたら心配するに決まってるだろ」
「 ………」
「 というのは、俺は嘘だけど」
「 いや、そんなの分かってるし」
  大袈裟にかぶりを振る数馬に和樹は可笑しそうに目を細めた。差していた傘を閉じ、確かめるように手のひらを掲げて空を見上げる。
  雨はまだ止んではいない。
「 父さんも母さんもさ。お前がいないと張り合いがないんだ。いい加減帰ってやれ。大体お前、ここで何の遊びをしてる?」
「 そんなの分かるでしょ。この街、ちょっとフツーと違うもん」
「 ……まあな」
「 ボクはここで香坂家の忌々しい魔法使いの血を全部なくしてやるつもりなんだよね。ここのオーラと対決して、全部使いきってやるつもりなの」
「 ………へえ?」
「 何、その間は」
  数馬は和樹のさっと消えた表情にくいと口元を歪め、小さく笑った。
  この街へ来て、友之とあのカフェで休憩しようとした時、不意に迫ってきた同じ香坂の血…この兄と父の気配を感じて、数馬は実に面倒な事になったと思った。だから不本意ながらも友之を置いて一旦は逃げ出したわけなのだが。
  改めて対面して「やっぱり」と思う。この兄にも、もっと厄介な父とも、自分はあまり深く係わり合いになりたくはない。
「 お前の力な…」
  そんな事をふと考えていた数馬に和樹が言った。
「 うちの家族の誰よりもその力が強いのはな。お前の《そういう性格》のせいなんだと思うよ」
「 何?」
「 お前のさ、その誰にも執着しないドライなところが」
「 んん?」
「 他人の心を読む術に余計長けてしまう理由」
「 ……分からないね」
「 この街の不穏なオーラってやつに惹かれる理由も、そのせいだ」
「 分からないって言ってるでしょ」
「 ………」
「 何で黙るの」
  和樹は数馬の問いには答えず、やがて「そういえば」と思い出すような顔で再度先刻見上げた空へと視線をやった。不思議な事に未だ止んでいないはずの雨も、和樹と数馬の上にだけは降り落ちてきていない。
「 今日ここへ来てからあるカフェへ行ったんだけど、可愛い男の子たちがいたな。それでつい昂馬さんが開発した新薬置いてきちゃったんだけど」
「 え?」
「 あれ、誰の前で試すだろうな」
「 ……やめてよもう」
  数馬がウンザリしたような顔をするのにも構わず、和樹はくすりと笑った。それからふっと視線を数馬の背後に逸らし、「来た」と小さく呟いた。
  それで数馬もつられるようにして振り返った。
「 は……っ」
  見るとそこには、暗闇から浮かび上がるようにして現れた、ひどく鬼気迫った男が1人。走ってきたのだろうか、荒く息を継ぎながら怪訝な顔で数馬たちを見据えている。
「 お前が感じたオーラの1人、じゃないか」
「 ……そうみたい…だけど」
  ちょっと違うような。
「 ………」
  品定めするような顔をする数馬に、相手の男も厳しい眼をして睨み据えてきた。黙っていれば結構イイ男の部類に入るだろうに、その誰彼構わず敵に回しそうな殺気はどうだろうと半ば呆れる。
  こういう時、相手が何を考えているのかを読むのは便利だ。ズルイかなともちらりと思うけれど。
「 ……ツキトをネラッテルヤツ…探してる?」
「 なっ…」
  数馬の答えに相手の男…志井は途端驚いた顔をして絶句した。
  そして再度、みるみる強い殺気を放ち出した。
「 お前ら…あいつらの事を知ってるのか」
「 ………」
  志井の低い声に数馬はとりあえずは無視を決め込んだ。
  やはりこのオーラかもしれない、自分が探していたものは。
  そう思いつつ、どこか釈然としない想いも抱いていた。




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