「ふんわりきらり」
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第20話 光一郎は普段より感情の起伏が少なく平然として事を行う様子から、周囲からは「冷静沈着、どんな苦境にも動揺しない人間」として常に尊敬されていた。その為、仕事上では彼に群がる者は後を断たなかったし、自らの地位境遇に関係なく光一郎を振り向かせたいと考える女性も多かったのだが、逆に「対等」と呼べる人間は皆無に等しかった。 皆、どこか一歩退いた位置から光一郎を眺めている。 羨望や憧れは時に好意と同じ感情として括られがちだが、実際は違う。光一郎は自分が孤独だと自覚していたし、それを寂しいとは思わなかったが幸福だとも思っていなかった。 ただ、どこかで諦めていた。どうせ人生こんなものだろうと。 「 ………」 だからかもしれない。 「 おい」 無理やり自室に連れ込んだこの少年が未だしつこく窓の外へ視線をやり続けているのが気に入らない。もう寝ろと強引に自分のベッドへ押し込んだけれど、彼はひょっこりと布団から首を出して、ひたすらじっと冴えた目をテラスのある窓の方へと向けているのだ。 少し離れた椅子からそれを観察していた光一郎は、いざ強く接すれば口もきけず怯えるだけになるだろうこの少年が、何故こうも強い光を発していられるのかと不思議で仕方なかった。 「 何回も言わせるな。今何時だと思ってるんだ」 「 ………」 「 今夜はもう寝ろ。お前の友達だってそうしている」 「 ……してない」 「 なっ…」 ぼそりと呟いた友之に光一郎は思わず絶句した。 こいつはどうしても外に出たいらしい。 「 ……っ」 その考えは光一郎の胸をちりちりと燃やした。一体今夜何度経験したのか分からない、それは未知なる感情だった。 友之は一応布団の中にはいる。いるのだが、それも光一郎が隙さえ見せればいつでも飛び起き、そのまま出て行ってしまいそうな雰囲気である。雨は小降りだ。もしかするともう殆ど降っていないかもしれない。思った以上には気温も低くはないし、普段から夜歩きが慣れている者にとってはこの条件は決して最悪なものではないだろう。 けれど駄目だと光一郎は思う。 夜ももう大分更けてきているし、大体友之は未成年だ。そんな子どもが外へ行きたいと言ったからといって、大人である自分が「はいそうですか」と放るわけにはいかない。 ( ……いや、違う) しかしそんな至極もっともな考えも、光一郎はすぐに己の新たな想いによって掻き消してしまった。 ただ行かせたくないだけだ。 俺が。 ( どうして……) その時、不意に光一郎は足を組んで座っていた場所から真正面―小奇麗なテーブルの上にちょこんと乗っている瓶の存在に気がついた。 「 あれは……」 それは日中、突然来訪してきた香坂の社長が置いて行ったビタミン剤だった。香坂社長は魔法のクスリだなどと「とてつもなく」怪しげな言い方をしていたが、光一郎はそれを勝手にビタミン剤だと判断していた。そうして、はてあんな所に置いただろうかと手を伸ばしかけたところで、その手は突然外からもたらされた声によって止められた。 「 社長」 トントンと控え目に扉をノックする音が聞こえ、光一郎が素早く反応するとそれは遠慮がちな感じがらもすぐに開かれた。 「 夜分に申し訳ありません」 「 藤堂か」 光一郎はすっと立ち上がり、ベッドの上でいつの間にかこちらを凝視していた友之をちらと見やった。あまりこの子どもに気取られたくないと藤堂を目だけで扉の外へ押しやると、光一郎は後ろ手にそのドアをバタンと閉めた。 「 悪かったな、こんな時間に使いなんか出して」 「 いえ、それは全く構わないのですが…」 傘を持っていったはずの藤堂は広い肩幅を相当濡らしており、おまけに髪の毛もボサボサに乱れていた。走って帰ってきたのだろうかと光一郎が訝っていると、藤堂はどことなく困ったように眉尻を下げた。 「 まずはご報告をと思って戻ってきてしまったんですが、何だか嫌な予感がするんです。またすぐに戻らないと…」 「 戻る? 何処へ」 「 あのツキトって子の所です。急に焦ったように走って行ったかと思ったら突然消えてしまって…」 「 消えた?」 藤堂の話がよく分からず光一郎も眉をひそめると、すぐ背後のドアがどんと揺れたような気がした。まずいな友之が聞いているのかと光一郎が止めようと思った時には、しかし藤堂はもう先を続けていた。 「 私が彼のアパートへ行った時、偶然彼も外に出て来てたんですよ。何だか慌てた様子で…誰かを探しているようでした。まあ私は社長のお言付け…友之さんをお預かりしているので心配ご無用ってお話をしただけで、実際彼もその事には安堵している様子だったのですが。それが…急に走って行ってしまって…。あんな暗い道を…」 「 どっちへ行ったんだ。そこまでは確認したのか」 「 はい。あ、あの森林公園の通りの方です…。あそこは夜は真っ暗だし、いや、夜なんだから真っ暗で当たり前ですが、とにかく物騒だしで…」 「 藤堂」 「 は? ああ、とにかく私はもう一度彼を探しに行きますんで。やっぱり心配だ、あんな子が…」 「 藤堂!」 けれど光一郎が再度声を荒げた時にはもう遅かった。 ドン、と。 あの大人しい風貌からは驚く他ないような激しい音が光一郎の背中に痛い程響いた。友之が力任せに殴ったらしいその扉は本来頑丈で、ちょっとやそっとではびくともしないもののはずだ。 それでもそれは光一郎の胸の方にまでしっかりと響いた。 そしてそれは2度、3度と、何度も何度も叩かれた。 「 ……ああ分かった分かった、開ける」 すっかり降参して、光一郎は後ろ手に抑えていたドアを放し、言った通りその扉を開いた。 「 僕も…っ」 中から現れたパジャマ姿の友之は、目の前に立ちはだかる光一郎をぱっと見上げると開口一番彼なりの大声で叫んだ。 「 僕も行く…っ。一緒に…!」 「 え? え、いや友之さん…? 友之さんは、い…いいですよ。私が行って見てきますので…」 「 行く!」 藤堂のぎょっとしたような様子には構う風もなく、友之は尚も光一郎を見つめて言った。そうして殆どその勢いに任せてだろう、光一郎の上着の裾をぎゅっと強く引っ張ると、お願いというように唇を真一文字に引き結んだ。 「 唇が切れる」 それをやめさせようとして光一郎は友之のその唇に一瞬触れたが、すぐに思い直すと傍の藤堂に目を向けた。 「 車、出してくれ。公園へ行こう」 「 え…社長も…?」 藤堂の驚いたような言に光一郎は憮然としながらも頷いた。 「 びりびりくるんだ、こいつが喋ると。仕方ないだろう」 こんな感覚は初めてだった。もう逆らえない。 「 着替えて来い」 光一郎は急くような友之の頭をぐいと自分の懐に引っ張って抱き寄せた後、一言そう言った。 「 相当強いよ、この人」 数馬の背後で和樹がどことなく楽しそうにそう囁いた。 「 ……あのね」 数馬はまるで焚きつけるような言い方、表情をする兄に思い切り呆れたような顔をして振り返った。 「 和樹兄さんこそボクに何をさせたいのさ。ボクは別にこの人と喧嘩しようなんて……」 「 でもこの人から出ているオーラはお前が気にしているものの一つだよ。言っただろ」 「 分かってるけど!」 「 だったら」 このまま行かせてもいいのかとやはり暗にけしかける和樹に、こいつは本当はどうしようもない性悪なんじゃないだろうかと数馬は我が兄ながら返す言葉もなかった。 「 ……悪いが」 しかしそんな兄弟の確執というかじゃれあいというかは、この目の前の志井にとっては当然ながらどうでもいい事この上なかった。あからさまに不快な空気を発しまくり、志井は辺りを警戒しながら低い声で言った。 「 俺もお前のようなガキと殴り合いなんざする気はない…。だが、どういう事か説明しろ。ツキトを狙っている奴らの事を知っているのか。見たところ…」 「 そうだよ。見たところ、ボクみたいな善良な学生はあんなヤクザものとは無関係。ボクは悪者じゃあない。分かってるじゃない」 「 ………」 志井は無表情のまま何も返さなかったが、数馬の言動には明らかに動揺しているようだった。それはそうだろう、自分がまだ言葉にしていない想いをさらさらと向こうが勝手に喋るのだ。薄気味悪いし、本来なら疑って警戒して然るべき相手である。 「 お兄さん、ツキトって人と知り合いなの」 「 そうだ」 数馬の問いに志井は簡潔に答えた。あまり長居はしたくないのだろう。情報だけ得て去りたいというところか。 「 ………」 けれどそんな志井の身体からも、数馬は絶えず先ほどの「びりびりくる何か」を感じ続けていた。この街に入った時から感じる酷く鬱陶しくて重くて「痛いような感じがする」もの。その正体は自分が有している能力を持ってしても実態が分からなくて、気持ちが悪くて仕方がなかった。 大抵の人間は、こうして自分が心を読んでしまえば恐れ慄いて逃げ惑ってそれで終わり。 むかむかする胸のつかえも「とりあえず」は下りてしまうはずなのに。 「 おい」 「 どうした数馬?」 黙り込む数馬に志井と和樹が不審がって声をあげた。それを邪魔だと数馬は思ったが、こんなのは自分らしくないとすぐに気持ちを改めた。 「 何でもないですよ。ボクはツキトって人の事はよく知りません。だけど、この公園でその人を誘拐しようとしてた3人組なら見ました」 「 いつ?」 「 昼間」 「 昼間……」 それではもう関係ないという風に志井はふいと視線を逸らした。やはり辺りに意識を配っている。心を読まずとも分かる、あの悪者共は懲りずにまたこの辺りをうろついていて、それをこの男は捕らえようと追ってきたのだろう。 「ツキト」に害なす奴は許さないとばかりに。 「 ……お兄さんとそのツキト君ってどういう関係?」 数馬が何気なく訊くと志井はちらと視線を戻してきた。特に何も言わなかったが。 ただこれにはずっと黙っていた和樹が笑った。 「 お前、無粋な事訊くなよ」 「 何で」 「 分かるだろう」 「 何が」 「 何がじゃない」 お前嘘だろうという風に和樹は珍しいものでも見るような目をしたが、数馬はそんな兄にむっとしながら子どものように口を尖らせた。…実際数馬は友之と同じ「子ども」なのだが。 「 頭では分かるけどね。このお兄さんみたいに妙なドス黒いオーラ出されると、分かってたものも分からなくなるんだよ。……ヒトを好きになるって事がさ」 数馬のその言葉に志井は再度嫌なものでも見るような目を向けたが、ここでもやはり特には何も言わなかった。 |
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