「ふんわりきらり」
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第21話 とにかく気持ちが悪い。 向こうはこちらが望むような情報は何も持っていなかったわけだし、このまま無視して通り過ぎてしまっても良かった。けれど志井は頭ではそう思いつつも、どうしてもこの目の前にいる「数馬」とやらいう少年、その背後に控える青年―和樹というらしい―を追い抜いて先へ行く事ができなかった。 まるで見えない壁に行く手を阻まれているようだ。 「 一体何なんだ…」 不機嫌を露に押し殺したような声を漏らした志井に、けれど目の前にいる数馬は「何なんだはこっちだよ」と言わんばかりの態度で迷惑そうな視線を寄越してきた。もっとも向こうも何やら言いたげな目を向けてくるだけで何故かそれ以上動いてこようとしない。 相対する「敵」はこの者たちではないはずなのに、妙な対峙姿勢が暫く続く。 ( ツキト……) 逸る気持ちを抱きながら志井はアパートに置いてきてしまった少年の困ったような顔を思い出していた。 志井がツキトを気にするようになったきっかけは、駅前通りにある小さな花屋で見た絵葉書がはじめだった。その日は育児出産で休職していた同僚の女性が復帰してくるという事で、志井は祝いの花を求めて宛てもなく花屋を探し歩いていた。別段その女性と親しかったわけではないし、そもそも志井に特別親しい人間などいない。さして大きくもないIT関連企業のシステム開発部でもっぱらコンピュータが相手の仕事。普段より他人と口をきく機会も少なかったし、元々が無口で人の好き嫌いも激しい。だからそんな性格の志井が誰かの為に花を買い求めるなど、それは本当に珍しい事だった。…今となっては志井自身すら、何故その女性にそんな事をしようとしていたのか、その理由を覚えてはいないのだが。 けれどそのきっかけが何だったにせよ、ともかくも志井は見てしまったのだ。ツキトの絵を。 「 これは…?」 適当に花束を作ってくれと言って幾枚かの紙幣を渡し、志井は何気なく店の奥に飾られているその絵にふと目を留めた。その店員は実に手際よく自らチョイスした花をラッピングしていたが、志井の興味がツキトの絵へいったと知ると顔をあげてひどく嬉しそうな笑みを浮かべた。 「 それ、将来絶対一流の画家になる子が描いた絵です」 「 将来? …じゃあ今は無名か」 「 勿体ないですよね」 志井の厭味が通じないのか、花屋の店員である青年はそう言って再び控え目な笑顔を見せた。 「 ………ふぅん」 わざとつまらなそうにそんな反応を返したものの、志井はしかし自分でも不思議なほどそれらの絵から目が離せなくなっていた。モチーフは至って普通、花屋で飾って貰っているだけあって、全ての題材は「花」…これのみ。勿論その種類は豊富だったが、それでもとりたてて目立つ色彩が施されているわけでも、突飛な手法がとられているわけでもない。 それでも酷く気になった。 ただその時はもうそれだけで、暫くすると志井はその店に行った事も丁寧に応対してくれた店員の顔も全部忘れたし、ツキトの絵も「気にはなった」けれど、敢えていちいち思い出したりまた見に行こうなどとは考えなかった。むしろその記憶を早々に捨て去って普段の日常へ戻ろうとした。自分という人間が花の絵などに気を取られたという事実を、志井は無意識のうちになかった事にしたかったのかもしれない。 ただツキトと初めて会った時には、その時の衝撃がすぐに蘇った。 「 あれは……」 仕事の合間に出来た休み時間を使い、その時志井は珍しく外で煙草を吸おうと近くの公園にまで足を運んでいた。昼時という事もあって割と多くの人間が寛いでいたから来る場所を間違えたかと舌打ちしたのだが、踵を返そうとしたまさにその時、近くのベンチで花を描いているツキトのことを見つけたのだ。 「 ………」 気になって仕方がなかった。だからそのまま立ち去る事はできなかった。 相手に気取られないようさり気なく後ろからその様子を眺めると、ツキトは片手でスケッチブックを支えながら実に嬉々とした顔で軽快に鉛筆を走らせていた。目の前にあるのはただの秋桜で、志井にしてみれば面白くも何ともない代物だ。 大体、その鉛筆じゃ……。 「 ……?」 けれど黒色で描かれているはずのその秋桜が、その時の志井の目には――。 「 あ! やっばい、次のバイト!」 「 ……っ?」 しかし志井がおかしいと思い、もう一度目を凝らそうとしたその時、目の前のツキトが突然叫んで立ち上がった。そんな相手の動きに志井はらしくもなく動揺し、思わず逃げるようにしてその場から離れた……が、当のツキトの方はそんな志井の存在にはまるで気づいていなかった。公園に設置されていた大きな柱時計を何度も見上げながら、それこそ志井よりも慌てた顔で駆けて行ってしまったから。 それはまさに一瞬の出来事だった。 「 何だあのガキ……」 その事が何だか悔しくて、志井は負け惜しみのようにそう毒づいた。もう少し見てみたかった。あの黒いはずの秋桜が確かにあの瞬間は仄かなピンクに見えたのだ…。 それが本当だったのかどうかもう一度見てみたい。 あいつの絵。 「 バイト……って、言ってたか」 それまで志井は自分の職場に清掃業として働いているツキトの存在などまるで知らなかったし、ツキトが更にもう1つ、この近くにあるカフェで働いている事も知らなかった。 何もかも。働き先も名前も年齢もどういう生活を送っているのかも。 詳しく知ったのは「気になる」と自覚したその日からだ。 志井さん…何で俺なんかの事? ツキトは心底不思議そうにそう訊いてきたが、志井にしてみればそれはごく自然な事で説明なんか出来なかった。しかもその当たり前の感情を相手には何の気紛れかと疑われ不審なものに思われているのかと気づいた時、志井の中にはただぶつけようのない怒りが浮かんだ。 心外もいいところだ、俺は近づくべくしてお前に近づいたんだ、と。 そうして志井は知れば知るほどツキトの事をもっと知りたいと思ったし、そういう感情が育つにつれ、ツキトに関わる他の全ての人間が煩わしく感じられるようになった。カフェであの修司とかいうマスターと親しく話しているツキト、世話になっているという花屋の青年について嬉しそうに話すツキト(自分はあの青年の顔すら覚えていないのに)。全て面白くなかった。気持ちが逸った。焦るとますます本来の仏頂面に磨きがかかった。 誰もかれも、ツキトに近づかなければいい。俺が見つけたんだ。 「 俺と一緒にいろよ」 多少強引かとも思える志井のその台詞をツキトは途惑いいっぱいの顔で聞いていた。 苛立たしかった。胸の奥が「ぴりぴりする」感じ。 ツキトは自分の魅力が分かっていないし、今もこれからもどれだけの人間を自分が魅きつけていくのかという事を理解していない。本当に何も分かっていない。 けれど言ってみればそんな志井の鬱屈とした想いが気づかせたのかもしれない。 突然現れた、ツキトに害ある目を向けてきた男たちの存在に。 一体何が目的でとツキトは言っていたけれど、考えられる事など一つしかない。自分が守ってやらなければ…そう思えば思う程、志井にはいつもの余裕がなくなっていった。こんな事は初めてだった。 今思えばツキトを置いて部屋を出てはいけなかったのに……。 苦しい。 「 ………う」 ツキトは口内へ強引につっこまれたタオルのせいで息も満足に吸えない中、暗闇の中でただ怯えていた。 「 おい、どうだ」 先ほどから雨は幾らか小降りになっていたが、それでも既に十分濡れている身体はすっかり冷え切ってしまっている。しかも口を塞がれているだけでなく、後ろ手に固いロープのようなもので拘束されて、両足も同じく太い紐でぐるぐるに巻かれて縛られている。 誘拐だ、完全に。 「 静かにしてろよ」 後頭部にごつんと硬い物を当てられて脅された。暗いし背後からなのでそれが何かは分からないがきっと拳銃だろうと思った。3人の中で一番偉ぶっている小男…ホセと呼ばれる男は随分と落ち着かない様子でツキトを後ろから脅しながらしきりに身体を揺らしているようだ。またそのすぐ傍にはブービーという大男がこれまた退屈そうにゆらゆらと落ち着きなく巨体を揺らし、時折ツキトの方を覗き込んだりして気持ちの悪い涎をだらだらと流したりしている。 幸か不幸か、そんなぎらついた視線もこの暗闇の中ではそれほどはっきりとはしないのだが。 「 アア兄貴、いつまでここにいるんだ? 早く移動しよう…」 遂に痺れを切らせたようになってブービーが言った。雨は降っているし、寒い。何が目的かは知らないけれど、ツキトを拘束して何処かへ連れて行かなければ彼らはまずい状況に置かれるらしい。だから随分と焦っている様子なのはツキトにもよく分かった。 それなのにボスであるホセは何かイラついたようにこの公園内の茂みで身を潜めてイライラとしているのだ。 「 少し待て。パールが車を回してくるついでに他に誰かいないか確認してきてんだ」 「 ああ、あの男だろ…。もういないよ。きっと帰った」 「 馬鹿! んな事何でテメエが分かるんだっ! あのしつこいハイエナみたいな野郎、どうもこのガキに入れ込んでるらしいからな、俺らがこのガキ狙ってるの知って鬼みてえに追いかけてきたじゃねえか。きっとまだそこらでうろついてる。鉢合わせしちゃまずいだろ」 「 やや、やっつければいいんじゃないか? 兄貴」 「 ………あれはヤバイ。俺には分かる、ああいうヤバイ野郎には手をつけない方がいいんだ。俺ァ、伊達に喧嘩なしでここまで這い上がってきちゃいねえぜ」 「 兄貴のパンチはへなちょこだからな」 「 ぶっ殺すぞテメエ! ……はっ!!」 しかしホセは思い切り叫んだところでぎくりとしたようになってあわわと両手を口におさえた。静かにしていろと言って自分が騒いでは意味がない。ブービーの方はもうこの会話に飽きたのかボーッとしていたが、ホセはより一層苛立ちを募らせたように「パールの野郎、遅ェ!!」と押し殺した声ながらも毒づいた。 「 ………」 ツキトはそんな2人に間を挟まれるようにして、ただじっとうずくまるより他なかった。何とか隙をついて逃げ出したいとは思うが、こんな人気のない場所で両手両足の自由を奪われているのだ。下手に動いてホセという男が持っているだろう拳銃一発であの世行きなどごめんだ。寂しい場所とは言っても町の中、発砲などするわけはないと頭のどこかでは思っていても、やはり怖くて仕方がなかった。 「 ……なあなあ。兄貴。こいつ捨ててきたら、今度はまたあのチビやるんだろ」 やはりずっと黙ってはいられないのだろう。暫くしてからブービーがツキトの頭に大きな手を置いてそう言った。それにツキトがぎくりとして身体を震わせると、ブービーにはそれが面白かったのか、調子にのって更にぐりぐりと髪の毛をまさぐってきた。 ところがそれを止めたのはホセだ。 「 触んなテメエ。またビョーキが出たら殺すぞ」 ホセはブービーの手をパチンと叩き、スーツの胸ポケットにしまっていたらしい携帯電話を取り出し、一瞬躊躇したようになってまた元に戻した。 「 やっぱ姐さんに報告すんのは、せめてこいつだけでも片付けてからだな…」 「 姐さん怒っているかな?」 「 当たり前だろう…。結局、姐さんの息子さんに関係している野郎ども、誰1人この町から葬ってないんだぜ。殺しでもヤクでもねえ、こんなボロイ仕事一つできねえのかと、帰った時どんだけいたぶられるか……はあ」 「 姐さんはパワフルだからな。寝かせてくれねえ」 「 あ〜くそっ! パールはまだかっ!?」 「 まだだあ」 へらへらと笑っているブービーは本当に状況が分かっているのか甚だ怪しい。しかもやはり少しの会話の後は同じように「どうでもいい」事として退屈してしまうのか、またすぐに意識をツキトに戻してじっとそのぎょろついた眼差しを向けてきた。 ツキトは息苦しく手足が痺れる状態の中、そんなブービーを必死に睨み返した。せめてもの抵抗だった。本当は抵抗などしない方が良いのかもしれないが。 「 むむ……」 するとその時。 「 ………食いてえ」 ぽつりと放たれたその声には、傍のホセにもよく聞こえなかったらしい。 「 あぁ? 何か言ったか?」 ホセが面倒臭そうにそう返したが、最早ブービーは兄貴分である彼の顔など微塵も見ていなかった。だらだらと涎を零し、ただ自分の足元にいるツキトを見下ろしているだけだ。 「 うまそう」 そしてブービーはいきなり勢い良くそんなツキトの横にしゃがみこむときっぱりとはっきりとそう言った。 「 おおお前……凄く美味そう。俺、食いたい」 「 んっ…!?」 ツキトがその声に反応して目を見開くと、同じようにブービーの目も大きく開かれた。そしてべろべろと舌なめずりをすると、いきなりツキトの頭をがっしと片手で鷲掴みにして顔を近づけたのだ。 「 くく、食いてえ…!」 「 んんーっ!!」 今にもそのベロベロとしきりに出し入れされている舌が顔全体を舐めてきそうで、ツキトは思い切りそれに逆らう所作を示しながら、必死に喉から声をあげようとした。 「 んっんっ!!」 しかし頭ごとブービーに抑えられている上に身体は拘束されているのだ。せいぜい起こしている上半身を捩るくらいしか反抗できない。 「 ううううわあ……。あのチビも良いけど…お前でもいい…!!」 「 ………おいブービー」 「 舐めたい! 唇とかも舐めたい! これ取っていいか!?」 「 おい、やめろ」 「 取る! このタオル取るな! そんでもってこの服も破いていいか!? ズボン脱がす!!」 「 やめろって……言ってんだろーがあっ!!」 「 ぐごっ!?」 ホセによる全体重を掛けた肘鉄。 その巨体にも多少は効いたらしく、ブービーは鈍い声を漏らしてがくりとその場に膝をついた。その拍子、ツキトも身体を放された。 「 ……ったく、時と場所考えてサカりやがれ」 興奮して歯止めが利かなくなるブービーには慣れているのかもしれない。ホセはぎりぎりと歯軋りをしながら、ブービーに当てた己の肘を痛そうにもう片方の手で擦った。 「 んぅ……」 ツキトはそんな2人を唖然として見つめながら、けれどその時気づいてしまった。 ホセのその手にはやはり拳銃が握られていた。 |
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