「ふんわりきらり」


第23話



  パールはもともと全身が脂人間のようなものだが、この時はそれ以上に大量の汗を噴き出し、顔中をだらだらのぎたぎたにして走っていた。
( 全く、何だって私がこんな事を…!)
  頭の中に浮かぶのは自らに降ってかかった不運を呪う言葉と、同僚ホセに対する恨み節だけだ。自分の雇い主である姐さん……美奈子に対しては、こっそり悪態をつくだけでも何やら恐ろしいので、なるべく考えないようにしている。
  しかし、元をただせばあの女が発した命令から全てが始まったのだ。

『 息子が夕暮れ通りにある花屋をやってるんだけど、そろそろバカな遊びは止めさせたいのよね』

  その時彼女はえらく酔っ払っていて、いつも以上に危険な香りを発していた。そんな時に口を挟む事は出来ない。黙って両手を揉みしだいていると、美奈子はパールたち3人に実に面倒な仕事を押し付けてきた。
 要は家出した息子を連れ戻したい…彼女の願いはそれだけのはずだった。ところが、身辺を調べていくうちに美奈子は何を思ったのか、息子を素直に連れ帰る為にはあの息子に取り巻いている「親しき者たち」を排除する必要があると言い出したのだ。彼女の力を持ってすれば、家出息子などそこらの下っ端を使って強引に車に押し込み、無理矢理帰還させれば良いだけの話だ。あの美奈子の息子だ、一体どんな「ワル」なのかはパールにも想像するだに恐ろしかったが、何人かで行けば問題はないだろう。何故そんな回りくどい事をする必要があるのか、全くあの魔女の考える事は理解不能だった。
  しかも。

『 ねえ、そのうちの一人…。この友之って子、結構カワイイじゃない? 何でも親が死んだばっかりなんですって? なら私が飼ってあげてもいいわ』

  彼女は息子の周りをうろつく不穏分子を追い払うという事の他に、「そのうちの一人を掻っ攫って自分の所へ連れてくるように」という任務まで追加注文したのだ。これにはパールもほとほと面倒の声を漏らした(勿論心の中だけでだが)。
  パールも商売柄、誘拐だの人身売買だのはお手のものだったが、だからこそ「ただ捨ててくる」のと「拾って主人に差し出す」事にはその仕事内容に天と地ほどの難しさがある事を知っていた。しかもその仕事を一緒に組む連中があのバカコンビ・ホセとブービーとなれば、ますますこの仕事を達成する可能性は低くなる。
  そう、最初から嫌な予感がしていたのだ。最初から。

「 しかし…っ。ともかくは、ハアハア…! 今は…ッ。あの、小僧だけでも、捨ててきて…ハアッ! 早く姐さんに連絡入れなくちゃあ…ハア…!」
  別に走りながら喋る必要はないのだが、パールは自分を落ち着かせる為に今後の自分が成すべき事を息を切らせながら声に出した。あの友之という子どもを連れ帰るどころか、ただの一人もこの街から放逐出来ていない事実、そして美奈子に事の次第を報告する義務を怠っている事実。それら全てがパールを焦らせていた。このままではまずい、そんな十ニ分に分かり過ぎている事を頭に浮かべながら、パールは必死に走った。走って走って、急いで車を取ってこなくては、そう考えていた。
「 ハッ!?」
  しかしパールは不意に動物的勘を働かせ、吐き出していた息を止めた。ぴたりと立ち止まり、急いで傍の茂みの影へと身を潜める。

  足音…!? 誰か、来る…!!

「 おおーい! ツキトさーん!!」
「 !?」
  どすどすと重い足取りと共に、そんな声が聞こえた。それは段々と近づいてきて、更に何度か同じように先ほどの言葉を繰り返す。
  ツキトを呼んでいる。あの小僧を。誰かがあの小僧を探しに来たのだ!
「 ちょっとあんた、待て!」
「 うわっち!?」
  そしてそれよりももっと恐ろしい事に、その人物にすぐさま追いすがるようにしてもう一人別の影が現れたのがパールの目に映った。最初にツキトを呼んでいた大柄の男(暗闇ではっきりとは見えないが、恐らくかなり太った男だ)の肩を、その素早く追いついてきた人間は激しく掴んで厳しい口調で言った。
「 でかい声出すな。もしここに奴らがいたら警戒される」
「 へ…? 奴らって…?」
  男の言葉に大柄の人の良さそうな男はきょとんとしているようだ。
  しかしパールの方はまたドッと大量の汗を放出させて、あわあわと更に身体を丸めて身を潜めた。
  あの男だ!
  この間から執拗にこちらを警戒し、ツキトという小僧に纏わり付いていた危険な感じのする男…!
( 何てこったい、やっぱり撒いてなんかいなかったんだ…! しかもあの小僧を探してるな…!)
  ツキトを縛り上げているホセたちの居場所はここからさほど離れていない。しかし大柄の男が発した先刻の声があそこまで届いている事はさすがにないだろう。ホセがこの連中の接近に気づくのは無理だ。

  まずい、まずいぞ…!

  パールの中で真っ赤な危険信号が忙しくなく頭の中を駆け巡る。
  しかしそうこうしている間にも2人の人影はゆっくりと奥へ進んで行く。鈍感そうな太めの男はともかく、あのツキトを元から知っている男の方は明らかに自分たちの存在を嗅ぎ取り、神経を張り巡らせている。このまま鉢合わせしたら間違いなくあいつらはやられる。
( だが、引き返して危険を知らせに行く暇はねえ…! とにかく私は車を取りに行って、ホセたちがあいつらからまんまと逃げるか……無理なら一人でトンズラするしかねえってこった…!)
  パールはそこまで決めると、意を決して立ち上がった。耳を澄ますが、2人の気配はもうしない。今のうちにここから離れよう、そう思った。
  しかし。
「 ツキトさん…っ」
「 ん!?」
  公園の出口へ向かおうとしたまさにその方向から、更に新たな人物がこちらへ近づいてくるのがパールには見えた。咄嗟にまた茂みの影に身を戻すが、しかし今度は危険な気配はまるでしない。
  それどころか、こいつは…?
「 ツキトさん…。いる…?」

  何てこった! あのガキじゃねえか!

  2人の後に遅れてやってきたのはあの友之だった。昼間、訳の分からない生意気そうなガキと一緒にここの公園で会ったから、この街に戻ってきていたのは知っていたが…まさかこんな時間にこの同じ場所で再び会えるとは!
  しかも友之は今間違いなく一人である。どういう経緯かは知らないが、友之もまたツキトを探しているらしい。

  チャンスだ! あの小僧を取り逃がしても、このガキを捕まえちまえば…!

「 おいっ!」
「 ……ッ!?」
  思った瞬間、パールはもう友之の前を塞ぐようにして飛び出していた。突然の事に勿論友之はびくんと身体を揺らし、動きを止める。恐怖に見開かれたその目は確実にパールの存在を認め、獲物に囚われた小動物のように怯えていた。
  パールはニヤリと笑った。
「 へっへ…どうしたい…? こんな真っ暗な中、坊や一人でお散歩とはなあ。偶然だねえ」
「 ………」
  じりと一歩後退しようとする友之を、パールはしかし喋りながらその太った身体のどこにという俊敏さで捕まえた。
「 やっ…」
「 大人しくしな…! 私は商品に手は出さない。あのブービーのお間抜け野郎とは違うんでねえ…!」
「 ん、んっ!」
  口元を押さえながらパールはひっひと笑いながら友之を後ろから羽交い絞めにした。じたばたとあがくが、何という力でもない。余裕だ。
「 まさに飛んで火に入る夏の虫、だねえ。しかし助かった。お前さんだけでも確保すれば、私だけでも助かるってもんさ。もうあんなバカな連中の事なんざ、知らねえや!」
「 んーっ。んっ」
「 ……元はといえば、お前を無事に姐さんの所へやれなかった事からケチがついたんだ」
  ちっと舌打ちして、パールは自分の中で一生懸命抗おうとする友之を見下ろして憎々しげに呟いた。
  そう、友之を捕まえたところまでは実にちょろかった。無力な子供はあっという間に自分たち3人に捕えられ目隠しをされると、僅か震えるだけでロクな抵抗も示さなくなった。だから後はその商品を主人に届けて、まず第一の仕事は終了だったはずなのだ。
  それをあのバカが……。

『 な、なあホセ…! 俺、食いたい…! このガキ、食いたい…!』

  パールに言わせればホセの相棒であるブービーは元から人としての何かが一部も二部も欠損しているような男であった。奴の口から発する大抵の台詞は、「食いたい」か「欲しい」。欲望を抑える事が出来ず、たとえ他人の獲物だろうが欲しいと思えばがっつくし、食いたいといえばそのままその身体にむしゃぶりつく。
  そんなブービーの好みはいつでも可愛らしくて大人しい少年であった。

『 バカ野郎! 姐さんの商品食いたいって、テメエはちっとは理性を保て!』

  勿論、いつもの抑え役であるホセが運転を務めるパールに成り代わって助手席からそんなブービーを叱ったのだが、しかしあの時のブービーは既に走り出していた。隣に座る友之にたちまち襲いかかると、「食いたい食いたい」と狂ったように繰り返してその身体を蹂躙しようと暴れ出したのだ。
  ……運転しているどころではなかった。
  パールとホセは2人がかりでブービーを取り押さえようとしたが、狂乱したブービーを止める事は不可能だった。どうしても友之をモノにしたいと血迷うバカを一時静かにさせる為、結局パールたちは止むなく友之を見知らぬ街角の路上に捨てた。傷モノを届けて自分たちまで美奈子の逆鱗に触れるよりは、当初の命令である「捨ててくる」を実行した方がまだマシであろうという苦肉の策であった。
  あれから全ての計画が狂ったのだ。
  そう、つまりは全部あのバカブービーのせいなのだ。
「 へへ…しかし、そのガキも今は私の手の中だ…」
  パールは掌中におさまったブツを目ににやりとほくそ笑んだ。
「 んっんっ」
  友之はまだ往生際悪く暴れていた。あの時は割とすぐに諦めたというのに、そうじたばたされるとさすがにイライラする。
「 静かにしねえかッ! でないと……ひひ」
  パールは商品には傷をつけない主義である。価値が下がるし、何より彼には商人としてのプライドがあったからだ。
  しかしこの時のパールは激しく疲れていた。
「 ……まあ、傷をつけなくとも痛めつける方法はあらあね」
「 んっ…!?」
  パールの目つきが変わった事を友之も察したらしい。ばんばんと、力なく自分を押さえつけ口を押さえるパールの腕を叩く。
  パールには痛くも何ともなかったが。
「 …まあ、よくよく見たらお前も割に可愛い顔をしてるじゃないか。なるほどブービーが食いたいと思うわけだ。へへ…ちょいと味見をしてやるか」
  ぞわりといやらしい手つきで友之の尻を撫で回したパールは、その獲物の匂いを確かめるよに首筋に口をつけてフンフンと鼻を蠢かした。……ちなみに彼は今すぐここを立ち去らなければという思考を今この瞬間、忘れ去っている。
「 おうおう、良い匂いがするねえ。もしかして風呂上がりなのかい? 私らがこんな汗だくになってこんな藪の中を走り回っている間、一体どこで身体を休めていた事やら…」
「 ……っ」
  パールの粘着質な声と触手に友之はもうすっかり涙混じりだ。それでも必死に身体を揺らして逃げようとしている。抵抗していた。
「 煩い子だ。…どれ、その可愛いズボンを脱がせてやろう…ひひっ」
  しかしパールがそう言って友之の内股に触れ、言った事を実行しようとしたその時だった。


「 プゴッ!?」


  妙な声が聞こえた。
  それは果たして人間の声だったのだろうか。突然の激痛に口がというよりも、鼻が音を出したという感じだ。直後、更に第二、三陣の痛みが顔に、腹に、そして全身にやってきて、パールはその場にドサリと崩れ落ちた。
「 あれ…? わ、私…?」
  しかしどうやらその奇妙な断末魔を上げたのはパール自身だったらしい。
  その事実にパールは地面に倒れ伏し気絶する寸前にぼんやりと意識した。おかしい、何が起きたのだ……。しかしそれを考える間もなく、更に容赦のない痛みが悶絶している己の背中に降りかかり、パールは「グエッ!」という呻きと共に、遂に完全に気を飛ばした。
「 ……何だこいつ」
  とどめのようにそんなパールを更にぐりと足で踏み潰したその人物は、ややボー然となりながらようやっと微かな声を漏らした。
  それから傍でぐったりと放心したようになって座り込んでいる友之を見やる。
「 友之……大丈夫か」
「 ………」
「 友之。おい、友之」
  友之は暫く何が起きたのか分からず、虚ろな目で自分を呼ぶ声をただ頼りなく追った。どこにいるのだろう、呼ばれている。でも分からない…。そんな風に考えながら、けれどたった今起こった恐ろしい出来事が途端頭の中に浮かび上がって、不意にぶわりと涙が浮かび上がった。
「 ……もう大丈夫だ」
「 あ……」
  すると先ほどまでしきりに遠くから呼んでくれていた声が間近で聞こえた。
  はっとして改めてよく見ようと瞬きをした友之は、瞬間自分が何かとても温かく優しいものに抱きとめられるのを感じた。
「 あ…あ…?」
「 大丈夫だ。もう大丈夫だからな」
「 ……っ」
  そう言ってぽんぽんと優しく叩かれる背中が嬉しくて、友之は余計にほっとした気持ちになってぽろぽろと泣き出した。ぎゅっとその大きな身体に抱きついて、ひぐひぐと嗚咽を漏らす。最初は数馬が心配で外に出たいだけだった。自分が原因で数馬が危ない事をするならそれを止めたいと思ったし、一人であの見知らぬ家で待っているなど我慢できなかったのだ。更に、ツキトに自分の居場所を知らせに行ってくれた藤堂というドライバーが、何やらツキトが何処かへ消えてしまったという話を耳にして、より一層嫌な予感に気持ちが急いた。だから自分もツキトを探したくて、とにかく何かしたくて、車を降りた後は必死になってここまで走ってきてしまった。
  何度も「一人で勝手に行くな」と言われたのに。「自分も一緒に行くから」とこの人は言ってくれていたのに、その言いつけを1つとして守らないで。
「あ…あ…」
「どうした。大丈夫だからな、落ち着け」
「……っ」
  それなのに、そんな悪い自分をこの人はどうしてこんな風に抱きしめてくれるのだろう。
「 こ、怖かった…」
  甘えてはいけないと思うのに、それでも気づくと友之はそう言っていた。
「 そうだな」
  けれどもその相手はそう言って頷き、もう一度「大丈夫だ」と言って友之の頭を撫でてくれた。
「 ………」
  友之は涙で濡れた目で視界をぼやかしながらも、すっと顔を上げてその人を見上げた。
  そこには今日会ったばかりの…何故か自分の所にいろと言ってくれた――光一郎の精悍とした顔があった。




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