「ふんわりきらり」


第24話



「 遅い…!」
  ホセは焦っていた。
  暗闇の中、じりじりとした気持ちで何度も腕時計を見やる。元々太り気味で動きのトロいパールだが、外に停めてある車を自分達がいる公園の裏手に回してくるなど何て事ない仕事のはずだ。それなのに幾ら待っても来る気配がない。ケータイに連絡もない。
「 もしか野郎…! 一人でトンズラしたんじゃねェだろうな…!」
  ちっと舌打ちをしながらホセは背後のブービーをちらと見やった。自分の舎弟であるこのバカ男が友之捕獲に関してやらかした「ミス」を、あのパールは後々までぐだぐだと零していた。本当なら自分は実働部隊ではないのだから、こんな事は本来あんたら2人でやってくれれば良かったのだ、しかもこんな失態を犯して自分まで姐さんに目をつけられたらどうしてくれる…と。その度ホセは得意の恫喝で臆病者のパールを黙らせてきたのだが、それも奴にとっては大いなる不満を膨らませる要因となったに違いない。
「 まずいな…」
  黙っておられず、ホセはまた呟いた。再び背後を見る。ブービーは今のところ一応は大人しくしているが、先ほど例の悪い病気を出したばかりだし、実際今もまだ捕獲した少年ツキトを欲望の滾った目でじっと見下ろしている。
  いつまでもここにいるのはまずいかもしれない。
「 おいブービー…」
「 ん…コイツ、食っていいのか!?」
「 バカ! 誰もんな事言ってねーだろうがッ」
  バシリと脳天を叩いた後、ホセはやはり未練たらたらなケダモノを叱咤した。そもそもこの暗闇もブービーを暴走させる原因の一つだ。やはり、パールは捨て置いて逃げるべきだろう。不本意だが車は途中でタクシーを拾うしかない。
  まずはこの街を一旦離れなければ。
「 パールの野郎を待つのはやめだ…。ガキ連れてここを出るぞ」
「 へ…。く、車はどうするんだ?」
「 途中で拾う。それまではお前がコイツ背負え」
「 ………」
  ホセはブービーの返事を待たず、再度辺りを窺うようにして周りに人の気配がないか確認した。静かだ。美術館のある大きな公園とはいえ、裏手の鬱蒼とした茂みのあるここまで足を運ぶ物好きは滅多にいない。あの、自分たちを追っていたこのツキトの知り合いらしき邪魔な男…あいつを除いては。
「 よし、大丈夫だな。行くぞブー…」
  しかしホセが頷き、振り返った時だった。
「 んーっ、んっ!!」
「 う、う、うまそう、やっぱりうまそう〜!!」
  捕らえているツキトを肩に担いだブービーは、その華奢な身体に触れられた事でまたまた病気を発動させてしまったらしい。ぎょろついた目で今にもツキトを食べてしまいそうだ。両手両足を縛られたままのツキトは、そんなブービーに後ろを向けた格好で抱き上げられている為、ただでさえ身動きが取れず、恐怖で苦しそうに呻いている。それがまたブービーの嗜虐心を煽る結果となっているのだが。
「 食いたい〜、俺、こいつ…ううう〜」
  ブービーはハアハアと荒く息を継ぎながら、ツキトの尻をいやらしく撫で回した挙句、絹ごしにべろべろと舌を這わせている。よっぽど空腹らしい。
  しかしホセはその光景を目の当たりにして一瞬は目を点にさせた後、思わず怒りで声を荒げた。
「 このバカ野郎がッ! やめろって言ってんのが分かんねーのか!」
「 嫌だ〜俺、食いたい、食いたい〜」
「 今はそれどころじゃねえだろ! テメエはそいつ運べばいいんだ、余計な事してたら、またお前は病気が…」
  しかしホセが最後まで言う台詞すら、最早愚かなブービーには聞く事が出来ないらしい。うおおと低い獣のような声を発した後、ブービーは折角抱えたツキトを再び地面に乱暴に投げ下ろすと、苦痛に呻く相手に更に喜びの雄叫びを上げてその上に覆いかぶさった。
「 フオ! フオ!」
  鼻息荒いブービーの狂乱にホセは慌てた。本来、巨漢のブービーが我を忘れると最終的に自分の力ではどうにも止めようがない。しかも奴は1度友之を自分達から取り上げられてただでさえ鬱憤が溜まっているのだ。今ここで同じようなノリで頭を叩いても、恐らくもうこいつは止まらないだろう。
  逃げるべきか。
  それとも。
「 ………」
  ホセは隠し持っていた拳銃にちらと目をやり、どうしようかと考えた。ブービーは既にタオルに口を詰められ声も出せず抗う術も持たないツキトの身体を好きにまさぐり、上着を脱がそうと必死になっている。後ろ手にロープで縛り上げているせいでそれがなかなかうまくいかないのをキーッとヒステリーになりながら、それでも涎を垂れ流しつつ長くざらついた舌をツキトの腹や胸に這わせている。
「 んっ…んー!!」
  ツキトの方は涙交じりにそれを止めさせようともがいているが、最早力尽きるのも時間の問題だろう。無力な少年がブービーに組み敷かれるのをどこか遠い目で見やったホセは、やはりここは一旦退くしかないだろうと全てを放棄する決意をした。元々彼はブービーやパールより「ほんのちょっと」責任感があるという程度で、実質的にはヤバくなったらとりあえず即丸投げという方針の持ち主である。
「 仕切り直しだ…」
  ただ、今回はその決意がいつもより若干遅かった。あの恐ろしい姐さんから本当に言い逃れ出来るのかという不安もあったし、仲間たちからはボロイ仕事だと羨ましがられていた。そんな仕事も満足にこなせないのかとバカにされる事は避けたかったし、何より今この時に関して言えば、パールが車を寄越しさえすれば任務1つだけでも確実にこなせたはずだったのだから。
  しかし予定は狂いまくった。
  そのせいでホセの運命も大きく変わる事となる。
「 は……?」
  狂ったブービーを置いて逃げようとくるりと振り返ったその瞬間。
「 な…!?」
「 かあくごおッ!!」
「 げえっ!?」
  突然、目の前に現れた太めの男が(パールほどではないが確実に太い)いきなりホセに向かって長い木の棒を振り下ろしてきたのだ。
「 おわあっ!」
  ただし、男の動作があまりに遅くどこか躊躇したものだったので、その第一打をホセは横っ飛びで避ける事が出来た。ごろごろとみっともなく転がってしまったが、攻撃をかわした事自体はあの状況では上出来である。
  ホセはもともと喧嘩が苦手だ。一応拳銃も持ってはいるが、実はまともに扱った事はない。要はハッタリと小ズルイ立ち回りだけでここまでやってきた小物である。
「 な、何だテメエは…!?」
  しかし幸い、ホセを狙ってきたその男も戦闘に関してはズブの素人らしい。
  それは怯えたような顔と棒を握る手がぶるぶると震えているそれだけでよく分かった。ホセはゆっくりと立ち上がりながら、目の前の見知らぬ男を凝視した。
  その男は暗闇の中でも分かる大粒の汗を顔からだらだらと垂らしながら、「きええっ」と訳の分からない奇声を発し、棒きれを目の前に構えながら言った。
「 あ、あ、悪党め…! ツキトさんをどうする気だっ!」
「 ああん…? テメエ、このガキの知り合いか…」
  ツキトを護ろうとしていたのはあの長身の色男だけではなかったのか。ホセは心の中で思い切り悪態をつきながら、けれども得意の余裕ぶった笑みでじりと太めの男に歩み寄った。
  既に手にはハッタリだけの拳銃を構えている。
「 はっ!?」
「 騒ぐんじゃあねえ…。これが見えるな? ガキだけじゃねえ、テメエも吹っ飛ばすぞ?」
「 な、な…」
「 そのくだらねえもんを捨てろ!」
「 ひ……っ」
  男はいともあっさりと棒切れを捨てると、降参というように両手を挙げた。
  ホセは男のそんな態度に満足そうにニタリと笑みを浮かべると、(何てちょろい相手だ)と思いながら、くいと顎をあげた。
「 後ろ向いて膝つけ。妙な真似すんじゃねえぞ?」
「 あ、あ、あんたら、一体何者なんだ…?」
「 るせえっ。んな事どうだっていいんだよ。余計な事詮索しやがったら、テメエもこの後ろのブービーの餌食にするぞ? へへ…まあ、テメエみたいなデブはコイツの好みじゃねえだろうがなあ」
「 ……う、後ろって」
「 余計な事喋るなって言ってんだろが! オラ、さっさと後ろ向いて膝つけ!」
  両手を挙げながらあわあわとしてちっとも自分の言う事をきこうとしない男にホセはだんだんと地団太を踏みながら再度命令した。
  けれど男は汗を流しながら動こうとしない。ホセはいよいよ焦れたようになりながら、拳銃を再度見せ付けるようにして声を荒げた。気持ちが焦っているせいか、今まで静かに身を潜めていた苦労が全て水の泡である。
「 おい、テメエ! 本当に死にたいらしいな! このマグナム喰らわせるぞ!? ああ!?」
「 やってみろ」
「 !?」
  まさに一瞬の出来事。
  ホセが太めの男ではない別の声を聞いた、それは直後の事だった。
「 がっ…!?」
  咄嗟に振り返ってその声の主を確認しようとした瞬間、ホセのみぞおちに強烈な激痛が走った。あっという間に視界がブレて、ホセはそのままずるりと地面に倒れ伏した。しかしそれだけで終わらず、突然の痛みはその後もうつ伏せになって晒された後頭部に背中に横腹に、容赦なく二度三度と降り注がれた。
「 ぐがっ、ふごっ!?」
  自分のものではないような声が低く漏れ、ホセは虚ろになっていく視界の中、目の前に見えたそれに眉をひそめた。
  それは先ほどまで元気いっぱいツキトを襲っていたブービーの巨体だった。白目を剥いて仰向けに倒れている。口から白い泡を吹いて完全に気を失っていた。
「 な……ガッ」
「 まだ口がきけるのかよ…」
  しぶとい奴だと怒りの篭もった声で呟くその主に、ホセは「ああ、あの男か」とぼんやり思った。だから煩くするなとブービーに言ったのに、結局見つかっちまったじゃねえかと。
  ホセは薄らぐ景色の中で、最後まで毒づく事を止めなかった。





  ツキトは口に詰め込まれていたタオルを外してもらってすぐにげほげほと咳き込んだ。涙が止まらない。それは満足に呼吸が出来なかった事よりも、あの恐ろしい男に好き勝手身体をまさぐられ舌を這わされたショックから出て来たものに違いなかった。
  気持ち悪い、汚い、痛い……。
  混乱した頭の中で何が起きたのかと冷静に考える事も出来なかった。ロープを外してもらい、身体が自由になって両腕で震える身体を抑えつけるまで、一体誰が自分を自由にしてくれたのかもよく分からなかった。がくがくと膝を泣かせながら、とにかく傍の大木に寄りかかって縮こまる。怖かった。小さな男が持っていた拳銃も、大きな男がぎらついた眼で自分に圧し掛かってきた事も全て。
  どうしてこんな事になったのか分からなかった。
「 ……うっ」
  吐き気がして口を押さえる。ハアハアと何とか息を零して一旦はそれを留めるも、寒いのか熱いのかも分からずにまた身体を震わせる。
  だからあの声が頭の上に落ちてきて、やがてその影が傍に下りてきたのもツキトはすぐに気づく事が出来なかった。
「 ツキト」
「 ………」
「 ツキト」
  すぐに反応できなかったが、2回呼ばれて何とか目線だけを上げる。
「 あ…」
「 大丈夫か」
  声の主はそう言って遠慮がちにツキトの肩に触れ、それから眉をひそめたまま「もう心配ない」と短く言った。
「 ……志井さん?」
  ツキトはボー然とその人物の名前を呼び、それからようやく視線を横にずらして、先刻まで自分がいた場所に目をやった。
  そこにはあのブービーとホセと呼ばれていた男たちの卒倒した姿があった。気絶しているらしい。死んだようにぴくりとも動かない。
「 あ……」
「 悪かった。お前を置いて出てきて…こんな目に遭わせちまった」
「 ……ち、違う」
  志井の苦しそうな顔にツキトはようやくハッとして緩く首を振った。自分が勝手に出てきたのだから、志井は何も悪くないのだからと。言いたいのに言えない。それでも何度も首を振って、ツキトは自分の肩に触れてくれている志井の手にそっと己の手を当てた。
  すると志井はようやく自分もほっとしたようになって気遣うように言った。
「 ……立てるか?」
「 う、うん」
「 ………」
「 志井さん…?」
「 ……立たなくていい」
「 えっ…あ…」
  けれどそう訊いたくせに、志井はそう言うとさっとツキトを抱え上げ、途惑う相手の額に自らのそれを当てた。
「 し、志井さ…」
「 こんなに…」
「 え?」
「 こんなに焦ったのは生まれて初めてだ」
「 ………」
「 本当にごめんなツキト」
「 そんな…」
  ツキトは再度謝る志井にずきんと胸を痛め、思わず志井の首筋に縋りついた。ぎゅっと抱きつくとあっという間に安心した気持ちになり、先ほどまでの恐怖が和らいでいく。
「 違う…。志井さんが助けてくれたんじゃないか…」
  ツキトはそう言いながら尚も志井の首筋に縋りつくようにして顔を寄せ、ぴたりと止めていた涙をじわりと浮かべた。そして、「どうしよう、こんなにもこの人の事が好きだ」と……改めて思ってしまっていた。
  この人に触れてもらえるのはこんなにも嬉しいと知ってしまった。
「 え、えーっと…。あ! 私はこいつらを縛り上げて、警察に電話をしますね!」
  そんな2人の傍では目のやり場に困っていた光一郎のお抱えドライバー藤堂が、ようやく自分のすべき事に思い至って慌てたような声を上げた。




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