「ふんわりきらり」


第25話



「 いない…っ」
  何度もチャイムを鳴らしドアを荒く叩いても、部屋の向こうからツキトの応答する気配はなかった。雪也はここまで全速力で走ってきただけにハアハアと息を漏らし、暫しその場で項垂れた。
  こんな時間に不在など絶対におかしい。ツキトは修司の店以外でも別のアルバイトで帰りが遅くなる事もあるから、今日もそうだという可能性はある。けれど母から聞かされた内容が内容だけに、そうそう楽観的に構えてもいられなかった。思考はどうしても悪い方にばかり傾いていく。その不安だけで雪也は今にも倒れそうだった。
「 おい雪。大丈夫か?」
「 はっ…!」
  突然掴まれた肩にぎくりとして振り返ると、そこには自分の後を必死に追ってきていた涼一の姿があった。途端ほっとして雪也は「ええ…」と曖昧に頷いたが、正直今は涼一に向かって何かを言う気力がない。雪也はもう一度大丈夫だと目だけで訴えてから、再び建物の外へ向かってくるりと体勢を変えた。
「 ちょっと待てよ。今度は何処へ行くんだ?」
  けれど涼一はそんな雪也に思い切り抗議するような声を出して、今度はもっと強く雪也の腕を掴んだ。もともと大人しく誰かの後をついて歩くタイプではない。あまりに雪也が必死の形相で走って行くものだから慌ててついてきたものの、本当は不満な気持ちでいっぱいだったのだろう。
  涼一は憔悴しきっている雪也の顔を覗きこむようにして強い口調で言った。
「 何処へ行くんだって訊いてる」
「 あの…修司さんのお店へ行ってみようと思って…。俺、ツキト君のもう一つの働き口の電話番号とか知らないので、修司さんなら知ってるかもしれないし。と、とにかくツキト君の無事を確認しなくちゃ…だから電話…!」
「 いいからちょっと落ち着けって」
「 お、落ち着いてなんかいられませんっ! 母さんがっ!」
  涼一の嗜めに雪也は初めて逆らうような声を上げた。勿論、頭の片隅ではこの涼一が言いたい事は分かっているつもりだ。自分が今さら慌てて何をどうしようとしたところで、母のせいでツキトやあの店によく顔を出してくれた少年が酷い目に遭っただろう事実は変わらない。創にも迷惑を掛けていたらしい。そんなとんでもない事になってしまって、最早幾ら自分が謝っても「気にしないで」で済む問題ではないだろう。しかし、今は何より彼らに向かった危機が続行中なのだ。その状況を知ってじっとしている事など自分には出来ない。何の情報もなくとも、母が彼らを止める手段がないとしても、黙って同じ所に留まっている事など我慢ならないのだ。
「 別に雪が悪いわけじゃないだろ」
  そんな雪也に、しかし涼一は未だむっとした表情のままあっさりと言った。第三者だからと言えばそれまでだが、雪也とは明らかに抱いている危機感の温度が違う。俺たちには関係がないというオーラ満々で、むしろ彼はそれ以外の事に気が向いている節があった。
「 それにあのババ……お前のお袋さんだって、別にその部下共に殺しを命じたわけでもなし。そのうちそいつらからお袋さん宛てに連絡は絶対くるだろ。そしたら命令取り消させて、お前の……その知り合い達も元の場所に連れ戻せって言えば済む事だ。雪がこうしてあっちこっち走り回っても時間の無駄」
「 ……ッ。そんな事! で、でも俺はっ!」
「 何でそんなムキになってんの」
「 あ、当たり前でしょう! 俺のせいで、ツキト君たちがっ!」
「 好きなの?」
「 は、はあ…!? ぐっ…!?」
  突然どんと胸を押されて雪也は意表をつかれ、一瞬息を詰まらせた。痛いくらいに腕を掴んでいた涼一が、何を思ったのか今度は雪也を背後のドアに縫い付けるようにして身体を押し付けてきたのだ。
「 な…何を…!」
「 なあ。好きなの?」
「 何の事ですっ!?」
「 そいつらの事をだよ。ツキトって言ったっけ。まあ、あの隣の古本屋にしてもそうだけど。雪にとって、そいつらはお前のお袋さんが嫉妬するほどの親しい仲って事なんだろ。……好きなの?」
「 あ、当たり前です!」
  だって大切な友達なのだ。
  雪也は至極当然の事を何やら思い切り不機嫌な様子で訊ねてくる涼一に、自分こそが不快だという顔を見せて声を荒げた。
  母から逃れるようにしてこの街に流れついて来た時、知り合いも誰もいない場所で本当は心細かった。もともと母のせいで友人と名のつくような人間はこれまで作る事が出来なかったから、孤独という意味では何処へ行こうとも変わりはしない。けれども、やはり初めてしでかした母への離反。好きな事をやり遂げるという事への期待以上に膨らむ不安や焦燥。それらをたった一人で抱え続けるというのは、やはり辛い事だった。
  けれど徐々に夢が形になっていく過程でとても親切に良くしてくれる隣の創だったり修司だったり、自分以上に苦しい状況下でも笑顔を失わないツキトだったり……店を好んでくれていただろうあの少年だったり。そういった人たちに囲まれている事で、雪也はここまでやってこられたのだ。独りの寂しさも薄らいで、母への愛憎の念も消えかけて。
  それなのに、そんな大切なものをくれた大好きな人たちが自分のせいで理不尽な脅威に晒されているなど、考えるだけで恐ろしい。
  とにかく、早く何とかしなければ。
「 ど、どいて下さい! 俺は行かなくちゃ!」
  けれどそんな必死な雪也に、目の前の男は依然として静かなままだった。
  それどころか、雪也が気づかないところでその不穏な空気はどんどん大きくなっているようで……。
「 ……んだよ」
「 え、何ですか!? と、とにかくどいて下さいっ。離して下さいっ、俺はツキト君を!」
「 ふざけんなッ!」
「 ひっ…!」
  あまりに大きな声がガランとした通路に響きわたったので、雪也はぎょっとして口を閉ざした。思わずびくんと身体が跳ね上がったが、左右を涼一の両手によって遮られている為、大した動きを取る事は出来ない。しかも夢中になっていた為に気づかなかったが、今や涼一は雪也の顔に物凄く接近しており、その鋭い双眸を真っ直ぐ射るように向けてきていた。
「 あ……?」
「 全っ然、全く……俺の事なんか視界に入ってないのな…」
「 え…?」
「 俺がこんなにっ! 何日も毎日毎日毎日毎日っ! バカみたいに早朝通ってお前に尽くしてもっ! お前は全然俺の気持ちに気づいてない! その上俺以外の他の奴にばっか意識向けて、あろう事かこの俺の前でそいつらの事を好きだと!? よくもそんな事言ってくれたな!!」
「 ちょっ…涼一、さん…?」
「 俺はっ! お前の事が好きなんだよ!!」
「 ……っ!!」
  ガチャリとガチャリとツキトの部屋以外のドアが開いて、アパートの住人たちが迷惑そうな顔を向けてくる。当たり前だ、今は深夜。ただでさえバタバタと荒い足音を響かせた挙句、2人してこんな大声をあげれば非難を受けるのは目に見えている。
「 何見てんだよ! 失せろっ!」
  しかし既にすっかり「逆ギレ」モードな唯我独尊・剣涼一は、「見世物じゃねーんだよ!」と更に激しい怒号を浴びせかけ、自分たちに抗議の視線を向ける善良な市民たちを一瞬のうちに蹴散らした。そのあまりの迫力に、文句を言いかけた人々も皆慌ててバタンバタンと再び扉を閉じてしまう。「ヤバイ奴には極力関わりたくない」というのは、いつの世もどんな場所でも変わらないらしい。
  そして再び2人きり。
「 りょ…」
「 好きだ」
  けれど涼一は最早雪也の言葉を聞く気などないらしい。自分の想いだけを告げ、あとはじっと雪也を見つめる。
「 あ…」
  そして雪也が困ったように涼一を見上げた途端、その唇を塞いできた。
「 んっ…」
  突然されたそれに当然雪也は逆らった。逃げ場のない背中をドアに押し付けた格好ながら、何とか両腕は動かして涼一を引き剥がそうとする。けれど涼一は頑としてそんな雪也から離れようとせず、それどころかもっと拘束を強めて片手で雪也の顎先を強く掴んだ。そうして口づけをどんどんと深くする。
「 …ッ」
  雪也の頭の中は真っ白だ。この人はいきなり何をし始めるんだと言う想いと、今日の雨と涼一の仕事とで無理矢理先送りにしていた「課題」がこんな時にまた舞い戻ってきたのかという思いとで頭がごちゃごちゃになってしまった。こんな風に強い想いをぶつけられても困る。雪也の正直な想いはそれだった。涼一はあくまでも毎日来てくれたお得意様で、それ以上でも以下でもない。確かに高額なバラの花束を毎日買って行ってくれて、初めて家で食事をご馳走した時あれほど嬉しそうにしていたのだから、気づかなかった自分が鈍過ぎたのだろうとは思うけれど。
  でも、だが、しかし。
「 りょ…涼一さん…っ!」
「 ……んだよっ!」
  涼一が唇を離したその一瞬の隙に、雪也は遂に渾身の力を込めて相手の胸を両手でどんと押し返した。涼一はそれに思い切りむかっとしたように睨みをきかせ、再び怒りに満ちた声を上げる。
「 そんなに俺が嫌いなのか!」
「 そ、そうじゃありません、ただ、今は…!」
「 違う!? じゃあ好き!?」
「 だ、だからっ。今はそんな話している場合じゃないじゃないですかっ!」
「 何で!?」
  雪也が涼一につられて大きな声を上げると、涼一はますますもっと大きな声を上げてそれに応戦する。そして雪也がそれにあっという間に怯んでしまうと、再び互いの距離を縮めて涼一は口火を切った。
「 今話さなかったらいつ話すんだよ!? そう言って俺から逃げようとする気だろ!?」
「 そ、そんな事ありませんっ」
「 いや、そうだ! 本当は雪は気づいててずっと知らないフリしてたんだ! 俺の気持ち知ってて、でも無碍にフッて上客失くすのも惜しかったんだ! そうだろう!」
「 そっ…! そんなの、違います!」
「 はっきり言えよ! 嫌なら嫌ってよ! そうでなきゃ、俺だっていつまで経っても諦められないだろ!」
「 ……! そ、そんな風に言う、涼一さんは…嫌いです!!」
「 !!!」
  ハッキリ言えと言ったのは剣涼一本人である。
  しかし売り言葉に買い言葉、ツキトを心配する気持ちで心が急いていた事もっただろう。珍しくカッとなった雪也が勢いに任せて言ってしまった言葉を、涼一は傍目にも哀れと感じる程のショックを受けて石化した。まさか本当に雪也から「嫌い」という台詞を聞くとは思っていなかったのかもしれない。僅かに唇を震わせ、「フラれた」衝撃で涼一は微動だにしない。まるで相手のたった一言で心臓が止まってしまったかのようだった。
「 あ、あの…涼一さん…?」
  さすがに雪也もその異変に気がついた。恐る恐る名前を呼ぶ…が、相手は応えない。まさか自分が嫌いと言ったくらいで「こんな顔」をするなんて。雪也はほとほと困り果てて、自分こそその…。
  泣きそうな顔になってしまった。

「 き、気持ち悪い……」

  その時だ。2人がいる通路の向こう側―階段のある方角だ―から、ひどくぐったりとした声が聞こえてきて、雪也はどきりとして視線をそちらへやった。見ると、そこにはいつの間に現れたのか、背の高い端整な顔をした少年がふらふらとしながら胸元を抑えつつ、傍に歩み寄ってきていた。
「 ……うげ」
  そして少年は今にも嘔吐するのではというようなげっそりとした様子で、恨めしそうに2人を、否、未だフリーズ状態の涼一の背中を睨み据えた。
「 あ、あの…?」
  動かない涼一の代わりに雪也が「誰だ」という風な視線を向けると、少年は雪也にはまっとうな眼差しを向けて「こんばんは」と律儀に挨拶をしてきた。雪也がそれに流されるようにこくりと頷くと、少年は「はあ」と大きく息を吐き出した後、背筋を伸ばして苦虫を噛み潰したような顔を見せた。
「 ボク、数馬って言います。これでも腕のいい魔法使いでね」
「 は…?」
  雪也がその少年…数馬の言葉に思い切り訳が分からないという顔を見せると、数馬は大きくかぶりを振ってから両手を腰に当てた。
「 いいの、分からなくて。ただ一応自己紹介をと思って。ボクはね、そこの人に会う為にこの街へ来たんですよ。……もっとも、その人の事は何も知らない、顔も名前も…。ただ、この街一番の不穏なオーラを持った人って事しか」
「 ふ、不穏って…?」
「 ボクにとってはって意味。不可解で、謎めいていて…気持ちが悪い」
  もう一度「うえ」と言った後、数馬は心底気分が悪いというように再び胸元を押さえた。
  そうしてボー然として佇んでいる雪也に言う。
「 ボクはね、自分の力を失くす為に悪者を退治しに来たんだよ。この街一番の不穏なオーラを持った悪者を退治する事で、この自分の中の不要な力を使いきろうと思ってたんだ。でも…何だかこれ、ボクが想像していた事と状況が違うんだよな。何なんだよもう…その人の心が入り込んでくるだけで胸焼けがしちゃう。……参った」
「 ……??」
  雪也が何をどう解釈して良いのか分からずにただ突っ立っていると、やがて通りの向こうからパトカーの激しいサイレンが近づいてきて、その先の公園へと向かって行くのが聞こえた。雪也ははっとして一瞬は背後のそちらへ目を向けたが、未だ動かない涼一にも心配そうな瞳を向け、最後にもう一度数馬を見やった。
  そんな数馬は雪也にも勿論涼一にも聞こえない程の小さな声でただぽつりと呟いていた。
「 ……恋心ってどんな邪念よりも性質が悪いんだ」




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