「ふんわりきらり」
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第27話 ゆらりと目を見開いた時、すぐ傍には雪也の心配そうな顔があって、涼一は咄嗟にその場の状況を判断する事ができなかった。 「 …っ」 「 あ、まだ横になってた方が…!」 「 ……?」 雪也の制止を軽く振り切って上体を起こした涼一は、きょろきょろと辺りを見回してその見覚えのない場所に眉をひそめた。どうやらベッドの上で横になっていたようだが、いつの間にやら着ていた上着も脱がされ、シャツのボタンも上から3つほどが開かれて楽な格好になっている。頭をもう一度振ってから、涼一は呻くような声を出した。 「 …ここ何処?」 「 俺の部屋です」 「 え…っ」 雪也の言葉に涼一はがばりと顔を上げ、改めてさっと周りに視線を配った。清潔感溢れる簡素なその部屋は今自分が横になっているベッドとその脇にある机、それに洋服ダンスが整然と並べられていて確かに雪也らしい雰囲気を醸し出している。掛け布団の端をぎゅっと握り、涼一は思わず(…という事は、雪也は毎晩このベッドで眠っているのか)などと当たり前の事に感動し、じーんとしてしまった。 「 大丈夫ですか?」 けれどそんな場合でない事は雪也の台詞で涼一もすぐに思い出す。 「 あの…涼一さん、ツキト君のアパートの前で全然動かなくなってしまったから……」 「 ………」 今さっきまでのほのぼのと明るく温かい空気だった場所が、その瞬間ぴしりと音を立ててひび割れた……ようだった。 「 本当に大丈夫ですか? それに…あの、覚えているか分からないですけど、数馬って子が涼一さんにちょっと触れた直後にいきなり倒れたから…。本当に、何かあったのかと…」 「 カズマ?」 全く記憶にない…が、また新しい男の名前だ。それが雪也の唇から漏れたというだけで不快な気持ちがし、涼一は既に今どんよりと沈みこんでいる己を更に底辺にまで落とし込んだ。 それでも何とか声だけは返す。 「 誰それ」 「 やっぱり覚えてないんですか」 「 それより、そんな俺をどうやってここまで?」 恥ずかしながら涼一にはここに至るまでの記憶が一切なかった。涼一が覚えているのは自分に全く意識を向ける事なく、ツキトだの何だの他の男を気にかけ走り回っていた雪也の背中。そして、その事を激しく責め立てた自分に「嫌い」と口走った雪也の顔。 それだけだ。 そこから先の記憶が涼一には見事にぷつりと切れてしまっている。 「 あの後、ツキト君がアパートに無事帰ってきたんですよ!」 心中穏やかでなく密かに途惑っている涼一に対し、しかし雪也は「聞いてくれ」と言わんばかりの明るい顔をぱっと見せると、嬉しそうに弾んだ声を出した。 「 涼一さんがいきなり倒れてしまってどうしようって思っていたら、ちょうどツキト君が志井さんという方と一緒に帰ってきて! 本当に無事で良かった…い、いえ、本当は無事なんかじゃなかったんですけど…。ツキト君も疲れているようだからってあまり話もできなかったし…。で、でも、とにかく帰ってきてくれたから…本当にほっとして、俺…」 「 ………で?」 「 え?」 「 俺が訊いてるのは、どうやって俺をここまで運んだのかって事なんだけど」 「 あっ…す、すみません!」 涼一が何故イライラした態度を示すのか雪也には分かっていないらしい。単にすぐ質問に答えなかった自分が悪いと思っているらしく、ひとしきり恐縮した後、雪也はそのツキトと共に帰ってきた志井という男性が通りでタクシーを見つけて涼一と自分をそれに乗せてくれたのだと説明した。 「 家に着いた後は創が手伝ってくれたし…」 「 桐野君」 その時、ちょうど雪也の言葉と折り重なるようにして涼一の耳に飛び込んできたのは、部屋の扉を開く音と共に発せられた無機質な声だった。 服部創。涼一が最も忌むべき相手、隣の古本屋である。 「 あ、創、母さんは…っ」 しかしそんな「むかつくライバル」に雪也はその顔を見るや否や立ち上がって涼一から背を向け、傍に駆け寄るようにして近づいた。また、涼一がそれにボー然としているのにも構わず、創の方も慌てる雪也を落ち着かせるようにその肩に手など添えて「大丈夫」などと言っている。 「 一応警察まで送って行ったけど。あの人…いや、桐野君の母君に対して失礼な事言うようだけどね、ホントあの人相当図太いし強いから心配いらないよ。大丈夫。今回の事、君がいない間に俺もよくよく話しておいたけど、一応…まあ一応なんだけど、それなりに反省もしてるって言ってたし。やり過ぎた部下の責任は自分もそれなりには取るって言っていたから」 「 つ、捕まるんだよね…やっぱり…」 「 ………」 「 と、当然だよね…。誘拐と傷害だもんな…」 そう呟き苦しげに俯く雪也の両肩を、創は更に庇うようにして自らの両手を置いた。涼一がベッドの上で「ピキピキ」きている事など2人の目には入っていない。「ピキピキ」きながら、それでも怒鳴れない涼一の存在など彼らは全く気づいていないのだ。 「 ……ぉぃ」 実に情けない、小さな小さな声だけが出たが2人はそれにも気づかなかった。 「 ………」 本当は怒鳴り散らしたい。涼一は心の中だけで身悶えた。 思い切り叫びたい。俺の目の前でお前らいちゃいちゃするなと喚き散らしたい。どうやらあのクソばばあ(雪也の母親)は部下をそそのかした罪で警察へ行ったようだが、今ははっきり言ってそんな事どうでもいい。自分には関係ない。とにかく俺が言いたい事は、「お前ら離れろ」…それだけだ。 「 ………」 けれども涼一は声を大にしてそれを言えなかった。 何しろ気絶する直前に雪也にはこっぴどくはっきりと「フラレタ」わけだから。「嫌い」と言われてしまったのだから。 「 とにかく今日はもう遅いから」 創のぴんとした声が耳によく響いた。 「 警察としては桐野君にも事情を尋ねにくるだろうけど、心配事は全部明日に持ち越して今日は休むといいよ。疲れただろ」 「 でも…」 「 今君がここで何か考えて不安に思ったところでどうしようもない事なんだから。それに、ツキト君もあの友之って子も無事だった事ははっきりしてる。大丈夫だよ」 「 うん……。ありがとう、創」 「 礼なんかいらないよ」 創は優しく笑った後、「ただ」と初めて口調を変えて視線も雪也ではない方へ向けた。 「 !」 その視線は明確に涼一の方へと投げ掛けられていて…。 「 たださ、桐野君。あそこで俺の事を今にも呪い殺してしまいそうな人にはちゃんと誤解解いておいて欲しいな。俺は君の良い友人っていうだけだってさ」 「 え…」 創の言葉でようやく雪也も振り返って涼一を見やった。その目に途端どきりとして涼一ははっとして姿勢を正したが、何を言って良いかは分からなかった。頭の中はとにかく「お前ら離れろ」という台詞しかなく、しかしそれを言ってはいけないとは本能が命じていたので、必然的に黙っているより他なかったのだ。 「 あの…涼一さん…」 雪也が呼ぶその声に涼一は更にどきんとしてぴくりと肩を揺らした。どうしよう、目が覚めたのならもう帰れと言われるのだろうか。また改めて「嫌い」と繰り返されるのだろうか。そう思って涼一の身体は再びあのアパート内で起きた石化現象に見舞われそうになった。もう嫌だ、聞きたくない。雪也から拒絶されるような言葉など聞くくらいならこんな耳要らない。涼一は生まれて初めて怖いという感情を覚えた。かといってその場から逃げ出す事も出来ず、自分を見つめる雪也から目を逸らす事も出来ず、涼一はただただじっとその場にいて布団の端を握り締めていた。 「 俺はお邪魔だと思うから帰るよ」 その時創がそう言って踵を返すのが見えた。やった、やっとあの男が離れたと心の片隅で思ったが、そうなって尚、涼一の思考は未だ鈍いままだった。彼が気をきかせて出て行ってくれたとかいう思考は存在していない。大体にして先ほど創本人から発せられた「自分は雪也にとって良い友人」という台詞すら、涼一の記憶にははっきりと残っていなかったのだ。 「 ………あの」 それでもともかく創が去り、再びしんとした部屋に2人きりになってから涼一ははっと瞬きをした。再び雪也が傍に近づいてきて、ベッド脇の椅子に腰を下ろすと「大丈夫ですか」と繰り返してきたのだ。 「 涼一さん…? あの涼一さん、本当に大丈夫ですか?」 「 ………」 優しくて綺麗な声だ。 大好きだと思った。 「 あの…。疲れている時にこんな話してすみません。でも、涼一さんが目を覚ましたら言おうと思っていて。あの、さっきはすみませんでした」 「 ………何が」 棒読みのような平坦な声が出たが、雪也は涼一に反応があった事それ自体にほっとしたようだ。落ち着いた声色で彼は後を続けた。 「 涼一さん、俺の事を心配してついて来てくれたのに、俺自分の事ばっかりで…。貴方の気持ち、ちゃんと考えようとしてなかった」 「 俺の気持ち…?」 「 あの…その、好き…って言ってくれたことです…」 「 ……言った」 雪也の照れたような顔を不思議そうに見つめながら、それでも涼一はまだ正常な本来の動きを取り戻せなかった。未だ身体を固めたまま、ボー然とした、むしろ憮然とした様子でただ雪也の事を見据えていた。 「 ちゃんと考えようって思ってたんです。本当に。で、でもあの時は…必死だったし…。でもまさか涼一さんが俺のあの一言だけであんな風になるなんて思わなくて……あの、本当に…びっくりしました…」 「 あんな風って?」 「 え? いや…その、だから、全然動かなくなっちゃって…」 「 ああ……」 「 大丈夫ですか…?」 「 ………」 恐る恐るこちらを窺うようにして訊いてくる雪也。そんな雪也の気持ちは労わりに満ちていて優しくて、こんなところもやっぱり自分が思っていた通りの雪也で、本当に本当に愛していると思った。今まで毎日この花屋に通ってはきたけれど、あまり話は出来なくて、ただ気持ちだけが昂ぶっていて、雪也の事をもっと知りたいと思うのに出来なかった。 けれど今こうしてたったこれだけ触れ合っただけで分かる。雪也はやはり自分の思う通りの最高に理想のタイプで、ずっと一緒にいたいと思える相手だと。 それなのに、「嫌い」と言われてしまった。 「 ……大丈夫じゃ」 「 え?」 だからだろう、乾いた唇から不意にその台詞が出てきていた。 涼一は聞きとがめたように顔を寄せる雪也に片手を差し伸べながら言った。 「 大丈夫じゃ、ない」 「 涼一さ……ぐっ!?」 「 大丈夫じゃないーっ!!!」 そうして涼一はようやっとあらん限りの声で叫ぶと、だしぬけ雪也を引き寄せ、ぎゅうぎゅうと力任せに華奢なその身体を抱きしめた。 「 ちょっ…涼…っ!」 「 うっ…。う、う〜…」 「 涼一さん…!?」 泣いているのかとぎょっとしている雪也に構わず、涼一は本当に泣き声なのか呻き声なのか分からないような低い獣のような音を漏らすと、更に雪也の髪の毛に自らの顔を擦り付けて「うううー!」と振り絞るような声を出した。 そして必死に訴えた。 「 大丈夫じゃないっ。雪に嫌われたくないっ、嫌うなよ…っ!」 「 ……っ」 「 俺のこと嫌うなよー!!」 だって、こんなに俺はお前が好きなんだ!! 「 ……涼一さん」 「 離さないっ。俺のこと好きって言うまで絶対離さない! 好きだ好きだ好きだーっ」 途惑いながら何度も「涼一さん」と呼ぶ雪也の顔を見る事なく、涼一はすっかり堰が切れたように何度も「好きだ」と繰り返し、相手のその黒髪に繰り返し押し付けるようなキスをした。ずっとそれが言えなかったのは振られるのが怖かったからだ。けれど、今はもう既に嫌われて振られた後だ。それならもう何度でも嫌いが撤回されるまで言ってやろうと思った。 「 好きだ好きだ…! 死にそうな程…大好きだ…っ!」 半ば自棄のように涼一は未だ冷静とは程遠い状態で、自分の懐でもがく雪也にキスの雨と「好きだ」という告白を暫くの間ずっと続けた。 『 あなたの《力》を取るなんてボクには出来ないよ。というか、したくない』 その時、ふと何処からか聞き覚えのある少年の……妙に疲れきったようなそんな台詞が聞こえたような気がした。そういえば気を完全に飛ばす前、右肩をぽんと叩いてきた誰かがそんな事を囁いたような記憶がある。涼一は頭の片隅でちらとそう思った。 「 ……雪っ」 けれど、今の涼一にとってそんな声はどうでも良い事だった。というか、それどころではなかった。 涼一はただただ雪也に「こんなにお前が好きなんだ」と訴え続けた。 |
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