「ふんわりきらり」
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第28話 ツキトがシャワーを浴びている間に志井は全てをやった。ツキトの着替えを用意しておく事も、部屋を温めお湯を沸かして、甘い紅茶を淹れる事も。ツキトは人心地ついた時に初めてその事に気がついたのだが、浴室を出てすぐにカーペットの上に座らされカップを渡されてしまったので、「ありがとう」というたった一言をついつい出しそびれてしまった。 「 これ飲んだら今夜はもう休むといい」 志井はツキトの傍に座ってそう言った後、自分の分のカップはテーブルに置いたきりそれに手を伸ばす事なく、心配そうな瞳を向けた。そうして、もう一体何度訊いたのか分からない「大丈夫か?」という台詞を吐く。 「 うん。もう平気だよ」 だからツキトも訊かれてすぐにそう答えた。……本当のところ動揺した気持ちはまだ十分に治まっていなかったが。 志井と一緒に助けに来てくれた藤堂という人物が警察を呼びに行った後、深夜の公園は一種物々しい雰囲気に包まれた。そのせいか、もう絶対に安全だと分かっているのにツキトは怖くて堪らなかった。志井はずっと傍について離れないでいてくれたが、事情聴取をする警察からじろじろと無遠慮に見られた事も酷いショックだったし、昼間別れたはずの友之が同じ場所で同じ輩(ホセたちの仲間の一人、名前はパールと言った)に襲われかけたと聞かされた事にも二重の衝撃を受けてしまった。 そして何より今回の事件に雪也の母親が関わっていたらしいという話には……動転していた事もあって、その内容の半分もツキトは理解する事が出来なかった。 「 とにかく休め。何も考えるな」 はっとして顔を上げると、志井の心配そうな顔があった。ついつい暗い表情を浮かべていたのだろう、ツキトの顔色を窺うようにしてじっと見やってくるその瞳はそれだけでツキトの弱っていた心にじんじんと響いてきた。 「 うん…。でも雪也さんは…」 だからつい甘えて声を出しかけたのだが、志井はそんなツキトの髪の毛を優しく撫でると「大丈夫だ」と言った。 「 あの男…お前の友達なんだろう? さっきだって心配してずっとアパートの前に立って待ってたんじゃないか。そんな奴の母親がお前に何かしたなんて、何かの間違いって可能性もある。……心配するな」 「 ……うん。そうだね」 それが志井の口から出たただの気休めだという事はよく分かったが、ツキトはやがて力なく頷いた。両手で持ったカップの熱が手のひらに丁度良い温かさを送ってくれる。だからもう一口、そのカップの中身を啜ってから、ツキトは「ありがとう」とやっと志井に礼を言った。 「 ……っ」 その後、何だか急激に恥ずかしくなった。 先刻は公園で誰の目を憚る事もなく志井にずっとしがみ付いていた。よくよく考えればあの警察官が訝しそうな目で見ていたのもそのせいかもしれない。志井が離れないでいてくれたのではなく、自分が志井に抱きついて離れなかっただけではないか…? ――その事実に思い至ると、ツキトはただでさえ風呂上がりで火照っていた頬をより一層赤くして俯いた。 「 熱でもあるのか?」 そうとは知らず志井がそこに手を当てて再び不安そうに尋ねてくる。ツキトは何でもないという風に慌てて首を横に振り、大丈夫だからと言おうとして口をぱくぱくと開いた。思うような声は出なかったが。 「 風邪かもしれない。あんな所にずっといたんだからな。薬でも飲んでおくか……ん、これは?」 その時、ふと志井が何かに目を留めたようになって動きを止めた。 「 え?」 志井の声に誘われるようにしてツキトが顔を上げると、テーブルの上には小さな薬瓶のような物がこれ見よがしに置いてあった。おかしい、この折りたたみ式のミニテーブルは先刻志井が用意したばかりで、確かその上には紅茶の入ったカップ以外何も乗っていなかったはずである。 それなのに。 「 ……ああ」 けれどもツキトはひとしきりそれを眺めた後、急に思い出したようになって得心したように声を上げた。 「 これ、お店に来たお客さんに貰ったやつです。『元気になる薬』って言ってた」 「 やっぱ風邪薬か。バイトの時具合でも悪かったのか?」 志井は数馬の兄・和樹が店で発した「魔法の薬」うんぬんの台詞を知らなかった為、ツキトの言葉をそのまま文字通りのものとして捉えた。ツキトはすぐさまそれを否定しようとしたのだが、その途端何となく口が重くなって詳しい説明をする事が出来なかった。 「 ………」 それどころかツキトは薬瓶を手に取ったその瞬間から、早くそれを飲みたくて仕方がなくなっていた。 まるで誘われているかのように。 「 ほら水。薬飲む時は紅茶より水かお湯がいいだろうからな」 「 あ…ありが…」 ぼうとするツキトに成り代わり、志井が素早く台所へ行ってコップに水を汲んできた。本当にツキトの身体が心配なのだろう、ツキトがその事に礼を言いかけるのも構わず、「いいから早く飲め」と急かした。ツキトの動作が鈍い事も熱のせいだと思っているのかもしれない。 それでツキトも促されるままに薬瓶から出したそれを水と一緒にこくりと一気に飲み干した。 「 ん……甘い」 それは翡翠色をした小さな丸い粒だった。飲み込んだのだから味などしないはずだったが、何故だか確かに「甘い」と感じた。 「 そうか、良かったな」 一方の志井はほっとしたようにそう応え、「さあ、じゃあもう寝ろ」と再び追いやるようにしてツキトに隣の部屋を指し示した。 「 ………」 ツキトとしても今日はもうくたくただ。疲れているから早く眠りたい。 けれども、ただ1つの心配事のせいですぐ立ち上がる事が出来なかった。 「 あ、あの…」 このまま寝室へ向かって眠りに入ったら、志井はもう帰ってしまうのだろうか。今夜は本当に恐ろしい目に遭ったし、正直、志井には今夜一晩だけでも良いから傍にいて欲しい、帰って欲しくないと思っていた。……けれどこんなに世話を掛けてしまって、これ以上の我がままを言うなど絶対に許されないだろう。 「 ………」 「 ? どうしたツキト」 「 うん……」 そう、「ここにいて欲しい」と頼むなど図々しい。 素直に礼を言って、もう大丈夫だからと言わなければ。 「 志井さん……」 「 ん?」 けれどツキトが意を決めて次に発した台詞は、その想いとはまるきり逆のものだった。 「 今日、帰って欲しくない……。………えっ!?」 ツキトは自分で自分のその言葉にたちまちぎょっとして口を押さえた。 何を口走ってるんだ! つい本心が口をついて出てしまった!? 「 あ、あのっ。俺っ!」 「 ああ大丈夫だツキト。お前が何と言おうが俺は元から今夜一晩はここにいるつもりだったから。お前を置いて家になんて帰れるか」 「 ………」 けれども志井の方は焦るツキトに微か笑ってそう答えた。それでツキトも途端ほっとして笑顔になったのだが……意思に反して言ってしまった発言そのものには心内で未だ動揺していた。 ( でもいいか…。そのお陰で志井さんがここにいてくれるって分かったんだから…) 「 じゃあ、もう寝ろ。ツキト。な…?」 「 うん。……」 けれど1度願いが叶うともっともっとと思ってしまうのが人の性。 ツキトは今度は「それなら志井にも一緒のベッドで眠って欲しい」と思った。元々この冷えるボロアパートに余分な布団はない。志井を床で眠らせるわけにもいかないし、そう考えれば一緒に眠る事は必然なのだが……いざ口に出して言うとなるとやはり勇気がいる。ツキトは言い淀んだ。 それに前日、志井とは「あんな事」があったばかりだ。ベッドで一緒に寝てくれなどと言ったら、誘っていると思われるかもしれない。 「 ………あの」 やはり言えない。毛布ならまだ一枚どこかにあったかも。自分がそれで違う所で寝てもいいのだ。志井にそう言わなければ。 けれど。 「 志井さん…。あの、それなら一緒に寝てくれる…? ………って、ええっ!?」 しかしツキトは気づけばまたしてもその「言えないはずの本心」の方を口走ってしまっていた。あわわと慌てて口を押さえたものの、もう遅い。志井にもばっちり聞かれてしまった。 「 ツキト…?」 志井もまさか大人しいツキトからそんな台詞が出るとは思っていなかったのだろう。驚いたように暫し目を見開いていたが、やがて「きっと今夜はそれほど動揺しているのだろう」という結論に至ったらしい。労わるような優しい笑みを浮かべて志井は言った。 「 ツキト…。大丈夫だ、俺はちゃんと傍にいるから。……ベッドには一緒に入れないが、ちゃんとここにいる」 「 何で? 何で一緒に入れないの?」 「 え?」 「 どうして一緒のベッドじゃ駄目なの?」 バカバカ、断られているのにそんな事訊くな! それでもツキトは止まらない。もう何が何やら訳が分からなかった。 「 志井さん、お願い…」 バクバクと激しく動く心臓の音を耳に入れながら、ツキトは最早自分自身でも制御不可能な動作で膝の上にあった手を延ばし、志井の腕をねだるように強く引っ張った。 「 お願い…。俺、志井さんと一緒に寝たい」 「 ツキト…」 「 駄目…? どうしても?」 どうした事か目が潤み泣きそうにすらなっている。ツキトは更に心内だけで「どうしちゃったんだ俺!」と悲鳴をあげながら、それでももう一方でその言葉が決して嘘偽りなものなのではなく、自分の本心なのだと自覚していた。 「 ツキト…。今のお前と一緒に寝るのは、正直俺にはきつい」 すると暫くしてようやっとという風に志井がそう答えた。 「 だからそれだけは勘弁してくれ」 「 何で!?」 「 ……今度は俺があの無法者になっちまうからだ」 「 無法者?」 困ったような志井の顔に構わず、ツキトはまだ志井の腕を引っ張っている。まるで駄々っ子だった。それでも手を離す事が出来ない。 また、志井の方もツキトのこんな「異常」に気づかない程動揺しているらしい。らしくもなく視線をあちこちにやりながら苦しそうに言う。 「 誓ったばかりなんだぞ、俺は…。お前の気持ちが伴うまで待つと決めた…」 「 気持ち? 俺の……気持ち?」 「 ああ」 「 ………」 志井の肯定と共にツキトの動きはぴたりと止まった。 先刻までの胸のざわめきが嘘のように静かになっている。 「 俺は……」 ツキトは志井の顔を見つめながら、「そんなのもう決まっているのに」と思った。ただ、それをずっと口に出来なかっただけなのだ。志井への想いは、当初単なる憧れだったし、こうして話が出来るようになった今でもまだどこか手の届かない遠い存在、という意識があった。それは突然志井にキスをされ、俺のものになれと言われた今とてあまり変化はない。ツキトは周囲も驚き呆れるほどに自己評価の低い人間だった。こんな自分で相手には迷惑なのではないか、今は良くてもいつかは飽きられてしまうのではないか…そんな不安が常に心の中にあった。 「 俺……」 それでも、言わなければならない時がある事くらいツキトとてよく分かっている。それはとても勇気が要って怖い事ではあるけれど、それでもツキトは志井に縋る手に再度力を込めると口を開いた。 「 俺…志井さんのこと好き、です…。ずっと…そんなの、ずっと前からそうで…」 「 ツキト…」 志井のほっと安堵したような空気が触れ合う場所から伝わってきた。それでもツキトは妙に焦った気持ちがして、急いで更に言葉を継いだ。 「 た、ただ、怖かった…! あの時は特に…っ。その、急だったし。俺だけあんなになっちゃったし…! だ、だから…っ。志井さんがあんまり強引だったから…怖くて…。あんなんじゃ、俺、考える暇がない!」 「 ……悪かった」 「 !! 違う、今のは口が勝手に言った!」 「 え?」 「 あっ! でもその前の告白とかはちゃんと自分の意思で言った! さ、最後のだけ! 最後のだけ勝手に口が動いた!」 「 ……??」 志井が不審の顔をするのをツキトはパニックになりかけながら再びわたわたと身体を揺らしたが、それでも遂に思い余って志井の懐へ飛び込んだ。 これは反射的になのか自分の意思でなのか、もう判断はつかなかった。ただひたすら頭の中がカッカカッカと熱くて、常に火山が爆発しているような状態だった。 だからなのだろうか。 その後に続いた以下の台詞は、明らかにコンロトール不能の中飛び出した「本心なのかどうかも分からない」暴走しきったものだった。 「 志井さん、好き…! 大好きだから! だからだから、志井さんさえ良いなら俺、志井さんとした…凄くしたいよっ、ちゃんとしたいっ。だから…だから今夜は俺と一緒に寝て…!」 「 ツキ――」 「 うわあっ!? お、お、俺、凄い、何言って…! いや、う、嘘ではないんだけど、でも…うわあっ」 「 ツキト!!」 「 わっ」 己の発した台詞に翻弄する時間はツキトにはなかった。 ぐらりと突然視界が揺れて、ツキトは普段ならあまり見ない天井と、すぐさまそれを遮って視界に現れた志井とを次々にその瞳に映した。 今度は逆にツキトが志井に腕を取られ、そのままその場に押し倒されたのだ。 「 お前って奴は…」 直後、志井のどこか押し殺したような低い声。 「 志井さ…あの…」 「 この俺がこんだけ我慢してんのに物凄い事言いやがって…もう止まらないからな…!」 「 ちょっ…志井さ…! ちょっ、待…んんっ!」 待ってという言葉は最後まで言わせてもらえなかった。 ツキトはベッドへ行くどころか、理性の糸を完全に断ち切った志井によってその場で激しいキスをされ、そのまま服も脱がされて結局――最後までされてしまった。抵抗とか拒絶とか、そんな暇はなかった。もっともそんな意思もなかったのだが。 それどころか。 「 あ、あっ…。気持ち、い…! 志井さ…もっと、触って…!」 行為の最中に口走るツキトの誘い文句はいちいち強烈で扇情的で、たとえ志井が無理矢理押し倒した形から始まったものだとしても、この晩の一連の出来事は傍から見れば一体どちらがリードしているのか分かったものではなかった。 ただ、自らの意思で発したわけではないそれら「スゴイ台詞」の数々に関して……ツキトの羞恥心は限界点を越え過ぎてしまって、暫し本人を相当に落ち込ませたらしい。 勿論言われた志井の方は大層喜んでいたのだけれど。 |
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