「ふんわりきらり」


第4話 



「 すまないね、折角寛いでいたところを邪魔して」
「 いえ」
  相手の顔に薄っすらと浮かんだ笑みにはあまり申し訳なさそうなものは感じられないと思ったが、その想いは表に出さず光一郎は自らも曖昧に笑った。
  仕事明け、久方ぶりにようやく私邸に戻る事ができたというのに、光一郎は休む間もなく思わぬ珍客のを相手するハメに陥った。働き詰めで心身共に疲弊しきっていた身としては、本来ならば余程の相手でなければ早々にお帰り願うところであったが、不幸な事に予期せぬ来客はその「余程の相手」に当てはまった。
「 実は急いで出て来たものだから、大した手土産もないんだ」
  その珍客は自分の真向かい、客間の長椅子に腰を下ろした光一郎を見やりながらゆったりとした口調でそう言った。光一郎の父ほどの年であろうその紳士は実年齢より若く見えるが、その余裕のある不敵な雰囲気には静かな迫力が感じられる。
「 それで、これ」
「 何ですか?」
  しかしその迫力を押し隠すようにその人物は飄々とした態度で光一郎の前に小さな箱を差し出した。光一郎が不審な顔をすると、珍客はにやりと口の端を上げた。
「 うちの新商品のサンプルだよ。まだどこにも出していない貴重品なんだ。うちの爺さんの開発チームが作った物なんだがね」
「 はあ」
「 光一郎君はその年で既にお父上よりもよく働く真面目人間だ。食事をする暇もないだろう。そんな時はこれを飲むといい」
「 栄養剤…ですか」
「 魔法の薬だよ」
「 魔法…」
「 うちの家系は代々魔法使いなものでね」
「 ……はは」
  本気とも冗談とも取れる顔でそう言う相手に、光一郎は何とも反応し難い様子で顔を引きつらせた。相手は敬うべき年長者であり、父の代から世話になっている商売相手だ。あまり失礼があってはならないが、正直その手の話は苦手だった。
「 香坂社長」
  光一郎はさり気なく話題を変えようと、姿勢を正すと改まった様子で相手の名を呼んだ。以前仕事外で食事を共にした時「こういう席では社長はよしてくれ」と言われたような気もしたが、他に丁度良い呼び方を思いつかなかった。
「 ところでこちらに野暮用とは?」
「 ん…」
「 自分の生まれ育った土地を悪く言うのも何ですが、この街に貴方が興味を示すような物があるとは思えませんが」
「 ああ、仕事とは違うんだよ」
  光一郎の問いに苦笑しながら香坂と呼ばれた客人は首を振った。
「 仕事はまあ…爺さんも健在だし、今は上の息子にも大分任せられるようになってきたんでね。私がここへ来たのは別の理由だ」
「 別の理由…」
「 実はひと月程前から息子が行方不明でね」
「 は…?」
  香坂の言葉に光一郎は目を丸くした。たった今息子に仕事を任せてきたと聞いたばかりなのだが…。
「 ああ、上の和樹はいる。下の息子がいないんだ」
「 ………」
  この人は時々本当に敏感にこちらの意を読み取る。
  光一郎が心密かにその事に驚いていると、相手は構わずに続けた。
「 光一郎君には会わせた事がなかったかな。長兄の和樹と、下にまた1人ずつ、息子と娘がいるんだよ、私には」
「 ああ…そういえばそうでしたね」
  以前誰かから聞いた話を思い出して光一郎は得心したように頷いた。
「 確か数馬君でしたね。非常に優秀な息子さんだと伺っています」
「 そう。あれはなかなかに優秀なんだ」
  謙遜するでもなく堂々と言う香坂に、光一郎は(本当に親馬鹿だ)と心内で呟いた。
「 いなくなられたというのは?」
  それを押し隠して光一郎が訊くと、香坂は一瞬天を仰ぐような仕草をした後、何故か楽しそうな顔をして笑った。
「 実は完全な行方不明というわけでもないんだ。時々だが学校には行っているようなんでね。ただ家に帰って来ないんだよ」
「 はあ…? それならば学校で待ち伏せをしては?」
「 ううむ」
「 ………?」
  何やら考え込むように腕組をする香坂を光一郎は不思議な面持ちで見守った。この人は一体ここへ何しに来たのだろうと思う。自分の所へ来たとて息子の行方が分かるわけでもあるまいし、本当にただの気紛れで立ち寄り、愚痴を言いに来たのだろうか。まさか先代が作ったというこの栄養剤を試させたかったわけでもあるまい。
「 ま、連れ戻そうと思って連れ戻せるような奴でもないんでね」
「 え?」
「 そうそう、人探しと言えば君も身内を探しているとか。腹違いの弟だって?」
「 な…何故それを?」
  ぎくりとして顔を強張らせると香坂はそんな光一郎の緊張を解きほぐすように片手をひらひらと振った。
「 壁に耳あり障子に目あり。いやはや、まあそんな事はどうでもいいじゃないか。それより、今月の探し人と言えばこの街の中央に鍵ありと出たんでね。君にも一応教えてあげようと思って寄ったわけだ。いやしかし、まんまと君がいる時にお邪魔できて良かった」
「 は、はあ…?」
  相手のぺらぺらとよく動く口を見つめながら、光一郎はやや押され気味になりながらも何とか声だけ返した。何の話やらよく分からないが、この不思議な人はそういえば昔からよく勘だの占いだの、果ては魔法だのと言ってはよく何らかの「予言」をする。今回もそういった類の話なのだろうと思った。
  この街の中央。何があっただろうか。割と繁華街で駅は勿論、多くの店―カフェだの本屋だの花屋だの―が立ち並んでいたと思ったが。
「 君も最近まで随分と働き詰めだったんだから、たまには街に繰り出してプワーッと遊んで来たらどうだい」
「 ………」
「 私も暫くはここに滞在していると思うので」

  その魔法の薬、飲んだら是非感想を聞かせてくれよ?

「 ………」
  そう言って笑む香坂に、光一郎はやはり何とも返す事ができなかった。





「 だからっ。俺はお前の使いっ走りじゃないだろ!」
「 まーまーそんな怒らないで。トモ君の為なんだから、ね?」
「 くっ…!」
  一方、沢海拡のアパートでは朝方一旦中断された言い合いが再び開始されていた。
「 大体お前の身勝手さは度を越してるんだよ! 朝飯の事もそうだけどな、電話してきたと思ったら夕飯と地図? 服? 何なんだお前は一体!?」
「 だって今日はボクたち一歩も外出てないから今夜のご飯がないし。地図は夕暮れ通りの載っている適当なのがなかったから欲しかったし。服はトモ君にいつまでも君の貸してあげるわけにもいかないでしょ? ボクのよりはマシだけどやっぱり大きいからね。トモ君チビだから」
「 お前っ。俺のクローゼット勝手に…っていうか、部屋に入ったのか!?」
「 入った」
「 こんの…!」
「 あ、あの…」
「 ……っ!?」
  息巻く拡をおずおずとした声で止めたのは友之だ。沢海がはっとして唇を閉じると、友之は酷くしょげた様子で俯き、やがてへこりと頭を下げた。
「 ご、ごめんなさい…。服…」
「 あ……」
  自分のトレーナーを着た友之がその胸元をぎゅっと掴みながら項垂れている様子に拡は脳天を思い切り叩かれたようなショックを受けた。友之を責める気持ちなど毛頭ないのに、今数馬を責めるという事は自動的に友之を責める事にも直結するのだという点には頭が回らなかった。何だか今日は朝からずっと調子を狂わされてばかりなのだ。
「 あ、明日には…出て行く、ので…。それにあの、食事のお金も…後で払います…」
「 払うってキミ、当てでもあるの?」
  これには数馬が氷のように冷たい声で詰問した。友之がぐっとなって黙り込むと数馬は余計調子に乗ったように馬鹿にしたような顔を閃かせた。
「 返す当てもないのに偉そうな事言わないの。キミは貧乏なワケアリの家なし子なんだから、このお人よしな拡クンに甘えるしかないわけだよ。つまんない事言うなよな」
「 数馬! お前は黙れ!」
「 何でさ」
「 いいから黙れ!」
「 ……はいはい」
  肩を竦めて大人しく口を閉じた数馬は、キッチンへ歩いて行き、自分の為だけのお茶を淹れ始めた。拡は呆れたようにその様子を見やってから、改めて傍でしゅんとしている友之を見下ろした。今朝見た時より小さくなっている気がする。その様子は何故か自分の胸がズキズキしてしまう程で、拡は思わず傍に座り込むとそんな友之の頭をそっと撫でた。
「 ……っ」
  それに対しびくりとして顔を上げる相手に拡はなだめるように優しく笑った。
「 気にするなよ。俺は数馬の馬鹿には頭にきてるけど、友之の事は全然迷惑なんて思ってないから」
「 ………」
「 本当だよ? あいつにはさっさと出て行って欲しいけど、もし友之が行く所ないなら、ここにいてもいいよ。友之1人くらいなら、全然―」
「 3人で住むには狭いよね、この部屋」
「 お前がさっさと家に帰ればいいんだ!」
「 はー。すっごい冷たい。何なの、知り合ったばっかのトモ君には異様に優しいくせに。昔ながらの同級生であるボクにはその態度」
「 友之、それで着替えないんだよな? 適当に色々買ってきたけど気に入るかな? ちょっと見てみろよ。あ、その前に夕飯食べるか?」
「 ………無視かよ」
  キッチンから毒を吐く自分を完全にないものとみなすルームメイトに数馬は思い切り苦笑してから再度肩を竦めた。拡はその分かりやす過ぎる性格が一緒にいて楽なので居候をする相手に選んだのだが、ここまで暴走すると少しだけうざったい。
「 ふう」 
  それでも自分の要望通りの物を揃えてきた拡には感謝するしかないだろう。
  数馬はリビングで気持ち悪いくらい友之を構い始めた拡をよそに、彼が買ってきた物をさっと取り出した。
  夕暮れ通りの地図。
「 ……犯人は犯行現場に戻るってね」
  ぴらりと四角折りにされた地図を広げながら数馬は独りごちた。退屈で退屈で仕方なかったのだ。少しでも面白い事があれば良いと思った。





  既にどっぷりと日の暮れた夜の街をツキトはのろのろとした足取りで歩いていた。
「 はあ…」
  疲れた。
  画家になりたくて家を出たは良いものの、絵の勉強などする間もなく毎日の生活に追われてしまう。今まで当たり前のようにあった食事も寝床も、それを手に入れる為にどれ程苦労しなければならないかという事をツキトは独りになって初めて実感した。
「 んっ…と。まだ開いてるかな…」
  それでも後悔はない。ツキトは仕事ですっかりくたびれた両腕をぐんと伸ばすと、元気を出すように少しだけ歩く速度を上げた。
  何もかも捨ててこの街に来たのは好きな事をやり抜く為だ。確かに生活は厳しいけれど、雪也や修司や、優しい人たちに自分は恵まれている。ちょっとの事で弱音を吐くわけにはいかない。
  たとえ少しばかり空腹だとしても。
「 あー…。もう閉まってる」
  けれどツキトはお目当ての店の前まで来て思わず落胆の声を零した。そこはツキトがよく利用する安い食事処だ。しかしいつも仄かについている店頭の明りも今はすっかり消え失せ、中はしんと静まり返っていた。恐らくはいつもより少し早めに店を閉めたのだろう、店員も自宅へ下がってしまったようだった。
「 しまったなあ」
  カフェのバイトの後は週に4回、清掃のアルバイトも入れている。
  そんな日はこうして夜遅い時間まで仕事が込んでしまう事もあるから、安い店で食事を摂る事が叶わない事などしょっちゅうだった。
  それでも今日は間に合うかと思ったのだが。
「 まあ…いいか」
  一食くらい抜いても死にはしないだろう。
  あっさりと諦めるとツキトはくるりと踵を返した。あまり食べるという事に頓着がない為、こんな事はザラだ。その為バイト先の修司などにはいつも「ガリガリ過ぎて抱き心地悪そう」などとからかいだか何だかの言葉を貰ってしまう。
「 ツキト」
「 え…?」
  けれどツキトが店から離れて再び歩き出した時だった。
「 あ…志井さん」
  振り返った先にはカフェの常連客である志井が立っていた。突然の事に驚くツキトに、志井は平然と、しかし明らかに機嫌が悪い様子でぶっきらぼうに声を出した。
「 来い。そうやってすぐ諦めるな。…飯、行くぞ」
「 え?」
  その誘いにツキトは思い切り面食らい、同時に心臓が外へ飛び出さん程の勢いでドキンと鳴り響いたのを聞いた。
  志井からこうして食事に誘われたのは、これで2度目だった。




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