「ふんわりきらり」


第5話 



「 あの…志井さ…」
「 適当に座って待ってろ」
「 あ…う、うん」
  きょろきょろと所在ない風に広過ぎるリビングを見渡すツキトは、先程から自分の心臓音が気になって仕方なかった。さり気なく深呼吸などしてみるが、キッチンでお茶の用意か何かを始めている志井の背中を見ただけでもう落ち着かない。こんなに居心地の悪い想いをするくらいならば、あの時はっきり帰ると言えば良かったのだ。
  でも、言えなかった。
「 どうした? 座ってろって言っただろ?」
「 あ…」
  トレイに2人分のコーヒーカップを持ってきた志井は未だ部屋の中央に立ち尽くしているツキトに不審の声をあげた。ツキトは慌ててその場に座りこんだのだが、背後には柔らかそうな立派なソファがあるのだからそこへ腰掛けるべきだった。慌てて振り返ったが、そのタイミングを壊すように志井が自らもツキトの隣へ直接腰を下ろした。
「 あ…」
「 お前にはココアを淹れた」
「 あ、ありがとう…」
「 一緒に何か食べるか? 貰い物の菓子があったような気がするな…どこへしまったか」
「 いっ…いいよっ。もうお腹いっぱい!」
「 そうか?」
「 うん…っ」
  慌てて頷くツキトに、志井はしかし不満そうに眉をひそめた。
「 本当にお腹いっぱいだから…っ。あんな凄いレストランでたくさんご馳走してもらったんだから…!」
  そんな志井にツキトはまくしたてるよう言った後、気まずい空気をごまかす為テーブルに置かれたコーヒーカップを両手で取った。ふわりと温かいココアの匂いが鼻先を掠める。はっと息を吐き、ツキトはそのカップの中身をじっと見やった。



  志井とはツキトのバイト先であるカフェで出逢ったのが最初だが、初めて個人的に言葉を交わしたのはもう一方のバイト先でだ。
「 いっ…!」
  その日ツキトはバイト先の清掃会社から派遣され、IT系企業のオフィス内で床磨きをしていたのだが、たまたま最後の締めでモップを使わず直接雑巾掛けをしていた時、通りがかった大柄の男性社員に思い切り手を踏まれてしまった。
「 っと…。何だ!?」
  曲がり角からやってきたその大男は共に歩いていた人間との会話に夢中でツキトの存在にまるで気づかなかったらしい。柔らかいものを踏んだ不快な感触とツキトの微かな悲鳴とでようやく自分のやった事に目を留めた。そうして一瞬は途惑った風な顔を見せたものの、ツキトの姿を認めるとみるみる蔑んだ表情になり、一転声を荒げてきた。
「 こんな所でちょろちょろするな! 気をつけろ!」
「 す…すみません…」
「 ふんっ」
  踏まれて手を傷めたのはツキトの方であるのに、謝ったのはツキトだけだった。男はツキトを軽く一瞥した後、何事もなかったかのように去って行った。
「 ………」
  その後ろ姿を見送った後、ツキトはそっとため息をついた。派遣先の会社員が全てあんな人でない事は分かっているけれど、自分が清掃のバイトだというだけでああやって何か汚い物でも見るように不遜な態度を見せる人間は珍しくない。実際今の男もその類の人間であるようだった。
「 いて…」
  じんじんと赤くなった手の甲を見つめながらツキトは1つ呟いた。
「 見せてみろ」
「 え?」
  その時、背後からそう声を掛けてきたのが志井だった。
「 あ…」
  カフェによく現れる客だという事はすぐに分かった。元々店の常連客はすぐに覚えるツキトだったが、志井の事はまた別格だった。いつも決まった席で静かに本を読み、去って行く志井。その落ち着いた物腰や、一方でどこか危険な匂いも感じるただならぬ雰囲気に、何故か気づけばいつも目で追っていた。名前も何も知らないけれど、ツキトは志井があのカフェのあの席に座る事をこの頃の楽しみにしていたのだ。
  その志井が今目の前にいる。一体何故。
「 ……痛むか」
  ぼーっと志井の顔に見惚れてしまっているツキトにそう声が掛けられた。
「 ………」
「 おい。おい、どうした?」
「 あっ」
  はっとして瞬きをすると、志井はツキトの傷んだ手を取ったままじっとした視線を向けてきていた。ツキトが何も発しないのを訝っている。ツキトは慌てて首を横に振り、志井に握られていた手も急いで引っ込めた。
「 だ、大丈夫です、このくらい!」
「 その先に医務室があるぞ。行くか?」
「 本当に大丈夫です。ちょっと踏まれただけだから…っ」
  本当はあの随分と体重のありそうな大男に思い切り踏まれた事で、ツキトの右の甲は未だ情けない悲鳴を上げていた。けれどもツキトにしてみれば、心の中で密かに憧れていた志井に声を掛けてもらえただけで胸がいっぱいだ。ふと相手の胸元にあったネームプレートから「志井克己」という文字が飛び込んできた。この先にある開発室の職員らしいとは初めて思い至ったが、ここの社員だったのかという事よりも、「この人は志井というのか」という思いが先に来た。
「 ……あのクズには後で倍返ししておく」
  夢の中にいるような状態のツキトに志井がぽつりと言った。
「 え?」
  よく聞こえず聞き返したが、相手は何も言わない。ただツキトが引っ込めた手をもう一度取ると、志井はやや俯いたままの姿勢でゆっくりと唇を動かした。
「 ……あの店で働いてもう長いのか?」
「 え?」
「 あのカフェだ。中央広場沿いの」
「 あっ…」
  言われた意味を理解してツキトが今までと違った声を上げると、志井はここでようやく顔を向けた。
  ツキトはそれにまた意味もなく赤面しながら、無理に笑いながら首を横に振った。
「 そんなでもないです。俺、この街に来てまだ間もないし…」
「 ………」
「 あの…?」
「 ツキト」
「 え?」
「 ……そういう名前なんだろ。そこにもあるし」
「 ああ…」
  自分と同じように、志井もまたツキトのネームプレートを見たらしい。ツキトがまた先刻よりも明るい笑顔を見せると志井は立ち上がり、言った。
「 あそこだけでなくこんな仕事までして…。ちゃんと食ってるのか? お前痩せ過ぎだろう。身体が小さいから踏まれたりするんだ」
「 そ、そんな事……」
「 今日、いつ空ける?」
「 え?」
「 飯。食いに連れて行く」
「 ………え?」
  その有無を言わせぬ調子にツキトは思い切りぽかんと口を開いて絶句してしまった。志井はそんなツキトを見ていなかったが、断られる事など微塵も考えていないのだろうか。が、憮然とした表情のまま志井は静かにツキトの返事を待っているようだった。視線は向けないくせに。
「 い、行きます…」
  そんな志井にツキトは恥ずかしそうにしながらも必死に返した。
  それからだ。
  ツキトが志井との関係を少しだけ深め始めたのは。



「 ……――ツキト。おい、ツキト」
「 はっ!」
「 どうした? 呆けた顔して」
「 あっ…別に、何でも」
  ふと以前の事を思い出していたツキトは志井の呼びかけで我に返り、気まずそうに俯いた。
  手の中のココアがじんと熱い。
「 …本当はコーヒーが良かったのか?」
「 え?」
  隣の志井が尚も声を掛ける。ぶっきらぼうではあるが、黙りこくるツキトに気を遣っているようだった。
「 ち、違う…。違います」
「 別に敬語なんかいいって言ったろ」
「 あ…」
  そうだったと思い、ツキトはまた曖昧に頷いて情けない笑みを口元に浮かべた。
  1度目の食事の時、何を思ったのか志井はツキトの事を根掘り葉掘り訊いてきたかと思えば、「こういう風に会う時は畏まった口調を止めろ」と緊張でガチガチになっているツキトに不機嫌そうに言った。不器用故の口調なのだろうが、自分のその横柄な物言いがツキトを余計に硬くさせている事に気づいていないようだ。無論、ツキトの志井への内なる感情にもまるで勘付いていないのだろう。
「 あの店の味、自分でも作りたいんだけどな」
  沈黙の多いツキトを無理に喋らせるのは諦めたのか、志井は1人で話し始めた。自分の手にあるカップからはツキトのものとは違い、ブラックコーヒーの湯気がたゆ立っている。
「 どうしてもああはいかないな。やっぱりプロだな」
「 あっ…うん! 修司さんのコーヒーは本当に美味しい」
  自慢の店を誉められた事が嬉しくて、ツキトもぱっと顔を上げて口を開いた。
「 俺も初めて修司さんのコーヒーを飲ませてもらった時、感動したんだ。あの時、丁度家出してきたばっかりで…。お金もそんなになくて。でも修司さんの店から凄く良い香りがして、我慢できなくて店に入ったんだよ。そしたら修司さんがとびきり甘いホットコーヒーを淹れてくれて…」
「 ………」
  志井がみるみる表情を翳らしていくのにツキトは気づいていなかった。
  あの時の修司の親切は今でもはっきりと覚えている。忘れられるわけがない。「こんなに嬉しそうに飲んでくれるなら幾らでもサービスしたいね」なんて軽口を叩いたかと思えば、ツキトの窮状を聞くとすぐに「ならうちで働けば」と声を掛けてくれたのだ。気紛れでいい加減で、ふとした事で店を閉じ、ふっと何処へ行くのか数日姿を消す事などもあるけれど、あの不思議な店主をツキトはやはり尊敬していた。
「 修司さんのコーヒー目当てで来るお客さんてホント多いよね。それにほら、凄くカッコイイでしょう? だから女の子のお客さんも多いんだよ」
「 ………」
「 ……? 志井さん?」
  あ、何を自分だけ喋ってしまったのだろうか。
「 あっ…」
  ふっと夢中に口を動かしていた自分に気づき、ツキトは志井を見つめてさっと青褪めた。いつも店でも静かにしている志井だ。お喋りな人間はあまり好きではないのかもしれない。
「 ご、ごめんなさい…。俺、何か煩かったよね」
「 ………」
「 ……あの」
「 ツキト」
「 え?」
  尚も謝ろうとしたツキトを遮るように、不意に志井がカップをテーブルに置くと言った。
「 もう遅いだろ。今日は泊まっていけ」
「 えっ」
  言われた事にぎくりとしてツキトは危く持っていたカップを取り落としそうになってしまった。ちらと背後の時計に目をやると、なるほど大分遅い時間だ。
  ツキトは忘れかけていた緊張を再び思い出し、急にあたふたとし始めた。
「 で、でも悪いし。別に大丈夫だよ、アパート、ここからそんなに遠くないし」
「 でも危ない」
「 危な…大丈夫だよ。女の子ってわけでもないんだし」
「 危ない」
「 志井さん…」
  有無を言わせずそう言う志井にツキトは困って俯いた。親切にしてくれるのは嬉しいけれど、しかしどうして志井はこうして自分に構ってくるのだろう。あまり他人に関心を持つようなタイプには見えない、むしろ外界からの干渉から極力避けようとするような雰囲気を持っている人なのに。
  食事を振舞ってくれたり、こうして夜道が危ないなどと気遣ってくれたり。
  甘いココアを淹れてくれたり。
「 あっ…?」
  その時、その見つめていたココアをさっと取り上げられてツキトは驚いて顔を上げた。見ると志井がツキトの手からそれを取ったかと思うと、自分のカップをそうしたようにテーブルに置いている。途惑ったようにそれを見守っていると、次に志井は再びツキトに向き直って言った。
「 泊まっていけよ」
「 ど、どうして…」
「 ……どうして?」
「 どうして…志井さん、そんなに親切に…?」
  やっと訊けたと思ってツキトははっと息を吐いたが、直後、実はその質問はとても怖いものだと思い至り、冷や汗が出た。自分が心の奥底で願っているような事なら良いけれど、それが大きな勘違いでただの気紛れだったり、貧しそうな少年に対する同情心からだったりしたら。
  たぶん、自分はひどく傷つくだろう。
「 親切……親切なんかじゃない」
  すると一時の間の後、志井が言った。
「 えっ…」
  ツキトがそれで改めて志井を見つめ返すと、志井はそんなツキトに自らも顔を寄せた。綺麗な顔が間近に迫ってきた事でツキトは咄嗟に身体を逸らせて逃げようとしたが、ぐっと手首を握られどきりとする。
「 し、志井さん…?」
「 親切でやっていたと思うのか? 痩せたガキに飯食わせたり。普段は誰も入れないこの部屋に呼んだり」
「 志井さん、痛…ッ」
  きつく掴まれた箇所が痛くてツキトは思わず目を瞑った。けれど志井の視線は揺るがず、また拘束の手も緩まりはしなかった。
「 気づいていると思っていた。それでもついて来たのかと思ってた」
「 はっ…! 放してよ…ッ」
「 そんなお前じゃ、いつ俺みたいな奴に捕まるか分かったもんじゃない…。そもそもお前…気づいていないだろう」
「 な、何を…」
  顔に暗い影が忍び寄る。一旦ぎゅっと閉じてしまった瞳を開けると、吐息を感じる程に志井の瞳が同じくこちらを見据えていた。
「 お前は狙われてる」
「 えっ…」
「 だから俺といろ…」
「 志井さ……」
  けれど呼びかけた声は最後まで紡がれる事はなかった。
「 んっ…」
  みるみる近づいてきたその志井の唇はツキトのそれにさっと重ねられた。瞬間、どくんと心臓が激しく波打ったけれど、それも一瞬の事で、後はもう何が起きたのか分からずツキトは頭の中が真っ白になってしまった。
「 ん…んん…」
  きゅっと掴まれた手首がずっと痛い。空いた方の手で志井のシャツを強く掴み引き剥がそうとしたが、相手はびくともしなかった。1度2度と触れてくる志井はやがてツキトの上唇を捉え軽く啄ばんだかと思うと、ツキトが呼吸できず苦しそうにしても構う事なく今度は舌をも差し入れ、弄ってきた。
  一体何。
「 や…やっ…!」
  相手がさっと唇を放した瞬間に、ようやっとだ。
「 嫌だっ!」
  ツキトはじわりと浮かんだ涙を意識する間もなく、ただ無我夢中で志井から逃げ出そうと首を振った。もっとも志井がさっと自ら離れたのでツキトの抵抗は何の意味もなく空振りに終わったのだが。
「 …う…っ」
  知らぬ間にぼとぼとと零れ落ちる涙と、カッと火照り出した身体とをツキトは自身で持て余した。何が何だか分からない。志井が突然してきた事も、それに対してこんなに怖いと思ってしまう自分も。
「 泣く程嫌か…」
  だから押し殺したような声で志井がそう呟く声もツキトには遥か遠くの音としか思えなかった。
  ただずきんずきんと波打つ鼓動だけが耳の奥でじんじんと響いていた。




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