「ふんわりきらり」


第6話 



  カタカタと窓の震える音が気になり、雪也は動かしていた手を休め、顔を上げた。
  風が強くなってきているのだろうか。
「 明日…晴れるといいな」
  ぽつりと呟いてから、雪也は再び開いていた帳簿に目を落とした。店の支出を事細かく記述してあるそれは雪也が店を始めてから毎晩つけているものだが、「こんな数字」を叩き出したのは開店以来初めてである。
  妙な言い方だが、「恐ろしい程の黒字」なのだ。
「 何だか怖いな…」
  幼い頃に身についた苦労性のせいか、雪也にとって今月の店の売り上げは喜びよりもまず不安な感情が先立つ。店を始めた頃は毎日毎日どれだけ花が売れるかと心配だった。またそれに慣れると今度は取引先から時々回してもらえる稀少種をうまく育てられるかが気掛かりとなった。
  そして可笑しな事に、今は「花が売れ過ぎている」という現状に途惑っている。我ながら嫌な性格だと雪也は思う。
「 ふ…」
  小さくため息をつき、雪也はおもむろに顔を上げると自分が座っている所からすっと店内へと視線を移した。帳簿をつけている部屋は店と隣接していて、雪也が座っている場所からは丁度店の入口へ続く通路も真っ直ぐに見える。今の時節はガラス戸をきちんと閉めなければ隙間風がするりと吹き込んできて寒いのに、雪也は何となくそれをする気がおきないでいた。この街に来てからここではずっと一人暮らしだが、ふと心細くなったり人恋しくなったりすると、扉は余計に閉じたくなかった。顔を上げれば店にある花たちが見えるし、通りを行く人の影だって追う事ができるから。
  この頃は隣に住む創が時々夕食を共にしてくれていたから、あまりそういう気持ちも抱かずに済んでいたのだが。
「 どうしたんだろ、急に」
  また独り言を零してしまい、雪也はそれを戒めるように再び帳簿へ目を落とした。
  最近の創はどうにも付き合いが悪い。食事を断られたのは、実は今日だけではなかった。ここ最近、何かを思い出したような顔をして「やはり止めておく」という事が多くなったのだ。何か彼の気に障る事でもしてしまったのだろうか。
  はあともう1つため息をつき、雪也は本来ならば嬉しいはずのプラスを示す数字を見つめた。

  今月が好調な理由はたった一つ。
  毎朝大量のバラを購入していく「お得意様」がいるお陰だ。

「 あの人……」
  雪也はふと唇にその人物を想う言葉を吐き、もう一度店内にある花へと目を向けた。そこには早朝また来るであろう、その人の為の「品」が用意されている。勿論包装やリボンはまだだけれど、こう毎日やっていればその作業にも十分慣れた。仕事前だというあの人を余計に待たせる事もなくなっていた。
「 どうしてあんなにたくさん…。しかも毎日買って行くのかな」
  最初は単純にバラが好きなのだなと思った。そうして恐らくいるであろう想い人の為に毎日それを買い求め、贈っているのだろうと。けれど恋人に贈るにしても、必ず朝早くに来るというのが何とも不思議だった。職場に飾る為に購入していくのか、いや、それならば毎日あのバラにする必要はないはずだ。何しろあれはバラの中でも今の季節の中ではピカイチに高級で、1本の値段とてそれこそ「普通の人」ならばそうそうに買える物ではないのだ。
  それをあの客は何十本と買って行く。
「 お金持ちなんだろうけど…」
  けれどどこぞの身分ある人ならば、それこそ欲しい物など人を使って買いに来させれば良いだろう。早朝にわざわざ1人で店に寄り、買い物をして行くというのはやはりおかしい。
「 いけない…」
  様々な考えを巡らせたところで、雪也はハッとしそれら全て吹き飛ばすように首を振った。
  ツキトに言っておいて十分気にしてしまっている。客のプライベートを詮索するなど良くない事だ。素直に感謝すれば良い。いつまで来てくれるかは分からないけれど、自分の店を気に入っているからこそ毎日訪れてくれているのだ。いつも品物を傷つけないように綺麗に渡せるようにと、そんな事ばかり気にして相手と満足な会話も交わしていないのだが…せめて上手く笑えていると良いのだけれどと、雪也は「もう1つの心配事」=「拙い接客」を思って再度嘆息した。
  その時、不意にまた窓ガラスのカタカタ鳴る音が聞こえた。
「 あ……?」
  けれど風だろうと思っていたものが、今度ははっきりと意思を持つような音を出した。驚いて顔を上げると、暗い通りを走る車のライトに照らされ、店頭に立つ人の影がパァッと浮かぶのが見えた。反射的に腰を上げると、今度ははっきりとその影がトントンと引き戸を叩いてきたのが分かった。
「 は、はい…っ」
  こんな時間に誰だろう。
  そう思ったが咄嗟に雪也は返事をし、店先へと向かっていた。
  普段ならば来訪者は裏手にあるドア横の呼び鈴を鳴らす。けれどそれを知らない人間も当然の事ながら大勢いるわけで、特にシャッターをまだ半分しか閉めていなかった今日のような日には、突発的に客が現れる確率も高かった。ごく稀ではあるが、真夜中に「花をくれ」と言って来る人間も皆無ではないのだ。
  創は「この街も色々と物騒だから気をつけなよ」と言っていたが、雪也はそんな突然の来訪者も無碍にする事が出来なかった。
「 どなたですか?」
  ライトをつけてすぐに扉の前にいる影に声を掛けると、向こうは雪也が来た事に安堵したようだ、戸を叩いていた拳を宙で止めた。雪也がそれを確認しながらもう一度その人影を見上げるようにすると、相手は申し訳ないような声ながら言葉を出してきた。
「 こんな時間に悪い…。花、欲しくて…」
「 え…?」
  その声に聞き覚えがあり、雪也ははっとしてすぐに扉に手を掛けた。鍵を開けて急いで戸を引くと、そこには予想通りの人物が寒さ故か多少頬を赤らめながら立ち尽くしていた。
「 お客さん…」
「 ごめん。迷惑だった…?」
「 いいえ…。あ、どうぞ」
  吹き荒んでいる強い風を感じ、雪也は慌てて横に退いて相手を中へと促した。
「 悪い…」
  もう一度殊勝に謝ったその人物は雪也の好意を素直に取ると店内に入り、それからはあっと深く息を吐いた。
「 ………」
  その背中を眺めながら雪也は不思議そうに首をかしげた。
  いつも真っ直ぐな姿勢と視線で店に来る青年。年齢的には恐らく自分と同じくらいだろうが、きっと凄く良い所で働いているお金持ちなのだろうと勝手に想像している青年。
  毎朝大量のバラを購入していく上得意。
「 剣さん…?」
  その客の名前をそっと呼んだ後、雪也は向こうがこちらをゆっくりと振り返るのを認めてから小さく笑った。
「 どうかされたんですか。いつもは朝方いらっしゃるのに」
「 ああ…。うん」
「 ……?」
「 ちょっと…さ。明日は急な仕事が入ったから。あの時間には来られないと思った」
「 あ、そうなんですか」
「 ………」
「 あの」
  雪也はどことなく様子のおかしい客―剣―に声を出しかけた後、急いでカウンターの所にあった椅子を取ってきてそれを勧めた。
「 今すぐ包みますから。どうぞ座って待っていて下さい」
「 いや……」
「 え?」
  何故か椅子には座らず、急いでいつもの花束を作ろうとしている雪也に剣は困ったように片手を出した。
「 あのさ…っ」
「 はい?」
  そしてその所作に意表をつかれた雪也が驚いたように動きを止めると、剣は何やら余計に困惑したようになり、俯いた。
「 剣さ―…」
「 今」
「 え?」
  けれど押し黙るように下を向いたのは一瞬で、その後にはすぐに声が返ってきた。
  剣は自分を呼びかけた雪也の声を遮ると、すぐに思い切ったような目を向け吐き出すように言葉を出した。
「 今、何してた?」
「 え? お……私、ですか?」
「 そう」
  頷く相手に雪也は首をかしげてから、素直に本当の事を言った。
「 店の帳簿をつけてたんです。いつもこのくらいの時間にするので」
「 そうか…」
「 あの…?」
「 もうそれ、終わった?」
「 え? は、はい…。終わりました、けど」
「 なら今暇?」
「 え?」
「 暇!?」
  何度も聞き返す雪也に剣は気分を害したようだった。
  むうっとしたような眼になると、途端子どものように唇を尖らせたのだ。早朝には見た事のない顔だった。
  剣は言った。
「 だったら少しくらい付き合ってくれたっていいだろ。そんなにすぐ追い出すような真似しなくてもいいじゃないか」
「 そ…そんなつもりじゃ…」
  その「言い掛かり」に雪也は思い切りたじろいだ。
  こんな時分にわざわざ来るくらいだ、きっと急な入用に違いないと思ったのだ。それに明日来られないからとわざわざ今日来るだなんて、やはりあのバラは何か絶対に必要なものなのだと。
  だから急ごうと思っただけなのに。
「 あの、剣さんこそお急ぎなんじゃ…?」
「 何で?」
「 え…だって…」
「 急いでない! 明日来られないからって言っただろ。今日だって本当はこんな…非常識な時間にどうかなって思ったけど…。それで迷惑がられたらまずいなとも思ったけど…! でもどうしても仕事終わらなくて! あのバカ叔父貴は人をこき使う事しか考えてないんだよ!」
「 は、はあ…?」
「 確かに本格的に仕事入って間がないから俺なんかまだまだヒヨっ子だけどさ。それにしたって人の自由時間まで奪って働かせやがって、ホントにむかつくぜ…!」
「 ……た、大変なんですね」
  事情はよく分からないが、どうやら剣は仕事が忙しいらしい。
  雪也は何とか剣の不満に理解を示そうと頷いて見せ、それから未だ興奮しているかのような相手を見やりながら恐る恐る声を掛けた。
「 あの…。もしお急ぎじゃなかったら、奥で一緒にお茶をどうですか」
「 え……!」
  雪也の誘いに相手はがばりと顔を上げると、信じられないというような顔を見せた。雪也はその相手の態度に「やはり迷惑だろうか」と思いながら、それでも精一杯笑って見せ、後を続けた。
「 もし良かったら…。それと、今日夕食作り過ぎてしまってまだスープが余ってるんです。あの、お食事は…」
「 済んでない!」
「 え?」
「 全っ然食ってない! 上がっていいのか!?」
「 え、ええ…? どうぞ…」
「 やった…!」
「 え?」
「 い、いや…な、何でもない何でも…っ」
  剣はぶんぶんとかぶりを振り、誤魔化すように雪也よりも先に部屋に向かって歩き出した。雪也は半ばぽかんとしてそんな相手の背中を見やったのだが、すぐにハッとなると慌てて自らも後を追い、思わぬ誘いを掛けてしまった自分にどっと冷たい汗を流した。
  客のプライバシーに関わらないのと同様、自分自身の内に踏み込まれる事とて雪也は好きじゃないのだ。部屋は散かしていなかったかと、今更ながらにそれが心配だった。




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