「ふんわりきらり」
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第7話 ふわ…と思わず小さな欠伸が出てしまい、雪也は寝惚けた意識を無理に奮い立たせようと頭を振った。 昨日の夜から始まった強風は朝方の今時分になってもあまり弱まらない。幸いまだ降り出してはいなかったが、今にもそうなりそうなどんよりと曇った空に、雪也は外へ並べる鉢の数と花の種類をいつもの半分以下にする事とした。 「 はあ…」 それにしても、と。 昨夜の「予期せぬ来訪者」を思い、雪也は無意識のうちにため息をついた。 一体何だったのだろう。まるであの人こそが嵐のようだ。 「 はあ…」 「 え…?」 けれど雪也がもう一度大きなため息をつこうとした、その瞬間。 「 あ……」 まるで身代わりのように大きなため息をついた相手に、雪也は驚いて声を上げた。 「 ツキト君?」 「 ……え? ……あ」 「 ……どうしたの、ボーッとして」 いつもなら必ず元気に挨拶をしてくれるツキトが、雪也の店にも雪也自身にもまるで気づかずそのまま通り過ぎて行こうとしたのだ。幾ら積極的に人と接する事ができない雪也とて呼び止める気にもなるというものだった。 「 ツキト君」 「 ……雪也さん」 一方ツキトの方は声を掛けてきた雪也によってようやく自分の今いる場所が分かったらしい。きょろきょろと困惑したように薄曇りの街並を見回している。 雪也はそれでますます心配になり、表情を翳らせた。 「 ツキト君、本当にどうしたの? そんなぼんやりとして歩いてたら危ないよ。ここ、車も結構通るし」 「 うん、元気」 「 は?」 「 ああ…。あ、いや、うん。そうだよね、危ないよね…」 「 ………」 明らかに様子がおかしい。 雪也はさっきまでしゃっきりしなかった気持ちを途端に切り替えると、いつも笑顔の少年ツキトをまじまじと見つめた。 改めて見ると目元が仄かに赤い。髪の毛もボサボサだし、もしかすると寝ていないのではないかと思った。 「 何かあったの」 何気なく訊くとツキトは突然びくりとして目を見開いた。怯えたように雪也を見つめる。 「 な、何で…?」 その様子に今度は雪也が驚いて身体を揺らした。何かいけない事に触れてしまったのだろうかと、咄嗟に感じたのだ。今更もう後には引けなかったけれど。 「 いや…。明らかにいつもと違うから…。目も赤いし…寝てないのかと」 「 ………」 「 疲れているならうちで休んでいく? 荒城さんには俺から連絡してもいいよ」 「 ううん。大丈夫」 雪也の気遣いの言葉にツキトもようやくハッキリとした声を出した。心配を掛けてごめんと小さく謝った後、ツキトはいつものどこか無理をしたような笑みをちらとだけ閃かせた。 「 何でもないんだよ。ちょっと…うん、寝不足なんだ」 「 ……良くないよ。バイトのし過ぎなんじゃないの」 「 うん。そうかも」 「 本当に休んで行けば? 俺なら構わないよ」 「 いいよ。雪也さんだってこれからお店だろ? 俺の事は気にしないで。ほら、それにもうすぐいつものお客さんが来る時間でしょ」 「 え…。ああ、いや…」 「 え?」 自分の言葉に突然苦い反応を見せた雪也に、ツキトはきょとんとして不思議そうな眼差しを返した。ちらと雪也の背後を見ると、店内には既にあの上得意を待っているであろう如何にも高級そうなパラが整然と飾られていた。 「 まだ来てないんでしょ? あそこにあるもんね、いつものやつ」 「 うん…。でも、今日は来ないんだ」 「 え?」 「 今日は仕事が忙しくていつもの時間に来られないんだって」 「 え、そうなんだ? じゃあ夕方とかは来る?」 「 ううん…。どうかな、無理なんじゃないかな」 今日来られないから昨夜突然来たのだろうし。 その事は何故か言う気がせずに雪也は口元でもごもごとしただけだったのだが、ツキトは今やもう自分自身の事を忘れ去ったように心配そうな瞳を向けた。 「 でも、そしたら大丈夫なの? あのバラ、いつも凄く有名なバラ園から無理言って毎日出して来てもらってるって言ってたじゃない。あれ丸ごと売れなかったら大変だよね?」 「 はは…。大丈夫だよ。そんな今日明日で枯れてしまうわけじゃないんだから。……確かにそうそう簡単に売れるような花じゃないけどね」 「 そうだろ。だって凄く高いもの。俺が他所の花屋へ行った時だってあんな値段のやつは見た事ないよ。特注ものだろ」 「 変だな…。ツキト君がそんなに心配する事ないよ」 何やら熱心に話し出した年下の友人に心密かに安堵の気持ちを抱きながら、雪也はやんわりと笑んだ。それから上げかけになっていたシャッターを完全に開けてしまうと、もう一度傍に立つツキトを振り返る。 「 本当に行くの、バイト?」 「 うん、行くよ。何かさ、雪也さんと話してたら元気出てきた。……ありがと」 「 ツキト君?」 「 俺、雪也さんの事を好きになれたら良かったのに」 「 え?」 「 それじゃ!」 「 ちょっ……」 何言ってるんだ? けれど雪也が頭の中で浮かべたその台詞を本人に問い質す間もなく、ツキトは悪戯っぽい笑みを浮かべながら、後はもう一目散に通りの向こうへと駆けて行ってしまった。ぽかんとして見送る雪也には1度だけ振り返り、ぶんぶんと片手を振っていたけれど。 「 もう…冗談が過ぎるよ」 雪也は苦笑まじりに呟きながら、ツキトが去って行った方向を暫し黙って見送った。やっぱり何かあったのだろうなと思いながら。 「 おえ…気持ち悪い」 「 え……」 バスを降りて街の入口に降り立った途端だ。 いきなりそんな台詞を発してげんなりし始めた相手に、友之は思わずぎょっとして顔を上げた。自分よりも頭1つ分程背の高いその人物を見る為にはどうしても見上げる姿勢となる。天気は曇りだから太陽に照らされて眩しいという事はないけれど、友之は何故か「眩しい」気持ちがして薄っすらと目を細めた。 「 気持ち悪いの…?」 はっきりと定まらない視界の中で何とかそれだけを訊くと、相手は「うん」と答えた後、また「気持ち悪い」と続けた。 「 数馬…」 友之が心配そうにその相手の名前を呼ぶと、先刻までは確かに元気でピンピンとしていたはずの天才児―香坂数馬―は、喉元の辺りを自らの大きな掌で押さえるようにした後、ひどい低音でぼそりと呟いた。 「 何なのこの街。ヤバイ」 「 やばい…?」 友之が聞き返すと数馬はまたしても「そうだよ」と簡潔に返した後、街から離れるようにして二歩三歩と後退した。それからまるで何か酷く嫌なものでも見るような顔をして、停留所の傍にあった街の入口を示す「WELCOME」と書かれた看板を睨み付けた。 「 入りたくないね…」 「 ………」 「 ボクって人は繊細で敏感で、とにかく人一倍色んな感覚の鋭い人だから、こういう空気には弱いんだよね。まあこんなのに強い人なんていないだろうけど、大抵の人は気づかないでいられるから幸せだ。やっぱり力なんてない方がイイ」 「 ……?」 「 もしかするとあの人が来ているのかもしれない…。いや、でもそれだけじゃここまで嫌な気持ちになるってのも変だから、やっぱり他の要因も加わってるんだろうな」 「 数馬…何の話してる…?」 友之がぶつぶつと独り言を吐く相手に何とか口を鋏むと、その当の数馬は友之の困惑などどこ吹く風というように知らぬフリで何とか前へと歩き始めた。 「 数馬…?」 慌てて後を追おうとする友之に、数馬は振り返る事なく言った。 「 トモ君、それじゃあまずは君が拉致られた辺りへ行ってみようか」 「 う、うん…?」 何だろう、もう立ち直っているのだろうか? 「 ………っ」 訳が分からずただ必死に頷く友之に、数馬は依然として「おえ」などと本気なのかふざけているのか分からない呻きを漏らしていたが、足取りは既にしっかりとしていた。スタスタと歩く数馬の歩調に必死についていきながら、友之は朝方元気いっぱいな声で自分を起こした数馬の言葉を思い返していた。 さあさあトモ君、早く起きて! 今日は早速キミが追い出された街に行くよ! そして犯人を見つけて、そいつやっつけて! ボクのこの力も全部使いきってしまおう! 無理やり居候を決め込まれた沢海などは、数馬のやたらとハイテンションな言動にさんざん文句を言っていたが、当然ながら数馬に堪えた様子は全くなかった。図体は大きいくせに小さな子どものように目をキラキラさせて、数馬は友之を「突然攫い、そして道端に捨てた」犯人探しをするのだと息巻いた。 そうすれば自分に宿るこの不可解な特別な力はなくなって、数馬は普通の平穏な生活が送れるのだと言った。だから友之を助けるのだと。 数馬の言いたい事は友之にはよく分からなかったが、それでもあの街へ戻れる事は単純に嬉しかった。確かに自分は何をするでもなく浮浪児のようにあの華やかな、それでいて静寂の似合う街を彷徨っていただけ。花を買うでもなく優しげな青年が営む花屋をじっと見つめていただけだけれど。 けれど、何も悪い事はしていない。 いきなり何の謂れもなく誰かに拘束されて意識を奪われ、放り出される筋合いなどないのだから。 少なくともそれはないと信じたかった。 「 ………」 「 そうだよ」 口を閉ざしたまま黙々と歩く友之に、数馬が背中を向けたままで不意に声を発した。ハッとして顔を上げると、数馬はそんな友之の気配を察知したのか、薄く微笑を漏らしたような声と共にひどく優しげな声で続けた。 「 幾らトモ君がトロくて弱くてダメダメな子だからってさ。道に捨てる事はないじゃないの。それはやっぱり良くないよ、うん」 「 数馬……」 「 だからキミは堂々と胸張って戻ればいいよ。君の街なんでしょ、ここ」 「 うん…」 「 ……何?」 「 母さんの…好きだった街だから」 「 そう」 「 だから、ここにいたいんだ」 珍しくキッパリとした口調でそう言った友之に、数馬は今度こそ軽快な笑声を立てた。 そうしてちらりと振り返り。 「 たぶん、それ間違ってない。キミの本来の居場所もここにあると思うから」 「 え?」 「 それにしても…ホント、あんまり長居できないかも。あまりに負のオーラが強過ぎてたまんない。オヤジ殿もよくこんな所にいられるな…」 「 数―」 「 はあーあ。ま、こうでなくちゃ面白くないけど」 「 ………」 どうせ訊いても答えてくれない。 友之は相変わらず1人だけで納得しているような数馬に問いかけるのを諦め、ただ従順に街の中心部へと向かう数馬の後を追い、その背中を黙って見つめ続けた。 |
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