(11)



「 何でボクが君たち兄弟の仲立ちなんかしなくちゃならないわけ?」
  アパートから少し離れた先にある、駅近くの小さな児童公園。あるのはブランコと砂場、ベンチが一つ。以前、由真が修司にフラれた時に2人で話した事もある場所だった。
「 こんな時間にこんな所で1人寂しくブランコとはね。オマワリサンが見たら間違いなく可哀想な迷子だと思うだろうな。あ、ここポイントね。家出少年じゃなくて、迷子。迷子の迷子の子猫ちゃん」
「 ………何か用?」
「 うわっ! 何そのナマイキな態度!」
  足元を見たままボソリと言った友之に、数馬は大袈裟に仰け反って驚いて見せてから、すぐに立ち直って両手を腰にやり、首をかしげた。つまらないものを見るような、蔑みの目が友之に降りかかる。数馬は冬場の夜間帯にもコートを羽織らず厚手のパーカーを着ているだけといった軽装だったが、別段寒そうな様子も見せず、ただ目の前に座る友之の正面に立ってよく通る声を出した。
「 所詮、君が逃げ出せる距離なんてせいぜいこんなもんってね」
  その冷たい声は友之の耳にじんと響いたが、現在の心境としてはそういう責めの言葉の方が気は楽だった。だから友之はただ下を向いたまま黙っていた。
「 光一郎さんに啖呵を切ったまではいいけど、居た堪れなくて家を飛び出す友之君。けど、お金もないし、頼る友達もないし、何処へも行く所なんかない。いや、行けない。光一郎兄から離れられない友之君。だから君は、こんなアパートから歩いて5分の公園でブランコに揺られて、たそがれているってわけだ」
「 ………」
「 反論はナシ?」
「 ………」
  どんな挑発の言葉にも今の友之が乗らないという事は数馬にはとうに分かっているのだろう。それでもわざとハアーッと大きくため息をついて、無敵のイケメン高校生・数馬はゆっくりと友之の隣のブランコに腰を下ろし、面白そうにゆらゆらと足を動かした。キイキイと錆びた鉄の鎖がその震動で微かな悲鳴を漏らした。
「 初めてなんだよ。知っている?」
  数馬は言った。
「 光一郎さんがボクの所に電話してきたの。ボク、あの人とサシで話した事はあんまりないというか。いや、あんまりっていうか全くなかったかも」
「 コウが…?」
「 君ってホントにムカつくね。あの人の話題だと顔上げるのかよ」
  数馬は嘲るようにそう言ってから口許を歪め、それでもようやくこちらを向いた友之に目を細めた。
「 ボクは忙しい人間なんだって前から何度も言っているでショ。そうそう君にばっかり構っていられないんだから。君は今ボクが目の前に現れて、何も不思議に思わなかったの? またタイミングよくボクが君の事訪ねてきたのかと思った? 残念、ハズレ。呼び出されたの。頼まれたの。全く、バカにしてくれる」
「 コウが…数馬に、頼んだ…?」
「 もう自分にはあの出来そこないの弟は手に負えないから、天才数馬君にあげるって」
「 ………」
「 ……なんて言われていたとしたら、君はどうする?」
  意地悪く言って数馬は友之の反応を眺めてから今度ははっと鼻で笑い、空を見上げた。ただその笑いは友之にではなく、そんな事を言ってみた自分自身を卑下するような笑いにも見て取れた。友之はそんな数馬の横顔をちらと眺めたが、相手はこちらの視線に気づいているはずなのに微動だにしなかった。
  数馬が喋らないと2人の間はいつだって重苦しい沈黙に陥る。
「 ………」
  友之は何だか堪らない気持ちになり、無理に自分が乗っているブランコを足で蹴って揺らした。数馬がそうした時のように、ギギイと金属の擦れる音が辺りの静寂を打ち壊した。友之はしばらくその揺れるブランコに身体を預けながらそれが出す音に耳を済ませた。
  光一郎と数馬が2人だけで話している姿というのは、確かに友之も見た事がなかった。数馬は元々が中原の知り合いというだけで、同じ地元出身とは言っても修司や裕子たちのように友之たちの「幼馴染」という枠に入る人間ではなかったし、草野球チームにも顔を出していない光一郎がそんな数馬と特別に会話する機会などないと言えばなかった。
  それでも、「人間観察も趣味の一つ」と言う、誰とでも話したがる数馬が光一郎とだけは積極的に接点を持ちたがらない事、また誰にでも人当たりが良く、友之と一緒にいる者には特に親切な光一郎が数馬にだけは別段何も言わないというのは、今さらながら何だか不思議な事のような気がした。光一郎は沢海にはよく「友之の面倒見てくれて」などと礼を言ったりもするのに。
「 トモ君のお兄さんの事を悪く言うのは気が引けるけどさ」
  その時、突然数馬が口を開いた。
「 あの人ってヘンだよね」
  ブランコを止めて数馬の方を見ると、向こうはもうとっくに友之の事を見つめていた。
「 ヘンというか…性格悪いって言うか」
「 何で」
「 あれ、やっぱりこういう言われ方するとむっとする?」
  すぐに聞いてきた友之に数馬は目を丸くしたが、すうっと人差し指を上げてそれを空気に晒すと、「風はあっち方向から来ている」などと訳の分からない事を言った。それから済ました顔で友之の顔を改めて見やった。
「 あの人、君がここにいる事知っているよ。だからボクにここに行けって言ってきたんだし。でもさ、ボクは今友達と遊んでいたから忙しかったんだよ。だから『あんたが行けばいいだろ』って言ってやったの。当然の発言でしょ? 何で君たちが喧嘩したからって、そんで君が家を飛び出したからって、ボクが迎えに行ってあげなくちゃなんないわけ?」
「 うん……」
  友之が素直に頷くと、数馬は「はははは!」と甲高い声を出して笑った。
「 そうでしょ、君だってそのくらいの事は思うよね。っていうか。ムカつくんだよ、はっきり言わせてもらえばさ! 一体何だよ、あの余裕ぶった態度は!? 俺がこのまま弱った友之の事どっか連れて行ってさ、何かしたとしてもあいつは文句を言えないわけだよ。はっ、文句なんか言わせないけどね!」
「 数馬……?」
  友之は数馬の急に怒り出したような声に思わずブランコから転がり落ちそうになった。いつも余裕ぶって物の分かったような顔をするのは、いつも誰よりも優位に立っているのはこの数馬だ。年上で先輩の中原にだって一歩も譲らない。その数馬が、今はひどくイライラして殺気立っているように見えた。
「 か、数馬……」
  だから精一杯力を振り絞って友之は数馬の名前をもう一度呼んでみた。結局自分にできる事と言ったらそれくらいしかないと思ったから。
  けれどそれは予想以上の力を発揮したようだった。
「 ……あぁ…もう……」
  数馬は弱々しくも自分を呼んだ友之の顔を見た瞬間、荒い言葉を出していた口を閉じて動きも止めた。そうして少し長くなっている明るい色の髪の毛をぐしゃぐしゃとかき混ぜてから、ひどく面倒臭そうなうめき声を上げた。
「 あの……」
「 はいはい! そんな怯えた目、しなくても別に取って食べやしないよ」
  そしてその数秒後には、数馬はすっかりいつもの調子に戻って平静な声で話し始めた。
「 俺があの人の事分からないって思うところはね。あの人は俺が友之をどうにかしたとしても、それはそれでいいって思っているところなんだよ。荒城さんに取られるのはかなわないって思ってるけど、俺ならいいって思ってる。それがムカつくんだよね。バカにしてる」
「 しゅ…修兄が……何…?」
  数馬の早口にも言っている内容にも思考が追いつかず、友之がどもりながらオドオドと聞き返すと、数馬は今やもうすっかり癖となってしまっている大きなため息の後、友之の鼻先に先ほど出した人差し指をぴっと当てた。
「 わっ……」
  面食らって友之はやや背中を逸らしたが、数馬の長い指先が自分の鼻先にすっと向かい、思わず両目がそこに集中した。
  数馬はバカにしたような笑いを閃かせてから出した指をすっと引っ込めた。
「 トモ君が光一郎さんの何に怒って家を飛び出したのかは知らないけどさ。まあ、君って人間にも頭を冷やす時間くらいは欲しいよね。けど光一郎さんは、自分が迎えに行けなくても、とにかく君をこんな時間まで放っておきたくないって思った。それで選んだ使者がボク。ねえそれって一体どういう事さ? 思わない? 荒城さんじゃない、中原先輩でも、ましてや裕子さんでもない。ボクを選んだあの人がムカつく」
「 わか……言っている事、分からないんだけど……」
「 分かるわけないよ、君なんかに」
「 そんな……」
「 いいんだよ、別に君に分かってもらいたくて話しているわけじゃないんだから。ボクの独り言」
「 どうして怒っているのかくらい教えてよ」
  友之が珍しく食い下がると、数馬は眉をひそめて鬱陶しそうな顔を向けた。けれども数馬はまたふいと視線を前方に戻した後、素っ気無く言った。
「 ボク、一応あの人の一番のライバルって自覚あったから」
  ナメられてるんだよ、と数馬はひどく悔しそうにつぶやいた。
「 数馬……」
  数馬のそう言った顔は、何だかいつもの大人ぶった、何もかも知っているといった風の余裕の表情ではなく、自分と同じ年相応の高校1年生のようだと友之は思った。
「 ………」
  友之はそんな数馬の顔をしばらくの間、ただじっと見やった。
  数馬のこういう風に何でもあけ広げに話す姿勢が友之は好きだった。隠す必要などない、知られても構わない。でも、あんた達に俺の一体何が分かるの? 数馬はいつだって他人にそう投げかけているように思えた。数馬は光一郎と全く逆で自分の考えをずけずけと話す。何でも言う。それでも奥が見えないところがまた不思議だと思わせたが、それでもそんな数馬に自分の本音を話す事は少なからず安心でもあった。
  何かを言ってもらえるというのは、安心なのだ。
「 ………数馬には…話せるから」
  友之が言った。
「 だから……」
「 だから何さ」
  数馬が友之に視線を向け、冷たい声で返してきた。それで友之は咄嗟にいけない事をしてしまった子供のように慌てて数馬から視線を逸らした…が、しかしその先の言葉はしっかりと続けた。
「 だからコウは……数馬を呼んでくれたんだと、思う…。俺……数馬の事……って思っている、から……」
「 は? ……何?」
「 友達って………」
「 ボクを? 君が、友達って?」
  数馬は友之のその発言に案の定実に嫌そうな反応を返したが、それでもその言葉をすぐに蹴散らしたりはしなかった。不満そうな顔はしていたが、しばらくは黙りこみ、それから何を思ったのか思い切り足を蹴って乗っていたブランコを力一杯漕ぎ出した。数馬を乗せている板とそれを繋げる鎖が擦りあい激しい音が夜中の公園に鳴り響いた。友之はそんな数馬を見てから、自分もブランコをゆっくりと、そして徐々に大きく漕ぎ出した。
  2人はしばらくの間そうやって共にギイコギイコとブランコを揺らして遊んだ。
「 あのさあ、でも」
  そうしてそれがどれだけの間続いていたのだろうか。数馬が息を切りながら言った。
「 悪いけど、前にも言ったでショ。ボク、君の友達になんかなりたくないって」
「 うん……」
「 知っているなら言うな、そういう事!」
  バカ! と数馬は思い切り友之に言い捨ててから、それでもブランコを揺らす勢いは止めずに言葉を続けた。
「 だからさー早く、くっついてくれない? 君とあの人の仲が何とかなったら…っ!」
  息を切りながら数馬は言った。
「 友之がちゃんと落ち着いたら、そしたら俺、思う存分お前のこと好きにするからさ!」
「 え……?」
「 見た目通りの紳士だからさ、俺! 弱っている奴どうこうする趣味なんかないよ!」

  ああ、そういうのも見抜かれていたんだとしたら本当腹立つ!

  数馬は半ば叫ぶようにらしくもなくそんな事を空に向かって言い、それから後はいよいよ立ち上がってブランコを漕ぎ出した。友之も真似をして立ち上がると身体全身を使って自分の乗る板を空に飛ばした。
  視界が高くなり、空へ向かって上がる身体が冷たい空気にぴしゃりと触れた。


*

  キッチンの床には透明なグラスの破片が四散していた。
「 危ないからそこへは行くな」
  玄関から部屋に入って入口の辺りで立ち尽くした友之に、光一郎は振り返りもせずにそう言った。
  光一郎はベランダの窓から隅の壁に寄りかかるようにして外の景色を眺めていたが、友之が何となくキッチンへ視線をやった事には気づいたのだろう、素っ気無くそう言ってからふっとため息を漏らした。友之はそんな光一郎の横顔を眺めてから、もう一度割れたグラスの破片に目をやった。そこの電気がつけっ放しになっているせいだろうか、割れたそれはキラキラと電灯の明かりと反射して光り合い、何だかとても綺麗なもののように見えた。
「 割ったの…?」
  しゃがみ込んでそれをより間近で見ながら友之は光一郎に訊いた。光一郎はリビングのカーペットの上に直にグラスを置いて1人酒盛りをしていたようだった。光一郎のそんな姿は本当に珍しかったし、酔っているところなどは勿論一度も見た事がなかったから、友之は見てはいけないものを見ている気がしてわざと視線を逸らした。
「 これ…大事にしてたコップだ…」
  コートを脱いで傍にそれを置いてから、友之は破片に指先を近づけ何となく言った。
「 俺が大学に入って一人暮らしをする時に涼子さんがくれたんだ」
「 これ…?」
  粉々になってしまい、もう修復不能なグラス。友之は割れたその破片を見つめながら眉をひそめて訊いた。
  光一郎は続けた。
「 あの人、他にも色々揃えてくれたけど、一番金をかけてくれたのは食器類だな。1人でも……食事だけはちゃんとしろって言いたかったのかも」
「 コウは…いつもちゃんとしている…」
  友之がようやく顔を上げて光一郎を見ると、窓辺の兄ははっと鼻で笑ってから床に置いていたグラスを手にした。カランと中の氷が乾いた音を立てた。
「 ちゃんとってのは、一体どういう事を言うんだろうな? 朝が来たら起き上がって飯食って。学校行ってバイトして。帰ったら掃除洗濯風呂沸かして、また飯を作るって…そういう生活ができる事か?」
「 え……」
「 必要だからやっているだけだ…そんなもん……」
「 コウ……?」
「 俺は……ちゃんとなんかしてない……」
  友之に向かって言うのではなく、光一郎は独り言のようにそうつぶやいてから傾けていたグラスの中の酒を一気に煽った。それから何か思い詰めたようにぐっと手にしていたグラスに力をこめた。
  しん、とした沈黙が友之には何だか無性に怖かった。光一郎の普段見せない、陰鬱的な部分。そういった面が光一郎にあるだろう事は友之にも分かっていたが。
  いつも、知らないフリをしていた。そういう光一郎は自分が思い描く「理想の兄」とは違うから。
「 数馬…ちゃんと、話聞いてくれたか?」
  その時、不意に光一郎がそう言った。友之がびくりとして顔を上げると、光一郎はこちらを見てはいなかった。遠くを見やるように窓に映る夜の闇へと視線をやっている。何故か胸がドキドキしながら友之はこくんと頷いた。
「 コウが…電話して呼んだって」
  探るような目でそう言ってみたが、これには光一郎は何も応えなかった。友之は未だしゃがみこんだ姿勢のまま、それでも今はもうただ光一郎の事だけを見つめていた。
「 数馬に言ったんだ。コウが本当のお母さんと…それに、弟と会ったって」
「 ああ……」
  興味のないような生返事。友之は何故か焦った。
「 それで、それで僕…何だか色々考えて、それで…」
「 心配するな…。もう会わない」
「 え……」
  光一郎が友之の思考を先読みするように言った。それでもそれは自重気味に出されたひどく重苦しい台詞だった。光一郎は口の端を上げて笑ってから友之を一瞥し、また視線を逸らした。
「 心配するな…」
「 コウ…? でも、僕……」
「 お前が嫌ならもう会わない。あの人たちとは」
「 え……」
「 それでいいだろ?」
「 ……………」
  違う。そういう事を言いたかったのではない。いや、そう言いたい気持ちもあった事は事実だけれど。でも、光一郎にそうぴしゃりと言われると否定したい気持ちになった。そう、光一郎に会って欲しくはない。けれど、それ以上に言いたいこと。ただ、ただ自分は。
「 コウ…その人たち、今何処に住んでいるの…?」
「 ………」

  まず一番に訊きたい事を訊け。

  数馬は友之にそう言って帰って行った。
「 その人たちに、僕も会ってみたい…」
  それこそが友之が光一郎に一番に言いたかった事だ。気になっていた事だ。会って何を話せば良いか分からない。自分などそれこそ他人で、無関係の人間で。それでもこんなに気になっている。だから会ってみたい。そう思った。
  それでも光一郎は勇気を出してそう言った友之にもう何の言葉も出さなかった。友之は冷たい汗が自らの背筋につと流れるのを感じた。怒らせたのだろうか。もういいだろうと言った光一郎にしつこくこんな話をして。きっと光一郎はこの話題にこれ以上触れたくないと思っている。それなのに食い下がる自分にやはり鬱陶しいものを感じているのだろうか。友之は光一郎の事がただひたすら気になり、そして焦り、どうしようもなく息苦しい気持ちになった。
「 あの……ご、ごめんなさい……」
  光一郎は何の反応も示さなかった。友之は数馬の「謝るのはやめな。あの人むっとすると思うから」という台詞を忘れたわけではなかったが、何だか言わずにはおれなかった。
「 ごめんなさい……」
  何も声が返ってこなかったのでもう一度言った。それでも光一郎は動かなかった。ちらともこちらを見てくれなかった。それで友之は何だかまた泣き出したくなったが、それでも必死に言葉を出した。
「 ど、どうしていいか分からな…分からなかったから…。何から言っていいか分からなかったから…。だから……」
「 ………」
「 コウ…怒ってる…?」
  恐る恐る聞いたが光一郎はまだ何も言ってくれなかった。友之は忘れていたじくじくとした痛みを再度思い出したようになり、それを振り払うように床に飛び散ったガラスに目を向けた。立ち上がって空瓶を捨てるゴミ入れに近づき、それを引き寄せてから再度グラスの元へ戻った。何かしていないとおかしくなりそうだった。
「 友之…?」
  そんな友之にふと気づいたようになって光一郎がやっと声をかけてきた。友之はそれには応えず、きょろきょろと辺りを見回しホウキとちりとりを探した。見当たらない。思えば掃除などまともにした事がなかった。いつもいつも家の事は光一郎に任せきりで。
「 ……僕、片付ける」
  それでもつぶやくように友之はそう言い、再び床にしゃがみこんで四散するグラスの欠片一つ一つを、まずは大きい物から拾っていき、それをそのまま引き寄せたゴミ箱に捨てた。
「 危ないって言っただろ。お前はそんな事しなくていい」
「 何で」
「 何で? 割ったのは俺だ。俺が片付ける」
  光一郎のくぐもった声が遠くから聞こえた。友之はそれを無視してまた一つ欠片を拾い上げた。ふと、じくりとした痛みを感じて指先に目をやると鋭利なそれに皮膚を裂かれたのが分かった。ぷくりと血が滲み出ていたけれど、とりあえず見なかった事にした。
「 友之」
  光一郎の声がする。友之は慌てて作業を再開し、必死に声を上げた。
「 コウだって、いつも僕が使った食器洗うじゃないか。洗濯だって何だって全部するじゃないか。何で僕にさせないの?」
「 ………お前に任せても時間だけ掛かって却って面倒だからだ」
  冷たい言い方だった。ぐっとなったが、それでも友之はそれで余計にムキになった。
「 ひどいよそんなの。子供扱いだ」
  そうだ。いつもは。
「 いつも、コウは僕にちゃんとしろって言うくせに…!」
  いつだって早く大人になれと言うくせに。矛盾している。光一郎は、いつだって自分の事は何もできない小さな弟扱いなのだ。俺はお前の事を弟だなどとは思いたくないと口走った夜とてあったのに。
  そうだ、光一郎はいつだって。
「 あっ…」
  今度は思い切りガラスの尖った先で指を切ってしまった。嘘のようにばたぼたと真っ赤な血が床に落ちた。呆けてその様子を眺めていると、いつの間にか立ち上がってこちらに来ていた光一郎が心底頭にきたような顔をして見下ろしていた。
「 このバカ!」
「 コ……」
  あまりの怒声に萎縮して友之が怯えたように息を飲むと、光一郎はその場に屈みこんですぐに友之の手首をぐいと掴んだ。それからすぐに、呆気にとられて動けない友之には構わず、その傷口を自らの口に含み舌で舐めた。
「 あ…ッ」
  温かい空気が突っ張った指先にふわりとくるまるようにやってきた。友之は茫然としたまま光一郎の口許を見つめた。自分の指先を舐めてくれる光一郎に、忘れていた胸の高まりを思い出して急に顔が熱くなった。
「 俺が割ったんだ。どうしてそれで…お前が傷つく……」
  光一郎の声。抑揚のないいつもの冷静な声だった。
「 どうして…そうなんだ、お前は」
「 僕…僕、聞きたかったんだ…」
  身体が熱い。けれど、だからだろうか。今なら言える気がした。
「 聞きたかったんだ…。コウのお母さんの事とか…弟って人のこと…」
「 今はそんな話、どうでもいいだろ…ッ」
  押し殺すような光一郎の声。何かにひどく苦しんでいる顔。友之はますますた堪らなくなって声を上げた。
「 よくないよ…! 僕、聞きたかったから…!」
  あの時、あの母の墓参りの時に話をしてくれた光一郎にしつこく聞かなかったのは友之自身だった。興味がなかったわけではない。切り出すタイミングを見つけられなかっただけだ。けれど友之はいつも自分のそういった欠点を理由にして、いつも何かから逃げていた。どこかで感じていたからかもしれない。
  何か一つを言えば、何か一つが壊れること。
  それでも友之はようやっと光一郎の本音を言った。
「 嫌、だったんだ…。コウに僕以外の家族がいるの……」
「 家族……」
  乾いたような、夢から覚めたような声が光一郎の口許から漏れた。友之は必死になって頷きながら後を続けた。
「 怖かった、から…」
  光一郎に見放されたら。それは以前から、この家に2人で暮らし始めてから友之にいつでもまとわりついている不安だった。何の役にも立たない、閉じこもってロクに口もきかない弟。邪魔以外の何者でもないだろう。だからいつもびくびくしていた。それでもそんな自分を迎えに来てくれた光一郎が嬉しかったから、友之はその今の幸せが壊れるのが何より怖かった。だからふって湧いてきた新しいその家族の存在には余計に気持ちが不安定になった。
  だから訊けなかったのかもしれない。
「 だって…だって僕…僕だけのコウ兄で…いてほしかったから」
  ちゃんとしなければならないと思っているのに、大人にならなければ、なりたいと思っているのに、友之はここ一番の時にはいつだって自分を光一郎の唯1人の弟という位置に置いておきたいと思った。不意に修司が言った言葉を思い出した。あれは、半分は当たっているけれど、やっぱり半分は外れなのだ。光一郎がどう思っているのかは分からないが、少なくとも友之は、友之自身は光一郎とこうしていられるのなら、子供の自分でいたいと最後には思ってしまう。
  それはズルイ事だと分かっていたけれど。
「 今みたいに…していたいんだ……」
  今の生活が壊れる事が何より怖い。それが友之にとっての一番だから。
「 コウ兄……」
  だから再度呼んだ。兄と呼んだ。なりふり構っていられなかった。ぎゅっと抱きつくと光一郎の身体が揺れたが、それでも離れる気がしなくてそうしていた。
  けれど、その一間隔後。
「 俺はずっとお前の兄貴か……」
  光一郎が吐息と一緒に掠れた声を出した。
「 え……」
  友之がそっと顔を上げると、恐ろしいくらい表情を消してしまっている光一郎がそこにいた。
「 コウ兄…?」
「 呼ぶな…」
「 あ……ん…ッ」
  不意に光一郎の唇が降りてきた。驚いて自分からしがみついていた身体を放そうとしたが、今度は逆に光一郎によって拘束された。身動きが取れなかった。
「 …ふ…ふぅ…ッ」
  何度となく重ねられ触れられる感触に目眩がした。最初は上唇だけを取られ吸われるようにキスされたが、徐々にその口付けは激しさを増していき、光一郎の舌が友之のそれを捉えた時には、身体の奥の何かがずくんと痛んだ気がした。
「 んぅ…ん、んっ…!」
  息ができなくて縛られるようにして動かせない両腕を空でかいてもがいた。それでも光一郎はキスをやめてくれず、それどころか友之の頬にやっていた手を後頭部に移して一度だけ撫でると、そっとそのまま友之をリビングの上に押し倒した。
「 はっ……」
  それによってやっと唇を放してもらえて、友之は思い切り息を吸ってハアハアと肩を揺らした。それから自分に覆い被さるようにしてこちらを見つめる光一郎に視線を向けた。やはり、何の感情の色もない。
「 コウ……?」
「 俺だってそうだ…」
  光一郎が言った。
「 お前がずっと俺の弟でも…それでもいいと思った時もある」
「 え…?」
「 お前が落ち着いていけばいくほど、そう思った。今だってそう…そう思う気持ちはある。そうじゃなきゃ…」
「 コウ…コウ、何…? 放して……」
  思い詰めたような光一郎の眼が何だかひどく怖くて友之はガタガタと震えた。どうしてか、いつもは光一郎に触っているだけで安心で、光一郎に見てもらえるだけで嬉しかったのに。何だか違う。今のこれは、自分が欲している光一郎の熱ではない気がした。
「 コウ兄……怖……」
「 怖いか……」
  光一郎が訊いた。けれど友之が応える前に唇はその光一郎によって塞がれた。また意表をつかれ、そして恐ろしくて友之はぎゅっと目をつむった。何度も何度も確かめるように降りてくる口付け。いつもしてくれるキスじゃない。額への優しいキスではないと思った。
「 嫌…嫌だよ、コウ……っ」
  懇願するように言ったが光一郎は応えなかった。ただ友之にキスを続け、そうして先ほど友之が怪我をした指先をすっと握ると。
「 痛かったか…ごめんな……」
  悲痛な声で光一郎はそう言い、友之の傷口をそっと舐めた。
「 ………っ」
  怪我をしているのは光一郎の方ではないかと友之は思った。ズキズキする熱はその間もどんどん上がっていった。



To be continued…



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