(15)



  ゆらゆらと、流れるように夢を見ている。
  ゆらゆらと、眠るようにその場に身体を横たえている。


  いつだったか、母の涼子が家族全員で外に食事に行こうといった日があった。
  その頃、確か光一郎は高校生で、家族との会話もめっきり減っていたし、父親も仕事で帰りの遅い日が多かった。
  だからだろう。たまたま5人が揃ったその夜、珍しく涼子は自分から明るい口調で皆にそう話を持ち掛けたのだ。
「 たまには家族皆で外に食事に行きましょうよ」
  それは普段から自己主張などめったにしない母の、精一杯の誘いの言葉だった。
「 えー、私は嫌。面倒くさいもの」
  けれどそれに対し、1番最初にそう言って思い切りつまらなそうな声を発したのは夕実だった。夕実は居間のソファで大して興味もない音楽雑誌を開いていたのだが、涼子の言葉を聞いた途端、突然それに食い入るように視線を落とし始めた。まるで自分は今忙しいのだから外へなど行っていられないという態度だった。
「 私は行かないよ。皆で行ってくれば?」
「 そんな、夕実ちゃん。皆で行くから楽しいのじゃないの。ね?」
「 嫌」
  夕実は涼子にはちらとも顔を向けず頑なにそう言い張った。父親は居間の入口付近で車のキーを持ったままそこに立ち尽くし、黙ってそんな娘を見つめていた。部屋に入ってこようとはしない。行くなら行く、行かないなら行かないではっきりして欲しいと言うような様子だった。
  光一郎は二階の自室へ着替えに行っているのかそこにはいない。
  友之はというと、台所で牛乳パックとそれを注ぐグラスを持ったまま、何となく心細い気持ちで夕実と母を見つめていた。
「 ね、行こうよ夕実ちゃん。お父さんやコウちゃんも珍しく早く帰ってきて、2人とも皆が行くなら行くと言っているんだよ」
「 トモちゃんだって行きたくないって」
  夕実はきっぱりとそう言って涼子の誘いをかき消してから、ぐんと顔を上げた。そうして台所で立ち尽くしている友之に真っ直ぐな視線を向けてきた。
「 ね、トモちゃん。トモちゃんは行きたくないよね。前、そういうの嫌だって言っていたじゃない」
「 え……」
「 友之も行くわ。ね、夕実ちゃん」
  しかしその日の涼子は珍しく夕実に食い下がった。友之はそんな母の必死な背中をじっと見やったまま、ただドキドキと早まる心臓の音に耳を済ませていた。夕実がこれ以上自分に話を振ってこなければいいと思った。
  友之は皆で食事に行きたいと考えていたから。
「 何してるの」
  すると、着替えを済ませた光一郎が階下に降りて来て居間の入口付近に立ったままの父親にそう声を掛け、それから部屋に入って来た。そこにはソファから頑として動かない妹と、その妹に話しかけている母の姿があった。光一郎はそんな双方を交互に見やった後、「夕実、行くだろ」と半ば強引な口調で言った。
「 ……行かないよ」
  光一郎に言われたからだろうか、夕実の声は途端に萎んだ風船のように小さくなった。ぐっと下を向いて雑誌の端を握り締める。そうして一間隔後、叩きつけるように言葉を吐いた。
「 トモちゃんが行かないんだもの。私も一緒に留守番していなきゃ!」
「 ……トモ、行きたくないのか?」
「 ……っ!」
  夕実の言葉ですぐに光一郎が台所にいる友之に声を掛けてきた。友之はびくんと肩を揺らし、困ったように夕実を見た。光一郎の肩越し、背後のソファからこちらを睨むようにして見てくる夕実の顔が見えた。
  こうなると友之はもう駄目だった。
「 ……行か、ない……」
「 友之……」
  涼子の失望したような声が聞こえたが、もうそちらは見られなかった。ただ安堵したような、満足そうな夕実の顔がその時の友之には全てだったから。
  だからそう答えた時の、光一郎の表情は……。


  今はもう、覚えていなくて。


*


「 様子はどう?」

  何処か遠い方で聞き覚えのある声がそんな心配そうな台詞を吐いているのが聞こえた。
  ここは、暗い。
  何かにがんじがらめにされたように身体が重くて動かなかった。
「 熱は下がったから。ただ起きてもぼんやりしていて、すぐにまた寝るんだ。殆ど眠りっぱなしだよ。まあ俺は…その方が安心だけどな…」
「 ……そうだね」
  誰だろう。
  誰の話だろう。
「 う……」
  友之は声のする方に耳を傾けつつも、どうにもだるい身体を思うように動かせず、ただ力なく口をあうあうと動かした。
  目を開けるのもだるい。
  夢を見たと思う。ただそれも断続的なもので、途中途中でいちいち目は覚めた。そうしてその度に誰かに何事かを話しかけられ、朦朧としたまま何かを応えていた記憶が薄っすらとある。それをずっと繰り返していたような気がする。
「 ………」
  さっきまで見ていた夢。あれは一体どんな夢だっただろう。夢、というよりも回想かもしれない。ずっと胸の奥にひた隠しにして忘れていたフリをしていた、小さな思い出。
  ああ、でも。
  今はもう、それも思い出せない。
「 何か要る物あったら言って。買ってくるから」
  最初に聞こえた優しい声がそう言った。
「 コウちゃんだって殆どトモ君につきっきりだからあんまり食べてないでしょ? 駄目だよ、今度はコウちゃんが倒れちゃうよ」
  裕子さん。
  頭の中にぽんとその人の名前が浮かび、友之は指の先をぴくりと動かした。あの声は裕子さんで、それならばその後に声を出したのは。
「 ………っ」
  ようやく意識がはっきりとしてきて、友之は大きく息を吐いてからゆっくりと目を開いた。隣の部屋では光一郎と裕子がまだ何かをぽつぽつと話しているようだったが、何故か耳がぼーっとしてその後の会話はうまく聞き取る事ができなかった。それでも友之は目を開いた後は、何とか上体を起こす事にも成功した。
「 それじゃあね」
  その時、裕子のそう言う声と、同時にバタンと玄関のドアが閉まる音が聞こえた。途端、隣のリビングが一気にしんと静まり返ったのも分かった。
「 コウ……」
  か細い声でそれだけをつぶやき、友之は片足をベッドから出した。そろりとそこから出ようとして、しかし友之は体勢を崩してそのままどさりと床に転げ落ちた。
「 …い…っ」
  軽い衝撃が落ちた肩先から全身に広がり、友之は思わず声を漏らした。
「 友之…!?」
  するとその音を聞きつけたのだろう、光一郎が慌てて隣の部屋からやってきてベッドから転がり落ちている友之の傍にやってきた。
「 どうした、大丈夫か?」
「 う、ん……」
  何とか答え、それから友之はゆっくりと顔を上げた。
  光一郎がいた。
「 ……………」
  黙ってその顔をじっと見つめていると、何故だか急に顔が熱くなって友之は慌てて視線を逸らした。光一郎はそんな友之の様子に気づいていないのか、片手を額に当ててから「まだだるいか?」と優しく聞いた。
「 平気……」
「 もう少し横になってろ」
 けれど光一郎はそう言うとすぐに友之のことを軽々と抱え上げ、元いたベッドにそっと下ろした。友之は突然自分に触れてきた光一郎の腕やその体温に思い切り動揺したが、その驚きを表す為の言葉は出す事ができなかった。何も発することができず、ただ大人しく光一郎に従ってベッドに戻った。
「 何か欲しい物あるか」
  光一郎が優しい。
「 ………」
  それがひどく嬉しくて、けれど何だか記憶が曖昧で、友之は困ったように首をかしげた。
  そういえば一体いつから、何故自分はここにいるのだろうか。いつ、このベッドに入った? いつから眠っているのだろう?
  未だ眠りに入る前のことをはっきりと思い出せなくて、友之は急に不安になった。
「 お前、川原で倒れてたんだぞ」
  そんな友之を察したのだろう、光一郎が傍に座ってそう言った。驚いてそちらへ視線を向けると、光一郎は小さく嘆息してからめくれた掛け布団をそっと友之の膝元にかけ直した。
「 マスターがお前の様子がおかしかったのを心配して後を追いかけてきてくれたんだ。でなきゃお前は、あの寒い中ずっとあそこで……」
「 あ……」
  そうだ、思い出した。
  友之ははっとして口を開きかけたまま光一郎をまじまじと見やった。
  修司から光一郎の母親の事を聞こうと「アラキ」へ行ったのだ。そこで修司から写真を貰った。修司は自分が知りたかった事を教えてはくれなかったけれど、あのくれた写真には。
「 あ…弟、が……」
「 え…?」
「 写真…っ」
  光一郎の怪訝な声には構わず、友之は慌ててきょろきょろと辺りを見回した。自分の着ている服にも触ってみるが、光一郎が着替えさせてくれたのだろうか、自分の服装は外へ出かけた時の服ではなく、寝間着に変わってしまっていた。あの川原で急に呼吸ができなくなって苦しくなってうずくまった時も、確かにあの写真は手に持っていたはずなのに。
  あれは一体どこへ行ってしまったのだろう。
「 写真は…?」
「 写真…?」
「 …修兄から…貰った……」
「 ………知らないな」
  困惑したような顔で光一郎はそう言った。嘘を言っているような顔ではなかった。友之はもう一度ベッドサイドへ視線をやり、それから困ったように所在ない視線を部屋中に向けた。
  光一郎の弟の写真と、彼と彼の母親が住んでいる町の写真。
  あの写真から彼ら光一郎の家族が住んでいる場所を見つけなければならないのに。
「 川原で落としたのかもな。後でまた修司から貰えばいいだろ」
  何の事か分からないままに光一郎はそう言い、それからもう一度友之の額に片手を当てた。そうして思い詰めたようにふっと息を吐いた。
「 ……肺炎にでもなっていたらどうする」
  そして未だ写真の事を気にして落ち着かない様子の友之に真面目な顔を向けて言った。
「 そんなに修司に会いたかったのか?」
「 え……」
  そのひどく陰のこもった台詞に友之はようやくはたとなって視線を光一郎に戻した。
「 コウ…?」
「 それとも、この家にいたくなかったのか? 俺から逃げたかった? あんなに熱があったのに」
「 僕……」
「 ここに帰ってきた時、マスターと裕子がいて…。お前がベッドでうなされていて…。俺がどんな気持ちだったか、お前に分かるか?」
「 あ……」
「 お前が修司に会いに行って、その帰りに倒れて…。1人川原で倒れてた…? 俺は何にも…裕子から電話を貰うまで何も知らないでいたんだ。俺は…」
「 あ…ご、ごめ…ごめん…な、さい…!」
  ここで友之は自分のしでかした事がどれだけ光一郎に心配を掛けてしまったのかという事に気がついた。同時に、どうやらマスターや裕子にまで大変な迷惑を掛けてしまったという事にも。
「 僕…ごめんなさい…」
  友之は自分の記憶がない一連の事態に一気に思いを馳せ、さっと蒼褪めた。だからただ所在なく光一郎を見た。
「 コウ……」
  けれど光一郎は友之に助け舟を出すような優しい言葉をくれはしなかった。友之からすっと視線を外すと光一郎は言った。
「 俺は…お前が俺から逃げたいのならそうすればいいと思った…。けど、こんな風になるのなら…」
「 え……」
  逃げる?
  意味が分からず友之は光一郎をただ必死に見つめた。光一郎はこちらを向いてはくれなかったけれど。
「 コウ……」
  しかしだからこそ、友之は急激に焦る気持ちが胸から喉元へぞわぞわと駆け上がってくるのを感じた。だから必死にもどかしい口許を動かして光一郎に訴えた。
「 コウ…違…違う…」
「 違う? は…何が違う?」
  光一郎の半ば冷笑するような声に友之は思わず身体を震わせた…が、それでも必死になって後の言葉を続けた。
「 僕…し、知りたかった…」
「 何を」
「 コウの…お母さんの、住んでいる…所……」
「 は…?」
  光一郎はたどたどしくもそう言った友之の台詞に思い切り怪訝な声を出した。そうして眉間に皺を寄せ、「こんな時にお前は何を言い出すのだ」と言わんばかりの顔を向けた。友之はごくりと唾を飲み込んだ後、あわあわとしていた口を必死に思うように動かし、喋った。知らぬ間に蒲団の端を両手でぎゅっと握り締めながら。
「 コウの…お母さん、から…電話…あって…」
「 電話……」
「 引っ越すって…」
「 ……そんな事、知っている」
  素っ気無く光一郎は言った。それでも友之は負けずにすぐ言葉を返した。
「 予定より一週間も早くなったって…」
「 ………」
「 伝えて下さいって、頼まれて…あ…」
  しかし友之はそこまで言いかけてハッとした。そして不意に慌てたようになってきょろきょろと辺りを見回した。今は何日の何時なのだろう。こんなに頭がぼうっとして、記憶も曖昧で、もしかして一週間くらい経ってしまっているのではないだろうか、そう思ったのである。そんなバカなことがあるものかと、もう一方ではそう思っているのに、この時の友之は半ば本気で疑っていた。あんなに長い間たくさんの過去を振り返っていたのだから。
  光一郎の腕に縋るようにして友之は口を開いた。
「 今…今、何時…っ。どれくらい…こうしていた…?」
「 ……知ってどうするんだ」
  訊きはしたものの、光一郎には友之の言いたい事が分かったのだろうか、ひどく翳りのある顔で押し殺したようにそう言った。友之はそんな光一郎を確かに怖いと感じたが、それでもこの時は必死な気持ちが上回った。
「 何処か遠い所に行くの…?」
「 誰が…」
「 コウの…お母さん…」
「 関係ないだろ…」
  茫然とした口調で言われたその台詞に友之はショックを受けたが、それでもそこで黙る事はやはりできなかった。友之は光一郎の腕に触れていた手に力を込めた。
「 でも…頼まれた…」
「 ……分かった。聞いたよ。それでいいだろ、この話は」
  半ば投げやりとも取れるような態度で光一郎はそう言い、それから友之の頭をぐりぐりと撫でた。それは荒っぽい所作だったが、友之にはそれが「光一郎は怒っていない」証拠のように思えた。咄嗟にそう判断してしまった。
  だから今しか訊くチャンスはないと思った。
「 …会うの…?」
「 ………」
  光一郎の手が離れた。友之はそれについて特に何も思わなかった。ただ知りたかった。
「 お母さん…何処へ引っ越すの…? コウ、会いに行く…?」
「 言っただろう。もう会わないって」
「 でも…」
「 お前は俺に会って欲しくないんじゃないのか?」
「 ………」
  確かにそうだった。けれど友之は何故か光一郎の顔をじっと見たまま、今まで考えてもいなかった事を口にした。殆ど咄嗟に出たものだが、けれどそれはきっと友之自身がずっと抱いていた気持ちだった。
「 でもコウは…会いたいでしょ…?」
「 ……俺はどうでもいいってお前に言わなかったか」
  しかし1拍空いた後に返された光一郎のその声はひどくくぐもって聞き取りにくくさえあった。怒っているのだろうかと思った。けれど友之はそんな光一郎の発言に対しても反射的に首を左右に振り、ざらついた喉の奥から再度しつこく言葉を出した。
「 だって…家族でしょ…?」
  一緒にいたくはないのだろうか。相手が離れてしまう事が分かっているのなら、尚更。

『 ねえ、せっかく皆揃ったのじゃない。一緒にいましょうよ』

  そう必死に言っていた母・涼子の声が友之の耳に木霊した。友之も、あの時は皆と一緒にいたかったのだ。あの時友之にとっては、父も夕実も勿論涼子も自分の大切な家族で、共にいたい人たちで。
  そして友之にとって光一郎は誰よりも尊敬する「兄」だった。自分にとってはとてもとても遠い存在だったけれど。でも一緒にいられた時はどうしようもなく嬉しかった。

「 俺に家族なんていない」

  それは叩きつけるような冷たい口調だった。
「 コウ…?」
「 ……お前の考える事は本当に分からないな」
  そうして光一郎は立ち上がると吐き捨てるようにそう言い、友之から背中を向けた。その肩先は少し震えているように見えた。
「 お前が今考えている事はそんな他人の事だけか…? 俺たちの事は…?」
「 え……」
  びくりとして聞き返すと、光一郎はただひたすら抑えたような声で言った。
「 俺は…俺には今更家族なんていらない…。弟のお前すら…俺は切り捨てたんだぞ…。自分の勝手な想いだけで…お前を…」
「 コウ…? ち…違……」

  光一郎が行ってしまう。

  友之は焦って咄嗟に「違う」という言葉だけを繰り返した。

  けれど欠けてばかりの言葉はやはり今の光一郎には届かなかった。その否定の言葉すら、恐らく耳には届いていなかった。
「 くそ…!」
「 コウ…っ!?」
  悲壮な顔をする友之に光一郎は振り返ることなく寝室を出て行ってしまった。
「 コ……」
  けれど後を追おうと友之が足を動かした途端、隣の部屋…いや、キッチンの方だろう、そこから何かの激しく砕ける音がして、友之は身体を止めた。
「 ……ッ!?」
  ガシャン、と。
  それはまた立て続けに鳴った。グラスか皿か、何であれガラスの割れる音がこんなにひどい痛みを伴って聞こえるものだという事を友之はこれまで知らなかった。
「 コウ…」
  友之は恐ろしくてベッドから出る事ができなくなってしまった。光一郎は自分の事をひどく怒っている。嫌っている。呆れて、ウンザリして、もういい加減愛想をつかせたかもしれない。それを確かめる勇気がなくて、そんな事は信じたくなくて、だから友之はその場から一歩も動けなくなってしまった。
  ただ、知りたかっただけなのに。
「 うっ……」
  光一郎がいるのに、自分から離れた。その事がひどく悲しくて胸がズキズキして、友之は小さく嗚咽を漏らした。けれど泣いている事が分かったらまた怒られるかもしれない、呆れられるかもしれないと思い、友之は必死にその声を抑えた。光一郎が掛けてくれた蒲団の端を引っ張り、それを口に当てた。
「 ……っ」
  ひぐひぐと揺れる身体、頬から流れる涙はどうする事もできなかったけれど、友之はただ静かに泣いた。嫌われたくない、嫌われた。そればかりがぐるぐると頭の中を駆け巡っていた。
  友之はあの川原で光一郎を欲していた自分を思い出していた。
  あんな風にただ一緒にいたい、という想い以上の何かを感じたのは生まれて初めてだった。それは苦しいのだけれど、何だか嬉しいもののような、そんな感じもして。
  けれど今は、ただ胸が痛かった。


*


  結局、あの後は。

  家族で外食に行く計画が物の見事に潰れて、それぞれは涼子が作った即席の食事を終えた後、ばらばらに自室へ引き返して行った。
  父親はひどく不機嫌な様子で、夕実があんな風になったのはお前の躾が悪いせいだとさんざん涼子を責めた。その夕実はといえば、例によってこちらも大層不機嫌となり、夕飯も摂らずに自室に篭もって出てこなかった。
  友之も気分が悪かった。けれど母にこれ以上嫌な思いをさせたくなかったので、食事は無理に摂った。4人で囲んだ気まずい食卓。いつからだろう、自然な会話はなくなっていた。涼子に気を遣った風な光一郎が学校の話をしたり、父親がそんな光一郎に学校の成績を聞いたり。それくらいだった。
  それくらい。
  友之はただ黙って手にした箸を動かすだけ。
「 トモ」
  けれど、その夜の光一郎はいつもと違った。
「 トモ、お前、こういうの要るか」
  いつもは共に食事をとる時があっても、それが終わると光一郎は自室に入って誰の前にも姿を現さない。ましてや居間にいる事も、友之の部屋に来る事もまるでないのだ。
  けれどその夜の光一郎は一旦は自室に下がったものの、誰も見ていないテレビがついている居間に戻って来てそこに友之を呼ぶと、書斎に向かった父親の姿を確認してからそっと言った。
「 これ、お前にやるよ」
「 何…?」
「 チェックペンだよ。参考書に引こうと思って買ったんだけどな…。ちょっとペン先が細かったから。お前、こういうの持ってないだろ」
「 うん…」
  参考書に線を引くことはおろか、友之は授業中のノートにすら色をつけない。いつもぼうっとして、黒板に書かれた文字を何とかシャーペンで写し取るだけで、こんなに色取り取りのペンを持つ必要など今まで感じた事はなかった。
「 ………」

  それは赤だけでなく、青、黄色、オレンジ、緑と五色のペンがセットになっているもので、友之はそれを受け取るとまじまじとそれらを見つめた。
「 要るか?」
「 うん」
  光一郎の問いかけにはっとして、友之は慌てて顔を上げると頷いた。黙っていることで「要らないのか」と思われて取り上げられるのが嫌だった。ただでさえこの五色のペンは友之には珍しく嬉しいものだったし、それに。
  これは光一郎がくれた物だから。
「 お前…欲しい物くらい、ちゃんと言えよ」
  その時、何事か言いたそうな顔をして光一郎が言った。それからさらりと友之の頭を撫で、光一郎は、後はそのまま自室へと向かって行ってしまった。
「 良かったわね、友之」
  友之と光一郎のやり取りを見ていたのだろう、台所で洗い物をしていた涼子がそっと言った。友之は黙って頷き、後はただそのペンに視線を落とした。
  結局、そのペンは翌日夕実に取られてそれっきりだったのだけれど。

「 欲しいならちゃんと言えよ。な…友之」

  あの時の光一郎は、そう、確かに優しい顔をしていた。普段はあまり見せない、けれど本当はきっとずっと以前から持っていたのだろう、温かい素顔。


  それは気弱な弟を慈しむ目と、それから……。



To be continued…



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