翌日、居間で光一郎がどこかに電話をしているらしい声で友之は目が覚めた。 外は雨が降っているようだ。湿った空気と共にトツトツと陰気な雨粒が窓ガラスを叩いている。ちらと傍の目覚まし時計に目をやった。もう7時を過ぎていた。 今日は学校へ行こうかな。そう思った。 「 友之」 電話を切り、寝室へ戻って来た光一郎は珍しく寝間着のままだった。乱れた髪の毛もそのままに、光一郎は部屋の入口から目を覚ましたような友之に声を掛けてきた。 「 起きたのか?」 「 うん…」 上体を起こして光一郎を見る。今日は朝からアルバイトだと思っていたが。言おうとして、けれど友之は光一郎がどことなく気だるそうな事にようやく気がついた。 「 コウ…?」 不審に思って首をかしげると、光一郎は友之の疑問をすぐに察知したのだろう、やや苦笑して「悪い」とつぶやいた。 そうして。 「 風邪引いたみたいだな。……何年ぶりだろ」 光一郎のその言葉に友之は目を丸くした。 (19) 「健康優良児」という言葉がいつでも似合う光一郎だった。気分によってしょっちゅうズル休みをする夕実、身体が弱く、ちょっとした事ですぐに熱を出す友之とは違い、光一郎は小学校時代から学校を休むという事が殆どなかった。いつも、いつでも光一郎は完璧な人間だったのだ。誰にも迷惑をかけず、誰にも弱味を見せない。 完璧な。 「 ………あのな」 カーテンを開けても外の暗さでそれほどの光はない。横になる光一郎にはちょうど良い明るさだった。雨が降っているのでさすがに窓を開ける事はできなかったが、友之はカーテンを開いた後、すとんと光一郎の傍に座りこんだまま微動だにしなかった。 「 あのな、トモ……」 だからだろう。 光一郎は片手を額に当てながらやや参ったという風に二度、声を出した。それからちらと友之を見やり、困ったように苦笑した。 「 お前。今日はずっとそうしている気か?」 一度はカーテンを開ける為に立ち上がった友之だったが、光一郎が「ちょっと寝る」と言って横になった後はずっと同じ体勢だった。友之はずっと光一郎の枕もとで心配そうな視線を送っていた。 だから光一郎のそんな呆れたような台詞も至極当然のものであったわけだが。 「 何か……」 友之は光一郎のその質問には答えず、ただ心細そうな声を出した。 「 コウ…何か…」 「 ん……」 「 何か…いる……?」 「 ああ…いらないよ」 「 ………」 ただ傍にいるだけでは物足りない。どうせなら何かして欲しい事を言って欲しい。そう思っていた友之は、特に何の望みもないような光一郎に眉をひそめた。しかも光一郎は自分がこうして横に座っている事を居心地悪く思っているようだ。眠ろうとしている傍でひたすら必死な視線を注がれては落ち着かれなくても仕方がないが、それでも友之はただもう光一郎から離れたくなかった。心配で仕方なかった。 「 コウ…熱、ある…?」 「 ん…大した事ない」 「 ………」 体温計を渡したが、光一郎はそれを使おうとはしなかった。きっと熱があるからだ。友之はそう思った。自分に心配をかけないようにする為に、光一郎は熱を測ろうとしない。けれどそんな事をされたら余計不安になる。そんな無理はして欲しくなかった。 無論、体温を測ってそれがまた高熱だったりしたら、それはそれでまたどうして良いか分からなくなって混乱するのだろうけれど。 「 トモ…。そんな顔するな」 すると光一郎は自らの額に当てていた片手をすっと差し出して友之の手に触れてきた。びくりとして身体を揺らすと、光一郎は一瞬その手を離そうとした…が、すぐにまた力強く友之の片手をぎゅっと握った。 どくん、と友之の心臓が跳ね上がった。 「 コ、コウ……」 「 お前…うつるぞ。いつまでもここにいたら…」 「 え……」 「 向こう行ってろ」 光一郎はそう言うと、後はすぐにその手を離した。それから眠りに入るようにゆっくりと目を閉じる。学校へ行けというような言葉はなかったが、光一郎が自分から離れろと言っているのだけは友之にも理解できた。 だから再び胸が痛んだ。 「 嫌だ……」 聞こえただろうか。 一瞬躊躇したが、友之はぽつりとそう言った。 光一郎の目が再び静かに開いた。またどきりとして友之は焦ったように俯いたが、それでも必死にもう一度言った。 「 ここにいる……」 「 友之」 「 コウ…の、傍に…いる……」 「 ………」 「 いたい……」 友之は光一郎が何も答えない事に焦りを感じた。拒絶されたらどうしよう。言いようもない不安に駆られ、友之はごくりと唾を飲み込んだ後、思い切って光一郎の胸に縋りつくようにして倒れかかった。 「 トモ…」 「 ここにいていい……?」 顔は見られなかった。友之は必死に光一郎の胸に顔を押し付け、そのままぎゅっと目をつむった。 答えは案外すぐに返ってきた。 「 バカだな…」 瞬間、ふっと頭に暖かい感触が降りてきて、目を開くと光一郎が抱えこむようにして自分の髪の毛を撫でてくれているのが分かった。友之はちらとそんな光一郎の方に視線をやり、それからほっとしたようになって再びその胸に鼻面を摺り寄せ目をつむった。 光一郎に触れられているとただもう緊張してしまって心臓の音が本当に煩い。けれど、今はこうして頭を撫でてもらえているのがとても嬉しく、幸せだった。 だから友之は午前中、ずっと光一郎の傍で惰眠を貪った。 雨の音すら心地良く、仄かな温かさを感じた。 午後になり、玄関のチャイムの音で友之は目が覚めた。あったはずの感触がなくなっており、ぎくりとして起き上がると、そこはいつの間にか自分のベッドの上だった。 光一郎の姿はない。 「 コウ……?」 か細い声で呼んだ時、同時に入口の方でひどく切羽詰まったような声が聞こえてきて友之は息を飲んだ。 「 ちょっと大丈夫なの、コウちゃん!?」 裕子だった。 「 熱出すなんて珍しい…! 最近ちゃんと寝てなかったんでしょう? まあ最近っていうより、いつもか…。疲れがたまってたんだよ、きっと! ねえ、何か食べた? そうだ、薬は…!」 「 静かにしろ。トモが寝ているから」 「 あ…そうなんだ…!」 光一郎と裕子の会話に聞き耳を立て、友之はしばしベッドの上から動けずにいた。 時計を見る。ちょうど昼を過ぎたあたりだ。裕子はまた大学を休んでいるのだろうか。そんなどうでもいい考えがちらと頭をよぎった。 「 私、何か作るから。休んでいなよ」 裕子が光一郎に優しく言っていた。 ちくりと胸が痛んだ。 「 悪いな」 光一郎の気を許したような穏やかな声も聞こえた。 ズキズキと胸が痛んだ。 「 ………コウ」 裕子は光一郎が好きで、それこそずっと以前から光一郎のことを見つめていた。関わってきた。友之とてそんな事は幼い頃から感じ知っている事だった。そして今まではそれをどうとも思わなかった。考えられなかったという方が正しい表現なのかもしれないが、裕子の光一郎への想いは、今まで友之の心をこんな風に激しく揺らしはしなかった。 今までは。 「 ……コウ」 駄々をこねる子供のように友之はベッドの上から光一郎を呼んだ。嫌だ。そちらにいては嫌だ。そう思った。ただ、そうかと言って自分から2人のいるリビングへ行く事は憚られた。そうすることがひどく怖かった。 邪魔かもしれないから。 「 ………っ」 その思いに駆られた途端、友之は不意に息をするのが苦しくなってけほけほと咳込んだ。苦しい。光一郎に来て欲しかったが、最早呼ぶ事もできなかった。友之は上体を起こしたままはっと息を吸おうとし、うまくいかずに身体から次々と冷たい汗を流した。 「 トモ君…?」 その時、友之が起きた事に裕子が気づいた。寝室の入口から様子のおかしい友之を認めた裕子は、ぎくりとしたようになって慌てて傍に駆け寄ってきた。 「 ちょ…どうしたの、トモ君…!? 何か苦しいの…?」 「 ………平…っ」 慌てたせいでまた咳き込んでしまったが、素早く屈み込んでこちらを伺い見る裕子のことは、友之は嫌だとはっきり思った。だから咄嗟に顔を逸らした。「大丈夫」とは言おうとしたが、咳のせいでうまくいかなかった。ごほごほとそれは止まらず、次第に目尻に涙がたまった。 「 トモ君…! 本当、大丈夫…!?」 その事により裕子の方はますます蒼褪めて心配そうな声を上げたが、友之はそれでより一層焦燥し、ただ必死になって裕子の視線から逃げた。 それでも、どんなに下を向いても裕子の心配そうな声は絶えず降ってきた。 居た堪れなかった。 「 トモ君も熱があるのかな…!」 「 ……ッ」 だから。 「 トモく…」 だから裕子が腕を伸ばして肩に触れようとしてきた時、友之は思わず反射的にその手を強く払ってしまった。 「 あ……!」 裕子がショックを受けたような声を出した。友之も自分でやっておいてその行為にはっとし、瞬間ぴたりと咳が止まった。弾かれたように顔を上げると、そこには驚いたような裕子の顔があった。 「 ゆ……」 けれど名前を呼びかけたまま、友之は声を出す事ができなくなってしまった。 「 ………」 心配してくれているのに。気遣ってくれたのに。昨日のことだって、否、それよりずっとずっと昔から、裕子は自分のことを優しく見守ってくれていたのに。それなのにこんな風に避けて。 友之の頭の中で裕子への想いがぐるぐると激しく駆け巡った。 「 ………」 それでも声を出せない自分。 ひどい。 「 トモ君…」 「 ご……」 それでも友之はもう裕子を直視し続けることができなかった。俯いたまま、ただ謝る事しかできなかった。 「 ご…ごめんな…さい…」 「 と……」 「 ごめんなさ……」 「 ど…うして、トモ君が謝る…?」 裕子の茫然とした言葉に、けれどやはり友之は応える事ができなかった。申し訳ない気持ちと黒い気持ち。両方がいっぺんに胸の中を蠢いて、自分自身どうして良いか分からなかった。友之はただ唇を噛み、あとは石のように硬直し固まってしまった。 けれどしんとした薄暗い部屋の沈黙もそう長くは続かなかった。 「 友之? どうした?」 光一郎だった。 「 ………!」 多少汗をかいたからだろうか、寝間着から普段着に着替えている。光の少ない部屋の中で白いシャツがいやに映えて見えた。 「 起きたのか? どうかしたか…?」 「 あ…コウちゃん……」 裕子が振り返って困ったような顔を見せた。光一郎はそんな裕子をちらと見てから、後は黙って友之の傍に近寄った。裕子は立ち上がって自分がいた場所を光一郎に譲ったが、友之からは目が離せないのだろう、依然蒼白なままじっとした視線を送っていた。 「 あ…」 けれど友之にはもう近づいて来た光一郎の姿しか見えなかった。鉛のように重かった身体が急に息を吹き返し軽くなったのを感じた。友之は乾いた唇を何度か戦慄かせてからゆっくりと口を開き、か細い声をあげた。 「 コウ…」 「 何だ、どうした…。お前まで具合悪くなったか」 「 コウ…コウ…」 友之は満足に答える事ができず、ただその名前を呼び、あとはひっしと光一郎の首筋に両腕を回した。視界の先で裕子がぎくりと肩を揺らしたのが見えたけれど、もう構わないと思った。光一郎に抱きつき、後はじっと黙り込む。すると光一郎も最初こそ驚いたような空気を伝えてきたものの、やがて友之のその背中をそっと抱きしめてきた。 「 コウ…!」 嬉しくて今度は強く呼ぶと、光一郎の静かな澄んだ声が耳にじんと響いてきた。 「 何だ友之…。ヘンな奴だな…」 「 ………」 ああ、また子供だとバカにされる。そう思ったけれど、友之はただ光一郎に縋ったまま動かなかった。 動けなかった。 だから友之は裕子が光一郎に「…帰るね」と言ってその場を立ち去るまで。 光一郎に回した腕を決して離そうとはしなかった。胸の鼓動が激しい事をバレてしまうのが怖かったくせに、どうしても離す事ができなかった。 |
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昼食は少し遅い時間に光一郎が作ってくれたお粥を食べた。本来なら体調が悪いのは光一郎の方なのだから、それこそ今日1日くらいは休んでいた方がいいに決まっていた。けれど光一郎は友之の様子がおかしかった事を気にしたのか、いつもと変わらない様子で家のことをてきぱきとこなし、洗い物や洗濯まで始めてしまった。そして自分は何も食べようとしなかった。 「 具合…悪いんでしょ…?」 友之が何度かそう訊いてみても光一郎は頑としてそれを否定した。雨のせいでベランダに干せない洗濯物を部屋の中に吊るしてから、光一郎は「平気だよ」と言ったきり、あとはごまかすようにテーブルの上にあったノートパソコンを開いた。友之が驚いてその光景を眺めていると、やがて光一郎は大学のレポートだろうか、何やら忙しない様子でキーを叩き始めた。 「 コウ…寝なくていいの…?」 「 ああ」 光一郎は短く返事をしたきり、自分の隣で所在なげにしている友之にはもう視線をやらなかった。友之はそんな光一郎の滑らかな指の動きを眺めながら、ただ気が気ではなかった。光一郎はいつも痛みを見せない。苦しいところをこちらに勘付かせない。だから目が離せなかった。友之は傍にぴたりとくっついたまま、どう言って光一郎に休んでもらおうか、そればかりを考えていた。 「 ……トモ」 するとそんな友之の態度にさすがに困惑したのだろう、光一郎が動かしていた手を止めてため息交じりの声を出した。 「 俺は本当に大丈夫だから。お前こそ具合悪いんじゃないのか」 「 ううん……」 「 俺は長く眠れない性質なんだ。何もしないで横になっているのが苦痛なんだよ。だからあんまり心配するな」 「 でも……」 「 それにお前…どうした?」 「 え……」 じっと見つめられ、友之がどきんとして頭に熱を上らせると、逆に光一郎の方はやや冷めた目を向けて言った。 「 急にこんな風に甘え出して。俺のこと煽ってんのか?」 「 ………!」 「 俺の身体を心配している割には、お前結構ひどい奴だな」 「 そ……」 光一郎はからかっているのだろうか、軽い冗談のつもりなのか。 それとも本気なのか。 「 ……っ」 それは今の友之には量りかねたが、そう言われた事でギリギリ抑えていた気持ちが一気に表に出てきてしまった事だけは容易に分かった。身体全身から汗が噴出し、顔が熱くなった。同時に、光一郎に強く抱きしめられキスされた時の光景がふっと脳裏に浮かんだ。 「 トモ……?」 「 あ…う……」 その次は光一郎が発した言葉。光一郎が触れてきた場所。光一郎があの夜にしてきた出来事全部を、友之は思い出してしまった。痛くて苦しかったけれど、心のどこかで、自分の知らないところで「あの行為」を許容し快楽に溺れていた姿が。 「 トモ、どうした…?」 がたがたと震えて俯いている友之に光一郎が不審の声を上げた。光一郎自身は、自分が出した台詞にそれほどの他意はなかったようだ。また友之がこれほど動揺する事も考えていなかったのだろう、珍しく途惑った風になって、光一郎は口をつぐんだまま自分の傍で小さくなっている友之をただ見やった。 その時、ちょうどタイミングよく電話が鳴った。 「 何だ…」 光一郎がぽつりとつぶやいてすぐに立ち上がった。友之は自分から逸らされたその視線に少しだけほっとした。それに互いの沈黙をごまかす為には、その電話は確かに良いタイミングだった。 けれども。 「 はい北川…ああ、裕子」 光一郎の言葉で友之ははっとして顔をあげた。 「 はっ…ったく、お前も忙しない奴だな」 光一郎は電話の相手が裕子と分かるとすっかり気を許したようになって話し始めた。会話から、裕子が一旦は家へ戻ったものの、やはり光一郎が心配で電話を掛けてきたという事、いつものお節介に拍車をかけて昼食を食べたのかという事やちゃんと寝ているのかという事、さらにはこまめに着替えているのかといった質問を浴びせている事などが容易に分かった。 「 は…ったく、何大袈裟に騒いでるんだよ。え? ああ、大丈夫だよ。元々そんな大した事なかったしな…。え…ああ、ああ。だから大丈夫だって」 裕子のそんな世話焼きに苦笑しつつ、どこか安心したように話をする光一郎。あまり自分には見せない顔だと友之は思った。 そうだ、いつでも光一郎はそうだった。 幼馴染の修司や中原に対してもそうだが、光一郎が彼らに見せる表情と自分に見せる表情はいつもどこか違うと友之は感じていた。自分には常に構えて、何だか怖くて。ぶっきらぼうで。それが友之は最初怖くて仕方なかった。光一郎を兄として尊敬していたけれど、その怖さが今まで近づく事ができない要因でもあったと思う。夕実がいたからということとは別に、光一郎は光一郎で自分に対してどこか壁を作っていたと友之は思うのだ。 こんな風に何の役にも立たない弟の面倒を見させられて、と。一緒に暮らし始めた当初は、だからそれが引け目となっていた。 でも光一郎は「好きだ」と、一緒にいると言ってくれた。 だから。 「 友之?」 「 あ…っ」 いつの間にか電話を切っていた光一郎がすぐ傍に来ていたことで友之は思わず驚いた声を上げた。光一郎はそんな友之に再び不思議そうな視線を送ってから、ややたしなめるような声で言った。 「 お前、さっき裕子に何か言ったのか?」 「 え…?」 「 あいつが何か気にしていたから。お前の気に触ることしたかもしれないって」 「 ………」 何も言えなかった。けれど、何故か急激にぐらぐらとする感情を抑えられず、友之はぽつりと言葉を切った。 「 コウは…好きなの…?」 「 は…?」 「 好きなの…」 「 何がだ」 「 裕子さんの…こと……」 「 何…?」 「 好きなの…っ」 なかなか要領を得ないような返答で友之は思わず最後の言葉を強めた。光一郎の顔は見られなかったが、思い切り言ったら何となくすっとした。けれどその後の光一郎の反応がなかなか耳に入ってこなかったので、友之は仕方なくそろそろと顔を上げた。 「 あ……」 そこには思い切り気分を害したような光一郎の顔があった。 「 コ……」 「 お前…何考えてるんだ?」 「 あ……」 「 何バカな事言ってるんだ? 誰が誰を好きだって?」 「 だっ…だって……」 「 だって? 何がだってだ? 言ってみろ、何でお前はそういう風に思うんだ?」 「 ………ッ」 早い口調で矢継ぎ早にそう責め立てられて、友之の思考はややパニックに陥った。元々考えてから言葉を出すのが遅い友之である。ただでさえ普段のテンポが遅いのに、大好きな光一郎から不機嫌にそう迫られては何をどうして良いのか分からなくなってしまうのも道理というものだった。 ただ。 ただ、何だか「悔しかった」だけなのに。 「 裕子さんは…コウのことが好きなんだ…」 「 それが?」 冷たい台詞。どきりとして再度顔をあげると、まるで動じていない無機的な表情がそこにはあった。 「 だから何だ」 驚いて再び声を失った友之に光一郎は繰り返した。友之が何も言えずにいると、光一郎はぐいと友之の手首を掴んだ。その力強さに、痛みに、友之は顔をしかめた。 光一郎がそれに構う様子はなかった。 「 友之。お前、本当に俺の言った事とか全部頭に入っているのか? 分かっているのか、本当に?」 「 わか…分かっ……」 「 何だ? はっきり言え。それじゃ俺は分からない。全然分からない」 「 コウ……」 「 俺はもう何度でも言える、言ってやろうか? それとも、口で分からないならこの間みたいにしてやるか? お前もそっちの方がいいのか?」 「 は……っ!」 言われた瞬間、もう身体を押し倒されていた。恐怖で見開いたままの視界に、今まで見たことのない光一郎の濁った眼光があった。それはどことなく殺気だっていて荒んでいて。 「 あ…あ…」 あまりの恐ろしさに友之はますます何も言えなくなった。ただ今の状態から逃げ出したくて、掴まれた手を離してもらおうと身体を少しだけばたつかせた。けれど、その程度の抵抗には光一郎は当然びくともしなかった。 「 や…や…」 「 嫌か。なら逃げてみろ」 光一郎の冷たい声が友之の耳に響いた。 「 修司か正人の所へ行けば助けてもらえる。それとも数馬の所にでも行くか?」 「 コウ…どうし……やだ」 「 嫌? 俺が…?」 「 やだ…こんなの……!」 「 ……嫌か」 「 嫌…嫌い、だ…!」 違う。 「 嫌いだ…!」 何を言っているのか。 分かっていたけれど、とにかく離して欲しくてそう叫んでいた。不意にこぼれた涙にも気づかないくらい錯乱していた。友之は遂にめちゃくちゃに暴れ、光一郎から離れようとした。怒っている光一郎が怖くて、怒らせてしまった自分が嫌で。 どうしようもなかった。 「 ……分かった」 「 ……!!」 けれどその時、手が離れた。 「 あ……」 「 分かったよ」 それは本当にあっさりとしたものだった。 「 コウ……」 「 は…何熱くなってんだろうな…俺は……」 ため息をついてから光一郎は起き上がると友之から離れ視線を逸らした。友之はズキズキする胸を片手で抑えたまますぐに起き上がると、そんな光一郎の横顔を眺めた。どうしたら良いか分からず、光一郎に掴まれじんとした手に視線を落とした。ただ一言言えれば良いのにそれが言えない。自覚した今、その言葉を言うのは容易いはずなのにそれが言えない。どうしてだろうかと友之は思った。色々なことが怖いというのもあっただろう。光一郎に「この間のこと」をされて、また自分の身体があの時のように乱れておかしくなるのも確かに嫌だった。 嫌? どうして? 光一郎のことは好きなはずなのに。 「 僕…こ、怖いんだ……」 知らぬ間に友之は立ち上がっていた。四角い部屋が何だか異様に広く見えた。いつもは小さい、こじんまりとした印象しかない空間なのに。こうして光一郎と過ごしているこの部屋が。直ぐ傍にいるはずの光一郎の姿が。 遠くに見えて。 「 どうしよう…どうし…」 「 友之…?」 「 ………っ!」 「 !! おい、友之!!」 光一郎の意表をつかれたような声に構わず、友之はもう自分でも分からないうちに走り出していた。玄関にあった靴をひっかけるようにして、そのまま外へ飛び出した。 外は雨が降っている。まだ降っていた。 「 ……っ」 けれど友之は構わず、勢いよく開けたドアを叩きつけるように閉めると、そのまま全速力で階段を駆け下り、あとは闇雲に降りしきる雨空の下をだだっと走り出した。雨の音は聞こえない。何だか分からないけれど、とにかくめちゃくちゃに走りたかった。 光一郎が好きで、光一郎に嫌われたくない。 けれど、あんな風に触られると怖い。触れて欲しいのに、どこかでまだ怯えている。 そう感じていることをただ伝え、それでも好きだと言えれば良いのに、どうしてうまい言葉が出てこないのだろう。 そんな自分が友之は嫌で嫌で仕方なかった。嫌で嫌で。 この雨が汚い自分全部を洗い流してくれたら良いのに。 |
To be continued… |
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