(20)



  どうでも良い事が頭の中をぐるぐると巡り巡っている。
  混乱した状態の中、それでも友之が行き着く場所などたかが知れていた。
「 ……っ」
  ザーザーと激しく降り注ぐ雨空の下、友之は近所の公園に入り込むとようやく足を止め、息を一つ吐いた。薄暗い辺りに人の姿はない。もうすぐ夕刻というせいもあるのだろう、こんな日は子供たちも早々に学校から真っ直ぐ家に帰ってしまったに違いない。
  家。
  所在ない様子で、友之はとぼとぼと歩きながら敷地の隅にあるボロボロの木造ベンチに腰を下ろした。じわりと湿った感触がズボンを通して伝わってきたが、どうでも良いと思った。それに背後にそそり立つ大木のお陰で、ここにいれば少しは雨風を凌ぐ事ができる。本当は立ち止まっていると余計な事をたくさん考えてしまいそうで、それはそれで嫌だったのだけれど、外の寒さには身が震えてしまい、さすがにこれ以上歩く気持ちにはなれなかった。
「 ………あ」
  そういえば昔にも一度だけ。
  友之ははたと過去の出来事を思い出し、声を漏らした。
  そういえばこんな雨の日。遥か昔にも一度だけ、家に帰りたくなくて学校近くの森をウロウロと歩いていた事があったような気がする。


  『 いらないでしょ! 』


  その前日、友之は光一郎から貰った色ペンを手に、心なしかはしゃいでいた。何でもできる、両親からの期待も高い尊敬する兄から物を貰えた。優しくしてもらえた。それが嬉しくて友之はいつもよりもかなり、傍目で分かるくらいに浮かれていたのだ。


  『 あたしが使ってあげるよ! 』


  けれどそれを察知した夕実に、そのペンはあっさりと奪われてしまった。何も言い返せなかった。夕実が喜ぶならそれでも良いと思ったし、悲しかったけれどそうする事は仕方がない事なのだと、どこかで諦めてもいたから。
  それでもやっぱり、その日は家に帰りたくなくて。
「 ……っ」
  思わず咳き込み、友之は髪の毛から滴る水滴を厭うようにそれを片手で拭ってから、あの当時の自分を思い出して嘆息した。本当はあの色ペンを夕実に渡したくはなかった。自分の物だ。あれは光一郎が自分にくれたものだったのだ。
「 友之」 
  それなのに。
「 友之」
  あんなに昔の事なのに、考えれば考えるほど悔しくて許せなくて。友之は急に泣きたくなった。唇をぐっとかみ締め、涙をこらえ、それからようやっと何ともなしに声のした方へ目を向けた。
「 友之」
  三度目。
  光一郎が呼んでいた。
「 あ……」
「 ……バカか、お前は」
  それでも反応があった事にほっとしたのだろうか、光一郎は怒り口調でそう言ってから大きくため息をつき、それから友之の座っているベンチに近寄った。そうしてすぐ目の前にまで来ると、再度呆れたように言葉を継いだ。
「 こんな雨の中を…。突然飛び出すなんてどういうつもりだ」
「 ………」
「 立て。帰るぞ」
「 ………」
  促すように光一郎はそう言った。ただ、そういう光一郎も家を飛び出した友之を慌てて追いかけてきたのだろう。傘も持たず、既に全身はびしょ濡れだった。友之はそんな光一郎の姿を虚ろな目で見上げたまま、どうして良いか分からず開きかけた口をそのままにただ固まっていた。
  あの色ペン。
「 ほら、どうしたトモ。帰るぞ」
「 ………」
  それでも、尚も急かすような強い口調を発する光一郎にはやはり少しだけ抵抗したい気持ちになった。
「 友之」
  いつだって光一郎はこんな風に、自分だけ何でもないような顔をして。
  強くて。
「 どうしてそんな風に…」
「 ん……」
「 コウなんか……」
「 ………俺が何だ?」
  ぴたりと動きを止め、じっと見据えてくる視線が厳しかった。また怖い気持ちが急浮上してきて友之はびくついて身体を揺らしたが、それでも殆ど反射的に声は漏れていた。
「 い…いつも、怒ってばっかりだ……」
「 ………」
  光一郎の返答はなかった。どきどきする鼓動を必死に制御しようと努力しながら、友之は更に搾り出すような声を上げた。
「 夕実の事は…怒らない、くせに…」
  違う。
「 いつも…バカ、とか…何でそうなんだ…って…ばっかり……」
  違う、そんな事が言いたいわけではないのに。
  そう思いながらも友之は頑なな姿勢で唇を引き結んだまま、その場から動く事ができなかった。光一郎の言う通りに立ち上がって歩き出す事ができなかった。本当は、ここ最近の光一郎が当時とは段違いに優しくなっている事、いつも辛抱強く待ってくれて、こちらの話も努めて聞こうとしてくれていた事を知っていたのに。
  あの色ペン。
「 ……っ」
  よくは分からない。思考が現在と過去を行ったりきたりしていた。何故今光一郎と話している事とは別に、「あの色ペン」の事が気になりだしているのか。頭の中にその単語が浮かび上がってくるのか。
「 ほ、本当は…っ」
  だから今の自分が光一郎に何を言いたくて、そして何を考えているのか分からないまま、友之はただその瞬間瞬間に飛び出て来た言葉を無造作に外へと吐き出していた。
「 ……本当は、あげたくなかったんだ…」
「 何……?」
  意味が分からず光一郎が怪訝な顔をした。うわ言のようにぽつりとつぶやいた友之を不審の眼で見つめる。友之はそんな光一郎をもう直視しておれず、逃げるように視線を下に移した。柔らかい地面の上を駆けてきたからだろう、靴先は泥で汚れていた。
「 友之」
  その時、黙りこくった友之の代わりに光一郎が声を出した。友之の落とした視線にもそんな光一郎の足元だけは見える。そして声は静かに降ってきた。
「 お前…俺といるのは嫌か?」
  どきんとして顔をあげると、そこにはすっかり表情を消してしまっている光一郎の姿があった。
「 怒ってばっかりか、俺は…。だから怖くて逃げたのか」
「 違…っ」
  友之は反射的に応え、それから必死になって首を横に振った。これでもかというほど首を横に振り、それから「違う」ともう一度言った。顔は見られなかった。下を向き、ただ「違う」と言うしかなかった。
「 違うなら…あんな風に出て行く事ないだろ」
  光一郎が言った。そうして屈みこむと片膝を折り、すっかり俯いてしまっている友之の顔を覗きこんだ。友之がぎくりとして目を逸らそうとしても、光一郎はそれを許してはくれなかった。
「 ちゃんとこっち見ろ」
「 コウ…ッ」
  不意に手を握られてまた身動きが取れなくなった。こんな風に光一郎に見つめられ、光一郎に触れられる事が今の友之には耐えられなかった。嬉しいはずなのに、そうして欲しいと願っているはずなのに、何が自分をこうも怯えさせるのか。
  自分自身の事だというのに。どうして整理できないのだろう。
「 友之。俺はな…本当言うとずっと面倒だと思っていたんだ。お前にも夕実にも…あの家族に関わるの全部。どうでもいいって思っていた」
  光一郎は焦る友之には構わず、片手をそっと友之の手に添えたままそう言った。雨に濡れ続けるのも構わず、光一郎の視線はただ友之の元にあった。
「 だから何を思ってもずっと黙っていた。確かに俺…夕実の奴を怒ったりした事はなかったかもな。知らんフリして、極力関わらないようにして…そのうち出て行ってやろうって思っていたから。あんな家から…お前たちから。俺は、お前らのいない何処か遠くへ行きたかったんだよ」
「 い、嫌だ…!」
  何を言い出すのだろうか。
  友之はぎょっとして、平気な顔でそんな事を言う光一郎を情けなくも縋るような目で見つめた。しゃがれたような泣きべそ声が小さく漏れたが、相手に届いたかどうかは怪しかった。
「 そん…そんなの…っ」
  それでも友之は無我夢中で光一郎の手をぎゅっと握り返した。
「 コウ兄…何処か、行く…?」
「 そんな顔するな…」
  ぐしゃぐしゃになってしまった友之の顔に苦笑して、光一郎は空いているもう片方の手で友之の頭をぐりぐりと撫でた。けれどその笑いも一瞬のものだった。光一郎は再び感情を消した表情になると、何かを押し殺すようにして俯き、つぶやいた。
「 そんな顔をして…お前はいつだって俺をおかしくした…」
「 え……」
「 そうだ…。俺はいつだって…離れたいと思っていたのに…」
「 コウ…?」
  混乱しながらも無意識に聞き返すと、握られていた片手に力が込められた。友之が驚いて反射的にその手を振り解こうとすると、余計にその力は強まった。
「 逃げるな」
「 や…っ」
  光一郎の言い様が冷淡に思え、友之は思わず拒絶の言葉を吐きそうになった。すると光一郎は皮肉な顔をして口の端をあげるとやや肩先を震わせた。
「 はっ…嫌か? お前は…俺には遠くへ行くなと言う。けどこうやって触れられるのは嫌なんだよな。結局―」
  何かを言いかけて、しかし光一郎は一旦口をつぐんだ。それから思い詰めたように、そしてひどく陰の篭もった声で自嘲するように言った。
「 俺は…お前と関わり合いになんかなりたくなかった」
「 ……ッ!」
「 バカバカしい…。俺はいつだってお前に振り回される…」
「 あ…あ……」
  ショックで息が止まった。
  ぽつぽつと滴る雨粒が前髪を伝って顔を濡らしてきたが、友之は構わずじっと目の前の光一郎を凝視した。やっぱり怒っている。そう思った。やっぱり呆れているのだ。そうとしか思えなかった。光一郎は自分の事も満足に分からない、自分の想いも満足に外へ出せない自分のことを軽蔑し、鬱陶しく思っているのだ。自分がきちんと言えないせいだ。
  考えれば考えるほど背中に寒いものが走り、両の膝がガクガクと小刻みに震えた。

  嫌われる。


「 友之」

  するとその様子に気づいたのだろう、光一郎が気を取り直したようになって呼んできた。それからすっかり蒼褪めて怯えてしまったような友之の手を優しく撫でると、すっと身体を離して立ち上がった。
「 ……そんな心配そうな顔するな。きつい事言ってごめんな」
「 ………」
  応える事はできず、友之は黙ったまま自分から離れてしまった光一郎を見上げた。すっかり濡れてしまっている光一郎の背中が見える。大きくて温かくて、大好きな光一郎の背中。
「 友之」
  光一郎が言った。
「 お前が望むなら…俺はお前の兄貴でいてやるよ」
「 ………兄、貴?」
  友之が繰り返すと光一郎は再度自身を卑下するように小さく笑った。
「 そうだよ。もう俺の感情をお前に押し付けたりしない。お前を苦しめたりしない」
「 な…に…何…?」
「 俺がお前を好きだっていう気持ちのことだよ」
  ひどく素っ気無い言い様だった。
  友之はそう言いながらもちっともこちらに視線を寄越さない光一郎の背中をただ見やり、どくんどくんと高鳴る心臓の音に耳を済ませていた。
  そんな友之に構わず、光一郎は続けた。
「 いつか言ったな…。お前の好きは、俺とは違う。意味、まだ分からないか?」
「 ………」

  違う。

  咄嗟にそう思ったが声が出なかった。光一郎が「好き」だというこの気持ちは、弟としてとか家族としてとかではない。光一郎に触れられるとその場所全部が熱い。光一郎に見られているだけで落ち着かなくなる、胸が痛くなる。
  どうして良いか分からなくなる。

  だから。
  だから、怖いのに。

「 友之、本当にいい加減戻ろう。いつまでもこんな所にいても仕方ない」
  いつまでも黙ったまま動かない友之に光一郎は口調を改めそう言った。今はもうすっかりいつもの落ち着いた調子に戻っている。光一郎はこれ以上友之を追い詰める気はないようだった。
  それは余計に友之の気持ちを焦らせたのだが。
「 ……友之?」
  先を歩き出していた光一郎がいつまで経っても自分についてこない友之を振り返り、不審の声をあげた。
「 ほら、友之」
「 う…う……」
  再度促され、友之は何かに引っ張られるようにゆっくりと立ち上がった。けれど、その先はもう駄目だった。一歩も前へ進めない。素直に光一郎の後をついて行く事はできなかった。こちらを見ているその瞳をじっと見つめ返し、ズキンズキンと絶えず痛む自らの胸を意識しながら、友之は戦慄く唇を半分だけ動かした。ただ必死に動かした。
「 ……う……」
「 友之。どうした」
  もういいだろう、と言わんばかりの態度で、やや憔悴したような光一郎がもう一度呼んだ。振り返った先、一歩もこちらに近づいてこない友之に、さすがに参ったようだった。
  それでも友之は光一郎に近づく事ができなかった。


  『 いらないでしょ! 』


  あの時、夕実にペンを取られた時も。


  『 私だって…甘えたいよ… 』


  裕子が光一郎にそう言った時も。
  本当は言いたい事があった。嫌だと、取らないでくれと言いたかったのに言えなかった。怖かったから。


  『 友之 』


 その時、過去の光一郎が優しく微笑しながら言った言葉が。


  『 友之…。欲しいなら、ちゃんと言えよ 』


  言わなくては、分からないから。
「 あ…あ…だって…」
「 友、之…?」
「 言って…呆れられたり…嫌われたり…」
「 何だ…?」
「 でも僕…本当は、取られたくなかった……」
「 何…言ってる…?」
  完全にこちらに向き直り、眉をひそめる光一郎に友之はただ必死に口を継いでいた。ベンチから一歩歩み寄った事で、木陰から離れた事で、雨はより一層全身に降りかかってきた。
  構わなかった。
「 あの時だって…コウがくれたペンだったから…すごく嬉しかった。コウはいつも僕とは口をきいてくれなかった。邪魔だと…思われていた……」
「 ……何の話をしている」
「 裕子さんのことだって…。心配だったから…。コウを取られたくなかった…でも、我がまま言って嫌われたくなかった…」
「 友之」
  光一郎が茫然として呼ぶ声が聞こえた。一歩近づかれて、友之ははっとして後ずさった。
  それでも声だけは止まらなかった。
「 コウとずっと一緒にいたい…! コウが…好き…!」
  兄弟としてなんかじゃない。


「 好き…なんだ…」


  視界がぼんやりとしている。雨のせいだろうか、視界がふやけて、目の前の光一郎が霞んでしまっている。けれどこちらを向いているのは分かる。真っ直ぐに、こちらを見てくれている。自分を見てくれている。それが嬉しい。
  でも。
「 でも、でも…怖…怖いんだ…」
  そう言ってハッと息を吐いた後、友之はげほげほと咳込んだ。きちんと言わなければならないのに、どうしてすぐに思った事を外に出す事ができないのだろう。言わなければ、最後まで。
「 友之」
  名前を呼ばれたが構わずに友之は無我夢中で続けた。とつとつと口からこぼれる言葉に自身で翻弄されている事にも、もう気づいてはいなかった。
「 この間から…ずっと怖くて…あんな風に思う自分、分からない…。あんなの…コウに触られると…そこ、全部熱いから…」
「 …………友之」
「 熱くて…ヘンだ…。コウ、呆れるよ…」
「 友之」
「 はっ…!」
  ふと我に返ると、すぐ傍には光一郎の姿があった。いつの間に距離を縮められていたのか。光一郎はベンチの前に立ち尽くす友之のすぐ前にいて、やや動揺したような目で、そして困惑したような様子で何かを言おうとしていた。
  たちまち友之はさっと蒼褪めた。
「 だ…駄目だ…来ないで…」
「 ……何でだ」
  抵抗の声は光一郎の平坦な声にさっとかき消された。手を差し伸ばされ、頬に触れられそうになったところで、友之はだっと身をかわして光一郎の横をすり抜けた。
「 嫌だ…! ど、どうし…どうしよ……!」
「 友之…!」
「 嫌だ…っ」
  こちらに向かってくる光一郎から逃れるようにして、友之はそう叫ぶともう走り出していた。訳が分からないまま闇雲に公園を出て、通りの一本道を駆け出した。周囲の景色など見ている余裕はなかったけれど、慣れた道だからこそわき目も振らずただ夢中で突っ走る事ができた。錯乱している、熱くなっている自分の全部をとにかく何とか落ち着けたかった。
  このまま走って行けばもうすぐあの河川敷に通じる。バッティングセンター「アラキ」やいつものグラウンドまではまだまだ遠いけれど、それでもその道に通じるあの大好きな通りに達することはできる。
  そこまで行ければ。
「 友之!」
「 あ…!」
  けれど、後ろを見てはっとした。
  光一郎がすぐ後を追ってきていて、自分を呼び止めているのが分かった。慌てて速度を早め、それから逃げようとしたが。
「 待て、友之!」
「 や…っ」
「 こ、の…バカ!」
  友之はあっさりと光一郎に腕を掴まれ、捕まってしまった。道路の方にはみ出すようにして走っていた友之は痛いくらいに引っ張られ、光一郎によって狭い歩道へ引き戻された。通りを歩いていた買い物帰りの主婦が何事かとちらと視線を寄越し、通り過ぎて行った。もっとも周囲の状況になどまるで意識の向かない友之は、ただ自分を拘束する光一郎から離れようと、尚も往生際悪く身体をばたつかせ抵抗した。
「 は、放…!」
「 放すわけがないだろ!」
「 や…やだ…っ!」
「 どうして逃げる!」
「 こわ…怖い…から…っ」
「 友之!」
「 ………!」
  思い切り怒鳴られ、友之は口を開いたままぴたりと動きを止めた。すると代わりにどっと涙がこぼれ出した。また叱られた。悲しくて情けなくて、自分でもどうしようもないくらいに泣けてしまった。
  けれども。
「 ………泣くな」
  不意にぎゅっと身体が締め付けられて、友之はけほりと息を吐き出し、唖然とした。
「 コ、ウ……?」
「 ………」
  強く抱きしめられていた。冷えた身体に光一郎の温度がとくとくと伝わってくる。それだけで友之は全身が何かに打たれたような衝撃を受け、震えてしまった。
「 ……本当にバカだ」
「 ………!」
  また、言われた。
「 う…う……」
  そればかり言う光一郎。ひどい、ひどい。そう言いたかったけれど、声が出なかった。ようやく小さく嗚咽だけが漏れると、光一郎はもう一度「泣くな」とひどく低い声でそれだけを言った。
  ただ友之を抱きしめる力はより一層強くなって。
「 コ…コウ…」
「 もういい」
  可細い声で呼ぶと光一郎がぴしゃりと言った。それから抱きしめていた身体をすっと離すとしっかりと目を合わせ、そして言った。
「 分かった。分かったから…もう、いい。怖いなら怖いでもいい。いつか…そうならなくなる。そうしてやる」
「 え…で、でも……」
「 煩い」
  鬱陶しそうに光一郎はそれだけを言い、後は何も言わずに友之の唇を指でなぞり、そのまま深く唇をあわせてきた。友之がびくりと身体を震わせても、光一郎の強引なそれは構わず続けられた。何度も何度も唇を合わせあい、それから光一郎は茫然となり動けなくなっている友之の身体を支えたまま、友之の濡れた額に張り付いた前髪を優しくかきあげた。その真っ直ぐな視線に友之は目眩を感じた。
「 嫌だったか」
「 え…」
  しかし光一郎は返事を待たずに再び唇を寄せると、友之の細い身体を抱きしめたまま再度深い口付けをした。
「 んん…っ!」
  壊れそうになる。
  光一郎の口付けはただでさえ熱くなっている身体が余計に熱を放って、自分の全身がバラバラになってしまいそうになる。
「 う…ふ……!」
  友之は必死に弱々しいながらも自らの手を光一郎の身体に添え、何とか自力で立っていられるようにと両足を踏ん張った。光一郎が唇を離した時には、もう殆ど膝に力が入っていなかったけれど。
「 もう…余計な事は考えるな」
  その時光一郎が言った。 怒っていない。それは友之にも空気で分かった。
「 コウ……?」
「 俺もやめる。もう…考えるのはやめる。いいだろう? 駄目か、友之?」
「 え…う、ううん…!」
「 ……本当かよ?」
  慌てながらただ首を横に振る友之に、光一郎はふっと笑みをこぼした。
  いつも優しくしてくれる時の大好きな笑顔だった。
「 ……疲れたな」
「 え…あ…!」
  気が抜けたようにそう言う光一郎の声に、友之は瞬時はっとした。どことなく熱を帯びているような様子。そういえば光一郎は朝から具合が悪かったのではなかったか。

「 コ、コウ、熱が…っ!」
「 ……お前が逃げ回るからだろうが……」
  光一郎は否定しなかった。元々体調不良だったところにこの冷たい雨だ。さすがに辛いらしかった。それでも、途端にオロオロとして口をあぐあぐと動かしている友之には、光一郎はもう一度やんわりと笑ってやり、からかうような調子で言った。
「 もう…逃げるなよ」
  それは確認するような、命令するようなそんな声色だった。
「 コウ…」
「 いいな、トモ?」
「 ……うん」
  だから、友之も。
  絶対に渡したくない人の胸に顔を寄せて、泣き出したくなる気持ちを懸命に堪えて返事をした。


  あんなに冷たかった身体が、今ではじくじくと火がついたように熱くて熱くて仕方なかった。



To be continued…



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