(3)



  学年最後の3学期、初日は始業式だけで終わるものとばかり思っていた友之の机の上には、1枚のプリントがあった。
  進路希望調査票。
「 こんなのまだ早いよねえ」
「 先輩だってまだ何も考えていないって、言っていたよ」
  周囲から口々に交わされるそんな会話を耳に入れながら、友之はじっとその紙切れを眺めた。
  進学希望か就職希望かの質問に始まって、進学希望者には大学・短大・専門学校・留学などの選択肢の記入、就職希望者にはどういった系統の職種を希望しているのかなどの記入。たった一枚のB5用紙には、細々とした質問が山のように無機的なワープロ文字で書き連ねられていた。
  友之が通う高校は進学に関しては比較的のんびりしており、高校3年の夏までは部活動に力を入れると考えている生徒も多い。よってこのプリントも大勢の者には大層不評だった。それでも担任は配った調査票を黒板の前に高く掲げながら「お前たちも春には2年になるのだから、先の事も今から真剣に考えておけ」と、いつもより多少厳し目な顔をして言ったのだった。
  その調査票を元に、3学期中に全員と個別面談をするという事も。
「 進路なんて」
  帰りのHRを終えて教室を出て行く担任の背中に、誰かがぽつりとつぶやいた。そうして窮屈な時間から解放された後は、もう誰もそんな話はすっかり忘れてしまったかのようになって、皆ちりじりと教室を出て行った。
  先の事なんてまだいいじゃないか。
  そういう空気が教室内にはあった。

「 今頃こんなもん、配るンだ?」
 
  だからそう言って友之の机にあるプリントを取り上げ、思い切りバカにしたような声をあげた他校生の数馬に、まだ教室に残っていたクラスメイトたちは一斉にぎょっとした顔を見せた。突然他所の高校の制服を着た数馬がズカズカと教室に入ってきただけでも驚きなのに、その人間は真っ直ぐ窓側に座る友之の傍に寄っていき、飄々とそんな事を言い放ったのだ。周囲の驚きと途惑いの反応も当然と言えば当然だった。
  けれど当の数馬はといえば、部活動に参加する為に残っていたその少数の人間たちに意味のない愛想笑いをふりまいた後は、再び友之に向き直ってそのまま目の前の席にどっかと座り込んだ。そうして後はもう彼らには全く構う風もなく、椅子の背に両肘を乗せすっかりリラックスした様子で、先ほど友之から取り上げたプリントにさっと目を通した。
「 進路調査なんて、ボクの学校じゃ入学式の次の日にはもう書かされるよ」
「 次の日に…?」
  友之がすぐに訊き返すと、数馬は「うん」と頷いてから後を続けた。
「 それもね、こんな風に就職希望とか専門学校希望の欄なんてないよ。最初から国立志望か私立志望かを丸して、その後に第一志望大学、第二志望大学、その学部学科名も書くの。そんで、それがすぐに書けない奴は進路指導の先生に呼び出される」
「 何で…?」
「 目標のない奴は頑張れないから、だってサ」
  数馬は何かを卑下するような口調でそう言ってから、やがてわざとらしく唇を尖らせて友之の顔を覗きこむような仕草をした。
「 それにしてもキミは突然教室に入り込んできたボクに対して何か言う事ないの? ちょっとはキミのクラスメイト君たちみたいに驚いた顔でもすれば?」
「 だって……」
  よくある事だし。
  けれどそう言おうと思った矢先、友之の声は遠くから飛び込んできた第三者の声によって完全にかき消された。
「 あー! 香坂数馬!」
  それは実によく通る、お馴染みの声だった。駆け寄りながら数馬を必死に指差す姿が相変わらず滑稽だ。
「 ちょっとあんた! また勝手に人の高校に入ってきて、一体何なの?」
「 こんにちは、橋本さん」
「 こんにちはじゃないでしょ!」
  数馬の冷静な対応が余計に癇に障ったのか、友之のクラスメイトであり、また何かと友之に声を掛けてくる副委員長の橋本真貴は実に不愉快そうな顔をして大袈裟に腕を組んで見せた。部活動に行く前だったのだろうか、真っ青なジャージに着替えた彼女はいつもより快活な感じがした。
「 何度も言わせないでよ、キミが北川君の友達だろうが何だろうがね、そうちょくちょく我が者顔でうちの教室に入られたら困るのよ。大体、キミみたいな人がホントに北川君の友達なの? 北川君、何か脅されてんじゃないの、大丈夫?」
「 キミこそ何なのいつもいつも。人を悪者扱いしないで欲しいなあ」
「 あんたが見るからに悪者だからいけないのよ!」
「 ひどいな」
  そう言いつつも、しかし数馬は橋本のそんなキンキンとした毒のある発言を全く意に介していないようだった。やりたい時にやりたい事をする。誰が何を言おうが関係ない。それが数馬のスタイルだった。
「 それにしても始まるの早いね、この学校。ボクの所は来週からなんだ。外国に行く奴とか多いから、学校も考えてくれているのかな」
「 だからいちいちそういう嫌味な発言はやめてくれない!? 大体、だったら何で制服着ているのよ、あんた! 自慢!?」
「 それでね、トモ君」
「 ちょっと、私は無視!?」
  横で再度橋本が何かがなり立てていたが、もう数馬は友之の方しか見ていなかった。
「 今日は久々にキミと遊んであげようと思ってさ。北川家に行ったわけ」
「 え……?」
  ようやく友之が声を出して顔を上げると、数馬は勝手知った様子で薄い微笑を浮かべた。
「 裕子さんがさ。トモ君は学校行ったって言うから」
「 ……………」
「 あの年頃のすっぴん女ってのは、実際ヤバイよねえ」
  裕子嫌いの数馬の台詞はかなりキツイものだったが、その時の友之にしてみればその言葉自体はさほど心に残らなかった。

  ただ、また裕子は家に来ていたのか、と思っただけで。


*

  あの夜。
  すらりと扉を開いて隣の居間に顔を出すと、光一郎は驚いたような表情でその場に立ち尽くす友之を見やった。裕子は自分たちの元にやってきた友之の存在には気づかず、既にテーブルの上に突っ伏して眠ってしまっていた。どことなく苦悶しているような寝顔が何だか痛々しかった。けれど友之はそんな裕子のことはちらりと見ただけで、あとはまた光一郎に視線を戻した。
  傍による事はできなかったけれど。
「 どうした」
  先に口を開いたのはやはり光一郎だった。
「 眠れないのか」
「 ………うん」
「 じゃあ、隣から蒲団と毛布。持ってきてくれ」
  光一郎のその台詞に友之は再び先刻の胸の痛みを感じたような気がした。今、自分がどんな顔をしているのかは分からない。けれどきっと強張っている。それは分かった。
「 トモ? 本当にどうしたんだ?」
  そんな友之の様子が分かったのだろうか。光一郎が不審の声を上げた。はっとして顔を上げると、そこにはやはり言われてもすぐに動かない自分へ怪訝な表情を向ける兄の姿があった。友之は心なしか狼狽したが、何とか言葉を出す事には成功した。
「 裕子さん、泊まるの…?」
「 ああ。これじゃさすがに帰れないだろ? 時間も時間だしな」
「 …………おばさん、心配しない?」
「 あの人が? しないだろ」
  光一郎はいともあっさりとそう言い放った後、ため息交じりに寝入る裕子を見やりながら、「こいつ始めからそのつもりだったんだろうな」とつぶやいた。友之が分からないというように眉だけをひそめると、光一郎は視線を裕子にやったまま続けた。
「 ずるいずるい、ばっかり言いやがって。本当、しつこくな…」
「 何が…?」
「 修司はよくうちに泊まるだろ」
「 …………」
「 まったく……」
  裕子が恋人の修司と北川兄弟の関係を「ずるい」と言うこと。
  それは何も今に始まった事ではないけれど、最近ではそんな話はあまり聞かなくなっていただけに、友之には途惑うところが多かった。そして今裕子が自分たちの、否、光一郎の傍にいてこうして眠っていること。光一郎の蒲団を借りて一夜を明かそうとしていること。
  それが友之には何だか堪らないことのように感じた。
「 トモ。何なんだ?」
  黙りこくって俯いているそんな友之に、いよいよ光一郎は不思議そうな視線を向けた。けれどなかなか自分の言った事を実行に移そうとしない弟を見限ると、光一郎は裕子の為に自らが隣の部屋から蒲団と毛布を持って来ようとした。
  友之は焦った。
  だから。
「 ………ッ」
  思わず、殆ど反射的に、友之は自分の横を通り越して寝室へ向かおうとしている光一郎の腕をひっしと取った。
「 あ……」
「 な…何だ…? トモ…?」
  さすがに面食らったようになり、光一郎は動きを止めて自分の腕に縋りついてきた友之のことを見下ろした。どことなく悲壮な顔、必死な顔。友之のそんな顔をまじまじと見やりながら光一郎は首をかしげた。
「 どうしたんだ」
「 あ…あの…ベッド……」
「 え?」
「 裕子さん…ベッド、使っていいから……」
「 お前の…?」
  友之の発言に光一郎は再度驚いたようになって目を見開いた。それからちらと深く寝入っている様子の裕子を振り返り、再度途惑いがちの視線を友之に送った。
「 じゃあお前はどうする」
「 ここで寝る」
「 ここで?」
  訊かれてしっかりと頷くと、光一郎はそんな友之に完全に呆気に取られたようになっていた。
  しばしの沈黙。
  光一郎がその時何を考えていたのかは、友之には皆目見当がつかなかった…が、それでもその後に特に何も言われなかった事は救いだった。
  結局、友之の願い通り、裕子は友之のベッドで眠る事になった。
  ただ、光一郎が眠る裕子を抱きかかえてベッドへ運ぶのを見た時、友之の胸はやはりまたじくりと痛んだ。それでも2人から目を離す事はできなかった。友之は所在なげに立ち尽くしたまま、その光景をぼんやりと見つめ続けた。

  私だって甘えたいよ……。

  裕子はそう言っていた。その言葉を反芻し、友之の胸はまた痛んだ。
「 ………」
  光一郎が裕子から離れたのを確認してから、友之は居間に向き直るとそのまま傍の壁に寄りかかるようにして座りこんだ。自身でも分からない胸のざわつき。それを抑える為にぎゅっと唇を結んだ。どうしてこんな風にモヤモヤした気持ちがするのか分からなかった。
「 トモ、蒲団敷いた。お前も寝ろよ」
  物思いに耽る友之に光一郎が言った。
「 ………」
  いつの間にか友之の目の前には一組蒲団が敷かれていた。中央にあったテーブルも端に寄せられ、一式分の蒲団が狭い部屋の中でその面積の大部分を取っている。それは普段、友之のベッドの下に敷かれる光一郎の物で。友之はそれをじっと見つめたまま、やはり動こうとしなかった。
  ただ、動けなかっただけなのだけれど。
「 もう遅いから。今日、疲れただろう?」
「 コウは…」
「 ん……」
「 疲れてないの」
「 別に」
  あっさりと答えてから、光一郎は裕子が散らかしたテーブルの上を淡々と片付け始めた。つまみの袋を捨て、グラスを片手で持ちながら濡れたテーブルを布巾で拭く。友之はその様子を眺めながら我慢できなくなったように再度口を開いた。
「 コウは何処で寝るの」
「 ここで寝るよ」
「 ………」
  ここって、何処?
「 あ……」
「 ん?」
  光一郎が不審の声を上げたが、しかし友之はさすがにそれを訊く事はできなかった。
  けれど敷き蒲団は元々家には一式分しかないし、修司が泊まる時はいつも友之のいるベッドに無理やり入り込んでくるか、この居間で雑魚寝だった。だから光一郎はどうするのだろう。そう思った。
  そうだ。そう思っただけ、なのだ。
  妙に言い訳がましい思いがたくさん脳の中を駆け巡った。友之は無意識のうちに赤面していた。
「 トモ……?」
  いよいよ不思議そうな顔をして光一郎が再度呼んだ。友之はそれで余計に自らの顔に熱が帯びるのを感じた。こんな事を考えている自分を見られたくない。知られたくない。
  けれど。
「 ……………」
  裕子を抱いてベッドへ運んでいた、光一郎。その横顔。

  ねえ…光一郎……。

  あの寂しそうな裕子の声が。
「 ………っ」
  友之は堪えていた息をハッと吐き出し、それからぐっと唇を噛んだ。遠くの方で光一郎が再度自分を呼んだような気がしたが、耳がぼうっとしてはっきりと聞き取る事ができなかった。いつもなら、最近なら、光一郎が自分を呼んでくれるあの声はいつだってよく聞こえていたというのに。
  大好きなのに。

  ねえ…コウちゃん…。

「 友之」
「 ………!」
  はっとして顔を上げると、すぐ傍に光一郎が屈みこんでこちらを見ていた。反応の鈍い友之を心配そうに見つめている。
「 本当にどうしたんだ。具合でも悪いのか」
「 ………っ」
  慌てて首を横に振り、友之はあたふたとして視線をあちこちに飛ばした。近くにいる光一郎の吐息すらくすぐったいと思った。心臓がどくどくと大きく高鳴っているのも分かった。
  一体これは何なのか。
「 友之。何だ、何か言いたい事があるなら……」
「 ない…」
  焦って口を切ると、光一郎は余計に表情を翳らせて責めるように声をきつくした。
「 嘘つくな。何か変だぞ、お前」
「 ない…!」
「 じゃあ、ちゃんとこっち見てそう言え」
「 ………」
  光一郎がキツイ口調でそう言ってきた事で、いよいよ友之は逃げ場を失ったようになった。頭の中が訳の分からない単語や混乱でごちゃごちゃしている。
「 ………」
  言いたい事はあったはずで、それを光一郎に言った方が良い事も分かってはいた。それなのにうまくいかなかった。友之はやはり自分の思いを外に出す事がまだうまくなかった。熱くなったまま、ただ下を向いた。
  何だか急に泣きたくなった。
「 友之……」
  すると今まで傍で感じられていた光一郎からの厳しい視線は消え去り、近くからはただ静かな気配だけが残った。
  そして不意に引き寄せられて。
「 あ……っ」
「 どうして何も言わない……」
「 コウ……」
「 言っただろう…俺は万能じゃない……」
  光一郎のくぐもった声は、どこか自分を責めているようでもあった。友之の心意を計りかねている自分だけを責める声。
  それでも友之にとっては自分を優しく引き寄せ抱きしめてくれている光一郎の手が嬉しかったし、温かい光一郎の胸に自分の顔を押し当てられる事が嬉しかった。友之はぎゅっとそんな光一郎にしがみついたまま、ただ黙って目を閉じていた。きゅっと顔をこすりつけると、光一郎の身体が微かに揺れたのが分かった。
「 お前は……やっぱりまだ子供だな」
  そうしてそうつぶやく光一郎の声。
「 ………寒いよ」
「 ん……?」
  それでもいいと友之は思った。
「 寒い……」
「 寒いのか」
「 うん……」
  言ってより強くしがみつくと、光一郎の友之の背を抱く腕にはより力が加わった。友之はそれが嬉しかった。とても。
  子供でもいい。
  今のままがいい。
「 コウ……一緒に……」
  そうすれば、今のままなら光一郎はずっとこうしていてくれる。
「 ……好き……」
  今のままが1番いい。自分は、それがいい。
「 友之………」
  光一郎のどことなく抑えたような静かな声が耳元で聞こえた。けれど友之はそれに返事をする事はできなかった。ただ、光一郎の熱が愛しかった。


  翌朝、裕子は「最悪」という単語を何十回もつぶやきながら朝食の支度をしてくれた。友之には「ごめんね」という台詞を何回もこぼした。

  そして、「また来てもいいかな」という言葉も。
  裕子は、1度だけ言った。




To be continued…



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